美濃部 達吉
1873 − 1948
[ みのべ・たつきち ]
憲法学者、東大教授、貴族院議員、憲法問題調査会顧問
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エピソード 1調査中。
・ 兵庫県出身。東京帝大卒業後、憲法学を志し、ドイツ、フランス、イギリスに留学。
・ 帰国後、母校の教壇に立ち、のち助教授、さらに教授。
・ 憲法変遷論、国家法人説、天皇機関説、天皇超政論などの立場に立つ。
・ 多くの審議会で立法に関与し、貴族院勅選議員となるも、天皇機関説問題で辞任。
・ 戦後は、日本国憲法による国体の変更に批判的態度をとる。
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1935/04/06   真崎教育総監、全陸軍に国体明徴の訓示
1935/04/09   美濃部達吉の3著発禁 (売り切れ続出)
1935/08/03   政府、国体明徴声明@
1935/09/18   美濃部達吉、貴族院議員辞職
1935/10/15   政府、国体明徴声明A (天皇機関説は国体に背くと明言)
1936/02/26   二・二六事件
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/10/25   憲法問題調査委員会設置 (委員長:松本烝治
1946/02/13   GHQ、松本試案(改正憲法)を拒否、GHQ草案受け入れを要求
1946/03/06   政府、憲法改正草案要項を発表
1946/11/03   日本国憲法公布
引用美濃部は、明治六年に相生の松で有名な高砂で生れた。 父は漢方医だった。一高に入学したときは、一年生のときチフスを患い、一年間まるまる休学したが、 二年への編入試験に及第し、そのまま二学年に入った。 明治三十年、東京帝国大学法科大学を卒業したときは二番だった。 学校のことは一向に勉強せず、酒ばかり呑んでいたためだという。 この点、女郎屋から通った上杉とは、勉学の点では似たり寄ったりだ。 美濃部は上杉より六年先輩であった。
東大で美濃部は穂積八束の憲法と行政法の講義を聞いた。 しかし、一年おき交替の一木の講義が彼を最も惹きつけたらしい。 彼の憲法論における天皇機関説は一木の影響が強い。
【中略】
明治三十二年、美濃部はヨーロッパに留学、大部分をドイツで暮したが、 ハイデルベルヒ大学のイエリネックの学説に傾倒した。 美濃部にイエリネックの「人権宣言論」の訳業があるほどだ。 上杉慎吉もイエリネックの家に下宿していたのに、帰国後、それとは反対説を唱えたことと対照的である。
明治三十五年に帰朝した美濃部は帝大法科教授に任命され、翌年、当時の文部大臣で、 数学の菊池大麓の長女と結婚した。仲人は一木喜徳郎であった。 一木は仲人は一切しない主義だったが、美濃部のときだけは例外で媒酌人を買ってでたという。 両人の関係が単に学説の継承を超えていたことが分る。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。