ベニト・ムッソリーニ 1883 − 1945
首相、統領、社会党機関紙「前進」編集長 / イタリア
エピソード 1調査中。
引用ベニト・ムッソリーニは労働者階級の出身であり、貧困に打ちひしがれたイタリア東北部、フォルリ県の片田舎に、
社会主義者である鍛冶屋の子として生まれた。
彼は教師の免状をとったが、それをほとんど使わなかった。
彼には、教室での授業よりも革命的アジのほうが適していた。
一九一一年のトリポリ戦争(イタリア=トルコ戦争)のさい、彼は、
イタリア国旗を「肥やしの山の上に立てるしか意味のない棒切れ」だとするアジ演説で注目をひき、
翌年には社会党機関紙アヴォンティの編集者となった。
一四年八月二日、イタリアが中立を宣言した当時、彼はまだ革命家であり参戦反対論者であった。
ところが翌月には、彼に大転向が起こった。
大転向は、イタリアを協商国側にひきいれるため懸命な努力をしていたフランス政府からの基金が原因であり、
以来、彼は自己の新聞「イタリア人民」を発刊して、強烈に戦争を鼓吹した。
一九一五年九月に召集を受けて数週間塹壕の中で戦い、負傷して除隊になってから、一九年三月まで、
つまりムッソリーニが最初の「戦闘部隊」をつくるまで、彼の経歴は判明しない。
今津晃 「概説現代史」
P.87この本を入手
引用ベニト・ムッソリーニは、一八八三年七月二十九日、
イタリア北東部のフォルリ県プレダッピオ郡ドヴァア村の鍛冶屋の長男として生まれた。
ベニトという名の由来は、父親が社会主義者で、メキシコの革命家ベニト・ファレスを尊敬しており、それからとったという。
母親は小学校の教師で、信心深いカトリック教徒だった。
彼は父親からは熱狂的な気質と社会主義を、母親からは芸術的な気質と勉強好きな向上心とをうけついだ。
少年時代の彼は、手に負えない腕白者で、規則は守らず、年じゅうけんかをして、学校を放校されたりしたが、
何とか師範学校を出て、教員の免状をとった。
しかし、教員にはならずに、十九歳のときに、故郷を飛び出して、スイスへ行った。
スイスでは、大工、運送夫、職工、肉屋の店員といった職業を転々とし、
時には、食うものに事欠いて強盗まがいのことをしたために、ブタ箱に放りこまれた。
一九〇四年、彼はスイスから追放されて、イタリアに戻った。
そして兵役に服したのち、小さな新聞の記者になった。
月給だけでは食っていけず、仕事のあいまに、小説を書いたり、伝記の代作をしたりしたが、それでも生活は楽ではなかった。
ただ、ムシャクシャするときに、なぐさみに奏くヴァイオリンはしろうと離れのした腕前だった。
一九一一年、イタリアはトルコと戦争を開始したが、ムッソリーニは、社会主義者として反戦運動を行ない、
つかまって、五ヵ月の刑をうけた。
刑期が終わって自由の身になった彼は、社会党の機関紙「前進」の編集長として迎えられた。
発行部数は一万程度だったが、彼が考え出した新機軸の編集方針で、部数は二年間で十倍になった。
第一次大戦が起こると、ムッソリーニは、「前進」紙上に、強い反戦論を展開した。
だが、三ヵ月後に、彼は愛国主義的な立場から参戦を支持した。
要するに、彼の社会主義は、心底からのものではなく、現状に対する不平不満から社会党に身を投じていたにすぎなかったのである。
「前進」をクビになった彼は、十一月に「ポーポロ・デ・イタリア」(イタリア国民の意)という新聞を創刊した。
資金をひそかに提供したのは、中立を守ろうとするイタリアを参戦させたかったフランスの大使館だといわれている。
【中略】
一九一五年、イタリアは参戦し、九月にはムッソリーニは軍曹として前線に送られた。
そして、一九一七年二月に、体内に砲弾の破片が四十四もくいこむという重傷を負い、一時は軍医にも見はされた。
このあたり、伍長で出征してやはり戦傷したヒットラーとよく似ている。
復員したムッソリーニは、再び新聞に戻ったが、一九一九年三月、ミラノで同志百五十人を集めて「ファッシスト党」を結成した。
この名称はファッシ(団結)という言葉から生まれたもので、男女普選、一院制、軍需工場の国有化、
戦時利益の没収といった綱領がかかげられている。
この年の十一月に総選挙があった。
ムッソリーニをはじめ、何人かが立候補した。
といっても、こんなちっぽけな政党は誰からも注目されなかった。
党首たるムッソリーニをはじめ、全員が落選した。
意気消沈している同志たちに、ムッソリーニはいった。
「勇気を出せよ。二年とたたないうちに、きっとすばらしい勝利がやってくる」
誰もが、ムッソリーニは夢を見ているのだと思ったが、彼は本気だった。
ムッソリーニが目をつけたのは、戦後の社会不安だった。
社会党の勢力が強くなっているが、その一方では、急進主義に対する反感も根強いことを、彼は見ぬいていた。
復員したものの、職のない元軍人、貧農の子弟、前途に希望のない学生。
彼はこういう状況の若者たちを組織し、その不満を暴力的に発散させた。
つまり、社会党が握っていたボローニヤ市庁舎を襲撃し、これをロンバルジア方面へと拡げて行った。
彼は「アカ」の恐怖を国民に訴えた。
これは、支配者や大資本家にとっては、好ましいことであった。
警察も軍部も、ファッシスト党員の暴力的なアカ狩りを黙認した。
その一方で、ムッソリーニは、大衆の支持をうるために、資本家への攻撃を怠らなかった。
もっとも、それは弁舌だけの攻撃だったが。
一九二一年五月の総選挙では、ムッソリーニをはじめ、ファッシスト党は二十二議席を得た。
自由・民主党二百七十五、社会党百二十二、共産党十六であった。
十一月に、ローマで党大会をひらいたムッソリーニは、党名を「国家ファッショ党」にあらためた。
ファッショは、ファッシの複数形である。
また、制服として黒シャツ着用を定めた。党員の中に、軍人が多かった。
百五十人で出発した党は、このころ三十万人になっていた。
翌年十月、ムッソリーニは、党員四万を率いて、ミラノからローマへ向けて進軍を開始した。
彼に、勝利の確信があったわけではなかった。
万一のさいには、スイスに逃亡できるように準備もしてあったのだが、
自由・民主党を与党とするファクタ首相が国王エマヌエレ三世に戒厳令の公布を求めたところ、国王はこれを拒否した。
軍部がすでに与党を見はなしていることを、国王は敏感にかぎとっていた。
ファクタが辞職すると、国王は、ムッソリーニに組閣の命令を下した。
三好徹 「夕陽と怒濤」
P.191この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「ムッソリーニ」は「ムソリーニ」「ムソリニ」とも表記されることがあります。 |