松岡 洋右
1880 − 1946
[ まつおか・ようすけ ]
外相、満鉄総裁、国際連盟特別総会首席代表、A級戦犯
一覧 (マ) 本を入手三好徹著
エピソード 1調査中。
・ 山口県出身。若くして渡米、オレゴン州立大学を卒業。外務省入省。
・ 寺内内閣では、首相・外相秘書官としてシベリア出兵を推進。
・ 満鉄理事、副社長を経て、衆議院議員。政友会に所属。
・ 満州事変後の国際連盟特別総会に首席代表として出席。熱弁を振るい退場。脱退。
・ 満鉄総裁を経て、近衛内閣Aの外相に就任。
・ 日独伊三国軍事同盟日ソ中立条約を調印、これを背景とした対米強硬路線を企図。
・ 日米交渉に反対。独ソ戦開始で構想はもろくも崩れる。外相を実質的に罷免される。
・ 戦後、A級戦犯に指定されるが、裁判中に病死(免訴)。
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1932/12/08   松岡洋右、国際連盟総会で「十字架演説」
1933/02/24   国際連盟総会、リットン報告書を採択
1933/03/28   日本、国際連盟脱退
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1939/08/23   独ソ不可侵条約締結
1939/09/01   ドイツ軍、ポーランド侵攻開始 (第二次世界大戦勃発)
1940/07/19   荻窪会談 (近衛松岡東條吉田
1940/07/22   近衛内閣A成立 (首相:近衛文麿
1940/07/27   大本営政府連絡会議、「南進」「枢軸強化」を決定
1940/09/09   松岡・スターマー(ドイツ特使)会談
1940/09/23   北部仏印進駐
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
1941/03/12   松岡外相訪欧 (03/26 ベルリン到着)
1941/03/27   松岡・ヒトラー会談
1941/04/13   日ソ中立条約調印
1941/04/16   日米交渉開始
1941/04/22   松岡外相帰国 (日米交渉に大反対)
1941/07/02   御前会議、「南進」「北進準備」を決定
1941/07/02   大本営、「関特演」発動
1941/07/16   近衛内閣A総辞職
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/11/19   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令A (小磯松岡ら11人)
1946/04/29   A級戦犯容疑者28人の起訴状発表
1946/05/03   東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷
語録 今回突然の挙は予め企まれたる小官逐出しのクーデターなりと言う事明瞭となれり。 実に情けなし。しかもそれは驚くべき迷なり。
引用松岡は、アメリカのオレゴン大学卒、吉田より二年早く、外交官試験を通って、外務省に入っている。 その英語の卓抜さは、有名であった。 「英語で喧嘩できるのは松岡ぐらい」という人さえいた。
といっても東大卒が主流をなす外務省では、松岡は傍流でしかなかった。 志を得ないまま退官したのち、満鉄の副総裁を務めた。 ただしその主張は、軍部と同じ満州独立論であった。
引用一九四五年、つまり日本が戦争に負けてのちのある日、松岡のもとに出入りしていた新聞記者が、
「アメリカ人とは、どういう人間か」
と質問した。
これから日本へ進駐してくるアメリカ人について、正しい認識をもっているものが、ほとんどいなかったのである。
松岡は、結核で寝こんでいたが、この質問をうけると、ちょっと考えてから、次のようにいった。
「野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。
きみがこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。 野原のまんなかで、きみたちは鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。
そうやってしばらく、互いに睨みあっているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、 げんこをかためてポカンときみの横っつらをなぐってくるよ。
さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通してみたまえ。 この次からは、そんな道で行き会えば、彼は必ずものもいわずになぐってくる。 それが一番効果的な解決手段だと思うわけだ。
しかし、その一回目に、きみがへこたれないで、何くそッと相手をなぐりかえしてやるのだ。 するとアメリカ人はびっくりしてきみを見なおすんだ。 おやおや、こいつは、ちょっといけるヤツだ、というわけだな。 そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる」
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「松岡洋祐」「松岡洋佑」「松岡洋介」は表記に誤りがあります。