リチャード・M・ニクソン 1913 − 1994
大統領(共和党)、副大統領、上院議員 / アメリカ
エピソード 1調査中。
引用一九一三年一月九日、カリフォルニア州ヨルバ・リンダのクェーカー教徒の家に生まれたニクソンは
若いときから父親の経営するガソリンスタンドで働きながら学校へ行った。
成績優秀で、東部のアイビー・リーグの大学から入学の勧誘があったほどだ。
しかし両親の不和、家庭の生活状況から地元を離れることができず、ウィッティ大学を選び、
さらにデューク大学院に進み法律を学び優等生に選ばれた。
が、卒業後「家柄のせいで」東部の著名な法律事務所への就職はことごとく断られた。
はじめての挫折感は大きく、郷里に戻り、学校の先生をしていたパット・ライアンと結婚、
第二次大戦では海軍士官として従軍、終戦後、政治家として「東部」を見返してやろうという政治的野望に燃えた。
四六年カリフォルニア州から下院議員に当選、思想的には本来穏健な愛国主義者で、共産主義についてなにも知らなかったが、
ナチス・ドイツのシンパを糾弾するため設けられていた下院非米活動委員会を「赤狩り」に利用、
その委員となり、後の反共マッカーシズムの口火をきって「赤狩り」の先頭に立った。
「赤狩り」の槍玉にあげられた典型は、ニューディール派の元国務省高官アルジャー・ヒス。
彼のもっとも憎んでいたアイビー・リーグ卒の東部支配層の家柄であったからだ。
反共ムードの蔓延していた当時の米国ではヒスを偽証罪で告発して糾弾するとともに、ニクソンの人気は上昇した。
こうして共和党右派の支持を得て、五〇年には上院議員、
五二年の大統領選挙ではアイゼンハワー政権の副大統領として弱冠三十九歳でホワイトハウス入りした。
副大統領を二期務めたあと、六〇年の大統領選挙で共和党候補に選ばれたが、
民主党の若手リベラル派ケネディ候補に惜敗した。
この時の「ケネディ贔屓」、とくにテレビ討論での敗北のショックは大きく、
徹底したマスコミ嫌いになった。
しかし挫折から立ち直ったニクソンは六二年カリフォルニア州知事選に出たがまたも敗北した。
この時、記者団からさんざん批判され怒りを爆発させたニクソンは「二度と記者会見はしません」と口走った。
国民はこれで彼の政治生命は終わったと思った。
かれ自身、その挫折の連続を『六つの危機』(六二年)と題する著作に書き上げ、
東部のジャーナリスト批判をぶちあげたところ、意外にもこれがベストセラーになった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.156この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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