野村 吉三郎
1877 − 1964
[ のむら・きちさぶろう ]
駐米大使、軍令部次長、第3艦隊司令長官、アメリカ大使館付武官、学習院長、参議院議員、海軍大将
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エピソード 1調査中。
・ 和歌山県出身。海兵26期卒。
・ 海兵教官、「千歳」航海長などを歴任。オーストリア、ドイツ駐在後、在米日本大使館付武官。
・ パリ講和会議、ワシントン軍縮会議に全権随員として出席。
・ 軍令部次長、呉・横須賀鎮守府司令長官などを歴任。
・ 第三艦隊司令長官として上海事変@に出征、停戦交渉にあたる。
・ このとき、上海爆弾テロ事件で片眼を失う。
・ 予備役編入後、学習院長。阿部内閣では外相に就任。
・ 駐米大使となり、太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたる。
・ 戦後、日本ビクター社長。参議院議員、自民党外交調査会会長などを務める。
1919/01/18   パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1921/11/12   ワシントン軍縮会議開催 (主席全権:加藤友三郎/〜22/02/06)
1921/12/13   四ヵ国条約調印 (日英同盟廃棄)
1922/02/06   九ヵ国条約調印
1922/02/06   ワシントン海軍軍縮条約調印
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1932/01/28   上海事変@勃発
1932/04/29   上海爆弾テロ事件 (犯人:尹奉吉)
1932/05/05   上海停戦協定調印
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1939/07/26   アメリカ、日米通商航海条約の廃棄を通告 (40/01/26 失効)
1939/08/30   阿部内閣成立 (首相:阿部信行
1939/09/01   ドイツ軍、ポーランド侵攻開始 (第二次世界大戦勃発)
1939/09/04   欧州戦争不介入声明 (支那事変解決に邁進)
1939/11/04   野村・グルー会談
1940/01/14   阿部内閣総辞職
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
1941/04/13   日ソ中立条約調印
1941/04/16   日米交渉開始
1941/07/28   南部仏印進駐
1941/08/01   アメリカ、対日石油輸出禁止
1941/11/05   来栖特命全権大使、渡米
1941/11/26   野村・来栖両大使、ハル・ノートを受領
1941/12/01   御前会議、対米開戦決定
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1941/12/08   対米最後通告 (AM04:20)
1942/08/20   野村・来栖両大使ら1400人帰国 (日米交換船)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1946/11/03   日本国憲法公布
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
1950/08/10   警察予備隊令公布
引用ジャパン・ロビーにとって最も価値ある日本人の一人は、元外相野村吉三郎海軍大将であった。 野村は真珠湾奇襲の時には駐米大使を務めている。 占領期間中、ACJのメンバーは積極的に野村に近づいた。 一九四六年八月に野村が公職追放された後、パゲナムは定期的に(実は違法に)食料や煙草を送り、経済的に苦しい彼の便宜を図った。 ウィリアム・R・キャッスルは野村とのつき合いを再開し、 野村こそ「日本を、正しい道筋で、再び重要な国家となるように再建するのに役立つ人物の一人だ」と主張した。 日本を訪問するたびにカーンは野村をもてなした。 そして野村の最も親しいアメリカの友人であるウィリアム・V・プラット提督は海軍の軍人仲間をACJの活動に引っ張り込んだのである。
野村は一時的に追放状態にあったが、日米関係では彼が引き続き重要なことをACJはよく理解していた。 野村は、日本側では旧帝国海軍の将校たちに活動の舞台を提供していた。 すなわち右翼国家主義者からなる再軍備団体の顧問あるいは代表として動いていたのである。 海軍復員省という誤れる名前の組織の外で、新たな日本海軍建設を計画するグループの「ご意見番か精神面での父」でもあった。 戦後外相や首相となり、日本国憲法の戦争放棄条項に反対したことで知られる芦田均とも親しかった。 そして山梨勝之進海軍大将を通して吉田茂首相とも連絡をとることができたのである。 野村は、アメリカ側ではアーレイ・バーク提督やターナー・ジョイ提督、ジョン・フォスター・ダレス特使といった高官と定期的に連絡をとっていた。 こうした交際はすべてACJの支援によって始まり、進展したものである。 野村のとってACJは、日本海軍を復活しようとする自らの活動の役に立ったし、 降伏後における初期対日方針によって自分たちの立場が脅かされたと感じていた日本の旧支配層内部のいわゆる「穏健派」の憂慮を、 アメリカ世論やワシントンにはっきり知らせるためにも有用であった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。