中野 正剛 1886 − 1943
[ なかの・せいごう ]
衆議院議員、大政翼賛会常任総務、東京朝日新聞記者
エピソード 1調査中。
語録
労農ロシヤと接近すれば日本が赤化するといって反対するのは、朝鮮を通過すると朝鮮人に化せられるというのと同じで、
こんな論法でゆけば日本は鎖国の昔に還らねばならぬ。こんな頑迷な思想では話にならない。
引用中野は、はじめ犬養毅の革新倶楽部に属していたが、
憲政会に移り、のち幹部の安達謙蔵とともに脱党、まもなくその安達とともに結成した国民同盟からもとび出して、
軍国主義色の強い少数党をつくったりこわしたりした。
彼は自ら「分離主義者」と称していたが、十三年に独伊に旅行してからヒトラーの礼讃者となった。
日本に戦争を推進した一人だが、東条の独裁的傾向がつよくなったころから彼とはなれ、
さらに独伊軍が北アフリカで連合軍に降伏すると、東条打倒、宇垣擁立の重臣工作をして東条の憎悪を買った。
それはともかく、昭和六年ごろの中野は熱心な「満州国即時承認」論者で、
関東軍の板垣征四郎、石原莞爾を「崇拝」した(猪俣敬太郎「中野正剛の生涯」)。
その二年前の中野は、同じ関東軍が張作霖を爆死させた「満州某重大事件」で田中義一を第五十六議会で激しく追及し、
田中を窮地に立たせたのだから、たいそうな豹変ぶりである。
松本清張 「昭和史発掘(8)」
P.234この本を入手
引用左翼から「復古−革新」派への転向はむろん上述の事例だけではなかった。
さらに左翼からだけではなく、既成政党内部からもその動きがみられた。
一つの代表的事例は中野正剛の場合であった。
民政党内のリベラル派と目されていた彼が第二次若槻内閣の末期に政友会、民政党の協力内閣運動に失敗して民政党を出たあと、
ソーシアル・ナショナリズムを主張し、協力内閣運動のリーダーだった安達謙蔵をかついで国民同盟を結成したのは
昭和七年一二月のことであった。
国民同盟は人種平等、資源公開の原則、ブロック経済、国家経済統制を主張しており、
黒サージで両胸ポケット、バンド付きの制服をつけたが、これはファッショを模したものであった。
その後中野は昭和一〇年に国民同盟を脱党し、政治結社東方会を結成した。
東方会は「正義国際の建設により国民生活の活路を開拓すべし、国際非常時の克服に傾注し、
全国民均等の努力と犠牲とに愬うべし、政治によりて広義国防を担任し、軍部をして安んじて狭義国防に専念せしむべし、
生産力の急速なる拡大強化を目標として統制経済の動向を是正すべし、全体主義に則り、階級的特権と階級闘争とを排除すべし、
農民、労働者、中小商工業者、俸給勤労者の生活を保障し、国家活力の源泉を涵養すべし」とする綱領をもち、
代議士一一、木村武雄の山形農民同盟、大石大の土佐農民総組合、杉浦武雄の三河東方会を含む一万人余の会員を組織していた。
伊藤隆 「近衛新体制」
P.26この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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