汪兆銘
1883 − 1944
[ おう・ちょうめい ]
南京国民政府主席 / 中国
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エピソード 1調査中。
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1911/10/10   辛亥革命勃発 (武昌蜂起)
1912/01/01   南京臨時政府成立 (臨時大総統:孫文
1912/02/12   宣統帝(溥儀)退位 (清朝滅亡)
1912/03/10   袁世凱、臨時大総統就任
1913/07/12   中国・江西省で、第2革命勃発 (〜09/01)
1913/10/10   袁世凱、中華民国大総統就任
1914/07/08   孫文、中華革命党結成 (東京)
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1919/05/04   五・四運動 (天安門広場で学生らがデモ行進)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1919/10/10   中国国民党結成 (中華革命党を改組/孫文ら)
1924/01/20   国共合作@成立
1925/03/12   孫文病死 (北京)
1925/05/30   五・三〇事件 (上海)
1926/03/20   中山艦事件 (蒋介石、戒厳令を公布し、共産党員逮捕)
1926/07/09   蒋介石、北伐開始
1927/04/12   蒋介石、上海クーデター (国共分離)
1927/04/18   南京国民政府成立
1928/06/09   北伐軍、北京入城 (北伐完了)
1928/10/08   蒋介石、国民政府主席就任
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1936/12/12   西安事件 (張学良・楊虎城、蒋介石を監禁)
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1937/09/23   国共合作A成立
1937/11/20   中国国民政府、重慶遷都宣言
1938/01/16   近衛声明@ (国民政府を相手にせず)
1938/11/03   近衛声明A (東亜新秩序建設)
1938/12/20   汪兆銘、ハノイへ脱出 (影佐工作成功)
1938/12/22   近衛声明B (近衛三原則)
1939/01/01   中国国民党、汪兆銘を永久除名
1940/03/30   汪兆銘(南京)政府成立
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1943/11/05   大東亜会議開催 (11/06 共同声明発表)
1944/11/10   汪兆銘没 (名古屋)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
引用型として汪さん(一八八五−一九四四)は「雅び」の人であった。
ポロをまとおうと、身をやつそうと、内からにじみ出てしまうエレガンス。 しかもその「雅び」は、詩人の雅び、文人の雅びと言ってよかった。
壮年時代には、革命軍を指揮して兵を挙げ(一九二六−二七年)、武漢政府をつくり上げたような、 血の気の多い左系指導者だったが、草を食み土に寝、砲弾の下をくぐって走る激越な軍人の血も、 持って生まれた雅びを消すことは出来なかった。 生来の「詩人の情」を消し去ることも出来なかった。 当時の彼の写真がそれを示してくれる。
古典的な静かな雅びのせいで、汪さんは一見、女性的なたおやかな印象を人に与えた。 背は高く(当時の日本人として決して小さい方でなかった父より肩から上の分だけ高かった)、 肩幅は広く、兵を挙げたころの鍛錬がいつまでも刻みこまれた堂々たる体躯の持ち主であったのに。
引用国民党左派の首領汪精衛は、死んだ廖仲トとは大変違う人物だった。 廖は率直で、素朴で、近づきやすく、活発であったが、汪は容姿端麗で、 年齢よりはるかに若く見えるという生来の利点を意識してふるまう気どり屋であった。 汪はいつも服装に細かく気を配り、身ぎれいにしていた(マレーシアのゴム農園の女相続人であった妻のおかげで、 彼はそのような優雅な身なりをする資産をもっていた)。 汪は文章もうまく、雄弁で流暢な話し手であった。 彼の過去は、ロマンティックな革命家の日々であった。 若いころ、清朝の摂政王に爆弾を投げつけて暗殺をはかり、逮捕されたが、 光緒帝の未亡人(東太后)のおかげで死刑をまぬがれた。 世評によると、彼の若さと容貌に彼女が心を動かされたから、という。
しかし、後半生には、汪精衛はかつての勇気ある決断の名残さえとどめなくなった。 彼の握手でさえ、マシュマロのように骨のない、やわらかいものであった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「汪兆銘」は「王精衛」とも表記されることがあります。