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汪兆銘 1883 − 1944
[ おう・ちょうめい ]
南京国民政府主席 / 中国
エピソード 1調査中。
引用型として汪さん(一八八五−一九四四)は「雅び」の人であった。
ポロをまとおうと、身をやつそうと、内からにじみ出てしまうエレガンス。
しかもその「雅び」は、詩人の雅び、文人の雅びと言ってよかった。
壮年時代には、革命軍を指揮して兵を挙げ(一九二六−二七年)、武漢政府をつくり上げたような、
血の気の多い左系指導者だったが、草を食み土に寝、砲弾の下をくぐって走る激越な軍人の血も、
持って生まれた雅びを消すことは出来なかった。
生来の「詩人の情」を消し去ることも出来なかった。
当時の彼の写真がそれを示してくれる。
古典的な静かな雅びのせいで、汪さんは一見、女性的なたおやかな印象を人に与えた。
背は高く(当時の日本人として決して小さい方でなかった父より肩から上の分だけ高かった)、
肩幅は広く、兵を挙げたころの鍛錬がいつまでも刻みこまれた堂々たる体躯の持ち主であったのに。
犬養道子 「ある歴史の娘」
P.396この本を入手
引用国民党左派の首領汪精衛は、死んだ廖仲トとは大変違う人物だった。
廖は率直で、素朴で、近づきやすく、活発であったが、汪は容姿端麗で、
年齢よりはるかに若く見えるという生来の利点を意識してふるまう気どり屋であった。
汪はいつも服装に細かく気を配り、身ぎれいにしていた(マレーシアのゴム農園の女相続人であった妻のおかげで、
彼はそのような優雅な身なりをする資産をもっていた)。
汪は文章もうまく、雄弁で流暢な話し手であった。
彼の過去は、ロマンティックな革命家の日々であった。
若いころ、清朝の摂政王に爆弾を投げつけて暗殺をはかり、逮捕されたが、
光緒帝の未亡人(東太后)のおかげで死刑をまぬがれた。
世評によると、彼の若さと容貌に彼女が心を動かされたから、という。
しかし、後半生には、汪精衛はかつての勇気ある決断の名残さえとどめなくなった。
彼の握手でさえ、マシュマロのように骨のない、やわらかいものであった。
イスラエル・エプシュタイン 「宋慶齢(上)」
P.222
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「汪兆銘」は「王精衛」とも表記されることがあります。 |