大隈 重信
1838 − 1922
[ おおくま・しげのぶ ]
首相(@/A)、外相、早稲田大学総長
一覧 (ア) 本を入手【テーマ・内閣成立史】
エピソード 1早稲田大学の創設者として今でも人気抜群の大隈さんだが、 歴史を振り返ると、少なくとも後半生はろくでもないじいさんだったようだ。 自分の人気を利用した選挙運動と選挙違反は相当あざといものだった。 あの悪名高い対華21か条を中国に突きつけたのも彼の内閣である。
・ 佐賀県出身。肥前藩士。明治政府に登用され累進、大久保利通の下で財政を担当。
・ 大久保没後は殖産興業政策を推進、大隈財政が展開し、三菱と親密な関係を結ぶ。
・ 北海道開拓使官有物払下げに反対し、薩長勢力に排斥され、参議辞任。
・ 立憲改進党を結成、東京専門学校(のち早稲田大学と改称)を創立。
・ 伊藤内閣@の外相に就任、黒田内閣にも留任して条約改正交渉にあたる。
・ 立憲改進党復党、進歩党結成。松方内閣A外相就任。
・ 外相辞任後、板垣退助と合同し憲政党を結成し、隈板内閣の首相に就任。
・ 両派分裂により4か月で内閣総辞職。憲政本党総理就任。
・ 政界引退、早稲田大学総長就任後、元老の要請で首相に就任。
・ 加藤高明立憲同志会を与党とし、第一次世界大戦に参戦し、対華21か条を要求
1902/09/02   東京専門学校、早稲田大学と改称
1902/12/03   伊藤・大隈会談 (加藤高明の斡旋)
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1907/01/20   大隈重信、憲政本党総理引退を声明
1912/07/29   明治天皇崩御
1914/04/16   大隈内閣A成立 (首相:大隈重信
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/08/23   対独参戦 (宣戦布告)
1914/09/02   青島出兵 (日本軍、山東半島上陸開始)
1915/01/07   大隈首相、大浦農商務相を内相に起用 (総選挙に備えて)
1915/01/18   対華21ヵ条要求 (外相:加藤高明
1915/07/25   大浦内相辞任 (2個師団増設案成立工作問題で)
1915/07/30   大隈内閣辞表提出
1915/08/10   3閣僚辞任 (加藤外相若槻蔵相・八代海相/内閣改造)
1916/01/12   大隈首相爆殺未遂事件
1916/10/04   大隈首相、辞意表明 (後継首相に加藤高明を推薦)
1916/10/05   大隈内閣A総辞職
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1922/01/10   大隈重信
引用佐賀の武士の子は藩校弘道館で勉強することになっていました。 きめられたように勉強がすすまず、試験に不合格になろうものなら上級に上れず、藩の役人になれなかったり、 家の収入をへらされたりするのです。 たいへんきびしいやり方で、がんこに朱子学をおしつけていました。
そのうえ、佐賀には「葉隠」という武士道の教えがありました。 この教えは疑うことのできないもので、藩士たるものは絶対に守らなければならないとされていました。 それについて意見を言ったり、そむこうものなら、罰が加えられるというありさまです。
重信はこういう弘道館の教育の考え方ややり方には、とうていたえられなかったのです。
「『大学』や『論語』だけが学問だろうか」
「葉隠では、佐賀藩主鍋島さまに一身をささげよというが、それが正しいことなのだろうか」
「弘道館以外の私立学校をバカにするのはなぜだ」
「先生と違うことを言うと、のけ者のされるのは?」
こんなことが、重信の心をとらえていたのです。
重信は江藤新平(一八三四〜七四)ら、上級生も同じことを思っていることを知ると勇気が出てきました。
「館の教育方針を変えてもらおうではないか」
と言って、学友にはたらきかけました。
しかし、重信は弘道館から追われてしまいました。
藩主は西洋の学問をとり入れたいと考えていた人で、弘道館からはなれたところに、 オランダ学のための蘭学寮をつくっていました。 重信は、こちらへうつりました。
引用大隈重信も、鍋島藩(現佐賀県)の上級士族の家に生まれた最後の武士だった。 若いころは砲術と築城という、いわば技術者の道を志し、青年期に蘭学と英学の双方を身につけ、 とくに、英学では、師匠のフルベッキをして、「新約聖書の大部分を研究し、 アメリカ憲法の大部分を学んでしまった」と言わしめるほどの英才振りを発揮する。 改革意欲が強く、藩の学制改革、財政改革、軍制改革に乗り出すが、失望して脱藩。
明治草創期は、大蔵大輔(現在でいえば、財務省事務次官)として、 産声を上げたばかりの政府の租税政策、財政政策、教育制度や軍隊制度の確立、 産業振興などじつに広範な分野で実績をあげただけではなく、 その外交力は、うるさ型の英国公使パークスも舌を巻くほどのものであった。
官僚としての栄達の道に見切りをつけると、今度は自ら政党(立憲改進党)を作り、 政治家としての道を歩み始める。 また次世代を育てる使命感から、大学の設立(東京専門学校、のちの早稲田大学)にまで乗り出した教育者でもあった。 そして、総理になること二度。絵に描いたような明治の怪物ジェネラリストだった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。