小畑 敏四郎
1885 − 1947
[ おばた・としろう ]
国務相、陸大校長、参謀本部第三部長、陸軍中将
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エピソード 1調査中。
・ 土佐藩士の家に生まれる。学習院を経て、陸士16期卒、陸大卒。
・ 第一次大戦中、ロシア軍に従軍。その後、ロシア大使館付武官。
・ 永田、岡村、東條バーデン・バーデンの密約を結ぶ。
・ 次第に対ソ戦略家として知られるようになる。
・ 近衛第10連隊長、参謀本部第三部長、近衛歩兵第1旅団長、陸大校長などを歴任。
・ 皇道派の中心人物の一人として、永田鉄山ら統制派と激しく対立する。
・ 二・二六事件後の粛軍により予備役に編入される。
・ 近衛文麿の推薦で東久邇宮内閣の国務相。
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1921/10/27   バーデン・バーデンの密約
1928/06/04   満州某重大事件 (張作霖爆殺)
1929/05/19   一夕会結成
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1936/02/26   二・二六事件
1936/03/23   陸軍、二・二六事件関係者の処分と人事異動を発表
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/08/17   東久邇宮内閣成立 (首相:東久邇宮稔彦/無任所相:近衛文麿
1945/08/30   マッカーサー厚木到着
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1945/09/03   重光・マッカーサー会談 (軍政中止)
1945/09/27   天皇、マッカーサーを訪問 (会談@)
1945/10/04   GHQ、「自由主義化」を指令
1945/10/05   東久邇宮内閣総辞職
小畑君は敵の多い人だった。しかし自分の見たものの中で、 これくらい用意周到で鋭い頭脳をもった男はいない。 しかも、これぐらい名利を捨てて国事を思う人間はなかった。 普通の人間ならかかり合いになるのを怖れて遠ざかるところを、彼は怖れず、それにぶつかってゆく。 十月事件に何ら関係もないのに大事と見て出て来て、 進んで南陸相の上奏文を起草していた、などはそれである。 正義派で、どこまでも強く、場合によっては寸毫も仮借しないが、また一面暖い面もあった。 近衛公がこの人柄をもって小畑君を信頼していた。 小畑君も天子様の身代りのように近衛公を見ていたようである。 高知の出身で、父は高級判事で男爵、貴族院議員小畑大太郎君の弟だ。 あれくらい黒白を明らかにする男はない。 彼は一方便乗派を非常に嫌った。そのため敵も多かった。作戦用兵が最も得意であった。
荒木貞夫 (元陸相)
小畑閣下が陸大での戦術論の冒頭、必ず口にされる有名な言葉があった。 「百戦百勝は善の善なるものに非るなり、戦はずして而して人の兵を屈するは善の善なるものなり」という支那古代の兵書、 孫子の謀略篇の中にある有名な言葉だ。 これが小畑閣下の最も好まれた格言であった。 「三吉、これが作戦の要諦だよ」と、たしか二、三度将軍の口から、直に伺った。
こんな小畑閣下の作戦思想は、あくまで防衛が第一で、ソ連の出方によってはもちろん干戈を交えなくてはならないが、 当方に厳たる備えがあれば、ソ連は恐らく手を出さないだろう、と閣下は観測しておられた。
三吉義隆 (元陸軍大佐)
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。