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魯迅 1881 − 1936
[ ろ・じん ]
小説家 / 中国
エピソード 1調査中。
語録
最初の革命は満州王朝を倒すことだから割りに易しかった。
その次の改革は、国民が自分で自分の悪い根性を改革することなので、そこへ来て尻込みしてしまった。
だから、今後もっとも大切なことは国民性の改革である。
そうでなければ、専制であろうと共和制であろうと、その他なんであろうと、
看板を変えただけで品物が元のままではお話にならない。
引用中国文化の陳腐さを排して、
それに代わる新しい感性と思想をもたらした作家でエッセイスト、この恐れを知らぬ人物の役割は、
ロシアのマキシム・ゴーリキーやフランス革命前のヴォルテールのそれに比肩するものである。
魯迅は肺結核を患い、体質は弱かったが、精神力、意志力の強大さには驚くべきものがあり、
とくに原則を貫き堅持する力は特別であった。
孫文やチェーホフと同様、彼は、早年に医学を学んだが、堅忍不抜の革命精神では前者に相通じ、
洗練された簡潔な文体という点では後者に相通じるものがあった。
彼は、文学の世界だけでなく、広く中国の青年から熱愛され、尊敬され、民族精神の象徴になっていた。
愛とやさしさをこめて、彼は中国の反動派の犠牲になった無数の若者たちのために追悼文を書きつづった。
脅迫を恐れることなく、彼は公然と白色テロに立ち向かった。
ある抗議集会に行く前に、彼は帰宅できなくなることを覚悟して、自宅の鍵を投げ捨てた、といわれている。
研ぎ澄まされた風刺を用いて、魯迅は古い中国の(彼の言葉を借りれば)「人が人を食う社会」の
封建的な偽善を剥ぎ取った。
彼は、中国紅軍のめざましい活躍の中に新しい夜明けを見て、それを歓迎した。
魯迅は、国内の場合と同じように、外国のファシズムにも憤りを覚えていた
(彼は国内外のファシズムを相互に関連あるものと見ていた)。
上海のヒトラー政権総領事館への抗議のほかに、
「中国とドイツのナチズムの優劣論」や「中国とドイツにおける焚書」などの文章の中で、
ファシズムを猛烈に攻撃した。
救国運動でも、彼は倦むことなく活動した。
イスラエル・エプシュタイン 「宋慶齢(上)」
P.423
引用魯迅は九歳のとき、清の官僚だった祖父が投獄され、まもなく父も病死、紹興の生家が没落するという運命の激変を経験する。
世間は掌を返すように冷たくなり、幼くして魯迅は、人の心に裏表があることを、骨身に徹して知った。
この苦い原体験は、彼を冷徹なリアリストにした。
一八九八年、十八歳で南京の江南水師学堂に入学するが、翌年、
新設の鉱務鉄路学堂に転学。
四年にわたる学生生活のなかで、清末の変法派(改革派)知識人の雑誌『時務報』や厳復が訳した『天演論』を読み、
進化論をはじめ新しい思想を知る。
一九〇二年、鉱務鉄路学堂を卒業後、東京に留学、弘文学院で日本語を学ぶかたわら、ヴェルヌの科学小説『月界旅行』『地底旅行』を翻訳する。
これを皮切りに、魯迅は生涯にわたり、幅広い分野の翻訳を手掛けることになる。
一九〇四年、仙台の医学専門学校入ったが、医学から文学にシフトを変更する決意を固め、一九〇六年、退学する。
一時帰国後、東京にもどり、弟周作人とともにロシア・東欧の小説を翻訳し、
また「摩羅詩力説」など尖鋭な評論を著す一方、変法派と対立する革命派のリーダー章炳麟と出会い、
筋金入りのラディカリストになってゆく。
一九〇九年、帰国。杭州や紹興で教師生活を送るうち、一九一一年、辛亥革命がおこる。
翌一二年、招かれて成立したての中華民国の教育部スタッフとなり、南京ついで北京に移る。
その後、袁世凱ら軍閥が主導権を奪い合う混乱がつづき、失望を深めた魯迅は古典研究に没頭する。
しかし、一九一八年、文学革命運動がおこるや、陳独秀主編の雑誌『新青年』に、白話(口語)小説「狂人日記」を発表、
以後二一年まで堰をきったように、「孔乙己」「薬」「故郷」「阿Q正伝」(いずれも二三年刊『吶喊』所収)など、
初期の傑作を著した。
伝統中国の欺瞞の体系を鋭くえぐったこれらの作品は、一九一九年におこった意識変革運動「五・四運動」と連動し、
人々に深い影響を与えた。
井波律子 「中国史重要人物101」
P.224この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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