西太后 1835 − 1908
[ せいたいごう ]
咸豊帝の妃、同治帝の母 / 中国
エピソード 1
日清戦争のときのこと。
黄海海戦で日本海軍と激突した清国海軍はいきなり決定的なアクシデントに見舞われる。
李鴻章ご自慢の戦艦定遠(旗艦)が主砲を斉射したとたん、
その衝撃で艦橋が崩れ落ちてしまったのだ。
名将丁汝昌の負傷で早々に指揮官を失った北洋艦隊はまさかの完敗を喫し、黄海の制海権を日本海軍に委ねることになる。
どうしてこんなことになっちゃったのだろうか。
実は西太后の隠居場(頤和園)の造成費用捻出のために、1884年以降、海軍予算は半分に削減され続けていたのだ。
おかげで新艦の建造はもちろんメンテナンスも思うにまかせず・・・・・・。
日本海軍の勝利にもっとも貢献したのは西太后かもしれない。
エピソード
清朝末期の宮廷を支配した西太后には、その生涯を通じてグロい逸話が多いが、
彼女の人生最後の逸話は、ちょっとばかり趣が異なる。
光緒帝が死んだ翌日、溥儀を次期皇帝に指名したあとで彼女は亡くなるのだが、
その最期の時にあたり、枕頭の大臣たちに、今後は女性には権力を持たせてはいけない、と遺言したというのだ。
深読みすればいろいろに解釈できるイミシンな言葉だが、彼女の人生そのものが強烈なブラックジョークだったようにも思えてくる。
聞いた大臣たちはさぞや目が点になったことだろう。
引用満州族である彼女の姓はエホナラ(葉赫那拉)。幼名は蘭児。
美しく頭の良い少女であったと伝えられる。
十七歳で咸豊帝の後宮に入った。
咸豊六年(一八五六)に男子を出産、これが後の同治帝である。
これにより彼女は妃、さらに貴妃となる。
当時はアヘン戦争と不平等条約により、西洋列強の圧力が日に日に強まっていた。
彼女が皇子を出産した年、広東でアロー号事件が起き、英仏連合軍は咸豊十年(一八六〇)には北京に至った。
咸豊帝は熱河の離宮に避難し、そのまま翌年逝去した。
最初西太后を寵愛した咸豊帝であったが、皇子を産んでからの彼女は権力への意欲を見せたため、帝は次第に警戒するようになった。
臨終の際も、多くの后妃を枕元に呼んだが、彼女だけは呼ばなかったとも伝えられる。
また皇后(東太后)に「西太后が権力を握ろうとすれば、殺すことを認める」という内容の遺詔を残すが、
後に西太后が東太后に取り入って焼却させたという。
咸豊帝の次に即位したのは、わずか六歳の同治帝である。
その居室の東西により皇后が東太后、彼女が西太后と呼ばれるのはこれ以降のことである。
当時朝廷の実権を握っていたのは皇族の載垣、粛順らであったが、
西太后は咸豊帝の弟恭親王奕訴(※)と共謀して、載垣らを倒し実権を握った。
幼い同治帝の背に御簾をひき、その後ろに東太后と西太后が並ぶ。
しかし、指示を与えるのは、常に西太后の方であった。
同治十二年(一八七三)に帝は親政を始め、二人の太后による垂簾政治は終わるのだが、
翌年の暮れに同治帝は逝去してしまう。
次の皇帝に、西太后は咸豊帝の弟醇親王奕環(※)の四歳になる息子を指名した。
その母親は西太后の妹である。
激しい反対を押し切って、この光緒帝を即位させると、再び両太后による垂簾政治が始まった。
そして光緒七年(一八八一)に東太后が亡くなるが、これにも西太后による毒殺説がある。
さらにその三年後には、長年の盟友であった恭親王奕訴(※)を失脚させる。
権力は完全に西太后によって独占されることとなるが、
奕訴(※)の失脚は、西太后に対して、対等に近い立場で献策する人物がいなくなったことを意味し、
西太后の行動は、歯止めがきかなくなっていくのであった。
井波律子 「中国史重要人物101」
P.208この本を入手
引用彼女は葉赫那拉を姓としたが、名は知られていない。
彼女ほどの人物でも名を記録されないほど、男の絶対優位が確立していた旧中国で彼女が独裁者の地位に就き、
かつこれを保持しえたのは、ただ一つ、同治帝の生母であるという資格にもとづくものであった。
満州人としてはウダツのあがらぬ地方官の娘に生まれた彼女は、
咸豊帝の後宮の女官となり、皇帝の寵をうけ男児を出産したことで、貴妃(定員四)の位まで昇りつめた。
咸豊帝が死に、一粒種のその子載淳が五歳で皇位を継承すると、太后の尊号を贈られ、
咸豊帝の皇后だった慈安太后(通称東太后)とともに「垂簾聴政」することになった。
「同治」という年号には、だから「同に治める」の意を含ませてあるのだという。
「垂簾聴政」とは幼帝に代って母后が政務を覧ることである。
だが儒教倫理の建前では認められることであっても、前述のような女性蔑視の体制下では「垂簾」政治はめったにおこなわれず、
長い中国の歴史でも漢の呂后、唐の武后など数えるほどしか例はない。
ことに清朝では、こうしたばあい皇族を摂政に立てるのが常識であった。
事実、咸豊帝の没後、権臣たちはその方向で準備を進め、年号も「祺祥」と内定していたほどであった。
ところが権勢欲に燃える二六歳の西太后は東太后を抱きこみ、
朝廷内の新興勢力=洋務派のリーダー恭親王とひそかに連絡をつけ、
電光石火のクーデター(祺祥の獄)で旧権臣一派を屠りさった。
かくて成立した「同治」新体制では、東太后は飾り物にすぎず、実権は西太后、恭親王の手中にあったが、
野心満々たる西太后はやがて恭親王をも退け、権勢をその一身に集めたのである。
西太后はいったん手にした権力は、どんなことがあっても手放さなかった。
一八七五年、同治帝が急逝した。
子がなかったので皇族のなかから嗣子を選び、即位させねばならない。
しきたりからいえば同治帝に世継ぎを立てて当然だったが、
そうすれば西太后は太皇太后に格上げされて「垂簾」の資格を失うことになる。
彼女は実妹の生んだ四歳の載恬(※)(醇親王奕環(※)の子)を
咸豊帝の嗣子とし、自分は義母として「垂簾」を続けることとした。
祖宗以来の嗣法を乱す、この強引なやりかたに死をもって抗議する役人さえあったが、彼女は意に介さなかった。
小野信爾 「人民中国への道」
P.50この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「恭親王奕訴」の「訴」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「醇親王奕環」の「環」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「載恬」の「恬」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 |