西園寺 公望 1849 − 1940
[ さいおんじ・きんもち ]
エピソード 1
西園寺の長い人生最後の言葉は「カミソリ」。さっそく綾さんが老公愛用のカミソリで髭をそってあげた。
さすがは本場パリ仕込みのしゃれ者といったところか。亡くなるのはこの2時間ほどあとのことである。
政治的なものはこの前日、原田熊雄男爵(西園寺秘書)が聞き取ったものが最後。
「いったい、どこへ、くにをもってゆくのや。こちは・・・・・・」
混濁する意識の中でも、西園寺は最期まで最後の元老であった。
エピソード
西園寺が初めての外遊に出発したのは1870年12月。
故郷への手紙では、横浜からサンフランシスコへ、ニューヨークへ、さらにロンドンへとひたすら東へ進んだ旅程を記したあと、
イギリスが日本の西にある国であることを注釈し、「この度実地に経歴して、世界の円形なるは疑うべからざるを知る」と
いかにも満足げに書いている。「地球球体説」には得心した彼だが、カルチャーショックもあった。
ロンドンに着く直前のことだ。
甲板を走りまわる4、5歳ほどの金髪の少年にフランス語を実戦試用してみたところ、通じたので気をよくし、
この子とすっかり仲よしになった。
さあ上陸というとき、「坊や、お別れだね。おかげで楽しかったよ」と抱きあげると金髪くん、西園寺の唇にキス。
それを危うくかわして「何をするんだ」と金髪くんをデッキに下ろす。金髪くんは泣き出してしまった。
この一件については「異国の悪風まことに厭うべし」と書いている。
エピソード
西園寺は徳大寺公純の次男。幼くして西園寺家に養子に入る。
養父師季はその4ヵ月後に亡くなり、彼が西園寺家を継いだ。
彼の養育係はなかなかの女傑で、西園寺の腕白を支持、また「稽古」と称して幼い当主に夜ごと酒を飲ませた。
「六歳の子供が上座に座って女の酌で酒を呑む、さぞ憎体な子であったことやろう。
このおかげで青年時代にはいっぱし呑めるようになりました」とは西園寺晩年の回想。
こうして彼はたくましく育った。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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