鈴木 喜三郎 1867 − 1940
[ すずき・きさぶろう ]
内相、法相、司法次官、検事総長、政友会総裁
エピソード 1調査中。
引用鈴木は慶応三年神奈川県に生れ、二十四年東大法科卒業と同時に司法省に入り、
爾来、ずっと司法畑を歩いてきた官僚である。
その在官中は政党関係にはあまり色がなかったが、清浦内閣が倒れて下野してからは急に田中義一に近づいている。
「鈴木喜三郎伝」によると、
「ここに疑問となっていることは、鈴木氏がいつごろから政友会に心をよせるようになったか、
またどの時分入党を決意するにいたったかという点である」といい、鈴木は元来政党がきらいで、
常に政党の悪口をいい、かつて原敬から政友会入りをすすめられたときも拒絶していたという。
それがどうして政友会に近づいたかといえば、田中大将の政友会入りを策した小泉策太郎、横田千之助、鳩山一郎、
森恪などに加わって田中を支援したあたりから心境の変化を来したのだという。
これは久原房之助の見方ということになっている。
久原によれば「田中氏は鈴木氏の決意に報うべく、田中内閣のとき内相の椅子に氏を迎えたのである。
これと共に鈴木氏の胸中に大きい変化がおこり、
従来政党ぎらいだった氏が政党によって雄志を伸ばそうとするにいたったのだ」とある。(前掲書二百十九ページ)
のち、鈴木喜三郎が田中内閣の内相になってからは、
治安維持法改正その他の立法をおこなって、左翼運動弾圧に縦横の腕をふるったのは有名だ。
昔の侠客と名前が同じところから、世間では彼を「腕の喜三郎」とよんだ。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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