鈴木 喜三郎
1867 − 1940
[ すずき・きさぶろう ]
内相、法相、司法次官、検事総長、政友会総裁
一覧 (サ)   
エピソード 1調査中。
・ 神奈川県出身。帝大卒業後、判事、東京地裁所長など歴任後、検事に転じる。
・ 司法次官、検事総長、法相などを歴任。この間、貴族院議員に勅撰される。
・ 政友会入党後、田中(義)内閣の内相となり、特高警察拡充、治安維持法体制強化を画策。
・ 三・一五事件による共産党の大検挙、治安維持法の改正、強化を断行。
・ 最初の普通選挙で露骨な選挙干渉を行ない、その責任を追及され辞任。
・ 犬養内閣の法相、内相に就任。
・ 五・一五事件直後、政友会総裁に就任し、大命降下を待つも、下らず。
・ 党内対立の激化をもたらす。中島知久平派が分裂した後、久原房之助に総裁の座を譲る。
1924/01/07   清浦内閣成立 (首相:清浦奎吾
1924/01/10   護憲運動A開始
1924/06/07   清浦内閣総辞職
1927/04/20   田中(義)内閣成立 (首相:田中義一
1928/03/15   三・一五事件 (共産党関係者一斉検挙)
1928/06/04   満州某重大事件 (張作霖爆殺)
1928/06/29   治安維持法改正@
1929/03/05   衆議院、治安維持法改正緊急勅令を事後承認
1929/04/16   四・一六事件 (共産党員全国一斉検挙/党組織に壊滅的打撃)
1929/07/02   田中(義)内閣総辞職
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1931/12/13   犬養内閣成立 (首相:犬養毅
1932/01/28   上海事変@勃発
1932/02/09   血盟団事件@ (井上準之助暗殺)
1932/03/01   満州国建国宣言
1932/03/05   血盟団事件A (団琢磨暗殺)
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1932/05/16   犬養内閣総辞職
1932/05/20   鈴木喜三郎、政友会総裁F就任
1933/11/13   鈴木喜三郎(政友会総裁)暗殺計画発覚
1934/07/07   鈴木(政友会)総裁、岡田内閣への入閣を拒否
1936/02/26   二・二六事件
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
引用鈴木は慶応三年神奈川県に生れ、二十四年東大法科卒業と同時に司法省に入り、 爾来、ずっと司法畑を歩いてきた官僚である。 その在官中は政党関係にはあまり色がなかったが、清浦内閣が倒れて下野してからは急に田中義一に近づいている。
「鈴木喜三郎伝」によると、
「ここに疑問となっていることは、鈴木氏がいつごろから政友会に心をよせるようになったか、 またどの時分入党を決意するにいたったかという点である」といい、鈴木は元来政党がきらいで、 常に政党の悪口をいい、かつて原敬から政友会入りをすすめられたときも拒絶していたという。 それがどうして政友会に近づいたかといえば、田中大将の政友会入りを策した小泉策太郎、横田千之助鳩山一郎森恪などに加わって田中を支援したあたりから心境の変化を来したのだという。 これは久原房之助の見方ということになっている。
久原によれば「田中氏は鈴木氏の決意に報うべく、田中内閣のとき内相の椅子に氏を迎えたのである。 これと共に鈴木氏の胸中に大きい変化がおこり、 従来政党ぎらいだった氏が政党によって雄志を伸ばそうとするにいたったのだ」とある。(前掲書二百十九ページ)
のち、鈴木喜三郎が田中内閣の内相になってからは、 治安維持法改正その他の立法をおこなって、左翼運動弾圧に縦横の腕をふるったのは有名だ。 昔の侠客と名前が同じところから、世間では彼を「腕の喜三郎」とよんだ。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。