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孫文 1866 − 1925
[ そん・ぶん ]
革命指導者、中華民国臨時大総統、宋慶齢の夫 / 中国
エピソード 1孫文と日本のつながりは深い。
苦しい時期の多くを彼は亡命先の日本で過ごした。
そんなときの仲間ほど親しいものはない。
死が目前に迫った1925年3月のある日、彼は、東京時代から行動をともにしてきた何香凝(廖仲ト夫人)に、
北伐準備中の広東政府への指示を伝えたあと(彼らは北京にいた)、口調を改めた。
彼は「おばさん」という日本語で彼女に話しかけた。
「妻のことを頼みます」それが次に来る言葉だった。
孫文はこのもっとも信頼できる女性に、このもっとも大切な、そしてもっとも気がかりなことを頼むとき、
あの東京時代を思い出させる言葉を使った。
孫と宋慶齢の恋愛も結婚も東京でのことであり、
そのとき廖・何夫妻は親しく彼らの傍らにいた。
そして「おばさん」だけは、長く苦しい闘いの時代も孫文夫人とともにあり続けた。
語録
日英同盟下の日本政府の態度はわれわれに好意的ではありませんが、
日本の民間人は、われわれと中国に対して大きな同情を寄せています。
語録
フランスとアメリカは、両方とも旧式の共和国である。
現在では、ソビエト・ロシアが唯一の新式の共和国である。
われわれは最新式の共和国を建設する努力をすべきである。
語録
この場所を見てごらんなさい! 昔、愚園路は墓地でしたが、現在ではきれいな洋館が建ち並んでいます。
これらはみなわが国の軍閥が建てたものです。
軍閥はそれぞれ一定の領域を占拠し、重税を課し、アヘン吸引や賭博を黙認し、
ありとあらゆる悪事を働き、国民の血と汗を搾取しています。
そこにこの種の洋館を建て、妾を囲い、麻雀をやり、洋酒を飲み、洋食を食べているのです。
わが労働者や農民が飢えに苦しみ、そこそこの衣服も身につけられない原因はここにあります。
こんな状況で中国が滅亡しないでいられましょうか。
だから軍閥を打倒しなければならないのです。
引用「彼は、若いころのことをたくさん私に語りました」と、慶齢は、
彼の生涯の生き方を決定的にした農村における非常に貧しかった少年時代の思い出について書いている。
「彼は、農民の生まれでした。
一五歳になるまで、履く靴がなく、はだしでした。
子供の時、彼は、米ではなく、一番安い食物を食べました。
米はとても高かったのです。
主食はさつまいもでした。
幼少の時期を、貧しい農民家族の貧しい息子として育ったので革命家になったのだと、彼はいくたびも私に話しました。
中国の農民は、このような悲惨な状態を続けるべきではない、中国の小さな子供たちに履く靴がなければならないし、
食べる米がなければならないと、彼は心に決したのです」
このような回想を孫からたび重ねて聞くことによって、
これまで裕福な都会生活、学園生活に限られ、また、本を読み、活字を通しての知識に限られていた彼女の視界が広げられた。
引用彼は、中国の他のどの地方よりも長く西欧の影響下におかれた広東デルタの出身であり、
それゆえ、自身の教養はもともと中国的であるとともに西欧的であった。
少年時代、ハワイの兄弟のもとに身をよせて同地の高等学校を卒業、香港のクウィーンズ・カレッジ、
ついで香港医科大学に学んだ孫文は、一八九二年には医学博士の学位を獲得した。
その人となりは、貧民への共感に満ちていた。
彼自身、あるときにこういっている。
わたしはクーリーですし、クーリーの子供なのです。
わたしは貧民とともに生まれ、そしていまも貧民なのです。
わたしが常に共鳴してきたのは、闘争する大衆だったのです。
確かに孫文は、辛亥革命中および以後を通じて、すこぶる困難な立場におかれていた。
革命中には、外国勢力と結んで独裁権力を強化しようとした袁世凱との戦いに敗れて、日本に亡命したし、
以後も、地方軍閥が中央政府を無視して割拠していたからである。
ここにおいて、孫文は堅く心に誓った。
自己の中国国民党を強化して軍閥を打倒し、統一的近代国家をつくらなければならない、と。
今津晃 「概説現代史」
P.60この本を入手
引用孫文は、中農の子に生まれ、子供のころ叔父の語る太平天国の体験談に聞き入っていた。
とくに洪秀全が好きだったという。
一八七九年、ハワイで成功していた兄を頼ってホノルルへ行き、カソリックの学校で英語を学んだのち、
ハワイ大学へ進学した。
三年後、帰国させられるが、この間に学んだアメリカ流のデモクラシーが、孫文に革命家の道を歩ませた。
八三年、ふたたび故郷を後にして香港にでて、クィーンカレッジに入学し、キリスト教の洗礼を受ける。
軍人を志したが適当な学校がないので医学校に入学し、そこで会党(秘密結社)と関係を結び、民族主義に目覚めた。
九二年、澳門で開業し、「興中会」という会党に入会、広州に移って指導的役割を果たすようになる。
九五年、蜂起を画策したが、事前に当局に知られて失敗、孫文は香港、日本を経てハワイへ亡命した。
翌年、アメリカ本国へ渡って、洪門会を足がかりにして在留同朋に倒清興漢を説いて回り、
イギリスに回ったところで清国公使館に拘禁されたが、イギリスの友人らの奔走で釈放され、名を知られるようになった。
その後二年間ヨーロッパで読書し、後年の「三民主義」の基礎を築いた。
一九〇〇年、宮崎寅蔵(滔天)がフィリピン独立戦争支援のために準備した武器を譲り受けて、
恵州で蜂起を企てたが、またも準備不足で失敗した。
横浜に逃れた孫文は、梁啓超ら改良主義者に排撃を受けたが、革命派の中に確乎たる地位を築いていった。
一九〇三年、海外華僑に革命を宣伝、組織拡大と資金を集めるためベトナムからハワイを経て世界一周の旅にでて、
アメリカを経て一九〇五年、ヨーロッパへ向かう。
孫文の興中会のほかにも、民族主義革命を唱えた結社に、章炳麟、蔡元培、秋謹など浙江省系の「光復会」、
黄興、宋教仁ら湖南系の「華興会」があったが、一九〇五年夏、日本に帰った孫文は三民主義と五権憲法を発表して、
この三派を統一して中国革命同盟会を結成した。
井波律子 「中国史重要人物101」
P.210この本を入手
引用革命ののろしを最初にあげたのは孫文(号は中山、一八六六−一九二五)だった。
彼は広東省香山県(今の中山県)の農民の子で、太平軍に参加した一族の年長者からその戦いの話を聞いて反逆精神を養った。
のちハワイに移民して成功した兄のもとでアメリカ式の教育を受け、帰国後香港で医学を学んだ。
日清戦争さなかの一八九四年十一月、彼はハワイの華僑百二十六名を組織して「興中会」を設立した。
その「章程」(規約)は「堂々たる華夏(中国)」が「異族(満州族)に軽んぜられている」現状を痛憤し、
そのもとで列強による中国分割の危機が切迫していることを強調して、「有志の士」の決起をうながしたものだった。
つづいて翌年二月、彼は香港で、「韃虜(清朝)を駆除して、中華を恢復し、合衆政府を創立する」
という目標を明確にかかげた「興中会総部」を創立した。
こうして清朝の打倒と共和制国家、すなわち「民の国」の樹立をめざす最初の革命団体が成立した。
興中会は同年秋、広州で、会党(民間の秘密結社)や失業兵士、水兵などを集めて、
最初の挙兵を敢行した。
だが密告によって計画が洩れ、失敗した(この時処刑された陸皓東が挙兵軍の旗として作った「青天白日旗」が、
一九二八年に中華民国の国旗と定められた)。
孫文はロンドン、カナダ、日本などに亡命して、革命理論を練りあげつつ、
華僑に働きかけて運動資金を集め、また中国革命への支援を外国人有志に訴えた。
しかし当時の孫文は、中国内外で、たんに無鉄砲なお尋ね者の海賊とみなされており、
さしたる成果を得られなかった。
引用清朝打倒の革命を最初に提唱したのは、
広東省香山県出身の孫文(逸仙、中山、一八六六〜一九二五)である。
かれはハワイと香港に革命団体・興中会をつくり、一八九五年、一九〇〇年と二度にわたり、
広東で武装蜂起をくわだてたが、いずれも失敗した。
初回には「大逆不道の乱臣賊子」とごうごうたる非難をあび、知人も顔をそむけた。
義和団戦争に乗じて起った二度目には、罵倒の声を聞かなかったばかりか、失敗を残念がってくれる人が多かった。
「前後をくらべてみると、天と地ほどの差であった」と、かれは述懐している。
義和団の闘争が清朝の正体をあばき出し、人びとの迷信を醒ましたのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.82この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「孫文」は「孫中山」「孫逸仙」とも表記されることがあります。 |