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宋慶齢 1893 − 1981
[ そう・けいれい ]
エピソード 1権力に敢然と立ち向かった宋慶齢は、実はシャイな女性だったそうだ。
彼女がドイツに長期滞在していたときのこと。当地で友達になった中国人女性について、その経済的窮状を知った慶齢、
それからは毎週この女性を訪れた。鶏、肉、野菜など、必ずどっさりの中華食材を抱えて。
「それは私の一週間分の食料としては十分なものでした。それは、彼女が私の生活難を救おうとした、
気の利いた方法でした。私はとても感謝しています」とはそのお友達ののちの言葉。
シャイな女性ならではの細やかな心配りが感じられる、悪くないエピソードだ。
エピソード
宋慶齢が保衛中国同盟の仲間、イスラエル・エプシュタインに書き送った手紙。
「親愛なるエピーおじさんへ ぼくは訓練を受けているところです。 ちょっと控えめに言うと、規律はちょっとばかり苦痛です。 でも、ぼくはそれを努めて気にかけないようにしています。 お嬢さんが本当にぼくのことを気に入ってくれているように見えるからです。 お嬢さんはぼくにたずねました。 『おまえは生まれてどのくらいになるの?』と。 『おまえはジステンバーや狂犬病の予防接種をしたことがあるの?』と。 お嬢さんはまもなく、予防接種のためにぼくを軍事代表団のところに連れていくと思います。 まもなくお目にかかれるのを楽しみにしています。 あなたを敬愛する子犬『少佐』 一九四三年五月一〇日」
知人から贈られた子犬になりきってこの手紙を書いたとき、「お嬢さん」はすでに多くの中国人から「国母」と敬愛されていた。
・・・おまえは生まれてどのくらいになるの?
語録
アメリカ人は、子供たちをいまでも有色人種の少年や少女といっしょに学校に行かせるのを望みません。
それでも自分たちはクリスチャンだと思っているのです。
孫博士が、アメリカよりロシアに親近感を抱いた一つの理由はそれです。
語録
私は裏切り者でも日和見主義者でもありませんので、政府の活動のいずれにも参加しません。
評
宋慶齢は、世界に芳香を放つ一輪の優美な花であるばかりでなく、あらゆる桎梏を噛み切ろうとする恐れを知らぬ獅子である。
ロマン・ロラン (作家)
評
孫夫人は、正しいと思ったことに固執することによって、また、そこから生まれた信念のために犠牲的な働きをすることによって、
他のいかなる革命家にも見られないほど、階級、階層を超えた中国人民に慕われた。
エドガー・スノー (ジャーナリスト)
評
彼女が、夫の理想のために進めている闘いは驚くべきものであり、
苦痛に満ちたものである。
その闘いを通じて、この卓越した女性のまばゆいばかりの人柄が、温かい人間性、議論の余地のない誠実さ、
すぐれた知性、人をだますことや偽善に対する憎しみとして光を放つのである。
中国の労働者の苦しみは、彼女自身の苦しみである。
かつて上海の工場火災で二百人以上の女子労働者が焼死したというニュースが伝えられた時、
彼女の眼に涙があふれたのを私は見たことをおぼえている。
エドガー・スノー (ジャーナリスト)
評
宋慶齢は文民であったけれども、革命的軍隊がなければ、前途の苦難に打ち勝って、人民や国家を守り抜き、
勝利をかちとることは空言となることをよく知っていた。
革命や愛国的な抗戦の危険の中で力を尽くし、生命を犠牲にした兵士や将校たちに対して、
彼女は深い尊敬の念と姉のような愛情を抱いていた。
彼女は自身も含めて、他のすべての人びとの働きは、これらの人びとの働きを補うものと考えていた。
彼らをどのように助ければいいかということが、彼女のつねづねの関心事だった。
イスラエル・エプシュタイン (ジャーナリスト)
評
この三姉妹の中で、孫夫人はもっとも親しみのもてる人柄であり、たぶんもっとも深みがある。
彼女は、いちばんものわかりがよく、愛すべき人であり、静かで落ち着いているが、
思慮はゆきとどいている。
ジョゼフ・W・スティルウェル (インド・ビルマ・中国方面司令官)
評
宋慶齢は、自分自身のことより、まず他の人たちのことを考えました。
これは、私たちがないがしろにしてはならない彼女からの遺産です。
私たちは、中国福利基金会を大切にしていました。中国福利基金会が私たちを大事にしていると感じたからです。
任徳燿 (劇作家)
引用宋慶齢は子供時代にさえ、偽善に対して強い嫌悪感を示したと伝えられている。
ずいぶん後のことであるが、彼女は、友人に、物欲があり野心的でもあったのに見せかけは道徳的な言動を好んだ美齢より、
富に対する追求を隠そうとしなかった率直な靄齢のほうが好きだと言っていたという。
総じて、慶齢はとても若いころには美齢を一番かわいがっていたが、
後になって一番失望した相手も美齢だった。
慶齢と美齢との相互の絆は、長い間とても強かった。 【中略】
慶齢の、後年の美齢に対する一貫した批判的な見方は、責任あるおとなとしての、
社会的な、あるいは政治的な状況に対する二人の異なった対応を通して一九二十年代の半ばから形成されていった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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