スターリン 1879 − 1953
ソ連共産党書記長、首相、革命家、大元帥 / ロシア
エピソード 11953年1月、ウイーン世界人民平和大会の帰途、
モスクワに立ち寄った宋慶齢は、
長年の友誼への感謝の気持ちから、女性らしい配慮で、
絹の刺繍の入った軽くてあったかい綿入れをスターリンにプレゼントしたいと考えた。
ところが、これは実現しなかった。
スターリンの衣服のサイズを、国家機密であるという理由で、教えてもらうことができなかったからである。
語録
もしもアメリカの飛行機がなければ、戦争に敗れたであろう。
引用スターリンは一八七九年十二月の生まれだから、ヒットラーよりも、ちょうど十歳年上である。
コーカサスの片田舎ゴーリという町の靴職人の子として彼は生まれ、レーニンが死んだ一九二四年一月には、党書記長の地位にあった。
レーニンは死ぬ一年ほど前に、口述で党へあてた事実上の遺書を作成していた。
そのなかで、彼はスターリンがあまりにも粗暴であり、トロツキーは有能だが、うぬぼれが強すぎると指摘していた。
レーニンは、スターリンが書記長の職を退き、中央委員の数をふやして、集団指導制をとるように希望していた。
しかし、スターリンは、レーニンの注意を守って反省することを条件に、レーニンの死後の党大会で書記長にとどまった。
はじめ、彼はコミンテルンの議長ジノヴィエフ、モスクワ・ソビエト議長カーメネフらと集団指導の形をとったが、
まず政敵トロツキーを追放し、ついで、ジノヴィエフ、カーメネフを蹴落とし、さらには、
ブハーリン、ルイコフ(レーニンの死後、人民委員会の議長をつとめた人物)を一九二九年ごろまでに片付けた。
一九三四年一月の党大会で、スターリンは完全な勝利者となった。
壇上の報告者たちはスターリンの指導をたたえ、偉大な指導者とか天才的な思想家とか卓越した理論家とか、
あらゆる時代をこえたあらゆる民衆のもっとも偉大な指導者、という形容を奉った。
三好徹 「夕陽と怒濤」
P.323この本を入手
引用スターリンはゴリの初等神学校を卒業して、トビリシ(グルジア共和国の首都)の高等神学校へ進みました。
成績がよかったので、母親は牧師として立身出世ができるとよろこんでいました。
しかし、スターリンは社会のしくみやはたらきに興味を持つようになって、
神学校在学中に禁じられていたフランスの作家ビクトル・ユゴー(一八〇二〜八五『レ・ミゼラブル』など)の作品を読んだりして、
とうとう五年もいた高等新学校を退学させられてしまいました。
神の世界を学ぶのをやめて、物質中心の考え“マルクス主義”に熱中したのです。
レーニンの書いたマルクス(一八一八〜八三)主義の論文を愛読し、トビリシで政党に加わって活動家になっていきました。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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