スターリン
1879 − 1953
ソ連共産党書記長、首相、革命家、大元帥 / ロシア
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エピソード 11953年1月、ウイーン世界人民平和大会の帰途、 モスクワに立ち寄った宋慶齢は、 長年の友誼への感謝の気持ちから、女性らしい配慮で、 絹の刺繍の入った軽くてあったかい綿入れをスターリンにプレゼントしたいと考えた。 ところが、これは実現しなかった。 スターリンの衣服のサイズを、国家機密であるという理由で、教えてもらうことができなかったからである。
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1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1917/03/15   二月革命 (皇帝ニコライ2世退位、ロマノフ朝滅亡)
1917/04/20   レーニン、プラウダに「4月テーゼ」を発表
1917/11/07   十月革命 (ソビエト政権成立)
1918/03/03   ブレスト・リトフスク条約調印 (ソビエト政府、独墺と講和)
1918/08/30   レーニン暗殺未遂事件
1919/03/02   コミンテルン創立大会
1920/04/25   ソビエト・ポーランド戦争勃発 (〜10/12)
1921/03/08   ソ連、新経済政策(ネップ)を採択 (ロシア共産党大会I)
1922/04/16   ラッパロ条約調印 (独ソ国交回復)
1922/12/30   ソ連邦成立
1924/01/21   ウラジミール・レーニン
1926/10/23   ソ連共産党中央委員会、トロツキーを政治局から追放
1928/10/01   ソ連、五ヵ年計画@開始
1934/09/18   ソ連、国際連盟加盟
1934/12/01   キーロフ(レニングラード・ソビエト議長)暗殺 (粛清開始)
1936/12/05   臨時ソ連邦ソビエト大会、スターリン憲法を採択
1939/05/12   ノモンハン事件 (第23師団独断でソ連軍と戦闘)
1939/08/23   独ソ不可侵条約締結
1939/09/01   ドイツ軍、ポーランド侵攻開始 (第二次世界大戦勃発)
1939/09/17   ソ連軍、ポーランド東部に侵攻開始
1939/11/03   ソ連軍、フィンランド侵攻開始 (ソ・フィン戦争勃発)
1939/12/14   国際連盟、ソ連を除名
1940/08/21   レオン・トロツキー
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
1940/11/12   ヒトラー・モロトフ(ソ連外相)会談 (ベルリン)
1941/04/13   日ソ中立条約調印
1941/05/06   スターリン、(ソ連)首相就任
1941/06/22   独ソ戦開始
1941/08/02   アメリカ、対ソ経済援助開始
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1941/12/08   ヒトラー、モスクワ攻撃放棄を指令 (撤退開始)
1943/02/02   スターリングラードのドイツ第6軍、全軍降伏
1943/04/13   ベルリン放送、カチン虐殺事件を発表 (遺体4000以上発見)
1943/11/28   テヘラン会談 (〜12/01)
1944/06/06   連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)
1944/10/11   ソ連軍、ドイツ国境を突破
1944/11/07   スターリン、日本を侵略国と見なすと声明
1945/02/04   ヤルタ会談 (〜02/11)
1945/04/05   ソ連、日ソ中立条約の不延長を通告
1945/05/07   ドイツ、無条件降伏 (ベルリン陥落)
1945/07/17   ポツダム会談 (〜08/02)
1945/08/08   ソ連、対日参戦 (08/09 満州侵攻開始)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/08/30   ドイツ管理理事会設置 (米・英・仏・ソ)
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1947/03/12   トルーマン・ドクトリン
1947/06/05   マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)発表
1947/10/05   コミンフォルム(欧州共産党情報局)設置
1948/06/24   ベルリン封鎖 (〜49/05/12)
1948/06/28   コミンフォルム、ユーゴスラビア共産党を除名
1949/04/04   NATO(北太平洋条約)調印
1949/10/01   中華人民共和国成立 (主席:毛沢東
1950/02/14   中ソ友好同盟相互援助条約調印 (モスクワ)
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
語録 もしもアメリカの飛行機がなければ、戦争に敗れたであろう。
引用スターリンは一八七九年十二月の生まれだから、ヒットラーよりも、ちょうど十歳年上である。 コーカサスの片田舎ゴーリという町の靴職人の子として彼は生まれ、レーニンが死んだ一九二四年一月には、党書記長の地位にあった。
レーニンは死ぬ一年ほど前に、口述で党へあてた事実上の遺書を作成していた。 そのなかで、彼はスターリンがあまりにも粗暴であり、トロツキーは有能だが、うぬぼれが強すぎると指摘していた。 レーニンは、スターリンが書記長の職を退き、中央委員の数をふやして、集団指導制をとるように希望していた。 しかし、スターリンは、レーニンの注意を守って反省することを条件に、レーニンの死後の党大会で書記長にとどまった。
はじめ、彼はコミンテルンの議長ジノヴィエフ、モスクワ・ソビエト議長カーメネフらと集団指導の形をとったが、 まず政敵トロツキーを追放し、ついで、ジノヴィエフ、カーメネフを蹴落とし、さらには、 ブハーリン、ルイコフ(レーニンの死後、人民委員会の議長をつとめた人物)を一九二九年ごろまでに片付けた。
一九三四年一月の党大会で、スターリンは完全な勝利者となった。 壇上の報告者たちはスターリンの指導をたたえ、偉大な指導者とか天才的な思想家とか卓越した理論家とか、 あらゆる時代をこえたあらゆる民衆のもっとも偉大な指導者、という形容を奉った。
引用スターリンはゴリの初等神学校を卒業して、トビリシ(グルジア共和国の首都)の高等神学校へ進みました。 成績がよかったので、母親は牧師として立身出世ができるとよろこんでいました。
しかし、スターリンは社会のしくみやはたらきに興味を持つようになって、 神学校在学中に禁じられていたフランスの作家ビクトル・ユゴー(一八〇二〜八五『レ・ミゼラブル』など)の作品を読んだりして、 とうとう五年もいた高等新学校を退学させられてしまいました。
神の世界を学ぶのをやめて、物質中心の考え“マルクス主義”に熱中したのです。 レーニンの書いたマルクス(一八一八〜八三)主義の論文を愛読し、トビリシで政党に加わって活動家になっていきました。
レーニンに初めて会ったのは一九〇五年、二十六歳のときです。 この年は日露戦争中でしたが、ロシアでは革命ののろしがあがっていました。 やがてレーニンに認められ、共産党の中で重要な地位につくようになったのです。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。