東郷 平八郎
1847 − 1934
[ とうごう・へいはちろう ]
連合艦隊司令長官、軍令部長、東宮御学問所総裁、元帥海軍大将
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エピソード 1日本海海戦のZ旗が上がったあと、旗艦「三笠」の艦橋にいた東郷は、 危険だからと参謀たちを司令塔に下がらせた。加藤秋山だけが傍らに残った。 戦いの間じゅう、彼はずっと同じ場所に立ち続けた。至近弾が水柱をつくるたびに、しぶきで艦橋はびしょぬれになる。 5時間を越える戦闘が終わったとき、「三笠」の艦橋は水びたしで、だが、東郷の二つの足が置かれていたところだけが乾いていたという。 真偽を確かめるすべはない。
・ 薩摩藩出身。
・ 薩英戦争に参加、戊辰戦争では戦艦「春日」に乗り組み、幕府戦艦と戦う。
・ イギリス留学後、「浪速」艦長として日清戦争に従軍。
・ 日露戦争では、連合艦隊司令長官として日本海海戦で完勝、日本を勝利に導く。
・ 「東洋のネルソン」の盛名を得て、のち元帥、東宮御学問所総裁。
・ 軍縮条約には終始否定的で、「艦隊派」の後ろ盾となる。死後、国葬。
1894/08/01   清国に宣戦布告 (日清戦争勃発)
1895/04/14   下関条約調印 (日清戦争終結)
1902/01/30   日英同盟@調印
1903/12/28   連合艦隊編成 (司令長官:東郷平八郎
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/02/06   連合艦隊、佐世保出航
1904/02/08   陸軍先遣隊、仁川上陸開始
1904/02/08   連合艦隊の駆逐艦隊、旅順口のロシア艦隊を夜襲攻撃
1904/02/09   仁川沖海戦
1904/02/24   旅順口閉塞作戦@
1904/03/27   旅順口閉塞作戦A
1904/04/25   ウラジオ艦隊、元山沖で陸軍輸送船「金州丸」を撃沈
1904/05/03   旅順口閉塞作戦B
1904/05/15   巡洋艦「春日」、「吉野」に衝突、「吉野」沈没
1904/05/15   戦艦「初瀬」「八島」、旅順沖で触雷、沈没
1904/06/15   ウラジオ艦隊、対馬海峡で常陸丸・和泉丸を撃沈
1904/08/10   黄海海戦
1904/08/14   蔚山沖海戦
1904/12/05   第三軍、二〇三高地占領
1905/01/02   旅順陥落
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/09/11   戦艦「三笠」、火災により沈没 (佐世保)
1905/10/23   海軍凱旋式 (東京湾)
1912/07/29   明治天皇崩御
1930/04/22   ロンドン海軍軍縮条約調印
1930/04/25   統帥権干犯問題 (犬養毅鳩山一郎が追及)
1930/06/10   加藤軍令部長、帷幄上奏で単独辞任 (統帥権干犯問題)
1930/10/03   財部海相辞任
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1933/09/27   軍令部令公示 (海軍軍令部条例廃止)
1934/05/30   東郷平八郎
引用東郷の履歴は風変りであった。 かれは薩摩藩士として最初藩の海軍に属し、「春日」乗組の三等士官として戊辰戦争に出征し、阿波沖海戦、宮古湾海戦に参加した。 宮古湾海戦では旧幕艦「回天」をもって斬りこんできた旧新撰組副長土方歳三らの海上突撃隊とたたかい、 終始艦尾の機関銃をあやつってこれを撃退した。
戦後、東京に出て英語をまなんだ。 かれは海軍をやめて工学関係の技師になりたいというのが志望だったらしい。 その旨を薩摩の先輩に相談すると、
―やはり海軍がよかろう。
と説得され、やがて英国留学を命ぜられた。 日本政府としてはこの青年をダートマスの海軍兵学校に留学させるつもりであったが、英国側がことわった。
そのかわり、テームズ河畔の商船学校に入り、水夫待遇で商船教育をうけた。 この学校は優秀な卒業生数人にかぎって海軍士官になれる道がひらかれており、多少の海軍教育もしていたから、 まったく無縁の学校でもなかった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。