高橋 是清
1854 − 1936
[ たかはし・これきよ ]
首相、蔵相、政友会総裁、日銀総裁
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エピソード 1調査中。
・ 東京都出身。幕府御用絵師の子。仙台藩足軽の養子に。留学生として渡米し苦学。
・ 帰国後、文部省、農商務省に入省、日銀入行。
・ 日銀副総裁のとき、日露戦争の戦費調達のため渡欧、外債募集に成功。
・ 日銀総裁就任ののち、山本内閣@の蔵相に就任、政友会に入党。
・ 以後、二・二六事件で暗殺されるまでに7度の蔵相就任を含め8度入閣。
・ 原首相暗殺後には、政友会総裁となり、蔵相兼任の首相に就任している。
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/02/17   閣議、外債募集方針を決定
1904/02/24   高橋日銀副総裁渡米
1904/05/10   ロンドン・ニューヨークで外債募集@
1904/11/10   ロンドン・ニューヨークで外債募集A
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1912/07/29   明治天皇崩御
1913/02/20   山本内閣@成立 (首相:山本権兵衛
1913/06/13   軍部大臣現役武官制廃止
1913/06/13   政府、行政整理案発表 (官吏6428人を整理)
1914/03/24   山本内閣@総辞職
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1918/09/29   原内閣成立 (首相:原敬
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1920/04/16   原首相、財界救済を言明
1921/11/04   原首相刺殺事件 (東京駅/犯人:中岡艮一)
1921/11/05   原内閣総辞職
1921/11/13   高橋内閣成立 (首相:高橋是清/全閣僚留任)
1921/11/25   皇太子摂政就任
1921/12/13   四ヵ国条約調印 (日英同盟廃棄)
1921/12/21   高橋是清、政友会総裁C就任
1922/02/06   九ヵ国条約調印
1922/02/06   ワシントン海軍軍縮条約調印
1922/06/06   高橋内閣総辞職
1923/09/01   関東大震災
1924/06/11   加藤(高)内閣(護憲三派内閣)成立 (首相:加藤高明
1925/04/22   治安維持法公布
1925/05/05   普通選挙法公布 (男子普通選挙)
1925/07/31   加藤(高)内閣(護憲三派内閣)総辞職
1925/08/02   加藤(高)内閣(憲政会単独内閣)成立 (政友会、政権を離脱)
1926/01/28   加藤(高)内閣総辞職
1927/04/20   田中(義)内閣成立 (首相:田中義一
1927/04/22   支払猶予令 (3週間のモラトリアム/蔵相:高橋是清
1928/06/04   満州某重大事件 (張作霖爆殺)
1928/06/29   治安維持法改正@
1929/07/02   田中(義)内閣総辞職
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1931/12/13   犬養内閣成立 (首相:犬養毅
1931/12/13   金輸出再禁止 (蔵相:高橋是清
1932/01/28   上海事変@勃発
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1932/05/16   犬養内閣総辞職
1932/05/26   斉藤内閣成立 (首相:斉藤実
1933/03/28   日本、国際連盟脱退
1933/04/22   滝川事件 (鳩山文相、滝川教授の辞職を京都帝大総長に要求)
1934/07/03   斉藤内閣総辞職
1934/07/08   岡田内閣成立 (首相:岡田啓介
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1936/02/26   二・二六事件
1936/02/28   岡田内閣総辞職
引用「語学なんざ、ばかでもできるのだ」
と、壇上の教師はいった。
「にわとりがときをつくる。そっくりまねてみろ。馬鹿ほどうまいはずだ」
といった。真之は苦笑して「ノボルさんよりもあしのほうがばかか」とささやいた。
教師は、おもしろい男だった。 この当時の日本人は英語という学科を畏敬し、ひどく高度なものにおもいがちであったのを、 そのようなかたちで水をかけ、生徒に語学をなめさせることによって語学への恐怖感をとりのぞこうとした。
教材は、パーレーの「万国史」だった。 この教師は、一ページをつづけさまに読み、しかるのちに訳し、そのあとそのページを生徒に読ませ、もう一度生徒に訳させる。 後年の語学教授法からみれば単純すぎるほどの教えかたであった。
教師は、まるい顔をしていた。
「まるでだるまさんじゃな」
子規がいったことが、たまたまこの教師の生涯のあだ名になった。 教師は、高橋是清といった。
高橋是清は明治、大正、昭和の三代を通じての財政家であり、 大正十年には総理大臣に信任されたことがあるが、その生涯の特徴は大蔵大臣としての業績であり、 とくに危機財政のきりぬけに腕をふるい、昭和九年八十一歳で何度目かの大蔵大臣になり、 同十一年八十三歳でいわゆる二・二六事件の兇弾にたおれた。
かれは日露戦争前後のころは日銀副総裁であったが、英国に駐在して戦費調達に奔走し、苦心のすえ八億二千万円の外債募集に成功したことが その生涯を通じての功績になった。
それが、このころは共立学校の教師として真之らに英語をおしえていた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。