高橋 是清 1854 − 1936
[ たかはし・これきよ ]
首相、蔵相、政友会総裁、日銀総裁
エピソード 1調査中。
引用「語学なんざ、ばかでもできるのだ」
と、壇上の教師はいった。
「にわとりがときをつくる。そっくりまねてみろ。馬鹿ほどうまいはずだ」
といった。真之は苦笑して「ノボルさんよりもあしのほうがばかか」とささやいた。
教師は、おもしろい男だった。
この当時の日本人は英語という学科を畏敬し、ひどく高度なものにおもいがちであったのを、
そのようなかたちで水をかけ、生徒に語学をなめさせることによって語学への恐怖感をとりのぞこうとした。
教材は、パーレーの「万国史」だった。
この教師は、一ページをつづけさまに読み、しかるのちに訳し、そのあとそのページを生徒に読ませ、もう一度生徒に訳させる。
後年の語学教授法からみれば単純すぎるほどの教えかたであった。
教師は、まるい顔をしていた。
「まるでだるまさんじゃな」
と子規がいったことが、たまたまこの教師の生涯のあだ名になった。
教師は、高橋是清といった。
高橋是清は明治、大正、昭和の三代を通じての財政家であり、
大正十年には総理大臣に信任されたことがあるが、その生涯の特徴は大蔵大臣としての業績であり、
とくに危機財政のきりぬけに腕をふるい、昭和九年八十一歳で何度目かの大蔵大臣になり、
同十一年八十三歳でいわゆる二・二六事件の兇弾にたおれた。
かれは日露戦争前後のころは日銀副総裁であったが、英国に駐在して戦費調達に奔走し、苦心のすえ八億二千万円の外債募集に成功したことが
その生涯を通じての功績になった。
それが、このころは共立学校の教師として真之らに英語をおしえていた。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(1)」
P.144この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
|