徳田 球一 1894 − 1953
[ とくだ・きゅういち ]
日本共産党書記長、衆議院議員
エピソード 1調査中。
引用徳田の指導者的な素質は、あくまでもその行動力にあり、
その行動の上にいささかも懐疑を残さないところにある。
彼のバイタリティには野牛のような勇猛性がある一方、人の微笑を誘うユーモア性をもっている。
彼はあくまでも陽性であった。
弾圧のきびしい時代には、とかく党員間に陰気な空気がはびこり、
意気銷沈しがちなのだが、こんな際に徳田のような陽気型の指導者は、みんなに勇気を与え、
感傷をけし飛ばしてしまう。
―松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.228この本を入手
引用彼は明治三十七年沖縄県那覇に生まれ、
鹿児島の七高に入ったが、中途退学した。
酔って地元の新聞社の社長に乱暴したためだ。
沖縄に帰ると、村の小学校の代用教員をしたり、郡役所の書記になったりした。
その後上京し、為替貯金局の官吏となり、のち、東京市役所の職員に変った。
日大の法科に籍はあったが、ほとんど講義には出ず、勤務が終ると、下宿で法律の勉強に取組んだ。
後年検挙されてから、彼のその時代の法律知識が法廷戦術にずいぶん役立っているし、
事実、弁護士の肩書があった。
堺や荒畑と知り合ったのは大正十年ごろからで、彼は山川均を中心とした水曜会に入った。
堺にすすめられてモスクワの極東民族大会に出席し、帰国してからは、
コミンテルンの指令で日本共産党の樹立にたずさわった。
この極東民族大会を機会に彼はモスクワに行き、スターリンから、
レーニンの「国家と革命」に関する講義を聞き、感激している。
松本清張 「昭和史発掘(2)」
P.239この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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