徳田 球一
1894 − 1953
[ とくだ・きゅういち ]
日本共産党書記長、衆議院議員
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エピソード 1調査中。
・ 沖縄県出身。苦学しながら日大夜間部に学び、弁護士。日大専門部法律学科卒。
・ 日本社会主義同盟結成に参加。極東民族大会に日本代表として出席。
・ 堺利彦、山川均、野坂参三らとともに日本共産党を設立。共産党事件で検挙される。
・ 労働農民党から総選挙に立候補するも落選。
・ 三・一五事件で逮捕され、以後、敗戦まで獄中生活を余儀なくされる。
・ 終戦により出獄し、日本共産党書記長に就任。衆議院議員。
・ マッカーサー指令で公職追放となり、以後、地下活動に入る。中国に亡命、北京で病死。
1922/07/15   日本共産党結成 (委員長:堺利彦/秘密結社)
1923/06/05   共産党事件 (堺利彦ら検挙)
1923/09/01   関東大震災
1928/03/15   三・一五事件 (共産党関係者一斉検挙)
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/10/10   徳田球一ら政治犯約500人釈放
1945/12/01   徳田球一、共産党書記長就任 (共産党再建大会)
1947/01/18   全官公庁労組共闘委員会、「2・1ゼネスト」を宣言
1947/01/31   マッカーサー、「2・1ゼネスト」中止を命令
1948/07/19   徳田書記長暗殺未遂事件
1950/01/06   コミンフォルム機関紙、野坂参三の平和革命論を批判
1950/01/19   日本共産党、「コミンフォルム機関紙の論評に関する決議」採択
1950/02/06   野坂参三自己批判 (「右翼日和見主義的誤りを犯した」)
1950/06/06   マッカーサー、吉田首相宛書簡で共産党幹部24人の公職追放を指令
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
引用徳田の指導者的な素質は、あくまでもその行動力にあり、 その行動の上にいささかも懐疑を残さないところにある。 彼のバイタリティには野牛のような勇猛性がある一方、人の微笑を誘うユーモア性をもっている。 彼はあくまでも陽性であった。
弾圧のきびしい時代には、とかく党員間に陰気な空気がはびこり、 意気銷沈しがちなのだが、こんな際に徳田のような陽気型の指導者は、みんなに勇気を与え、 感傷をけし飛ばしてしまう。
引用彼は明治三十七年沖縄県那覇に生まれ、 鹿児島の七高に入ったが、中途退学した。 酔って地元の新聞社の社長に乱暴したためだ。 沖縄に帰ると、村の小学校の代用教員をしたり、郡役所の書記になったりした。 その後上京し、為替貯金局の官吏となり、のち、東京市役所の職員に変った。 日大の法科に籍はあったが、ほとんど講義には出ず、勤務が終ると、下宿で法律の勉強に取組んだ。
後年検挙されてから、彼のその時代の法律知識が法廷戦術にずいぶん役立っているし、 事実、弁護士の肩書があった。
や荒畑と知り合ったのは大正十年ごろからで、彼は山川均を中心とした水曜会に入った。 にすすめられてモスクワの極東民族大会に出席し、帰国してからは、 コミンテルンの指令で日本共産党の樹立にたずさわった。 この極東民族大会を機会に彼はモスクワに行き、スターリンから、 レーニンの「国家と革命」に関する講義を聞き、感激している。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。