寺内 正毅
1852 − 1919
[ てらうち・まさたけ ]
首相、陸相、参謀次長、教育総監、朝鮮総督、元帥陸軍大将、寺内寿一の父、「ビリケン(非立憲)」
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エピソード 1調査中。
・ 山口県出身。長州藩士の三男。幼少にして御楯隊隊士として幕長戦争に従軍。
・ 戊辰戦争は箱館まで転戦。維新後フランス式歩兵術を修め、陸軍士官として累進。
・ 西南戦争に従軍、負傷により右手の自由を失う。
・ フランス留学後、陸軍士官学校長、教育総監、参謀次長を歴任。
・ 桂内閣@で陸相となり、日露戦争勝利に尽力。
・ 戦後、陸相のまま韓国統監を兼務、韓国併合で、初代朝鮮総督。
・ 第一次世界大戦のさ中に首相就任。シベリア出兵を行ない、米騒動総辞職
1894/08/01   清国に宣戦布告 (日清戦争勃発)
1895/04/14   下関条約調印 (日清戦争終結)
1901/06/02   桂内閣@成立 (首相:桂太郎
1902/01/30   日英同盟@調印
1903/12/30   閣議、対清・対韓政策を決定
1904/02/04   御前会議、対露開戦を決定
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/02/11   大本営設置
1904/06/20   満州軍総司令部設置 (総司令官:大山巌/総参謀長:児玉源太郎
1905/01/02   旅順陥落
1905/03/01   奉天会戦 (〜03/10)
1905/04/21   対露講和条件を閣議決定
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/12/21   桂内閣@総辞職
1906/01/07   西園寺内閣@成立 (首相:西園寺公望
1906/11/26   南満州鉄道株式会社(満鉄)設立 (総裁:後藤新平
1907/07/24   日韓協約B調印
1907/07/30   日露協約@調印
1908/07/04   西園寺内閣@総辞職
1908/07/14   桂内閣A成立 (首相:桂太郎
1909/10/26   伊藤博文射殺事件
1910/05/30   寺内正毅を韓国統監に任命 (陸相兼任)
1910/08/22   韓国併合 (日韓条約調印)
1910/10/01   朝鮮総督府設置 (朝鮮総督:寺内正毅
1911/01/18   幸徳秋水ら24名に死刑判決 (大逆事件)
1911/08/25   桂内閣A総辞職
1912/07/29   明治天皇崩御
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1916/10/09   寺内内閣成立 (首相:寺内正毅
1917/01/20   西原借款開始 (段祺瑞政権支援)
1917/06/02   寺内首相、3党首に臨時外交調査会委員就任を要請
1917/11/02   石井・ランシング協定
1918/08/02   シベリア出兵宣言
1918/08/03   米騒動 (富山県中新川郡西水橋町→全国に波及)
1918/09/21   寺内内閣総辞職
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1919/11/03   寺内正毅
引用寺内というのは軍事的才能はあまりなく、実戦の経験もほとんどなく、軍政家の位置にありながら、 陸軍の将来を見通しての体質改善ということもしなかった。 ただ部内人事は上手であり(むろん藩閥的発想によるものだが)、さらに書類がすきで、事務家としては克明であった。
引用「君は重箱のすみをせせるような男だ」
と、同郷の児玉源太郎が寺内をそうようにからかったことがあるが、寺内のこの性癖は全陸軍に知られていた。 この点、おなじ長州人の乃木希典に酷似しているが、乃木とのちがいは、乃木は極端な精神主義で、 寺内は偏執的なほどの規律好きという点にあり、いずれもリゴリズムという点ではかわりはない。 あるいは長州人のいくつかの性格の型にこの種の系列があるのであろう。 たれかの言葉に、精神主義と規律主義は無能者にとっての絶好の隠れ蓑である、ということがあるそうだが、 寺内と乃木についてこの言葉で評し去ってしまうのは多少酷であろう。 かれらは有能無能である以前に長州人であるがために栄進した。 時の勢いが、かれらを栄進させた。 栄進して将領になった以上、その職責相応の能力発揮が必要であったが、かれらはその点で欠けていた。 欠けている部分について乃木は自閉症的になった。 みずから精神家たろうとした。 乃木は少将に昇進してから人変わりしたように精神家になったのは、そういう自覚があったからであろう。 乃木がみずからを閉じこめたのに対し、寺内は他人を規律のなかに閉じこめようとした。
秋山好古が明治十年、陸軍士官学校に入ったとき、寺内正毅は大尉で、士官学校の生徒隊長であった。 そのころ寺内は士官学校にちかい土手三番町に住んでいたが、かれは当時の定刻に学校から退出しても、 そのあと自宅の窓から双眼鏡で校舎をのぞくのが日常の作業になっていた。 かれにとっては生徒は規律の中の囚人であり、囚人どもが行儀よく自習しているかどうかをスパイ同然の方法で見張ることが教育であった。 かれは夫人に対しても同様であった。 その夫人が襖をあけて出入りする動作をじっと見、すこしでも不行儀なふるまいがあると、客の前でも大声で叱った。 徹底した他律者であった。
かれは西南戦争で右腕に負傷し、このため軍隊指揮官はやったことがなく、教育と軍政畑ばかりにいた。 陸軍大臣になってからなにかの用事で士官学校にやってきたことがあるが、 校門に「陸軍士官学校」と陽刻された金文字の看板が青さびて光沢を失っているのを発見した。 重大な発見であった。 かれはすぐ校長の某中将をよびつけ、大いに叱った。 その叱責の論理は規律主義者が好んで用いる形式論理で、
「この文字はおそれ多くも有栖川宮一品親王殿下のお手に成るものである」からはじまる。 「しかるをなんぞや、この手入れを怠り、このように錆を生ぜしめ、ほとんど文字を識別しかねるまでに放置しているとは。 まことに不敬の至りである。 さらにひるがえって思えば本校は日本帝国の士官教育を代表すべき唯一の学校であるにもかかわらず、 その扁額に錆を生ぜしめるとは、ひとり士官学校の不面目ならず、わが帝国陸軍の恥辱であり、 帝国陸軍の恥辱であるということは、わが大日本帝国の国辱である」
と、説諭した。この愚にもつかぬ形式論理はその後の帝国陸軍に遺伝相続され、 帝国陸軍にあっては伍長にいたるまでこの種の論理を駆使して兵を叱責し、みずからの権威をうちたてる風習ができた。 逆に考えれば寺内正毅という器にもっとも適した職は、伍長か軍曹がつとめる内務班長であったかもしれない。 なぜならば、寺内陸相は日露戦争前後の陸軍のオーナーでありながら、陸軍のためになにひとつ創造的な仕事をしなかったからである。
その点については、彼を賞めるために書かれた「元帥寺内伯爵伝」(大正九年発行・元帥寺内伯爵伝記編纂所刊)ですら、 やむなく、「伯は創造的の人というよりも寧ろ整理的の人であった」と、須永武義(陸軍中将)のことばをかかげている。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。