ハリー・S・トルーマン 1884 − 1972
大統領(民主党)、副大統領、上院議員 / アメリカ
エピソード 1アメリカの副大統領というのは、ほとんど名誉職に近いものであるらしい。
トルーマン副大統領もそうで、12年以上大統領の座に君臨したF・ルーズベルトが病死するや、一躍脚光を浴びた彼は、
閣僚たちからはかなり不安な眼差しで見つめられている。
家族や周囲の者たちもそうだったようで、なんとなく暗い雰囲気に包まれ、大統領就任を祝福してももらえなかった。
娘マーガレットによれば、居心地の悪くなった彼は、「私は何か悪いことをしたか」とつぶやいたという。
引用一八八四年五月八日、ミズーリ州西部のインディペンデンス市の郊外ラマールの農家に生まれたトルーマンは、
若いときから大きな夢は抱いていなかった。
カリスマ的風貌でもなく、ひどい近眼で読書を通じて歴史を知ることが趣味であり、
唯一の希望はウエストポイント(陸軍士官学校)に入ることだった。
だが、視力が弱かったせいで落とされている。
カンザスシティ大学に入ったが、あまり行かなかったという。
第一次大戦時は砲兵中尉としてフランス戦線に従軍しているがとくに殊勲を上げたわけではない。
戦後、幼友達だったエリザベス・ヴァジニア・ウォレスと結婚、カンザスシティに移り住み、小間物屋を始めた。二人の間には一女。
その頃から国内政治に少しずつ関心を持ち、民主党内で政治運動を始めた。
まず一九二二年、ジャクソン郡の判事に選出され、地元の問題解決に当たった。
そして大恐慌後にはローズヴェルトのニューディール政策に共鳴し、三四年にミズーリ州の上院議員に選出された。
第二次大戦中は上院で軍部のスキャンダルを調査する委員となり、軍事費の無駄遣い、腐敗を摘発して、
一五〇億ドルの軍事費節約に貢献したといわれている。
四四年の大統領選挙の際には、すでに民主党内でかなりの影響力をもっていた。
副大統領になる気はなかったが、党内で副大統領候補の人選で対立が起こり、結局妥協候補として、
トルーマンが選ばれたのだった。
だから戦時中の副大統領とはいえ、国際問題にはほとんどタッチしなかった。
ところが三ヵ月しか経っていないときに、大統領が突然亡くなったのである。
トルーマンはこのときの心境を後に記者団に「月と星と惑星が一挙に頭の上に落ちてきたような衝撃だった」と語っている。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.136この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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