宇垣 一成
1868 − 1956
[ うがき・かずしげ ]
外相、陸相、陸軍次官、参謀本部作戦部長、陸軍大学校校長、陸軍大将、参議院議員
一覧 (ア) 本を入手【内閣成立史】
エピソード 1クーデター計画(三月事件)に乗っかってまで 首相になりたかった宇垣だが、 キングメーカー西園寺にとっても宇垣と近衛は最後のタマだったらしい。 一般の人気も抜群で、公職追放解除後の参議院選挙(1953)では、全国区トップ当選を果たしている。 自他ともに認める首相候補は候補のまま終わった。「政界の惑星」と呼ばれるゆえんである。
・ 岡山県出身。陸士卒、陸大卒。ドイツ駐在後、要職を歴任。
・ 軍務局軍事課長として2個師団増設を推進。
・ 参謀本部作戦部長、陸大校長、第10師団長、教育総監部本部長、陸軍次官を歴任。
・ 清浦内閣で陸相に就任、加藤(高)若槻@両内閣に留任。宇垣軍縮を断行。
・ 浜口内閣で陸相に再任。首相就任を望み、三月事件に関与。
・ 広田内閣総辞職後には、組閣の大命を拝受するが、陸軍の妨害に遭い、組閣断念
・ 近衛内閣@の外相に就任するも、日中戦争終結の道を見出せず辞任。
・ 戦後、公職追放。追放解除後、参議院選挙に立候補、全国区でトップ当選を果たす。
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1924/01/07   清浦内閣成立 (首相:清浦奎吾
1924/01/10   護憲運動A開始
1924/06/07   清浦内閣総辞職
1924/06/11   加藤(高)内閣(護憲三派内閣)成立 (首相:加藤高明
1925/04/22   治安維持法公布
1925/05/01   陸軍軍縮計画(宇垣軍縮)発表
1925/05/05   普通選挙法公布 (男子普通選挙)
1926/01/28   加藤(高)内閣総辞職
1926/01/30   若槻内閣@成立 (首相:若槻礼次郎/全閣僚留任)
1926/03/04   中野正剛、陸軍機密費問題で田中総裁(政友会)を追及
1927/04/17   若槻内閣@総辞職
1929/07/02   浜口内閣成立 (首相:浜口雄幸
1930/01/11   金解禁 (蔵相:井上準之助
1930/04/22   ロンドン海軍軍縮条約調印
1930/04/25   統帥権干犯問題 (犬養毅鳩山一郎が追及)
1930/11/14   浜口首相狙撃事件 (東京駅/犯人:佐郷屋留雄)
1931/03/17   三月事件 (陸軍によるクーデター未遂)
1931/06/17   朝鮮総督に宇垣一成を任命
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1936/02/26   二・二六事件
1937/01/25   宇垣一成に組閣命令
1937/01/29   宇垣内閣流産
1937/06/04   近衛内閣@成立 (首相:近衛文麿
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1938/01/16   近衛声明@ (国民政府を相手にせず)
1938/04/01   国家総動員法公布
1938/05/26   近衛内閣@改造
1938/11/03   近衛声明A (東亜新秩序建設)
1938/12/22   近衛声明B (近衛三原則)
1939/01/04   近衛内閣@総辞職
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1946/11/03   日本国憲法公布
引用宇垣の性格は、潔癖で傲慢、過剰なほどの自信家だが、 時流や周囲の状況に極めて敏感な現実主義という一面があった。
引用農民階級の出である宇垣にとって、明治維新によって、 すべてが一変した新時代に生まれ合わせたことは幸運であった。
四歳になった明治五年一月、士農工商の身分制度が廃止され、四月には、庄屋・名主・年寄の制度も廃止となる。 そして、八月になると、国民皆学の義務教育制度が定められ、農民階級の子弟である宇垣も地元の小学校へ入ることが出来た。
近世以来、備前岡山は学問の盛んなことで知られているから、名主の子弟であり、頭脳明晰でもあるこの少年には、 それなりに学問の機会はあったろうが、武士の時代であれば、その様相はよほど違っていたはずである。
小学校を卒業した宇垣は、十四歳で、母校の代用教員になり、教員検定試験に合格して、明治十七年、 十六歳で、上道郡御休村の小学校長になったというから驚く。
十代の校長の仕事ぶりは想像もつかないが、正式教員の数がまだ極端に少なかった時代が生んだ珍現象といえる。
十代半ばにして、山陽の田舎村でのこの体験は、宇垣一成の人間形成に、少なからず影響を与えたと思われるが、 明治維新から十数年を経て、ようやく新体制が確立されつつあり、エネルギーに満ち溢れた青春の時代であったといえる。
こうした時代の若者は、いつの場合も、青雲の志を抱いて雄飛するものである。 まして、士農工商の身分制度はなくなったとはいえ、「士族」と「平民」に分かれて、身分区分は残っていた。 意識としても制度としても、その差は大きかった。
宇垣家は平民であり、戸籍や公式文書にはかならず「平民」と明記しなければならず、 その劣等意識を跳ね返すには、笈を負って、新天地で勝負するしかない。 交通機関といえば、まだ山陽本線も開通していなかったが、十八歳の宇垣は、単身上京し、二十歳になって、 陸軍士官学校の試験に合格して、明治二十一年十二月、入校する。
明治七年(一八七四年)、陸軍士官学校条例が制定され、東京市ヶ谷に校舎を新設して、翌年、 第一期生が入校し、第十一期まで続くが、宇垣が入校するのは、明治二十年(一八八七年)、 士官候補生制度が改正され、将校生徒教育が本格化した新制の陸軍士官学校である。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。