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宇垣 一成 1868 − 1956
[ うがき・かずしげ ]
外相、陸相、陸軍次官、参謀本部作戦部長、陸軍大学校校長、陸軍大将、参議院議員
エピソード 1クーデター計画(三月事件)に乗っかってまで
首相になりたかった宇垣だが、 キングメーカー西園寺にとっても宇垣と近衛は最後のタマだったらしい。
一般の人気も抜群で、公職追放解除後の参議院選挙(1953)では、全国区トップ当選を果たしている。
自他ともに認める首相候補は候補のまま終わった。「政界の惑星」と呼ばれるゆえんである。
引用宇垣の性格は、潔癖で傲慢、過剰なほどの自信家だが、
時流や周囲の状況に極めて敏感な現実主義という一面があった。
升本喜年 「軍人の最期」
P.98この本を入手
引用農民階級の出である宇垣にとって、明治維新によって、
すべてが一変した新時代に生まれ合わせたことは幸運であった。
四歳になった明治五年一月、士農工商の身分制度が廃止され、四月には、庄屋・名主・年寄の制度も廃止となる。
そして、八月になると、国民皆学の義務教育制度が定められ、農民階級の子弟である宇垣も地元の小学校へ入ることが出来た。
近世以来、備前岡山は学問の盛んなことで知られているから、名主の子弟であり、頭脳明晰でもあるこの少年には、
それなりに学問の機会はあったろうが、武士の時代であれば、その様相はよほど違っていたはずである。
小学校を卒業した宇垣は、十四歳で、母校の代用教員になり、教員検定試験に合格して、明治十七年、
十六歳で、上道郡御休村の小学校長になったというから驚く。
十代の校長の仕事ぶりは想像もつかないが、正式教員の数がまだ極端に少なかった時代が生んだ珍現象といえる。
十代半ばにして、山陽の田舎村でのこの体験は、宇垣一成の人間形成に、少なからず影響を与えたと思われるが、
明治維新から十数年を経て、ようやく新体制が確立されつつあり、エネルギーに満ち溢れた青春の時代であったといえる。
こうした時代の若者は、いつの場合も、青雲の志を抱いて雄飛するものである。
まして、士農工商の身分制度はなくなったとはいえ、「士族」と「平民」に分かれて、身分区分は残っていた。
意識としても制度としても、その差は大きかった。
宇垣家は平民であり、戸籍や公式文書にはかならず「平民」と明記しなければならず、
その劣等意識を跳ね返すには、笈を負って、新天地で勝負するしかない。
交通機関といえば、まだ山陽本線も開通していなかったが、十八歳の宇垣は、単身上京し、二十歳になって、
陸軍士官学校の試験に合格して、明治二十一年十二月、入校する。
明治七年(一八七四年)、陸軍士官学校条例が制定され、東京市ヶ谷に校舎を新設して、翌年、
第一期生が入校し、第十一期まで続くが、宇垣が入校するのは、明治二十年(一八八七年)、
士官候補生制度が改正され、将校生徒教育が本格化した新制の陸軍士官学校である。
升本喜年 「軍人の最期」
P.101この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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