山本 権兵衛
1852 − 1933
[ やまもと・ごんのひょうえ ]
首相(@A)、海相、海軍次官、海軍軍務局長、海軍大将
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エピソード 11913年2月10日は決戦の日。 帝国議会が再開され、ついに閥族の巨頭、桂首相護憲運動@が激突する。 その朝、邸前で馬車からさっそうと降り立ったのが海軍の重鎮、山本権兵衛。 単身乗り込んで桂首相に辞職を勧告すると、その足で、政友会本部に西園寺を訪ね、激励。 おかげで、決戦を前に政友会は大いに盛りあがったという。
・ 鹿児島県出身。薩摩藩士の次男。
・ 戊辰戦争従軍後、昌平黌、開成所、海軍兵学寮に学ぶ。
・ 海軍少尉として世界各地を周航、帰国後、「高雄」「高千穂」艦長などを歴任。
・ 大臣官房主事として西郷従道海相の全幅的信頼を得て累進。
・ 日清戦争では、海軍軍務局長として海軍を切り回す。
・ 海軍次官を経て、山県内閣Aの海相に就任。伊藤C、桂@の各内閣に留任。
・ 日露開戦にあたっては「文明の代表者」たるべきことを訓示。
・ 日露戦争中も海相の重責を担い、戦後、戦功により伯爵。
・ 護憲運動@に理解を示し、大正政変後に首相就任。
・ 軍部大臣現役武官制廃止などを断行するも、シーメンス事件内閣総辞職、予備役。
・ 関東大震災の余震が続く中、2度目の首相就任。虎の門事件総辞職
1894/08/01   清国に宣戦布告 (日清戦争勃発)
1895/04/14   下関条約調印 (日清戦争終結)
1900/10/19   伊藤内閣C成立 (首相:伊藤博文
1901/05/03   伊藤内閣C総辞職
1901/06/02   桂内閣@成立 (首相:桂太郎
1903/12/28   連合艦隊編成 (司令長官:東郷平八郎
1903/12/30   参謀本部・軍令部首脳会議、陸海軍共同作戦計画を決定
1904/02/04   御前会議、対露開戦を決定
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/08/10   黄海海戦
1904/08/14   蔚山沖海戦
1905/01/02   旅順陥落
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/12/21   桂内閣@総辞職
1912/07/29   明治天皇崩御
1913/02/10   護憲派の民衆、議会を包囲 (桂首相、総辞職を決意)
1913/02/11   桂内閣B総辞職 (大正政変)
1913/02/19   政友会議員総会、山本内閣@支持を決定
1913/02/20   山本内閣@成立 (首相:山本権兵衛
1913/06/13   軍部大臣現役武官制廃止
1913/06/13   政府、行政整理案発表 (官吏6428人を整理)
1914/01/23   シーメンス事件発覚 (島田三郎、国会で海軍高官の収賄を追及)
1914/03/24   山本内閣@総辞職
1914/05/11   海軍人事大異動発令 (山本前首相斉藤前海相を予備役に編入)
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1923/09/01   関東大震災
1923/09/02   山本内閣A成立 (首相:山本権兵衛
1923/09/16   甘粕事件 (犯人:甘粕正彦
1923/12/27   虎の門事件 (摂政宮襲撃/犯人:難波大助)
1923/12/29   山本内閣A総辞職
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1933/12/08   山本権兵衛
引用山本権兵衛について、【中略】 かれは戊辰戦争のころは薩摩の陸兵として従軍し、北越から東北へ転戦した。
戦乱がおわったあと、東京へ出てきたが、やることがないため相撲とりになろうとし、 当時の横綱陣幕久五郎のもとに入門をたのみに行った。 もっとも、これはことわられた。 権兵衛は鹿児島城下でくらしていた少年のころから相撲が得意で、「花車」というシコ名までもっていたのである。
そのあと、郷党の総帥である西郷隆盛に説諭され、西郷の紹介で勝海舟のもとに行って、 海軍の話をきいたりして、当時築地にできたばかりの海軍兵学寮に入ったが、どちらかといえば海軍というものをあまり好きではなかったらしい。
海軍兵学寮では、この当時の薩摩の若者の風で、けんかばかりをした。 学科は数学が得意で、実科はとくにマストのぼりが得意だった。
少尉補になってから、ドイツ軍艦ヴィネタ号にあずけられ、ついでおなじくドイツ軍艦ライプチッヒ号にあずけられ、 乗組期間中に任官した。
戊辰戦争の生き残りだから、多少齢をくっていて、任官は明治十年、すでに二十六歳になっていた。
山本権兵衛が、ドイツの軍艦ライプチッヒ号に乗りこんで海軍修業をしていたころつまり明治十年ごろのドイツ海軍というのは、 たいしたものではなかった。
「船の運用は大したものだったが、戦術とか用兵とかいう方面はひどく遅れていた」
と、権兵衛はのちに語っている。
艦内で、戦術講義がある。 その講義内容は貧弱で、陸軍戦術をまね、それの翻訳調であったり、 海軍独特の行動を説明するにしても陸軍の例をひいて説明した。 ドイツはあくまでも陸軍国であり、この国が大海軍建設にのりだすのは、明治三十年代になってからである。
「そいつは、こうじゃありませんか」
と、権兵衛は質問ずきで、一つ問題をつきつめ、しばしば教官と議論になってしまうことがあったが、 戦術教官は決して不快がらず、むしろ権兵衛の頭脳を畏敬するところがあった。 他の士官たちも、権兵衛に一目おいた。 その理由のひとつは権兵衛は少年兵として戊辰戦争に参加したという、いわば実弾のなかをくぐっただけに、 戦場の諸問題を実感とともに語ることができる。
「権兵衛は、勇士である」
と、ドイツ人たちのたれもがいった。
【中略】
その後十年ほどのあいだでの権兵衛の経歴は、他の海軍士官とかわりはない。 軍艦の分隊長をしたり、副長をつとめたり、輸入軍艦の回航委員をつとめたり、艦長に任じられたりしたが、 かれの運命と日本海軍の運命がかわるのは、明治二十年、三十六歳で海軍大臣の伝令使(副官)になってからである。 当時、海軍少佐であった。
このあたりから、軍政を担当した。 もっとも担当中も、高雄や高千穂の艦長として海に出たりしていたが、いよいよそういう彼が陸に腰をすえるのは、 明治二十四年、四十歳、海軍大佐のとき、海軍大臣の「官房主事」というものになってからである。
通称、
「海軍主事」
といわれた。日本海軍の作り直しともいうべき大仕事の辣腕をふるうのは、このときからである。
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