吉田 茂
1878 − 1967
[ よしだ・しげる ]
首相(@AB/C/D)、外相、外務次官、駐英大使、自民党総裁、牧野伸顕の女婿
一覧 (ヤ) 本を入手戸川猪佐武著
エピソード 1 外交官時代の吉田は、何か外交問題が持ちあがると、独自の対策プランを考えてはそれをあちこちで自信まんまんに主張した。 その強引なアピールは、聞かされる側にとってはかなり迷惑。 ある日、ある友人がこれを本人に注意した。そのときの吉田の反論。 そりゃそうさ。おれがこしらえた案は、この世で最高だと思い込めばこそ、それに全力をあげるんだ。 二番め、三番め、二流、三流の案だと思えば、おれ自身が阿呆らしくなって、やる気がなくなるよ。 ―だってさ。ふるってるふるってる。
・ 土佐自由党、竹内綱の五男として東京に生まれ、貿易商吉田健三の養子となる。
・ 東京帝大卒業後、外務省入省。岳父は牧野伸顕
・ 対華21ヵ条要求に反対。
・ 奉天総領事として田中(義)内閣東方会議に出席。満州経営には積極的姿勢を示す。
・ 広田内閣では、陸軍の干渉に遭い、外相の座を逸する。
・ 駐英大使を最後に外務省を退官。
・ 戦時体制が共産主義体制への接近をもたらすと天皇に警告。
・ 親英米派と目され、戦時中、憲兵隊に逮捕された経験を持つ。
・ 戦後、東久邇宮内閣の外相。GHQとの折衝にあたる。
・ 東久邇宮内閣総辞職後、外務省の先輩幣原喜重郎を擁立し、幣原内閣にも留任。
・ 公職追放となった鳩山一郎の後を引き受けて日本自由党総裁首相となる
・ 以後、片山芦田内閣の一時期を除き、5次にわたって内閣を組織する。
・ 第二次内閣で佐藤栄作を、第三次内閣で池田勇人を閣僚に抜擢するなど、官僚を重用。
・ ドッジ・ラインを実施、朝鮮特需で経済復興を果たす。
・ 警察予備隊創設、単独講和、日米安保を推進、軽軍備による独立を成し遂げる。
・ 独立後、反吉田の気運の高まりの中で、指導力を失い、内閣総辞職、勇退。
1915/01/18   対華21ヵ条要求 (外相:加藤高明
1927/06/27   東方会議開催 (対中政策決定)
1936/02/26   二・二六事件
1936/03/06   陸軍(陸相予定者寺内寿一)組閣干渉 (自由主義者の排除を要求)
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/04/15   憲兵隊、吉田茂を逮捕
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/08/17   東久邇宮内閣成立 (首相:東久邇宮稔彦/無任所相:近衛文麿
1945/08/30   マッカーサー厚木到着
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1945/09/03   重光・マッカーサー会談 (軍政中止)
1945/09/17   重光外相辞任 (後任:吉田茂
1945/09/27   天皇、マッカーサーを訪問 (会談@)
1945/10/04   GHQ、「自由主義化」を指令
1945/10/05   東久邇宮内閣総辞職
1945/10/09   幣原内閣成立 (首相:幣原喜重郎
1945/10/11   マッカーサー、幣原首相に憲法改正と5大改革を要求
1946/01/01   天皇、人間宣言 (神格化否定の詔書)
1946/01/04   GHQ、軍国主義者の公職追放などを指令
1946/01/13   幣原内閣改造
1946/04/22   幣原内閣総辞職
1946/05/03   幣原首相、後継首相に鳩山一郎(自由党総裁)を推薦
1946/05/04   GHQ、鳩山一郎(自由党総裁)の公職追放を通達
1946/05/14   吉田茂、自由党総裁就任を受諾
1946/05/19   食糧メーデー (飯米獲得人民大会開催)
1946/05/21   吉田・マッカーサー会談 (「日本人は一人も餓死させない」)
1946/05/22   吉田内閣@成立 (首相:吉田茂
1946/10/08   復興金融金庫法公布
1946/11/03   日本国憲法公布
1946/12/27   閣議、傾斜生産方式を決定
1947/01/01   吉田首相、ラジオで一部労働運動指導者を「不逞の輩」と非難
1947/01/31   吉田内閣@改造
1947/01/31   マッカーサー、「2・1ゼネスト」中止を命令
1947/05/20   吉田内閣@総辞職
1947/05/28   自由党、連立から離脱
1948/03/15   民主自由党結成 (自由党に同志クラブが合流/総裁:吉田茂
1948/10/19   吉田内閣A成立 (首相:吉田茂/官房長官:佐藤栄作
1948/11/30   国家公務員法改正公布
1948/12/23   衆議院、内閣不信任案可決 (→衆議院解散)
1949/02/16   吉田内閣B成立 (首相:吉田茂
1949/03/07   ドッジ、経済安定9原則実施について声明 (ドッジライン)
1949/04/04   団体等規正法公布
1949/04/25   1ドル360円の単一為替レート実施
1949/07/06   下山事件 (下山定則国鉄総裁、轢死体で発見)
1949/07/15   三鷹事件 (無人電車暴走)
1949/08/17   松川事件 (旅客列車転覆)
1950/03/01   自由党結成 (民主自由党と民主党連立派の合同/総裁:吉田茂
1950/04/25   池田蔵相ら渡米 (05/22 帰国)
1950/05/03   吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難
1950/05/06   吉田内閣B改造@
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
1950/06/28   吉田内閣B改造A
1950/08/10   警察予備隊令公布
エピソード 候補者たちはふつう真冬の選挙でもコートを着ない。ところが吉田は着たまま街頭に立ち、演説をした。 聴衆の中から「外套を脱げ」とヤジが飛んだ。吉田はこれをダジャレで切り返した。いわく、これがホントの外套演説。 ウケる人にはウケ、そうでない人にはウケなかったという。さもありなん。 支持者には頼もしいユーモリストと映っただろうが、反対者にとってはいかにも憎ったらしく感じられたことだろう。 このとき国民の多くは、なんでもGHQの言いなりになるイエスマンではなく、頼りになるリーダーを求めていた。 この総選挙で吉田民自党は大勝した。
引用竹内の五男として茂が生まれたのは明治十一年(一八七八)九月二十二日で、二歳のときに横浜市の貿易商吉田健三の養子に入った。
吉田茂が東大を卒業し、外交官試験に通ったのは、明治三十九年(一九〇六)である。 外務省でのキャリアは、奉天の領事館補を振り出しに、ロンドン、イタリア、安東、本省文書課長、済南、 再びロンドン(このときは一等書記官)、天津、奉天(総領事)、外務次官、 イタリア大使―である。 そのあとが、三度めのロンドン―イギリス大使という順序である。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。