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吉田 茂 1878 − 1967
[ よしだ・しげる ]
エピソード 1
外交官時代の吉田は、何か外交問題が持ちあがると、独自の対策プランを考えてはそれをあちこちで自信まんまんに主張した。
その強引なアピールは、聞かされる側にとってはかなり迷惑。
ある日、ある友人がこれを本人に注意した。そのときの吉田の反論。
そりゃそうさ。おれがこしらえた案は、この世で最高だと思い込めばこそ、それに全力をあげるんだ。
二番め、三番め、二流、三流の案だと思えば、おれ自身が阿呆らしくなって、やる気がなくなるよ。
―だってさ。ふるってるふるってる。
エピソード
候補者たちはふつう真冬の選挙でもコートを着ない。ところが吉田は着たまま街頭に立ち、演説をした。
聴衆の中から「外套を脱げ」とヤジが飛んだ。吉田はこれをダジャレで切り返した。いわく、これがホントの外套演説。
ウケる人にはウケ、そうでない人にはウケなかったという。さもありなん。
支持者には頼もしいユーモリストと映っただろうが、反対者にとってはいかにも憎ったらしく感じられたことだろう。
このとき国民の多くは、なんでもGHQの言いなりになるイエスマンではなく、頼りになるリーダーを求めていた。
この総選挙で吉田民自党は大勝した。
引用竹内の五男として茂が生まれたのは明治十一年(一八七八)九月二十二日で、二歳のときに横浜市の貿易商吉田健三の養子に入った。
吉田茂が東大を卒業し、外交官試験に通ったのは、明治三十九年(一九〇六)である。
外務省でのキャリアは、奉天の領事館補を振り出しに、ロンドン、イタリア、安東、本省文書課長、済南、
再びロンドン(このときは一等書記官)、天津、奉天(総領事)、外務次官、
イタリア大使―である。
そのあとが、三度めのロンドン―イギリス大使という順序である。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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