taro の意見
クリック 20世紀
書く人間が楽しいからって、読む人が楽しいとはかぎりませんよね。 でもtaroは書きたいんです。というわけで、ずらずら読むのはかったるいぜという人のために、 文章の最後に結論を書いておきました。結論だけ読んで楽しいとも思えませんが。まあ、一応。そういうことで。
● 明るく元気な「戦争」観  (最新/2006.04.25)
● 「皇道派」?「統制派」?  (2005.12.05)
● taro 的「天皇の戦争責任」論  (2004.03.10)
● 小泉氏がペテン師だというよりも  (2003.12.16)
● taro 的平和主義論  (2003.12.01)

少し思い出話をするなら、taroにとってオリンピックといえば、 やはり何といっても日の丸飛行隊だ。山下の柔道も、江上、三屋のバレーボールも、高橋尚子のマラソンも、 月面宙返りも、バサロも、みんないいが、 日の丸飛行隊の金、銀、銅独占! こそはtaroが選ぶオリンピック名場面ナンバーワンであり、 あの朝の少年taroには、自分がニッポンの人間であるということがなんだかやたらと誇らしく思われた。 おおげさな言い草だが、誇らしいというかなり高度な日本語がtaroの頭の中で実感と結びつくためには、 あの朝の日の丸飛行隊の活躍が必要だったとさえ思える。 ナショナリズムというさらに高度な日本語の原初的な意味を折に触れて確認するためにも、 日の丸飛行隊の記憶はいまだに有効であり続けている。
日の丸飛行隊の活躍を同じニッポンの人間としてヒジョーに誇らしく思う少年taroのメンタリティにとって、 学校で教わる歴史の後半部分は、今思えば過酷すぎる一面を持っていた。 歴史の教科書は、アヘン戦争以下の下りで欧米諸国の悪行をさんざん見せつけいやが上にも義憤を盛り上げておいて、 満州事変以降まるで手のひらを返したように、 でもおまえたちだっておんなじだよんとばかり侵略する日本の姿を思春期の少年少女の目の前に突きつける。 かわいそうなtaroは、理不尽にも極悪非道な日本人の一員として正義からの攻撃に立ち向かうことを強いられた。 この観念上の戦いは、 仮面ライダースナック付属のカードを包みから取り出しては一喜一憂するような年頃にとって到底勝ち目のあるものではなく、 ささやかな抵抗のあと、悪者としての敗北の屈辱を味わい、憤懣やるかたない思いをした。 「正義は勝つ」はやはり真理だった。
taroが「戦争」から逃避するようになった原因と思われることが、 歴史の教科書の過酷さのほかにもう一つある。taroの少年時代には、 のちにそれを傷痍軍人というのだと知る白い服の人たちのハーモニカ、アコーディオンの音が、 東別院というところではいつも聞こえていた。 しかも東別院は、パスに乗ってお出かけするときには必ず通らなければならない場所だった。 乗り物に非常に弱いtaroがすっかり酔うのを見計らうように東別院は近づいてくる。 あの耳を押さえたいような、でもそうしてはいけないような、この現実は直視しなければいけないような、 必ずどこかからだに欠落ないし異常のあるあの人たちの姿を思い出させる音色がやがて聞こえてくる。 傷痍軍人の人たちには甚だ失礼ながら、当時taroはたとえば片腕がないとが、 片目の目玉がなく空洞になっているとか、片頬がざっくりえぐれているとか、 そういう身体的異常をどうしようもなく恐ろしく感じていた。 あの薄汚れた白っぽい服装、たぶん着古した白い着流しにゲートルという奇妙ないでたちもまた不気味だった。 彼らの奏でる音楽も明るさ、楽しさ、さわやかさといったものは微塵もない、 まるでそれらを徹底的に排除して作曲したような陰惨なものだった。 もうじき聞こえてくる、そう思っただけで、 taroの想像力はおそらく実際以上に恐ろしく、無気味に、陰惨にそれらを思い出させ、 そのイメージが吐き気に強力に味方する結果、手のひらと額を中心にじっとり脂汗することになる。 そして、前回は歯を食いしばっただろうかリラックスしただろうか、目はどうだっただろうかなどと考え、 対策を施し防御体勢を整えるのだ。 だが、こうした対策が功を奏したことはもちろん一度もなかった。 今思えば、これは間接的なものではあっても、十分に「戦争」体験と言いうるものだった。 失礼の上塗りを詫びつつ言えば、彼らの恐ろしさ、無気味さ、陰惨さが「戦争」によってもたらされたものであることは、 どういうわけか若年のtaroもよく知っていたからである。
教科書の歴史と東別院の「戦争」体験は、この罪な歴史に対するtaroの拒否反応を決定的なものにした。 以来、「戦争」について知ること考えることをきわめて注意深く、 まるでネギぎらいの某友人がチャーハンからみごとにネギを排除するように注意深く避けて30年ほど生きた。 taroの「戦争」に関するトラウマが癒えるのに30年を要したわけだ。 現在の「戦争」に対する強い関心はそのリバウンドかもしれない。 「戦争」拒否を許されなかった過酷な少年時代も、逃避した30年間も、 そして今も、taroは「戦争」に無関心ではいられなかった。

憲法も「戦争」に無関心ではいられなかった。 わが国の現憲法には序文があり、その第一センテンスは「日本国民は」ではじまり、 「この憲法を確定する」で終わる長ったらしいものだが、その中に次のような一節がある。

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、

いまどき旧仮名かよと思うがそれはさておき、 ぼくらの憲法は、「政府」に相当するものの「行為」がかつて「戦争の惨禍」を招いたと認識し、 これを反省的に受け止め、二度とそのようなことがあってはならないと思うだけではなく、 二度とそのようなことにならないように「する」ことを「決意」し、 その「決意」に基づいて「この憲法を確定」している。 憲法全体を通じて「戦争」と関係する記述は、 序文のこの部分といわゆる第九条、「第二章 戦争の放棄」のみであることから考えて、 この「決意」に基づく具体的なアクションとして「戦争の放棄」が謳われているとみるのが順当な解釈だろう。
「決意」の表明としては断固たる態度を示しているこの一節も、 「戦争」観の表現としては甚だ玉虫色で、お世辞にも毅然たる態度とは言えない。 このように中途半端な形で「戦争」責任を認められてしまうと、 もう少しすっきり理解したいと思うのが人情で、taroなどはつい精読してツッコミを入れたくなってしまう。 「政府」に相当するもの、つまり敗戦以前の国家機構が「戦争の惨禍」の加害者であるというのはよいとして、 では被害者は誰なのか、また、大日本帝国の国民はいったい被害者なのか加害者なのか、 国民が国家機構と対置されるであろうことを考えれば、被害者だとほのめかしているようにも読め、 国家機構と国民とを完全に切り離して考えることは不可能であろうことを思えば、 国家機構の責任は国民にも及ぶと判断するのが妥当なようにも思われる。 読みようによっては、日本「政府」が日本国民に対してだけ「戦争」責任を認めてお詫びしているようにも読める。 せっかくの「決意」も、その根っこの思想がこんなふにゃふにゃした「戦争」観では、 ニッポンの人間としてはがっかりだ。
もし過去の「戦争の惨禍」のアウトラインを特定することができれば、 この一節ももう少しすっきり読むことができる。 日本の国土に生じた「戦争の惨禍」だけを言っているのであれば、 明らかに日本「政府」が日本国民にだけ「戦争」責任を認めていることになろうし、 1941年12月8日以降、アジア・太平洋地域で発生した「戦争の惨禍」のすべてを問題にしているのであれば、 日本国民はもちろん被害者的一面も持つものの、より以上に加害者的であるということになろう。 だが、残念なことに、「戦争の惨禍」のアウトラインを特定する手がかりは現憲法のどこにも見当たらない。 ぼくらが歴史に照らして解釈するほかない。
だが、このようなあいまいな「戦争」観も、憲法制定当時の状況を考えれば、致し方なしと言うしかないだろう。 敗戦からわずか1年、占領下、驚異的なインフレ、パージの嵐、 とても「戦争」観どころではないというのがホンネであったにちがいない。 だから問題は、このふにゃふにゃの「戦争」観がその後60年も放置され続けたことにあると言わざるをえない。 taroはこの一節がこの先いったい何年放置されることになるのだろうと考えると、 ため息をつきたいような少しユウウツな気分になる。
思うにこのふにゃふにゃさは、憲法序文第一センテンスの主語であるぼくら「日本国民」が、 加害者の立場に立つか被害者の立場に立つかをはっきりさせないかぎり直らない。 言い方を換えれば、この一節には、加害者的「戦争」観と被害者的「戦争」観が共存してしまっており、 そのためこのようなぼかした表現にならざるをえない。 この部分をこのようにしたのは憲法制定当時の「日本国民」だが、 これをこのまま放置するのか、それとも変えるのか、 変えるならどう変えるのかというのはぼくら「日本国民」の問題である。
ぼくらは憲法制定当時に比べて、ずっと冷静に客観的に「戦争」を考えることのできる立場にあり、 政治的にははるかに自由であり、経済的な豊かさはすでに比較の対象にさえならず、 パージなどという言葉はもはや死語と言ってよく、パージやパージによる人材の枯渇を心配する必要はまったくない。 きっちりした「戦争」観を確立するための条件はもう十分にそろっていると言ってよい。 だが、このことはぼくらが自分達の「戦争」観を高めえたことを意味するものではない。 ぼくらが21世紀の今日に至ってなお、「戦争」の問題をすっきり解決したと胸を張ることができず、 「戦争」と関連する問題にいまだに悩まされている理由の一つは、実はこのあたりにあるのかもしれない。
はっきり言えば、「日本国民」がその「戦争」観を十分に高めることができたとはtaroは思っていない。 そう考える理由の一端を紹介するなら、「戦争」についての本当に納得でき、 共感できる説明に出会ったことがtaro自身まだ一度もない。 「戦争」に関連するさまざまな著作はtaroに貴重な知識を与えてくれるかけがえのないものだが、 そのような著作とその著者に感謝しつつ、率直に言わせていただけば、 taroがすでに出会ったものに関するかぎり、すべてはなお説明不十分である。 それだけでなく、問題に取り組む姿勢自体に首を傾げたくなるものも少なからず含まれる。 敵国のちょっとした非をとらえて、鬼の首でもとったかのようにこれを指摘し、 それによって自国を正当化しようとしたり、自国の非を矮小化しようとしたり、 自国のこうむった「戦争の惨禍」を不当な大きさで取り扱ったり、 天皇、軍人、政治家など一部日本人の非をあげつらうことによって、 彼らに責任の大部分を押し付けてしまおうとしたりといった煩悩から まったく解放された著作は残念ながら少ないと言わざるをえない。 まして「戦争」を端的かつ的確に説明する表現を含む著作は稀少である。 概説書を含むほとんどの著作は、「戦争」のある一面を取り扱うという立場を逃げ道にして、 「戦争」全体を問題にするという重要だがいっそう困難な仕事から逃れようとしているのではないかとさえ思える。 taroの最近の経験では、「戦争」を直接に扱ったものよりも、 むしろ中国近現代史の概説書の方がずっと的確に「戦争」を説明しえているように感じられる。 相当数の日本史系の著作に触れてなお釈然としなかったことが、 中国史系の著作であっけなく理解できたりするのはどういうわけだろうか。 「戦争」について知りたいと思って本を選べば、 「戦争」についての一面的理解しかえられないというのが今の日本の残念な現状かもしれない。 たいていの日本人は、そのような一面的理解をいくつも積み重ねて総合的な理解にたどりつく努力を続けられるほどに 時間的な余裕を持っているわけではない。 生意気を承知で言わせていただけば、「戦争」関連の著作の著者は、 扱うテーマのいかんにかかわらず著作のどこかで自身の「戦争」観を明らかにするようにしていただきたい。 多くの場合、それは未熟な「戦争」観にならざるをえないだろうけれど、 そこはお互い様ということで、とにかく表現して公開するようにしていただきたい。 ふう。率直に言って、ここまで書くのは、ただの歴史愛好家であるtaroにとって、 大変な勇気を必要とすることなのである。 どうかこのことに免じて、心ある著者の方々には非礼の数々をお許しいただきますよう。 話をもどすなら、taro自身、納得できる「戦争」観に出会ったことがなく、 かつ、平均的な日本人よりははるかに多くそれを求める営みを積み重ねたと自負するがゆえに、 すぐれた「戦争」観とは、今の日本では、 残念ながらめったにお目にかかれない稀な存在であると判断せざるをえないのだ。

少年taroが教科書の歴史で味わわされた釈然としない思いも、 日本人の「戦争」観の未成熟、「戦争」を端的かつ的確に説明する言葉の欠如と関係しているように思われる。 少年の頃の自分を美化するつもりはさらさらないが、 教科書の記述が納得できるものであれば、あれほど傷つくことはなく、 したがって「戦争」拒否になることはなかったような気がする。 少なくとも理由なき侵略描写よりは痛手はずっと軽いものになっていただろう。 納得できる記述とは、 日本人による侵略的行為を正当化するとか矮小化するとかオブラートに包むとかということではもちろんない。 ああ、そういう状況だったら、自分だって人を傷つけたりしちゃうかもしれないよなと、 こうわが身に照らして、正しく生きることのむずかしさを知ることのできるような説明がもしあれば、 単に心に傷を受けなかっただけでなく、「戦争」の歴史という子供にはむずかしいテーマをずっと身近に、 前向きな態度で受けとめることができただろうと思うのだ。 そして、そのような説明は現在のtaro程度の知識でも必ずしも不可能なわけではない。
ぼくらはきっとこれから「戦争」観を高めていかなければならない。 そのとき、日本の少年少女たちに「戦争」をどう説明したらいいかということは、 「戦争」の基礎的理解を構築するうえで非常に有効な切り口になるだろう。 彼らの納得がぼくらの「戦争」観の評価基準であることは言うまでもない。 もちろん日本の少年少女たちを納得させるだけでなく、世界中の少年少女たちを納得させられるならなおよい。 ぼくらの新しい「戦争」観はどのようなものであるべきだろう。
まず「戦争」のアウトラインを明確にすることが非常に重要だと思う。 taroの考えでは、1931年9月18日以降を「戦争」とするべきであり、 柳条湖事件に始まる満州事変は1933年5月31日、停戦を迎えるが、 この塘沽停戦協定自体が侵略的要素の色濃い内容であり、 これ以降1937年7月7日の盧溝橋事件まで、戦争ならざる侵略が重ねられることを思えば、 この停戦期間も「戦争」から除外することはできない。 1941年12月8日の真珠湾攻撃以降を「戦争」とすることは、 「戦争」から侵略的な部分の大半を除外することになり、 このこと自体がすでに相対的に被害者的「戦争」観であると言える。 被害者的「戦争」観は平和憲法とは相容れない。 なぜなら、日本人を「戦争」の加害者であるよりも被害者であるとみるような歴史観は、 世界の不信を買い、周辺各国との間にいたずらに摩擦を引き起こすものでしかないからである。 ぼくらの新しい「戦争」観は太平洋戦争に偏るものであってはならない。 また、1928年の済南事件および張作霖爆殺事件は不可欠な「戦争」前史であり、 これらを含めて「戦争」と考えてもよいほどであり、事実、東京裁判は1928年以降を問題にしている。
ぼくらの新しい「戦争」観では、戦後生まれのぼくら自身が「戦争」責任を引き受ける覚悟をすべきだとtaroは考える。 それは貧困な国に生まれたがゆえに、 食べるものがなく教育を受けられないという現実を引き受けないではいられないのと同じ、 あるいは戦乱の国に生まれたがゆえに、戦争という現実を引き受けないではいられないのと同じ、 ある種の理不尽さを伴う遺産の相続である。 ぼくら一人一人の過去から現在に至る行動のすべては、 「戦争」の責任を問われるべき何物をも含んでいないが、 一方、誰かに「戦争」の責任を引き受けてもらいたいと考える人たちは確実に存在する。 ぼくらはぼくら以外にそれを引き受けられる者がないことを十分に理解し、 この人たちに誠実に向かい合う覚悟を決めよう。 ぼくらが「戦争」責任という負の遺産をすすんで相続しようとすることは、それ自体が平和への貢献である。 なぜなら、ぼくらのそのような姿勢は、 今なお残るさまざまな「戦争」の傷跡を少なからず癒しに向かわせるだろうからである。 確固たる加害者的「戦争」観を持つことは、 それが癒しの行為であり平和への貢献であるという意味で十分に誇りうることである。
ぼくらは、ぼくらに「戦争」責任という負の遺産を残した人たちをうらめしく思ったり、 軍人や政治家など一部の人たちを一方的に責めるのをやめて、むしろ彼らに共感することをめざそう。 そのようにして「戦争」を身近に引き寄せることで、 「戦争」の歴史からより多くの前向きな教訓を引き出すことができるだろうからである。 軍国主義とか天皇制とかを強調して、「戦争」当時の人びととぼくら自身の間にはっきりした境界線を引くことで、 自分を「戦争」から観念的に遠ざけ、「戦争」と戦争から無縁の人間であると確認しようとすることは厳に慎もう。 それは気休めにすぎないばかりか、思考停止でさえある。taroの現在の理解では、 当時の人びともぼくらもそれほど大きくちがっているわけではない。 日本人の置かれた状況が大きくちがっているにすぎない。 だから、当時の状況を忠実に再現し、 その状況の中で、ぼくら自身ならどう政治的な選択をするかをシミュレーションしてみたとき、 同じ過ちが繰り返されるというのは大いにありうることという気がする。 もっと言えば、 たとえばフランクリン・ルーズベルトウィンストン・チャーチルが当時の日本の首相であったとして、 彼らが東京裁判で絞首刑の判決を受けないとは言い切れない。 この仮定自体が大胆すぎるきらいはあるが、taroはその可能性はけっして低くないと思っている。
当時と今とでもっとも顕著に異なるのは経済的状況だと断言してよいように思う。 軍事的大陸進出をやめて経済的進出に切り替えようとは、実はかなり早く、明治の後半ぐらいから考えられていた。 だが、経済的進出には先立つものが必要であり、当時の日本にはそれがなかった。 しかも当時は日米安保などもちろんなく、国際関係もまだ基本的に弱肉強食の世界だったから、 軍事力はどうしても必要であり、貧乏帝国日本は国家予算の相当部分を軍事費に割かなければならなかった。 そのようにして維持される軍事力は、戦争するのででもなければ、大陸進出に活用しないかぎり宝の持ち腐れになる。 カネがなく経済的進出が思うに任せぬ分だけ、軍事力を活用したい誘惑は強かった。 大正時代には、第一次世界大戦下の青島出兵、その後のシベリア出兵などで軍事力を使った。 シベリア出兵が1922年、軍事力の有効活用とは程遠い無残な結果で終わってから、 次第に満州、つまり中国の東北部に対する関心が高まることになる。
軍事的であろうと経済的であろうと、大陸進出そのものをやめてしまえばいいと考える人があるかもしれない。 だが、これもなかなか簡単にできる選択ではない。 大陸進出をやめれば、その分だけ日本製品の買い手が不足してしまう。 それは日本の産業の発展が止まることさえ意味する。 日本以外の国々が経済的に発展し、その分だけ軍事力を強化できるようになれば、 相対的に日本の軍事力は弱体化していくことになる。 軍事力だけでもっているような国がその軍事力さえ弱体化してしまうようでは心配このうえない。 それに、大正の頃には日本はすでに大陸にからだの一部を移してしまっていた。 朝鮮半島は日本の植民地だった。中国の各地には日本の租界があり、 旅順、大連は租借地であり、大連と長春を結ぶ南満州鉄道とその支線に沿っては鉄道付属地があった。 こうしたところには日本の兵隊がおり、商社マンとその家族がおり、日本から移住してきた老若男女がいた。 これらの土地や鉄道、それに鉱山、炭鉱などは、すべて中国から借り受けたものだが、 すでに日本の一部のようになっていた。 すぐに返せと言われてポンと返せるものではなかった。 まして貧乏帝国であればなおさらである。 一方、中国人の側からすると、中国の国土で日本人が我が物顔に振舞うことはがまんのならないことだった。 中国がだんだん実力を付けてくると、中国の土地は中国人に返せという声が高まった。 ただ声が高まっただけではなく、たとえば日本製品の不買運動や南満州鉄道と競合する並行線の敷設など、 実力行使も行われるようになった。 満州をはじめとした中国各地に住む日本人とその土地の中国人との間の対立感情も高まり、険悪化していった。 日本人の関心が次第に満州に集中していくのはこのような事情にもよる。
これが、蒋介石が中国の統一を一応完成させる1928年のおおざっぱな状況である。 このような状況の中で、もしあなたなら日本丸の舵をどのように切るだろうか。 taro自身は、できるだけ平和的にとは思うものの、租借地や鉄道などを中国に返還する決心はつかないでいる。 過去の例から考えて、これらを中国に返還する約束をすればほぼ確実にテロで殺されることになるだろうが、 このことが理由ではない。 taroは侵略した日本の国民と侵略された中国の国民と、 いったいどちらが貧しい暮らしをしていたのだろうと思うのだ。 もちろん貧しければ侵略してよいと言うことにはならない。 だが、それほどに貧しい暮らしをしている人たちから大陸の利権を取り上げてしまうことに、 非常なためらいを覚えるのは事実なのだ。 だから、利権をできるだけ失わないような形で日中関係を改善したいと考えるのだが、 はたしてそのようなことが可能かどうか。 それは幣原喜重郎が歩んだ道そのものではあるまいか。
満州事変の前夜には、1928年の済南事件張作霖爆殺事件などの影響で、 日中関係はいっそう悪化しており、しかも、昭和恐慌と世界恐慌の合併症で日本経済は瀕死の状態、 都会の職業紹介所には失業者があふれ、 東海道五十三次は歩いて郷里に帰る汽車賃さえない失業者たちで時ならぬにぎわい、 彼らを迎える農村は、欠食児童を激増させ、 東北では娘売りの悲劇が、悲劇というにはもうあまりに日常的なものになっていた。 南満州鉄道の経営状況もまた、並行線の影響などで急激に悪化していた。 満州事変の首謀者である石原莞爾板垣征四郎がともに東北の出身者であることに taroは奇妙な符合を感じないわけにはいかない。
余談ながら、日中貧乏比較を少し書いておきたい。 taroはこの問題にまだ本格的に取り組んでいるわけではないが、 敵将蒋介石の話はこの問題についての多少のヒントになるようにも思える。 彼は日本留学生の一人で、辛亥革命の勃発で急遽帰国するまでの1年ほどの期間、新潟県高田市で軍隊生活を送っている。 ここでの食生活について、ひどい粗食で慣れるまで相当につらい思いをしたとのちに蒋介石は回顧している。 そして、このような粗食に耐えることが、寒い朝でも水で顔を洗うことと併せて、日本軍の強さの秘密であると指摘し、 彼自身の軍隊に粗食を奨励し、粗食時の兵隊たちの健康状態についてのデータまでとっている。 中国人が病気にかかるのはもっぱら食べすぎが原因だというのが蒋介石理論である。 ところで、若き蒋介石は売店でビスケットを買って間食しているし、 彼ら中国人留学生を受け入れる日本軍側は食生活に関するかぎり彼らを優遇し、 質量ともに日本人兵士の食事よりワンランク上のものを提供していた。 は母子家庭で育った人で、平均的中国人の生活水準よりもずっとハイソだとは考えられないので、 彼を基準にすることは可能であり、そのかぎりにおいて、 少なくともカロリー摂取量においては清朝圧政下の中国人の方が恵まれた状況だったと言えるように思う。 もちろん体質や習慣などのちがいもあるので一概には言えないにしても、 日中貧乏比較はきわどい勝負になりそうだ。 考えてみれば、魯迅の「阿Q正伝」の主人公阿Qなどはおそらく当時の中国の最下層の人間だろうが、 その彼も革命党に首をちょん斬られるまで、ツケで飲んだりしながらけっこう気楽にやっている。 このようなことをあまり過大に取り上げては侵略の正当化につながろうし、 日本人によって中国の富が奪われたことをぼくらは忘れてはならないが、 しかしまた、これをまったく無視してしまっては、侵略に踏み出す精神的背景を理解するのが困難になろう。 すると、歴史は理由なき侵略描写を続けるほかなくなり、 その結果、当時の日本人についてただただ極悪非道な強奪者としてしか理解できなくなりかねない。 このような理解もぼくらの「戦争」観にとって望ましいものではない。
侵略者に共感すべく、「戦争」のさまざまな局面における彼らの置かれた状況の困難さを理解しようとする試みは、 ぼくらを侵略者的な人間にすることなく、かえって平和的であり続けるための知的抵抗力を高めることになる。 ぼくらの新しい「戦争」観はそのように、21世紀を生きるぼくら自身にとって有益なものであるべきだと考える。

ねえtaro、あんた、ずいぶんとごリッパなことをいろいろ言ったわよねえ。 そんでもって、その中には、「戦争」関連の著作の著者は、 扱うテーマのいかんにかかわらず著作のどこかで自身の「戦争」観を明らかにするようにしていただきたい、 なんてのもあったわよねえ。 ところでねぇえtaro、この「明るく元気な「戦争」観」ってのは「戦争」関連の著作? あんたはその著者?  そうだわよねえ。タイトルだけ見たってこれ、「戦争」関連の著作だわよねえ。 これだけごリッパなことを言っておいて、 言いだしっぺのあんたが自分の「戦争」観とやらを明らかにしないなんてことはまさかないでしょうねえ。 さあ、聞かせてもらいましょうか、あんたの「戦争」観とやらを。 今度はどんなごリッパなことをおっしゃるのかしら。 楽しみね、ウフフ。ただし、長ったらしいのと小むずかしいのは御免よ。 わかってるわね。「端的かつ的確」ってやつでお願いするわ。 こんなふうに女王様に責め立てられるかのように、taroは自分にムチ打って「戦争」観を書いた。 それはこの文章の内容とも一部重複するし、taroの「戦争」観はそのときどきに一つしかない手前、 「戦争」観を単体で公開したいとも思った。 そこで、このページではなく「taroの雑記帳」の中に1ページを設けてそこで公開することにした。 taroの「戦争」観になお興味があるという奇特な方はどうかこちらをごらんいただきたい。 「未熟な「戦争」観にならざるをえないだろうけれど、そこはお互い様ということで」とも言ったのだけれど、 女王様は覚えていてくれているだろうか。

taroの結論。
前向きで有益な、ナットクの「戦争」観づくりに取り組もう。
以上、明るく元気な「戦争」観 でした。おわり。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。