taro の雑記帳
クリック 20世紀
「クリック20世紀」のたくさんのページのどこにもふさわしい場所がないんだけど、 でもどうしてもどこかに書きとめておきたい、ちょっと誰かに見てもらえたらうれしい、 というようなことを、taroはこの「雑記帳」に書きとめています。
◎ taro の「戦争」観 2006年4月版  (2006.04.25)
20世紀の歴史の中で、日本は「戦争」をした。
「戦争」の相手はまず中国。そして、途中からさらにアメリカ、イギリスなど。 1945年8月15日、日本は「戦争」に敗れた。

中国との戦争が中国大陸で戦われたことからわかるように、 「戦争」はそもそも侵略戦争としか言いようのない性質のものだった。
いや、そうではない、日本が戦った「戦争」はけっして侵略戦争ではないと思う人、 侵略戦争かもしれないけど、それは大したことではないと考える人は、 本多勝一の「中国の旅」に目を通してから言ってもらいたい。
こう書くと、当然taroはこれを読んだと思われるだろうが、実は読んでいない。 それに、taroは誰にでもこの本を薦めたいとは思わない。
taroなどにとっては、とりあえずのところ、これはながめているだけで十分な著作だ。 ときどき、パラパラとページをめくり、写真を見、それに添えられた短い説明、 たとえば、
「日本刀による斬殺」「銃剣による刺殺練習に生きた青年を使う」 「切り落とした生首の記念写真」「日本刀による首切りの写真」「首切りのあと、日本刀の血のりを拭う日本兵たち」
「新聞司提供の写真。これはまだ新しいうちに撮影された別の万人坑の例。 「死体の様子からみると、捨てられたときまだ生きていた者もいた」と説明されている」
「「階級の苦しみを忘れまい」と書いた垂れ幕と、万人坑参観者が寄せた花輪」
「集団で輪姦のあと皆殺しにした現場」「強姦したばかりか、あとで腹を切り裂いた」 「強姦記念に、その相手と一緒に自分も写真をとる」
「死体といっしょにころがっていたとき撃たれた腿の傷を見せる陳さん」
を読んで、物思いにふければそれで十分な著作だ。精読しようという決意は今のところついていない。
このような本は誰にでも薦められるものではない。「戦争」の経緯全体を知る前に、 このようにセンセーショナルで刺激の強いものを読むことは、 その人の「戦争」観をひどくゆがめてしまうことにつながるかもしれない。 このような残虐さが日本人の人種としての残虐性を示していると考えるならそれは早計だろう。 日本人は、ではなく人間は、状況によってはこのようにもなってしまう。taroも。そしてあなたも。 そのように受けとめ、かつ、今の中国の人たちは、このような情報に接する機会がぼくらよりもはるかに多いことを、 頭の片隅にでも覚えておくべきだろう。

このようなセンセーショナルなことにかぎらず、 「戦争」は、そのどこか一部分にあまり注目しすぎてはいけないとtaroは考える。 一面をもって「戦争」の大部分あるいは全体と思い込んでしまう危険から人は注意深くなければならない。
同じく全体像を的確にとらえようという配慮から、taroは「戦争」のアウトラインにこだわる。
taroのみるところ、「戦争」は三段階に分けて考えることができる。
すなわち、第一段階は中国東北部、 すなわち、満州の全域を日本の占領下に置こうとする段階、 第二段階はさらに長城以南にまで支配領域を拡大しようとする段階、 第三段階はアジア、太平洋地域のほぼ全域を戦場にせざるをえなくなる段階である。
第一段階は1931年9月18日の柳条湖事件をその始まりとすることができ、 第二段階は1933年5月31日の塘沽停戦協定締結をもってその始まりと考えることが可能であり、 第三段階は1941年12月8日の真珠湾奇襲をその始まりとみることができる。

これらは政治的にも軍事戦略的にも一つの文脈のものであり、 ひとつながりのものとして理解することが重要だと思うのだが、 残念なことに、これら全体を表す適切な言葉がない。もっとも近いのは十五年戦争という言葉だが、 この言葉を使った場合、1941年12月8日以降の太平洋地域における戦闘のすべてが除外されてしまうことになる。 極端な話、十五年戦争には「広島・長崎」は含まれない。 それで、しかたなくtaroは「戦争」という表記を使う。 普通名詞としての戦争ではなく、日本人にとって特殊な意味を持つあの戦争というニュアンスを伝えようとする表記だ。
適切な用語がないことは、日本人の「戦争」観にとって致命的だ。 用語がないからこれを百科事典などで調べることができない。「戦争」について人と人が話し合うことができない。 話し合ってみても、話がかみ合わない。そんな具合だから理解が進まない。 急にどうこうするのはむずかしかろうから、taroはとうぶん「戦争」という表記を使い続けることになるだろう。

「戦争」が始まったとき、日本は中国から租界、租借地、鉄道付属地などといった名目で土地を借り、 ここに多くの日本人が暮らしを営んでいた。そのもっとも主要なものは日露戦争の結果、中国から借り受けたものだから、 このような中国国内における日本人の営みは1905年から1931年までの15年ほどにも及ぶ。 このように、他人の土地に入り込んでそこで暮らすことは、それがたとえ正当な契約に基づいて行われることであろうと、 危険なことである。誰しも自分の土地で他人が我が物顔に振舞うことを快くは思わないからである。 出ていけ! 日本人、出ていけ! なんだとこの野郎、そっちこそ出ていけ! 日中の国民感情は年とともに悪化し、 次第に実力行使の様相を帯びていった。その結果の柳条湖事件、満州事変である。

だから、このときまでに日本人が満州から立ち去ろうとしていれば、 「戦争」は起こらずにすんだとは言えるだろう。
だが、実際問題として、それが可能かどうかということになると話はまた別である。
当時の日本と今の日本とでもっとも異なる点は、軍国主義うんぬんとか天皇制うんぬんではなく、 当時の日本が今とはちがって非常に貧乏な国だったという点である。 多くの日本人が生活の場を求めて中国大陸に渡ったこともそのことを示していると言えるだろう。 ほかにアメリカやブラジルに移民した日本人も多い。 そのような貧乏国が、満州という可能性のある土地を簡単に捨てられるものではない。
立ち去らないなら、満州における日本の利益と日本人の生活を守らなければならない。 攻撃は最大の防御。その言葉どおり、日本は平和的な交渉で問題を解決することをあきらめたとき、 これを軍事的に解決する道を選んだ。
軍国主義について補足するなら、それは満州事変の原因ではなく結果である。 満州事変の結果として、日本は軍国主義化した。 「戦争」の最初の段階において、 日本は軍縮条約の締結に積極的であるような、軍国主義とはむしろ反対の性格の強い国だった。

満州全域を支配しようとする日本の冒険的な試みは破滅をもたらさなかった。
むしろ当時の日本人の多くは大成功を収めたとさえ考えた。
この感じ方自体が落とし穴だった。ある冒険的な行動の結果を成功と考えたとき人は変わる。 二匹目のドジョウを狙いたくなる。「戦争」の第一段階における成功という自己評価が日本を第二段階へと導く。
taroはここで、満州事変がもらたした誤算を指摘したい。
満州事変と満州国の建国は長大なソ満国境線を生むことになった。
ソ連こそは当時の日本にとって最大の仮想敵国である。
ソ連は共産主義の国で、皇帝とか王とかを目の敵にしていた。一方、日本は天皇制の国で、天皇を神とまで仰ぐ国だったから、 そのようなソ連を目の敵にした。 日本の支配者層はソ連から共産主義が入り込んで、天皇制を破壊することを何よりも恐れ、 共産主義者弾圧には余念がなかった。
この最大の仮想敵国ソ連との間に日本は長大な国境線を抱えることになってしまった。
しかもソ連は、第一次五ヵ年計画成功の余勢を駆うように、極東ソ連軍をどんどん増強していった。

塘沽停戦協定で満州事変にくぎりをつけた1933年初夏以降、 ソ満国境線の危機的状況に日本の陸軍はあせりまくっていた。 そして曲折を経て、満州でソ連軍と向かい合ったときにちょうどその後背にあたる中国の華北地方にまで日本の支配を拡大し、 背後の安全を期して来るべき対ソ戦に備える方向で次第に決意を固めていった。 それは日本陸軍の胸算用では、同時に総力戦に不可欠な戦略資源を確保することでもあった。
このような動機から、主に陸軍によって、華北分離工作と呼ばれる新たな侵略が開始された。 華北分離工作を一言で説明するなら、それは華北五省に第二の満州国を打ち建てることを目標とする謀略である。
盧溝橋事件に至るまでの華北分離工作は軍事力を背景としつつ、軍事力の行使を伴わない。 だから、厳密な意味での戦争とは言えない。 だが、taroはこの期間を「戦争」の歴史における非常に重要な時期と考える。 破局に至る原因中最大のものがこの華北分離工作であるとさえ考える。 だから、この戦争ならざる侵略を、軍事力の行使を伴わないという理由で「戦争」から除外することはしない。 それに、考えてみればこの侵略行為が軍事的衝突を伴わないで推移したのは、 侵略者側の節度によってではまったくなく、侵略される側の忍耐によってそうなったにすぎない。 侵略者に関するかぎり、これは侵略戦争となんら質的な相違のあるものではない。

塘沽停戦協定梅津・何応欽協定土肥原・秦徳純協定冀東防共自治委員会の結成と進められていく華北分離工作は、 中国の人たちにとって、 満州国と併せて実に中国の九つの省を奪おうとする許しがたい野心以外の何物でもなかった。 一二・九運動を発火点として、救国抗日運動が燃え盛った。 慎重で我慢強い蒋介石も、西安事件をきっかけについに決意を固めた。

1937年の盧溝橋事件は、日本にとっては華北分離工作の一環にすぎなかった。 この事件を口実に、華北に第二の満州国の基礎を固めようというのが日本軍の意図だった。 ところが、中国側はいつになく強硬で、なかなか譲歩しようとしない。 そこで「一撃」論が台頭した。一撃食らわせて言うことを聞かせようという、 おそらくは人類の歴史のそもそもの初めからあるようなきわめて原始的な発想だった。
明日の中国が昨日までの中国と同じであると考えたところに日本の致命的な判断ミスがあった。 そしてこの判断ミスを日本はいつまでも引きずった。一撃でだめならもう一撃というやりかたは、 ついに中国を屈服させることはなかった。日中戦争はやすやすと泥沼化した。

中国大陸の沿岸一帯を封鎖し、次第に内陸へと攻め込む日本軍の軍事行動は、 諸外国の対中貿易に著しい損害を与えるものだったが、 当時、日本に対して直接その非をならすことができる国は多くはなかった。 ヨーロッパ諸国は、もっと身近でもっと重要なこと、 すなわちアドルフ・ヒトラーとどのように付き合っていくかということで頭がいっぱいだった。
ただ一国、アメリカだけがその気になれば日本を非難することができた。 アメリカはモンロー主義と呼ばれる孤立主義の考え方を持つ国であり、 モンロー主義とは、一言で言えば、アメリカはアメリカ大陸以外には口出ししない、 そのかわり他の大陸の諸国はアメリカ大陸に口を出すな、というものだったから、 アメリカの日本に対する不快感は急激に行動で示されたわけではなかったが、 それでも確実に日米関係は険悪化していった。

1941年7月、日本がフランス領インドシナ南部にまで兵を進めたため、 植民地フィリピンを日本の爆撃機の射程圏内にとらえられ、軍事的にも脅かされたアメリカはついに切り札を切った。 対日石油輸出禁止である。 この報復措置は日本を「戦争」の第三段階へと強力に導くことになった。 石油がなくなれば大和もゼロ戦もただのスクラップである。 備蓄のあるうちに開戦してオランダ領インドシナの石油を確保しなければならない。 軍部のこのような主張は、あくまでも対米戦争回避を模索する首相近衛文麿を孤立させ、 総辞職に追い込むことになった。

アメリカは当初、日本を開戦にまで追いつめる必要は必ずしもないと考えていた。
この考えを変えさせたのは蒋介石である。アメリカの対日妥協的な考えを知った彼は、 さまざまなルートからアメリカに強力に働きかけた。 蒋介石の働きかけに敏感に反応したのがチャーチルである。 彼は蒋介石の戦線離脱を非常に恐れた。 もし中国が離脱すると、日本に対するものは欧米諸国だけになる。 すると、対決の構図は欧米vs日本になるが、 この構図はアジアにインドはじめ多くの植民地を持つイギリスにとって、 各植民地のナショナリズムを刺激し、反英を煽りかねないという意味で非常に恐ろしいものだった。 チャーチルルーズベルトに対し、蒋介石の言うことを聞くように説いた。 こうして生まれたのが最後通牒的意味合いを持つハル・ノートである。 蒋介石は、チャーチルのおかげもあって、貴重な勝ち点をもぎ取ることができた。

第三段階の始まり、すなわち真珠湾奇襲攻撃は、 そう遠くない将来に日本人が玉音放送を聞くことになることをほとんど決定づける行為だった。 なぜなら、日本の唯一の戦争終結構想は、ヒトラーがイギリスを屈服させることを前提とするものであり、 このときすでにヒトラーはイギリスをねじ伏せることをあきらめてしまっていたからである。 太平洋戦争の全期間を通じて、日本のアメリカ本土への攻撃は風船爆弾によるものが唯一だった。

以上がtaroの「戦争」理解である。
第二段階を重視する立場から、ここにもっとも多く文字を費やしたが、なお説明不足のうらみが残る。 全体を通じて不勉強な点が多々あろうかと思う。また機会をつくって、あらたに書いてみたいと思っている。

「戦争」当時、中国では日本人のことを「東洋鬼」と呼んだそうだ。
たとえば南京大虐殺の日本人などはまさしく「東洋鬼」である。 そして、規模はこれより縮小するものの、質的には同レベルの事件はアジア・太平洋で枚挙に暇がない。 各国各地の「戦争」記念館は日本人が「東洋鬼」であったことをいまなおリアルに伝えている。
張作霖爆殺事件当時、この事件が日本人のしわざであることを知らぬは当の日本人ばかりなりという状況だったが、 「東洋鬼」に関してもほとんど同じ図式が成り立つかもしれない。
taro自身は自分が「東洋鬼」の子孫であることをそれなりに自覚しているし、 もし同じ状況に生きたら、今の日本人も同じ過ちを繰り返した可能性がきわめて高いと思っているが、 このような日本人がほとんど天然記念物であることも承知している。

最後に、ほんのちょっぴりだけ日本人批判を試みよう。
当時も今も、日本人の関心は目先の利害にばかり向かい、長期的なビジョンには関心が乏しい。 思想、哲学、理念といったものを自ら高める努力といった点では乳幼児とほとんど大差ない。 制度を見直すとか改めるといったようなことは、何か不都合が起こってから手を付ければよいと信じている。 驚くべきことに、有史以来、憲法を改正したことが一度もない。 民主的選挙制度を持っているにもかかわらず、選挙によって政権基盤の交代が図られたことは、 戦後の60年間にやっと二度あるだけである。 一言で言えば、自分の未来を心配する気持ち、すなわち利己と日本や人類の未来に貢献しようとする気持ち、 すなわち利他のバランスがひどく悪い。 「東洋鬼」にもしレシピのようなものがあれば、 そこにもきっとこれと同じようなことが書かれているにちがいない。 つまらない利己心など、燃えないゴミの日に全部まとめて出してしまえば、さぞせいせいするだろうに。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。