「日中戦争」
参考書籍
著者: 古屋哲夫(ふるや・てつお)
発行: 岩波書店(1985/05/20)
書籍: 新書(208ページ)
定価: 円(税込)
目次: はじめに
一 戦争の目的と戦争の発端
二 「満蒙権益」と関東軍
三 「満州事変」と「満州国」
四 塘沽協定体制
五 ついに、全面戦争へ
六 揺れ動く戦争指導
七 より大きな戦争のなかへ
補足情報:
われわれは今日、日中戦争を倫理的にとらえなおすだけでなく、 政治的に―近代日本の政治のあり方の結果として ―とらえ、そのような政治が、果して今日では解体しつくされたといえるかどうかを、 考えなおしてみなくてはならないのではあるまいか、 そしてそうした観点からの日中戦争の分析がきわめて不十分であるところに、 日本における日中戦争イメージの「あいまいさ」が生まれているように思われるのである。(はじめに)
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「一撃」論
引用当時の政府においても軍部においても、 中国に対する宣戦布告が実際に必要だという考え方が主流になったことは一度もないといってよい。 そしてそれは、当時の日本の戦争指導者の意識においては、 中国に全面戦争を仕かけなくても日本の目的は達成できる、 したがって宣戦布告は不必要であり、望ましくもないものととらえられていたことを示すものであった。 たとえば、盧溝橋事件当時における陸軍の最強硬派ですらも、 中国に対する「一撃」を加えることを主張したのであって、 全面戦争を予想していたわけではなかった。 つまり、「支那事変」との呼称が決定された当時には、 全面戦争にいたらない軍事的一撃で達成されるはずの戦争目的が考えられていたに違いないのである。
引用済南城攻撃も、北伐の進行をとどめることはできなかった。 この時期に国民革命軍に対抗していたのは、張作霖が総司令となり、 孫伝芳、張宗昌を副司令とした安国軍であったが、 済南事件のころには、その敗勢は動かし難いものとなっており、 日本側の関心は、北伐が満蒙に及んだ場合にはどう対処するのかという点に向けられていった。 そしてここでは、すでにその態度を固めていた関東軍が、政策の方向をリードしようとする動きを示しはじめていた。
関東軍は、まず四月二〇日、張作霖の軍隊が満蒙に向けて敗走してくる場合には、 関東軍の主力を山海関または錦州付近まで進出させ、どちらの軍隊の進入をも許さずに武装解除しなければならない、 との意見を具申し、さらに済南事件前日の五月二日には、この機会に「張作霖を頭目とせる現東三省政権を排し、 帝国の要望に応ずる新政権を擁立し、該政府をして支那中央政府に対し独立を宣せしむること緊要なり」 と主張するに至っている。 第一次大戦中から張作霖軍閥を育成・支援してきた日本の軍部のなかから、 今度は、その張作霖を打倒しようとする動きがあらわれてきたのであった。
つまり、中国の中央政界に乗り出しては敗北を繰り返し、 しかもその間に、日本側が満鉄並行線と抗議するような鉄道建設に乗り出したり、 日本の利権要求に抵抗するようになってきた張作霖に、もはやこれ以上期待できない、 というのが関東軍の言い分であったと思われる。 そして関東軍は、この時点で、満州事変を企てたといいかえることもできよう。
田中内閣も、五月一六日には、張作霖と南京政府の双方に対して、 満州治安維持のために適当にして有効な措置をとるとの警告を発するとともに、 秩序を乱した軍隊が敗走する場合や、戦闘そのものがもち込まれる場合には、 武装解除するとの方針を決めた。 関東軍側は政府も自分達の考えに同調していると考え、主力を奉天に集中して出兵体制をととのえた。
しかしこの時、田中外相は関東軍とちがって、 張作霖をまだ利用価値があると考えており、外交ルートを通ずる説得によって、 の軍隊を秩序立った形で満州に撤退させるとともに、国民革命に満蒙への追撃をあきらめさせようとする方向に動いていた。 そしてこの構想の見通しがつくとともに、関東軍への出動命令は発動されることなく終ることとなった。 反面、この間いら立ちながら出動命令を待ち続けた関東軍のなかには不満が高まっており、 それは高級参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件をひきおこすことになった。 すなわち河本は、工兵を使って鉄道に爆薬を仕掛け、 六月四日日本側の説得に従って、北京から引き揚げて来た張作霖が乗っている列車を爆破して、 を殺害してしまったのであった。
中原大戦
引用二八年一二月張学良が国民政府に服属したことによって、 中国の一応の統一が完成したことになるが、 その内実は軍閥連合の域を脱することができず、したがって、 内戦で過大になった軍隊の整理が次の課題となると、軍閥相互の利害の対立は表面化し、 二九年秋からは、反蒋介石派の挙兵があいついだ。 さらに翌三〇年には、再開後の北伐において蒋介石に協力した有力軍閥が、 今度は反連合に立ちあがり、蒋介石は最大の危機に見まわれることになった。
すなわち、【中略】 三〇年四月には、閻錫山を総司令、馮玉祥、李宗仁を副司令とする反連合軍が編成され、 五月から「中原大戦」と呼ばれる内戦が、北伐よりも大規模な形で、 一〇月に至るまで断続的につづけられることになるのであった。
【中略】 中原大戦は結局、蒋介石側の勝利に終局するが、それには、 九月になってそれまで形勢を観望していた張学良が、蒋介石擁護の態度を明らかにし、 麾下の軍隊を関内に進めたことが決定的な要因となっていた。
上海事変@/便衣隊狩り
引用日本側はこの事件に対して、暴行に直接関連した、陳謝・処罰・賠償などのほかに、 上海における抗日団体の解散を要求し、軍事力を行使してでも実現させようとする姿勢を明らかにしたため、 情勢は極度に緊迫してきた。 しかし孫科内閣はこれを処理し切れずに一月二五日に辞職、 二八日には汪兆銘が行政院長となり、蒋介石も軍事責任者に復活し、 広東派政権は一か月足らずで崩壊してしまった。 そしてこのとき、二八日午後六時を期限とした最後通牒をつきつけられていた上海市政府も、 午後三時には屈服して日本側の要求すべてを受諾していた。
にもかかわらず、この夜から、日中両軍の戦端が開かれるのは、 上海在留の日本人たちが、この際中国側に一撃を加えるよう海軍陸戦隊(上海に常駐していた兵力は海軍のみ)にけしかけ、 陸戦隊側がそれに呼応して、日本軍の警備地域を中国側に無断で拡大するという挑発をおこなったからであった。
この時期には、排日事件に対する在留日本人の暴力的反応が目立っており、 例えば青島では、一月一二日、約二〇〇人の日本人が天皇に対する不敬記事を掲載したとして、 新聞社を焼打ちし、焼失させるという事件がおこっているが、 上海でも日本人僧侶が襲撃された翌日深夜には、約三〇名の日本人青年たちが、 襲撃現地のタオル工場をおそって放火するという挙に出ている。 当時の、日本人の居留民社会は、全体としてこうした中国側への暴力を容認していたと考えられ、 上海の場合にはさらに強く、 一月二〇日の居留民大会では、日本政府は軍隊を派遣して抗日運動を絶滅せよと要求する決議がなされているのである。
そして、中国側が日本の要求全部をうけいれたとの情報がもたらされても、 この機をのがさず出撃することを求めて、多くの日本人が陸戦隊本部に集まり、 戦闘が開始されてのちは、居留民の間で自警団が組織され、 銃や日本刀・棍棒などで武装して検問を実施し、便衣隊狩りをおこなったという。 便衣隊とは、平服姿で民衆の中にまぎれ込んでいる軍隊といった意味で、 この時期から多用されるようになる言葉であるが、 陸戦隊側も便衣隊を銃殺する旨の布告を出しており、 反抗的な中国人が便衣隊の名目で自警団に虐殺された例も多かったことと思われる。
重光葵公使は、二月二日付の報告で、 これら自警団の行動は、関東大震災の際に朝鮮人を虐殺したあの自警団と同様であり、 「支那人にして便衣隊の嫌疑を以て処刑せられたるもの既に数百に達せるものの如く」と述べている。 そしてこの便衣隊狩りは、のちの南京大虐殺のなかでも、虐殺の一つの類型をなすに至っている。
引用日中相互の大使館昇格が実施された直後の五月二五日、 支那駐屯軍はすでに五月二、三日におこっていた親日派新聞社長らが天津で暗殺された事件をとりあげ、 それが「蒋介石系統の策動」によることが明らかになったとして、 国民党機関の華北からの撤退などを要求する方針をきめた。 これに対して国民政府軍事委員会北京分会長何応欽は、結局六月一〇日、日本側の要求をうけいれ、 河北省からの国民党機関、中央直系軍、抗日的な旧東北系の于学忠の第五一軍の撤退、 河北省政府の保定移転などの措置をとるに至っている。 なお、日本側ではこの措置を支那駐屯軍司令官梅津美治郎の名をとって、 「梅津・何応欽協定」によるものと称しているが、 両者が調印した文書があるわけではなく、ただ日本側の要求を中国側が実行したというだけのものであった。
輸入貨物査験所設置
引用二・二六事件のおこる少し前、 三六年二月一二日、冀東防共自治政府は、輸入貨物査験所を設け、 正規の関税の四分の一程度の査験料を徴収することで、海面からの物資の輸入を認める措置を実施した。 それは簡単にいえば、塘沽協定以来増加してきていた密輸を手数料をとって公認するということであり、 日本軍、直接には山海関特務機関の指導によるものであった。 すでに関東軍は、戦区海面への中国税関の武装監視船の配置を、 停戦協定違反として排除しており、中国側はこの密輸を阻止する手段を持たないわけであった。
【中略】 この密輸の公認は、この傀儡政府の経費を確保することを直接の目的としていた。 しかも、この低額の査験料は日本商品だけに適用されるものであり(他国製品は正規関税の八割)、 傀儡政府を養ったうえに、日本商品に不当の利益をもたらすという二重の経済侵略の性格をもつものであった。 さらにそのうえ、その収益の一部は、関東軍の内蒙工作につぎ込まれたという。
この措置がとられると、人絹、砂糖、綿布、雑貨などが、大連からどっと冀東地区にもち込まれ、 中国税関の収入を激減させただけでなく、 中国市場にも深刻な影響を与えた。 これに対し中国側は、運輸免状制度などをつくって対抗したが、 日本側は暴力的に検査所を突破するなどの事例も多く報告されている。 日本側が「冀東特殊貿易」と呼んだこの密貿易は、中国側の取締の強化と、 輸入のしすぎによる価格の暴落により、三六年後半から減退してゆくが、 華北を中心に猛威をふるったこの密貿易が、反日感情を拡める役割りを果したことはいうまでもないであろう。
成都事件
引用八月には、日本政府が中国側の反対を押し切って、 成都総領事館の再開(二七年以来閉鎖)をはかり、総領事代理を強引に赴任させようとしたが、 このとき赴任する一行に先立って成都に入った日本人新聞記者が、群衆に襲撃され、 二名が死亡するという事件がおこっている。
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