「日露戦争」 参考書籍
著者: 古屋哲夫(ふるや・てつお)
この本を入手発行: 中央公論社(1966/08/25) 書籍: 新書(242ページ) 定価: 770円(税込) 目次: T ロシアの極東進出と日本
U 戦争に踏み込む
補足情報:V 満州が主戦場に W 決戦を求めて X ポーツマス講和条約 Y 日韓協約 ―結びにかえて ―
この本では、日露戦争を理解するために必要な基本的な事実と基本的な問題点をできるだけ読みやすいかたちで提供することをめざした。(はしがき)
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日露関係への危惧
引用日本政府のなかで、ロシアとの戦争ということが真剣に考えられ始めたのは、じっさいに日露戦争が始まる四年ほど前のことであった。
一九〇〇年(明治三十三年)、中国で義和団が列強の利権奪取に反対してたちあがると、列強は共同で出兵、鎮圧したが、
満州を占領したロシア軍だけは、そのまま満州にいすわってしまった。
このロシアの満州占領をどうしてもやめさせようとするところから、日露戦争が始まるのである。
一九〇一年(明治三十四年)三月十二日、ときの外相加藤高明は、伊藤博文首相に対して、閣議での討議を求めるため一つの意見書を提出した。
加藤はロシアの満州政策に対して日本はどう出たらよいか、この点を早く決定しておきたいと考えたのであった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.4
帝国主義的世論
引用国内の政治的世論も、海外進出と利権獲得を要求する声を高めていた。
日清戦争後には、三国干渉―列強の中国侵略という事態を眼の前にみて、大陸政策への関心が高まり、
「民力休養、政費節減」 ―つまり「安価な政府」を要求する形で展開された自由民権運動の流れをつぐ民党の政治批判が影を消し、
かわって、政府の対外政策をより積極的、強硬に行なえというかたちの批判と、
地方的、あるいは産業部門別の経済的要求を政府につきつけるという活動とが、政党の政治活動の型となってきていた。
こうした政党活動の性格転換の画期となった政友会が、北清事変のさなかに成立したことも偶然ではなかった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.22
朝鮮問題
引用日本が直接におそれたのは、ロシアの勢力が満州からさらに朝鮮までのびてくることであった。
日清戦争まで日本は、朝鮮をめぐって清国との争いを続けていたが、この戦争の勝利によっても朝鮮支配を確立できなかった。
戦争中の露骨な干渉は、朝鮮側の反感を高め、三国干渉への屈服で日本の威信が落ちたところをねらって、
九五年(明治二十八年)七月、宮廷の実権を握る閔妃一派は親日派を追い出して、親露派の政府をつくった。
これに対して日本側は日本軍と大陸浪人を中心にしたクーデターで閔妃を殺害し、ふたたび親日政府をつくったが、
この乱暴なやり方に反対する反日運動が各地に高まったのは当然であり、
翌九六年二月には、韓国国王はロシア公使館に逃げ込み、そこから親日派一掃を命ずるという事件が起こった。
首相金宏集が白昼惨殺されるという結果をみても、日本の軍隊を背景にした親日派政権がいかに民衆から浮きあがり、
弱体であったかを推測することができる。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.22
引用義和団鎮圧の見通しがついた九月十五日、伊藤博文を総裁とする立憲政友会の発会式が行なわれた。
自由党の後身である憲政党はみずから解党して政友会にはせ参じていた。
伊藤は前年清国視察から帰ると、新政党組織のための遊説を精力的に行なっていたが、彼の演説の一つの力点は、
経済的な海外進出の重要性を説くことであった。
最近の戦争は経済的利権をめぐる戦争であると述べた伊藤は、帝国主義時代の基本的な特徴を認識するとともに、
帝国主義政策を遂行するために実業家を中核とする政治勢力を結集、拡大し、安定した政府をつくることが必要と考えたのであった。
政友会結成にあたって、各地の商業会議所会頭、資本金十万円以上の銀行頭取、資本金五万円以上の会社社長などに入会勧誘状が発せられているのは、
伊藤のこのような意図によるものであった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.22
ロシア、満州進出
引用六月ごろから義和団の勢力は、北京をこえて満州にも拡がり、ロシアが建設中の東清鉄道への攻撃もあらわれ始めた。
とみるや、ロシアは、七月三日、清国軍による黒竜江の対岸ブラゴヴェシチェンスクに対する軽微な砲撃事件をきっかけとして、
いっきに満州全土を占領してしまった。
そしてロシアはこの機会に満州の実質的保護領化を進めるのであった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.24
古屋哲夫 「日露戦争」
P.37
引用伊藤が外遊の希望をもった直接の動機は、エール大学が創立二百年の式典をあげるにあたって、
伊藤に名誉法学博士の称号を贈ると申し出たことであったが、井上馨はこのさい、欧州からロシアに足をのばして、
朝鮮問題についてロシア当局者と会談することを強くすすめた。
九月十三日、桂首相は、伊藤、山県、井上らを招き、伊藤送別の宴を開いたが、
山県が伊藤に独断専行しないようにクギをさすと、伊藤はそんな小うるさいことをいうなら外遊をやめてもよいと反発、
桂がとりなしたものの、その背後には日英同盟と日露協商、つまり、対外政策のつぎの一手をめぐる構想のちがいが存在していた。
九月十七日、伊藤は東京を出発して行った。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.42
引用九月二十一日外相に就任した小村は、十月八日林公使に同盟交渉の権限を与え、林は十月十六日ランスダウン外相と会談したが、
十一月六日にはイギリス側から最初の草案が林に手渡された。
それは日本側の予想をこえた急スピードな進展であり、ロシアに向かう伊藤博文の動きを考慮したものであった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.44
引用十一月二十日、【中略】 林公使と会談したランスダウン外相は、
同盟交渉をできるだけ早く進めることが必要だと強調し、日本がロシアと別約を結ぶようなことがあれば、はなはだ遺憾だと述べた。
しかし伊藤はこうしたイギリス側の思惑を顧慮することなく、ロシアに入り、
十一月二十八日ニコライ二世に謁見、十二月二日ラムスドルフ外相、翌日ウィッテ蔵相と会談、
十二月四日にはふたたびラムスドルフを訪問して四ヵ条の覚え書を提出した。
すなわち、(一)朝鮮の独立、(二)朝鮮領土を軍事的目的に使用しないこと、
(三)朝鮮海峡の自由交通を阻害するような軍事的設備を朝鮮沿岸に建設しないこと、という三点を相互に保証すること、
(四)政治上・工業上・商業上の関係については、日本は朝鮮で自由行動をとる権利があり、
また韓国の施政改革につき、軍事援助をもふくむ「助言及援助」を行なうのは、日本だけの「専権」であることをロシアが承認すること、
というのであった。
つまり、第一から第三の保証をして、第四項をみとめさせようというのである。
これをみたラムスドルフは渋い顔をした。
彼は、これでは日本の利益ばかり規定していて、ロシアにとっては譲歩だけではないか、
朝鮮の独立を保証するといっても、政治的にも軍事的にも干渉することができる独立などというのは、はっきりいえば、
有名無実ではないかと不満を述べたてた。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.45
引用この条約で守るべき利益は、イギリスは“主として清国にかんする利益”、日本は“清国において有する利益に加えて、
韓国において政治上・工業上・商業上に格段に有する利益”とし、これらの利益が「別国ノ侵略的行動」
あるいは両国民の生命財産を保護しなければならないような「騒動ノ発生」した場合には、日英両国は必要な措置をとりうる、
ということで交渉の難関を切り抜けた。
期限は五年、交換公文で海軍の協力を規定した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.55
引用四月八日、ロシアは清国とのあいだの、いわゆる満州還付条約に調印した。
この条約は、ロシア軍の撤兵を三期に分け、それぞれ六ヵ月ずつの期間をとり、合計一年半で撤兵を完了することとした。
第一期は、盛京省の遼河の線以南から、第二期は盛京省残部と吉林省から、第三期は黒竜江省から、というぐあいである。
その条件として、ロシア軍が撤兵するまでは、満州における清国軍の兵員数と駐屯地は、ロシア軍務省との協議によって決定すること、
撤兵完了後は清国側の自由となるが、ただし、その後も兵員の増減はロシア側に通告すること、
清国はロシア軍が撤退した地域を他の国が占領するのを許さないこと、南満州での新たな鉄道建設は、
あらかじめロシア政府と清国政府のあいだで協議してからでなくては行なえないこと、
清国に返還された鉄道について、ロシアが経営、修繕のために費した費用を償還すること、などが規定された。
露清銀行に特権を与える契約案は結局調印されずに終った。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.61
引用一九〇三年(明治三十六年)四月八日、つまりロシアの第二期満州撤兵の期限が近づくにつれて、
ロシア軍の動静にかんするさまざまの情報が伝えられ始めた。
三月には、一方で牛荘などからは、ロシアの撤兵準備が進められているという報告ももたらされたが、
他方では、ロシア軍がむしろ遼陽から鴨緑江の方向にあたる鳳凰城に向けて進出しているという情報も入ってきた。
また四月に入ると、ロシア兵が森林事業のため鴨緑江岸に到着したとの報も伝えられた。
さらには清国駐在のロシア代理公使は内田公使に、日本は満州に開市開港場をつくるよう要求しているというが本当かと質問し、
満州は日本が手をつけないように希望すると述べたという一幕もあった。
ロシアが満州で新たな積極政策に出るかもしれないという気配が感ぜられた。
はたして第二期撤兵は実行されなかった。
四月八日、奉天のロシア軍は、いったん停車場に向かって行軍を開始したが、結局もとの兵舎に引き返してしまった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.63
極東総督府設置による世論の硬化
引用世論はしだいに対露主戦論に熱狂し始めていた。
とくに極東総督府設置はロシアの日本に対する強硬な態度を示すものとうけとられ、
新聞はロシアとの戦争はもはや避けえないとするムードをあおり、政府の態度は、無為、軟弱であると激しい言葉で非難した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.75
引用十二月三十日の閣議は、開戦の場合の清国および韓国に対する方針を決定した。
まず清国は日本の側に参戦させることなく、中立をとらせるのが得策だとした。
清国を日本側に参戦させればいろいろな利益があるが、ロシアとの戦争ということから欧米人への民衆の反抗、
すなわち、先の義和団事件を再現しないともかぎらない。
そうなると清朝への革命内乱に至るかもしれず、そうした情勢になれば列強はたちどころに干渉を始め、
利権奪取に狂奔することはまちがいない。
この間、日本はロシアとの戦争に専念するほかはないということになれば、清国分割にたち遅れ、
福建の拠点さえ失うおそれも考えられる。
つまり、列強の利権を全身にしょい込んでいる清国を動かしては、分割を促進することになるから、
中立をとらせ、秩序と統一を保たせるがよい、というのであった。
それは中国分割への対応という、日露戦争の基本的性格を端的に示すものにほかならなかった。
いいかえれば、列強の現状を動かさないように戦争を局限しようということであった。
清国はこの勧告をいれて開戦直後の翌年二月十二日中立を宣言、日本政府はまた、戦闘区域をも遼河以東にかぎろうと努めた。
【中略】
韓国については「如何ナル場合ニ臨ムモ実力ヲ以テ之ヲ我権勢ノ下ニ置カザルベカラズ」とした。
しかしこの場合もできるだけ「名義ノ正シキヲ選ブヲ得策トスル」から、攻守同盟あるいは保護的協約を結ぶがよい、
といってもそれが成功するかどうかわからないし、たとえうまくいっても、韓国皇帝が一貫してこの協約を守ることは、期待しがたいから、
結局、帰するところは実力のいかんということになろう、と書いている。
ここで「名義ノ正シキ」というのは、韓国政府から依頼されたというかたちをとって、
朝鮮を占領し、駐留する方が、列強から文句をつけられる心配がなくて得策だというのである。
ところが韓国皇帝は日本に反感をもっており、反日派の勢力も強い、また九月には韓国皇帝は日露両国に使者を送り、開戦のさい、
韓国の局外中立をみとめるよう要請するなどの動きもあらわれていた。
こうした情勢のなかで、日本側がもっとも心配したのは、日清戦争の翌年に皇帝がロシア公使館に逃げ込み、
親日政権打倒を命じたような事態が再現することであった。
十二月には、京城では、皇帝がロシアの同盟国であるフランス公使館に逃げ込むのではないか、という風評が流れていた。
もし、皇帝がフランス公使館から日本の出兵を不法と宣言するような事態が起これば、日本としては、
はなはだやりにくくなることは眼にみえていた。
とすれば京城の早期占領は、こうした事態を防ぐ政治的意義をもってくる。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.82
引用十二月三十日、参謀本部、海軍軍令部合同首脳会議で、海軍は第一、第二艦隊で旅順を急襲し、
第三艦隊を鎮海湾に集結して対馬海峡を確保すること、陸軍は臨時派遣隊を海軍の行動開始より先に出発させないことなどが決定された。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.85
引用開戦が必至となった十二月三十一日、小村外相はロンドンの林公使に訓令を送り、
イギリス政府に対し開戦前に財政上の援助をしてくれるよう申し入れることを命じたが、
そのさいとくに日本の行動は利己主義によるものではない、
「何トナレバ日本ノ尽力ノ成果ハ満州ト商業上ノ関係ヲ有スル列強一段ノ均シク享受スベキ所」である点を強調せよと申し渡した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.89
引用開戦当時、仁川にはロシア軍艦「ワリャーグ」と「コレーツ」が碇泊していたが、
日本側は軍艦千代田をロシア軍艦とともに仁川に停めておき、日本の開戦の意思をあらわさないように工夫した。
二月八日午後仁川に入った日本艦隊は、ロシア軍艦の前で徹夜で陸軍部隊の上陸を行ない、
翌九日上陸が完了するとロシア軍艦の退去を要求、港外に出たところを攻撃して「ワリャーグ」を撃沈、
逃げ場を失った「コレーツ」は自爆した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.92
引用十四日の最高幕僚会議で四月二十七日もしくは二十八日より、鎮南浦に集結した第二軍先発部隊を塩大澳に向け輸送を開始することとし、
五月一日上陸開始と予定した。
それと同時に四月下旬に鴨緑江岸に集結を終る第一軍に対して、第二軍上陸の前日、四月三十日に渡河作戦を命じ、
ロシア軍を牽制することにした。
第二軍の上陸は準備が遅れて五月五日となったが、第一軍は予定をのばすことは不利として五月一日渡河を開始、
ここに日露戦争最初の陸戦が展開された。
九連城に主力をおくロシア軍に対し、右翼より渡河、敵を包囲するかたちで戦闘を行なうことに決した第一軍は、二十九日夜、
上流水口鎮より第十二師団を渡河させ、五月一日明け方から砲兵の掩護下にいっせいに前進開始、午後までには九連城一帯を占領、
ロシア軍は後備部隊をつぎ込むことなく退却した。
第一軍はついで五月十一日鳳凰城に進出し、ここで遼陽への前進のための補給を待つことになった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.102
引用五月五日塩大澳付近から上陸した第二軍は、まず南下して、遼東半島の中でもっとも幅が狭く、くびれている金州付近を占領し、
旅順を孤立させたうえで、北に向きをかえて前進するという作戦を命じられていた。
五月十三日、歩兵三個師団と砲兵一個旅団の上陸を終った第二軍は十五日行動を開始した。
この間、ロシア軍が南下、攻撃を加えてくることを大本営は心配したが、司令官クロパトキンは、遼陽に主力を止めたまま動かなかった。 【中略】
第二軍は北方に対する体制を整えて主力をもって南下、五月二十五日半島最狭部にまたがる南山の攻撃を開始した。
午前五時から三時間にわたる砲撃のすえ、歩兵の突撃となったが、敵陣は十分に破壊されておらず、
掩蓋の下からロシア兵が射ち出す銃弾に倒されていった。
十時には最後の予備部隊まで第一線に投入したが、午後になっても攻撃は進展せず、また早くも砲弾が欠乏してくるというありさまであった。
参謀の中には、いったん後退して陣容をたてなおすことを進言する者もあったが、
奥軍司令官は、万難を拝して攻撃を続けることを命令、午後六時すぎになってようやく敵陣の一角を突破した。
これを機に、日本軍に十分の損害を与えたとみたロシア軍は後退を始め、南山は日本軍の手に帰した。
ロシア軍はつぎの抵抗を旅順の要塞に予定しており、第二軍は以後ほとんど戦闘を交えることもなく、五月三十日には無防備の大連を占領した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.104
引用しだいに包囲の中におち込んでゆく感のあった旅順艦隊が、【中略】 ウラジオ艦隊への合流を望んだのは当然であった。
まず六月二十三日、掃海隊を先頭に戦艦以下十一隻が旅順を出港、連合艦隊の包囲を破ろうとしたがしだいに制圧され、
結局旅順に逃げかえってしまった。
しかし、これにこりず八月十日には第二回の出撃を試みてきた。
こんどは旗艦ツェザレウィッチ号を先頭に十七隻の陣容であった。
今度は連合艦隊も、なるべく遠くまで誘い出してたたく作戦をとり、南東方向に脱出しようとするロシア艦隊に追いすがった。
午後一時すぎから始まった海戦は容易に決着がつかなかったが、六時すぎ、旗艦ツェザレウィッチの司令塔を撃破したのを機に
ようやく日本側の勝利となった。
司令長官以下の幕僚を一瞬にして失ったツェザレウィッチは舵にも故障を生じ、
このためロシア艦隊の陣形はいっきょに乱れてしまった。
利あらずとみた主力はふたたび旅順に逃げ帰ったが、ツェザレウィッチと駆逐艦三隻は膠州湾に、
巡洋艦と駆逐艦各一隻は上海に、さらに一隻の巡洋艦はサイゴンに逃げ込んで武装解除されたし、
山東で駆逐艦が、樺太付近で巡洋艦が擱座するというありさまであり、旅順艦隊の力は半減してしまった。
黄海の海戦と呼ばれているのがこれである。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.107
引用いち早く京城を占領した日本軍の威圧のもとに、開戦二週間後の二月十三日、日韓議定書が調印されることとなった。
この議定書では、日本が韓国の独立および領土保全、韓国皇室の安全をはかること、
韓国政府は施政の改善について日本政府の忠告をいれること、第三国の侵害や内乱のため、
韓国皇室の安全や領土保全に危険のある場合には、日本政府は臨機必要の措置をとり、
韓国政府は十分の便宜を与えること、日本政府はこのため軍略上必要の地点を臨機収用できること、
この議定書に反する協約を第三国と結んではならないことなどが規定された。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.111
引用日韓議定書を一歩進めるという方針の具体化は、八月二十二日の日韓協約(第一次)の調印によって実現された。
この協約は三ヵ条からなり、(一)韓国政府は日本政府推薦の日本人一名を財政顧問に、
(二)日本政府推薦の外国人一名を外交顧問に任用すること、
(三)韓国政府は外国との条約締結、外国人に対する特権譲与もしくは契約などについては、
あらかじめ日本政府と協議すること、というのである。
外交顧問に外国人をあてたのは、国際的反響を顧慮したからであり、とくにあまり目立つことをやって、
アメリカ、イギリスの世論を失ってはまずいと考えたからであろう。
外交顧問には、アメリカ駐在日本公使館の顧問スチーブンス、財政顧問には、大蔵省主計局長目賀田種太郎があてられた。
とくに第三条が設けられたのは、韓国政府が日韓議定書と矛盾する対外条約、契約などは結べないとしても、
それ以外のものは自由であり、外国人の要求に応じて利権を与えることが心配だったからであり、
この心配が顧問任用の第一次日韓協約の調印を急がせた最大のモメントになっていた。
韓国政府と目賀田の顧問傭聘契約は十月十五日、スチーブンスとの契約は十二月二十七日締結されたが、
それによれば、韓国政府は財政・外交のいっさいの案件は、両顧問の事前の同意がなければ実行できないことになっている。
これで韓国政府は、財政・外交というもっとも重要な部門での実権を失った。
これはまさしく併合への第一歩であった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.115
児玉総参謀長、旅順へ
引用二十八日夜、突撃を繰り返した第一師団はついに山頂の一角を占領した。
しかしロシア軍も日本側の攻撃の焦点がここに移ったことを知るや、ぞくぞくと兵力を移動させて逆襲に転じ、
二十九日午前零時半にはせっかく占領した山頂も奪い返されてしまった。
もはや第一師団には攻撃を続行する余力はなかった。
軍司令官は総予備として手許にあった新着の第七師団に出動を命じた。
そして翌三十日午前十時から突撃を開始した。
この報告を烟台の満州軍総司令部できいた児玉総参謀長は激昂し、みずから旅順におもむくこととした。
一度占領した二〇三高地を確保するには、つぎつぎと新鋭部隊を注ぎ込まねばならないのに、
予備軍を約一日行程もある後方に置き、そのためせっかくの二〇三高地を奪回されてしまうとは、
第三軍司令部はなにをやっているのか、というわけである。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.136
引用フランスは、【中略】 四月には、日本の同盟国であるイギリスとのあいだに、植民地にかんする利害を調整する協定、
いわゆる英仏協商を結んだ。
それは両国が共同の行動をとるような約束をしたものではなかったが、
国際紛争の根本が植民地問題にあるこの帝国主義の時代にあっては、同盟に準ずる意味をもっていた。
フランスにとってはドイツとの対立が重大になってきていた。
北アフリカのモロッコの植民地化を進めようとするフランスの行動を、ドイツが妨害し始めていた。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.141
日露戦争に対するT・ルーズベルトの思惑
引用ローズベルトはすぐさま金子堅太郎と会見して、このドイツ皇帝の回答を漏らすとともに、
いったい日本は戦後の満州の行政のあり方をどうしようと考えているのか、と問うた。
ローズベルトは、ロシアの満州支配を打破するために、日本の戦争を支持したが、
そうかといって日本がロシアにかわって満州を支配することにも反対であった。
そこに彼が日本からの働きかけをうけて、講和の主導権をとろうとした理由があった。
彼は日露戦争について、少し後に、英国に旅行中の上院外交委員長ロッジにあてて、つぎのように書いている。
「思うに、ロシアの勝利は文明に対する一打撃であると同時に、
東亜の一国としてのロシアの破滅も予の所見にては均しく不幸であろう、
日露相対峙し互に牽制して、その行動の緩和を計るというのが最善である」(一九〇五年六月十六日付『小村外交史』)
つまり、日本が勝ちすぎたり、ロシアが負けすぎたりしないところで戦争を終わらせ、
戦後も両国が対立し牽制しあうというのが「最善」の状態であり、そこに満州開放が維持される条件があるとされていたのである。
ローズベルトにとって、戦争を自分の手で調停することは、このような条件をつくり出すことをめざしたものにほかならなかった。
なおついでにいえば、彼はさきの書簡の中で、日本についてつぎのように書いている。
「今から十年にして日本は太平洋上の主導的産業国になるであろう。
・・・・・・日本の偉大なる産業が、その古来の驚くべき軍事的精神を年々共に変化せしめ、
緩和すべきか否かはこれを断言できない」として、海軍充実の必要を語っている。
ここにはすでに日本の軍国主義的発展についての強い警戒心が生まれていることが注目されよう。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.143
引用年の初めから始まったストライキは、しだいに政治的要求をかかげるゼネ・ストの様相を帯びてきた。
この形勢の中で、警察などとも連絡をとりながら、融和的な労働者組織をつくっていた僧侶ガポンは、自己の地位と組織を維持するため、
皇帝に対する請願運動を企画した。
一月二十二日(ロシア暦一月九日)の日曜日、ガポンを先頭に十数万人の労働者やその家族たちが、皇帝の肖像をかかげ、
讃美歌を歌いながら王宮に向かって行進した。
しかしそこに彼らを待ちうけていたのは、皇帝の慈悲ではなく、軍隊によるいっせい射撃だった。
無抵抗の民衆は千名をこえる死者と、数千名の負傷者を出して追いはらわれた。
銃弾は労働者の肉体とともに、皇帝の慈悲への信仰を打ちくだいた。
「血の日曜日」と呼ばれるこの事件は、革命運動に油をそそぐことになった。
抗議ストは繰り返され、そこから革命的蜂起への条件が準備された。
農村でも、地主を焼打ちする激しい農民運動が始まってきた。
プロレタリアートを主力とし、農民を同盟軍として、全人民的蜂起を行なおうとするボルシェビキの革命戦略のための条件が生まれ始めていた。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.147
引用「血の日曜日」の事件を報じたのは偶然にも、「平民新聞」の終刊号(一月二十九日、第六十四号)であった。
開戦後も大胆に戦争批判を続けたこの週間新聞も、しだいに強まってくる抑圧をもちこたえられなくなっていた。
一九〇四年十一月六日第五十二号が社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、
幸徳秋水が禁錮五ヵ月、西川光二郎が同七ヵ月、罰金それぞれ五十円の刑に処せられたうえ、
印刷機械も没収された。
ついで発刊一周年を記念して「共産党宣言」を訳載した五十三号も発売禁止で没収された。
こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重くなってくると、ついに財政的にもちこたえられなくなり、
自発的廃刊が決定されたのである。
一年二ヵ月にわたり、延べ二十万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割をはたしたこの新聞も、
運動の大衆的基礎をつくるまでにはゆかなかった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.148
日露戦争下における朝鮮半島への経済的進出
引用すでに一月二十七日、韓国政府と第一銀行とのあいだに国庫金取扱いにかんする契約が結ばれ、
七月一日から第一銀行発行兌換銀行券が全面的に通用させられることになっていた。
四月一日には、韓国の郵便・通信・電話事業を日本政府に委託する取極め書が調印された。
また、一九〇五年からは、大倉・三井・渋沢・浅野らの財閥が、鉱山利権獲得のため積極的に活動を開始した。
陸軍が沙河付近で対陣し、海軍がバルチック艦隊を迎えうつ準備に忙しく、
戦闘が小休止の状態にあったあいだにも、こうして朝鮮の植民地化は着々と進められていた。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.152
引用ロシア軍南下の報はヨーロッパからの電報でも伝えられていたが、前線でも、日本軍右翼に対峙しているロシア軍が減少し、
左翼方面で増加している気配が感じられた。
そして一月二十五日には、日本軍左翼の黒溝台付近で戦闘が始まった。
日本軍は最初、後退してロシア軍を東方にひき出してたたく作戦をとり、黒溝台から退却したが、
ロシア軍は前進せずこの作戦は失敗に終った。
また満州軍参謀部は厳寒積雪の時期には大作戦はないものと信じ込み、
このロシア軍の攻撃も一、二個師団くらいの兵力による威力偵察と考えていた。
しかし、戦闘が進んでみると、七、八個師団の大兵力であることがわかり、日本軍もつぎつぎと増援軍をつぎ込まねばならなかった。
当時ロシア軍は、三軍編成に拡大されており、この攻撃を行なったのは第二軍であったが、
第二軍攻撃が成功すれば、第一、第三軍も総攻撃に出る計画になっていた。
しかし第二軍攻撃中に他の両軍はそれを助けるような作戦を行なわず、
第二軍も二十七日から二十九日にわたる日本軍の反撃によって撃退されてしまった。
この黒溝台付近の会戦で日本軍の死傷者九千三百名、負傷者の半分は凍傷を併発していた。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.156
引用旗艦三笠を先頭にした連合艦隊主力がバルチック艦隊を発見したのは午後一時四十分頃であった。
五十五分にはかの有名なZ旗がかかげられた。
「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と。
両艦隊の距離は急速にちぢまってゆく。
二時五分、距離約八千メートルに迫ったとき、旗艦三笠は左折して敵の頭を抑える方向に変針し、各艦これに続いた。
バルチック艦隊の方では、三列で進んできたこれまでの隊形を組みかえ、戦艦を左側に一列に並べて連合艦隊に対抗しようとしたが、
この組みかえにもたつくあいだに、三笠が左折するのをみるや、その転回点をねらっていっせいに砲撃を開始した。
しかし日本側はこれに応ぜず、距離六千メートルまで近づいて初めて、三笠が砲門を開き、
後続各艦もこれにならった。
いよいよ日本海海戦の火ぶたが切られたわけである。
ときに二時十分と記録されている。
海戦は最初の三十分で早くも日本側の優勢が明らかとなった。
砲撃の正確さと砲弾の破壊力で日本の方がまさっていたため、ロシア艦隊は圧せられてしだいに進路を右側に移し、
両艦隊はほとんど並航して砲戦を続けるうち、ロシア側旗艦「スワーロフ」、二番艦「アレクサンドル三世」、
五番艦「オスラービヤ」の三戦艦が火災を起こし、「スワーロフ」、「オスラービヤ」は戦列を離れてしまった。
日本側では巡洋艦浅間が舵をやられて修理のため一時戦列を脱しただけだった。
一時間後にはロシア艦隊は日本艦隊との正面からの対決をやめて、なんとか逃げ出そうとし始めた。
このころすでに、「スワーロフ」の司令塔は破壊され、ロジェストウェンスキー司令長官は砲弾の破片を頭にうけて人事不省におちいっていたし、
「オスラービヤ」はまもなく沈没してしまった。
「スワーロフ」もロジェストウェンスキーを駆逐艦に移したのち、日本の駆逐艦、水雷艇の波状攻撃をうけて、
午後七時すぎ撃沈された。
ロジェストウェンスキーはのち、日本の病院で奇跡的に意識を回復することになる。
さて司令長官を失ったバルチック艦隊は、北に東に南にと航路を変えながら、午後四時頃、一時日本艦隊の追撃をかわしたが、
戦列を整えてふたたび北上したところを、捕捉され、この第二の海戦で戦艦「ボロジノ」「アレクサンドル三世」を撃沈され、
さらに夜に入ると駆逐艦隊、水雷艇隊の猛攻をうけねばならなかった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.174
引用日本海海戦から三日たった五月三十一日、小村外相は駐米高平公使に訓令を発し、
ローズベルトに、日露講和につき友誼的斡旋を希望する旨申し入れるように命じた。
その文面は日本の立場の苦しさを反映して、苦渋にみちたものであった。
それはまず、日本海軍の大勝によってロシア政府が和平に傾くことは正当に予想され、また講和談判は両国が直接に交渉すべきものであるが、
講和談判に入るためには、中立国の友誼的斡旋を必要とするだろうとの見解を述べ、
ローズベルト大統領が「直接且全然一己ノ発意ニ依リ」両交戦国を接近させてくれることを希望した。
「直接且全然一己ノ発意ニ依リ」とは、斡旋が日本政府の依頼によることを秘密にして、
ローズベルトが自分の考えだけで講和斡旋に乗り出す、というかたちをとってもらいたいということであった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.180
樺太占領
引用六月十八日、まず先遣部隊を南岸コルサコフ地方に上陸させ、
ついで第十三師団主力を西岸中部のアレキサンドロフ付近に上陸させることに決定した。
大体この島にはさしたる守備軍はなく、急に編成された義勇軍ていどであったから占領はかんたんであった。
七月九日先遣部隊、二十四日主力部隊の上陸が成功すると、三十一日早くもロシア軍は降服し、樺太全島は日本軍の手中に帰した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.187
引用第二回日英同盟がロンドンで調印された八月十二日、ポーツマスでは日露講和交渉の第二回正式会議が開かれ、
ウィッテは日本側講和条件への回答書を提示していた。
日本の講和条件の第一には、日本が韓国を「指導、保護、及び監理」するのを承認する旨の規定がかかげられ、
ウィッテは「本条は異議を容るるの余地なし」と答えている。
新しい日英同盟は、この日本の韓国植民地化をみとめ、日英同盟が韓国とインドというそれぞれの植民地を守るために、
協力を強めることを約束した点で、旧同盟と決定的に異なっていた。
以後、相互の植民地支配をみとめ合うことが、日本の外交にとっても、列強との強調の基本になってゆくのであった。
そしてこのときすでに、アメリカとの同様の協定 ―桂・タフト協定が成立していた。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.191
引用七月下旬、アメリカ陸軍長官タフトが、フィリピン視察の途中、来日するや、日本政府はアメリカの親日感を強めようと大歓迎をもって迎えたが、
同時に桂首相兼外相は、七月二十七日タフトと会談し、両者はつぎのような諒解に達した。
(一)フィリピンをアメリカのような親日的な国に統治してもらうことは日本にとっても利益であり、
日本はフィリピンに対していかなる侵略的意図をももたない、(二)極東の全般的平和の維持にとっては、
日本、アメリカ、イギリス三国政府の相互諒解を達成することが、最善であり、事実上唯一の手段である、
(三)アメリカは、日本が韓国に保護権を確立することが、日露戦争の論理的帰結であり、
極東の平和に直接に貢献するとみとめる、というのである。
つまりここでは、フィリピンと韓国に対する両国の植民地支配の承認がとり交わされているのであり、この時期の日本政府が、
この桂・タフト協定と第二回日英同盟による植民地支配の相互承認を軸として、
戦後の国際的地位を確保する構想であったことが示されている。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.192
引用ポーツマスの講和会議は八月九日の予備会議から始められた。
日本側全権は小村・高平、ロシア側はウィッテ、ローゼン、予備会議では会議録の作成、随員の出席問題、秘密保持と新聞への発表方法、
会議時間などを決め、翌十日、さっそく第一回正式会議に入った。
小村全権はまず、日本側の講和条件につきロシア側が各個条ごとに意見を述べ、ついで逐条審議に移ることを提議し、
ウィッテの承諾を得て初めて十二ヵ条からなる講和条件を手渡した。
小村としては、ロシア側が条件中に承認できないものがあるという理由で、最初から一括して拒否する態度に出ることを妨げたものであった。
ウィッテは、二日後には早くも回答書を作成し、十日の第二回会議に提出、逐条審議が開始された。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.195
引用伊藤は大臣を集め、参政大臣(首相)韓圭咼(※)の保護協約反対の訴えを聞いたあと、
一人一人の閣僚から意見を求めた。
まず外部大臣朴斉純がだんぜん不同意だが皇帝の命令とあればいたしかたないと述べると、
伊藤はそれでは命令なら調印するのだから不同意ではないと分類してしまった。
このほか度支部大臣(蔵相)閔泳綺が絶対反対を述べたが、学部大臣李完用は、逆に日韓両国は実力が違うのだから、
「未ダ感情ノ衝突セザル、未ダ時機ノ切迫セザル今日ニ於テ円満ニ妥協ヲ遂ゲ」ることが望ましいと積極的に賛成の態度を明らかにした。
残る四大臣も李完用に同調した。
これを聞いた伊藤は、これでは閣議は多数決で協約に賛成ではないか、それなのに調印の手続きをとらないのは日本と絶交するつもりか、
と韓参政につめよった。
進退きわまった韓が号泣しながら別室にしりぞくと、伊藤は閣僚の希望をいれて二、三の修正を行ない、
宮内府大臣に裁可を求めるよう要求した。
皇帝は韓国が独立を維持する力を蓄えたときにはこの協約を撤回するような規定がほしいと希望、
伊藤はこれをいれて「韓国ノ富強ノ実ヲ認ムル時ニ至ル迄」との一句を加え、
その場で浄書し、林公使と朴外部大臣が署名調印した。
時に夜中の十一時であり、伊藤らが退出したのは午前零時をすぎていた。
韓国植民地化の決定的な曲り角がすぎた。
協約は、日本が東京の外務省により、韓国の外国に対する関係および事務を監理・指導すること、
日本政府の代表として統監一名を置くことなどを規定した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.214
満鉄
引用日本にとって満鉄は、たんなる鉄道会社にすぎないものではなく、鉄道付属地という名の植民地を統治し、
さらに植民地を拡大するための機関にほかならなかった。
命令書は満鉄に対して、付属地の土木、衛生、教育にかんし必要な施策を行なうことを命じ、
その費用を住民からとりたてる権利を与えた。
そして、清国の行政権をまったく閉め出し、遼東租借地と同様、日本の領土として扱ったのであった。
付属地といっても線路の敷地は一部にすぎず、停車場周辺の市街地が主要な部分を占めており、
満州の交通の要衝に日本の小領土がつくられたことを意味した。
日本は清国からの抗議を無視して、安奉線敷設のために買収した土地をもこのような付属地として扱っていった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.226
引用八月一日、遼東租借地の統治と、租借地および鉄道の守備という二つの任務をもち、
民政部と陸軍部からなる、関東都督府が設置された。
これは日本軍の占領地軍政機関を直接にうけついでつくられたものであり、軍事的色彩の強い機構であった。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.227
引用日清戦争以来十年にわたる対立を、日露戦争によって清算した両国は、こんどはすぐさま手を結び合う仲になった。
ポーツマス条約による撤兵期間十八ヵ月が終るのは、一九〇七年(明治四十年)四月であるが、
早くもその三ヵ月後には、第一次日露協約が調印された。
日露戦争の結果、両国が満州に利権を二分したことが、この提携の基本的な条件になっていた。
ロシアは日本に南満州の利権を譲ったとはいえ、北満州を横断する東清鉄道とハルピン―長春間の鉄道を所有している。
いわば、戦争の結果、日露両国は満州における既得権者として対等の地位に立ったのであった。
したがって、この既得の利権への攻撃にそなえねばならないという点で両国は共通の利害関係に立つことになったのである。
【中略】
できあがった協約は、公表される協定と秘密協定とからなり、この協約の中心目的が秘密協定であったことはいうまでもない。
公開協定は(一)日露両国が相互に、その領土およびこれまで清国と結んだ条約、日露間の条約を尊重する、
(二)清国の独立と領土保全、列国商工業の機会均等をうたっただけのものだった。
しかし清国の独立をまともに考えているのではないことは、秘密協定ですぐ明らかになってくる。
秘密協定はまず、満州に両国の利益分界線をつくることをきめた。
利益分界線は露韓国境から、長春、ハルピンの中間を通り満州を横断するように定められ、
鉄道、電信の権利をそれぞれ分界線をこえて獲得する活動をしないことを約束するものであった。
この案を出した日本側が、列国および清国の反発を考慮して、
問題を政治的意味をもつ鉄道と電信にかぎったと述べていることからもわかるように、
植民地化の境界線と了解されていたことは明白であろう。
この満州分割についで、秘密協定は、ロシアは韓国に対する日本の支配の発展を承認すること、
日本は、外蒙古におけるロシアの特殊権益を承認することを規定した。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.230
引用日露協約調印の六日前、七月二十四日、伊藤韓国統監と李完用首相とのあいだに調印された第三次日韓協約は、
韓国政府は法令の制定、重要な行政上の処分、高等官吏の任免にあたっては統監の事前の承認を必要とすること、
統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命することなどを規定していた。
統監は韓国における事実上の主権者の地位についたといってもよかった。
同時に結ばれた秘密覚え書で、大審院以下の裁判所、監獄を新設し、大審院長を日本人とするほか日本人裁判官、
典獄の任命、王宮守衛の一大隊以外の韓国軍隊の解散、中央から地方官庁まで各部次官以下の重要官職に日本人を任命することなどを決めた。
この事実上の併合への反対が朝鮮全土をおおったことはいうまでもなく、
京城での軍隊解散式への反乱をきっかけとして、全土に武装反乱が拡大してゆく。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.237
満州鉄道中立化案と日露協約A
引用一九〇九年(明治四十二年)清国とのあいだに、米英資本により錦州―愛琿間の鉄道を敷設する予備協定を成立させると、
十二月十八日アメリカ政府は、このことを報ずると同時に、清国の領土保全と機会均等主義を実現するため、
満州のすべての鉄道を清国の所有とし、関係列国の共同経営にする案をもち出してきた。
これは、鉄道を中心にして満州の植民地化をはかっている日本とロシアをおびやかすものであった。
日露両国は協議のうえでこの提案を拒否し、不成立に追い込んでゆくのであるが、このことは、
満州における日露の提携が、満州を両国の独占下におくことをめざしている点を、より明確にすることが必要だと考えさせるにいたった。
一九一〇年(明治四十三年)七月四日、前回の協約を補充するものとして第二回日露協約が調印されたが、
その第一条で、両国が満州における鉄道について「友好的協力」を行ない、「一切ノ競争ヲ為サザルコト」を規定したのは、
あきらかにアメリカの満州鉄道中立化案への対抗を示していた。
さらに秘密協定では、前回協約の利益分界線を両国の特殊利益の境界とすることに改めていた。
古屋哲夫 「日露戦争」
P.240
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「韓圭咼」の「咼」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 |