「大本営参謀の情報戦記 ― 情報なき国家の悲劇 ― 」 参考書籍
著者: 堀栄三(ほり・えいぞう)
この本を入手発行: 文藝春秋(1996/05/10) 書籍: 文庫(348ページ) 定価: 円(税込) 初版: 文藝春秋(1989/09) 目次: まえがき 補足情報:
太平洋戦中は大本営情報参謀として米軍の作戦を次々と予測的中させて名を馳せ、
戦後は自衛隊統幕情報室長を務めたプロが、その稀有な体験を回顧し、
情報に疎い日本の組織の“構造的欠陥”を剔抉する。(裏表紙)
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蛙跳び作戦の原理
引用東部ニューギニアでは、最初の距離はせいぜい三百キロどまりであったが、
日本の戦闘機が劣勢になり、米軍の戦闘機の性能が向上して、P-38が出現しだしたニューギニアの西部からは、
行動半径が一千キロにもなって、飛び石の距離が飛躍的に延びてきた。
要するに飛び石作戦を可能にするものは、制空権であり、寺本中将の「航空は軍の主兵なり」は至言であった。
土地を占領することは陸軍の任務であったが、
それは米軍では空域を占領する手段でしかなかった。
従って主兵は航空であって陸軍は補助兵種に過ぎなかった。
陸軍が占領する土地の面積は、そこに陸軍が所在している面積と大砲の射程だけの土地であるから
太平洋の広さから見ると点のようなものである。
それに比較して空域を占領した場合は、戦闘機の行動半径×行動半径×三・一四であるから、
仮りに戦闘機の行動半径が五百キロとすると、この占領空域は実に、七十八万五千平方キロと恐ろしいような数字になる。
これが航空を主兵とした米軍と、依然歩兵を主兵と考えていた日本軍の太平洋上の戦力の相違であった。
戦略思想の遅れは、こんな大きな数字的懸隔となって現れてしまうのである。
堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」
P.116
蛙跳び作戦の実態
引用太平洋の島を見てみよう。太平洋の島々は日本の小笠原諸島を含めて、
日本が守備隊を配置したのが大小二十五島、そのうち米軍が上陸して占領した島は、わずか八島にすぎず、
残る十七島は放ったらかしにされた。
米軍にとって不必要な島の日本の守備隊は、いずれ補給もない孤島で餓死するのだから、
米軍としては知らん顔であった。
戦後の調査資料(数字はいずれも概数にとどめる)によると、前記二十五島に配置された陸海軍部隊は、
二十七万六千人、その内、八島で玉砕した人数が十一万六千人、孤島に取り残された人数が十六万人、
そのうち戦後生きて帰った人数が十二万人強、差し引き四万人近くは孤島で、米軍と戦うことなく、
飢と栄養失調と熱帯病で死んでいったのである。
さらにニューギニアに目を転じてみる。
安達二十三中将麾下の第十八軍の当初の兵力は、三個師団と海軍守備隊を基幹とする約十四万八千人。
陸続きと思った原始林のジャングルを伐り拓いて、八百キロ以上の死の大行進をして、西へ西へと進んだが、
米軍の飛び石作戦の方が先に進んでしまって、アイタペに兵力を集結し終えたときには、
第十八軍は完全に米軍の後ろに取り残されていた。
日本からの船での補給は完全に遮断されて、彼らの前に立ちはだかったのはただ飢餓と熱帯病であった。
戦後の資料によると、生還して日本の土を踏んだ者は一万三千人であるから、
実に九十パーセントの兵士が無惨にも命を落してしまったことになる。
ブーゲンビル島で最後まで残って帰った神田正種中将は、【中略】 浜之上連隊の攻撃失敗後、
さらに第六師団の全力でタロキナを攻撃し、これまた失敗に終って、遂にブーゲンビルに取り残された。
この将軍は、
「軍紀も勅諭も戦陣訓も、百万遍の精神訓話も飢の前には全然無価値であった」
と、述懐している。
大本営作戦当事者たちは、太平洋の島々の戦闘がこんな極限状況を呈することなど予想すらつかぬままに、
作戦を指導していたのである。
堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」
P.117
サイパンの防衛
引用第四十三師団の主力は五月九日、極秘裡に名古屋港を出発、
五月十九日サイパン島に上陸したので、当時途中の米軍潜水艦の攻撃を心配していた大本営作戦課は思わず万歳をして
喜んだと伝わっている。
ところが、第二次の輸送船(一個連隊四千名)は次々に撃沈せられ、六月七日やっとサイパン島に辿りついたのは、
海面に浮遊中を助けられた丸腰の千名だけだった。
結局第四十三師団は一万六千名が一万三千名になって、そのうち千名は丸腰部隊となってしまった。
第四十三師団は、それでも到着後直ちに陣地の構築にかかったが、
米軍の主上陸正面と考えられる海岸は、珊瑚礁の脆い土質で崩れやすく、それに地下水がすぐ出て、
軽度な壕を掘るのがせいぜいであった。
ましてセメントで陣地を作るとか、鉄条網を張るとか、対戦車用の深い壕を掘ることも出来ないため、
近代戦にはほど遠いお粗末極まる陣地であった。
大本営作戦課は、その後も一貫してそうであったが、任務は与えるが、
対米戦闘に必要な陣地用の資材や糧食や弾薬を十分に与えることはなかった。
それにもう一つ、一番大事なものを与えることを失念していた。“時”である。
絶対国防圏が決定されてから、第四十三師団を守備につかせるまでに、八ヶ月かかっている。
防禦が攻撃に優るのは、地形の利用、資材の準備と時間である。そのどれもが、「ゼロ」であった。
堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」
P.129
引用海軍はまだ率直に戦況の非を悟っていったが、
陸軍は一個師団対四十三個師団のサイパンの作戦にも、なお望みを繋いで勝利を期待していた。
そして太平洋上至るところで玉砕に次ぐ玉砕を続けた。
その中で一きわ勇戦奮闘して、米軍の心胆を寒からしめ、世界戦史に「驚嘆」の賛辞を残したのが、
昭和十九年九月十五日米軍が上陸したペリリュー島の守備隊中川州男大佐(戦死後二階級特進、中将となる)の
歩兵第二連隊(水戸)の戦闘であった。
幸い米軍の上陸までに、短いとはいえ四ヶ月の準備期間があった。
そのため数線の陣地を孤島の中に準備し、第二線陣地には厚さ二・五メートルのセメントの掩蓋を作って大砲や機関砲を入れ、
水際での早まった突撃はやめて、徹底した奥行の深い戦法で、米軍が奥に入ってくれば入るほど損害が多くなる戦闘を行った。
その結果、九月十五日以降、十一月二十四日の中川州男大佐の自決に至るまでの二ヶ月以上を
一個連隊を基幹とする部隊(約五千名)で、米軍二個師団と押しつ押されつの戦闘を繰り返して、
文字通り米軍に悲鳴をあげさせただけでなく、山口永少尉以下三十四名は、
連隊があらかじめ作った最後の砦である地下壕や洞窟を利用して、ゲリラ戦に転じて昭和二十二年四月二十一日まで
戦闘を続けていたのである。
堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」
P.143
山下司令官からの特命
ここで堀は、生涯に一度ともいうべき任務を大将から貰ってしまった。
「レイテはこれから激戦になるだろう。今後の推移を十分見守らなければならないが、
いずれは敵はルソン島に来る。いつ、どこに、どれぐらいの敵が来るか、君は冷静に、
どこまでも冷静に専心考えて貰いたい。これが大将の君への特命だ。口外厳禁!」
実に簡潔な、だが凛とした武藤参謀長の声であった。
「神機到来す。レイテにて決戦をせよ!」
と、寺内元帥から叱るような命令を受けて、参謀長ともども、ついに立ち上らざるを得なかった。
いまや山下、武藤の両将軍は、方面軍の全神経をレイテに集中させようとしているとき、
大将はすでにレイテ以後のことを考えていた。
堀はジーンとしたものを感じて、改めて山下という将帥を見直した。
堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」
P.190
引用当時レイテ島への米軍の上陸可能正面は、実に四十キロ以上もあって、
いかに精鋭とはいえ、一個師団では一列に並べても、至るところ穴だらけであることは、
机の上で計算してもわかる。大本営作戦課の捷一号作戦を計画した瀬島龍三参謀が、八月十三日にレイテを視察しているが、
本当にこれで大丈夫だと思ったのだろうか。
十月二十日米軍は第十六師団の正面に、四個師団が並んで上陸してきた。
それも四十キロの全正面にではない、彼らは自分が必要とする正面にだけ兵力を差し向けてくるから、
米軍の各師団の上陸担当正面は、せいぜい三キロぐらいのものであった。
これをサイパン島のときの要領で計算すれば、戦艦四隻が支援していると仮定して、
艦砲射撃だけですでに二十個師団、そこへ四個師団の上陸軍、第十六師団は二十四倍の敵の火力を受けたことになる。
その上、航空爆撃である。精鋭という精神主義の空文句では戦力にならないのは明瞭である。
日本軍は、もっと「鉄量」に目覚めない限り、堀たちの研究した情報の戦法的見地からは、
艦砲射撃の効く海洋の戦場での防禦では問題にならない戦力であった。
これが満洲や中国大陸であったら、艦砲射撃がないからまだ戦い得たかもしれないが、
大洋でも通用すると考えたところに大きな計算違いがあった。
堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」
P.195
米軍の弱点
引用すると、大将は言った。
「それでは米軍には弱点がないではないか?」
「いや、あります。米軍は山がきらいです」
レイテで行われた日本の第一師団の戦闘では、素人目には第一師団は、リモン峠で米軍に阻止されて
にっちもさっちもいかなかった、と見えるかもしれないが、堀の戦法的見方でこれを見ると、
第一師団は絶対優勢な米軍を相手に、二ヶ月近くにわたって一歩も退らないでよくぞ頑張った。
日本人は敗戦とともに、どれもこれも馬鹿な戦いだったとしか見ようとしないが、
一発の弾丸、一食の食糧の補給もない中でかくも戦った、この第一師団の戦闘は、
世界戦史に日本人強しとして残る勇戦であったと考えている。
もしこの師団に、弾薬、糧食の補給が出来ていたら、恐らく米軍を押し返していたと観察している。
劣勢な兵力をもって、優勢な米軍と戦うには、山が一番良い。
米軍は機械化に依存しており、元来米大陸や、欧洲大陸向きの人種で、もともと山が嫌いであった。
第一師団があれだけやれたのも、山で米軍の能力が鈍って、さらに艦砲と爆撃が、太平洋の島の平地のようには
その威力を発揮出来なかったことにある。
幸いにルソンは、艦砲射撃の届かない内陸を持つ、いささか大陸的要素の濃い島であった。
その上、山岳地帯がある。彼等が一番期待している艦砲射撃と爆撃(反対に日本軍には一番苦手な)を
使わせないやり方が出来る。
堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」
P.230
引用情報の中でも謀略ほど恐ろしいものはない。
米国は日本を占領するや否や、早々に「真相はこうだ」というラジオ放送を毎日毎日繰り返して日本人に聞かせた。
「日本人は大本営や軍部に巧みに欺されて、戦争に駆り立てられたのだ。
米国はこの気の毒な日本人を救うために、日本の軍部を叩きのめして、
いかにこの戦争が無益なものであったかを思い知らしめるために、止むを得ず原子爆弾を使わなければならなかった。
従ってすべては日本の軍部の責任であり、憎むべきは日本の軍部であることを、
日本人は今こそ自覚しなくてはならない・・・・・・」
極めて巧妙な責任をすり替えた謀略宣伝であった。
堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」
P.279
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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