「東條英機と天皇の時代(上) ― 軍内抗争から開戦前夜まで ―
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書籍: 文庫(323ページ)
目次: まえがき
第一章 忠実なる信奉者
  父親の遺産
  軍人としての自立
  勇む高級将校
  逆風での闘い
第二章 落魄、そして昇龍
  実践者の呪い
  透視力なき集団
  「あなたとはもう話せない」
  号泣する首相
引用大正十年秋、ベルリンの大使館にひとりの軍人が立ち寄った。 岡村寧次、陸士十六期、陸大二十五期の中堅将校だった。 歩兵第十四連隊付の肩書でヨーロッパ出張を命じられ、ベルリンに来たのである。 中国での駐在を終え、とくに目的もなく「ヨーロッパを見てこい」と送りだされた旅行だった。 軍内要職に進む者に必須のヨーロッパ見聞旅行であった。
岡村はある計画をもっていた。モスクワに駐在している小畑敏四郎、やはりスイス公使館付武官の肩書で スイス、フランス、ドイツを回っている永田鉄山、それに岡村の三人は同期生の縁で ドイツのバーデンバーデンで会い、密約を交わしていた。 日本陸軍改革のために手を携えて起ちあがろうとの意思のもとに三つの目標を定めていた。 その密約に、ベルリンにいる東條も加えようというのが彼らの肚づもりだった。
「どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか」
岡村は東條のアパートで熱心に口説いた。
「長州閥を解消し人事を刷新するのが第一点、つぎに統帥を国務から明確に分離し、 政治の側から軍の増師には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第三点だ」
いずれも東條には共鳴できる目標だった。
岡村によれば、永田小畑も先人の愚行に眉をひそめ、 「長州出身というだけでなぜ重用されるのか」と、三人は名前を挙げて人事の不公正を確かめあったという。 こうした先人たちに新しい時代に対応できる感覚があるというのか。 いまや戦術戦史もドイツの天才的軍人ルーデンドルフの説く総力戦体制の時代になっている。 戦争は軍人だけのものではない。 国家のあらゆる部門を戦争完遂に向けなければならない。 それがドイツでの教訓ではないか。日清、日露を戦った軍の長老にこれがわかるというのか。 岡村の言は激しいものだった。
「新たに閥をつくるというのではない。 それではせっかくの長閥打倒も意味がなくなってしまう。 さしあたりは、永田が国家総力戦の文書をまとめて局長に具申している。 われわれはそれを支えなければならぬ」
その意見にも東條は賛成であった。
「岡村さん、実は、私も同じことを考えていました。 まったく異論はありません。ぜひ同志に加えてください。 相結んで協力していきたいと思います」
「よし、それでは永田小畑にも貴様の意思を伝えておこう」
東條の強い調子に、岡村は意を強くした。 この男の父親を見れば、密約に加わるのは当然だと思っていたのが、はからずも当たったからである。
東條閥の萌芽
引用教官は自らを盛りたてるのに値する学生をさがし、 学生は将来の陸軍指導者への道を歩みそうな教官に媚態を示す。 事実、学生の間には「マグ」ということばがあった。マグネット(磁石)の略である。 栄達を極めそうな教官を見つけ、そこににじり寄っていく。その有様を指すことばである。
東條は一部の学生のマグの対象となった。 佐藤賢了、有末精三、富永恭次らがそうで、立食パーティでは、彼らが東條の周囲にはりついた。 なかでも東條にもっとも親近感を示したのは佐藤賢了で、彼は足繁く東條家にも通った。 講義の内容を確かめにきたり、故郷の金沢の土産だといってつぐみを届けたりした。 親しみをもって近づいてくる者に、東條はすぐに胸を開いた。
引用関東大震災直後、アナキスト大杉栄を虐殺したとされている甘粕正彦に ひそかに手をさしのべていたのは、東條甘粕の同期生たちだった。
甘粕が自殺を考えているそうだ。拘置所で絶食している。すぐに諫めてこい」
東條は区隊長時代の部下を呼び、甘粕の説得に赴かせたこともある。 甘粕もまた、終生その厚情に頭を下げつづけたという。
引用〈河本につづけ〉の声は、 省部の三十代(陸士二十期から三十期)の将校にも広まった。 張作霖爆死を満蒙解決の決め手にと考える将校は、「国策を研究する」との名目でしばしば会合を開くようになった。 ここに集ったのは石原莞爾、村上啓作、根本博、沼田多稼蔵、土橋勇逸、武藤章ら陸士二十二期から二十六、七期生で、 彼らはこの会合を「無名会」と称した。 そして無名会の有力会員に、「われわれと共に研究しよう」と半ば強圧的に働きかけたのが、 永田鉄山東條だった。
昭和四年五月十九日、双葉会と無名会が合体して「一夕会」という組織ができた。
初会合で一夕会は三つの方針を決めた。 (一)陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める、(二)満蒙問題の解決に重点を置く、 (三)荒木貞夫真崎甚三郎林銑十郎の三将軍を盛りたてる―。 宇垣系、上原系と争っている人事抗争に歯止めをかけ、荒木真崎ら人望のある将軍の時代にぬり変えるというのが、 彼らの願望だった。 三人の将軍を盛りたてるのは、三人とも長州とは関係がなく、長州に好感をもっていなかったからである。
当面の政策としては、満蒙分離計画を政治的、軍事的に進めるというのが、彼らの結節点となった。 また満蒙分離計画を政治的に進めるために、外務官僚との接触を進めることも決めた。 もっとも、接触といっても、陸軍が行なう軍事的行動を容認し、あわせてその“正当性”を外国世論に納得させるために、 つまり陸軍の尻ぬぐいをさせるために、手なずけておこうという程度の意味しかなかった。
東條連隊長の「就職斡旋委員会」
引用昭和四年、五年といえば、金融恐慌に端を発し失業者が増大し、 農村は疲弊していた時代だった。 二年の兵役を終え除隊する兵隊の多くは、明日からの職の心配をしなければならなかった。 そこで東條は、第一連隊の中に、「就職斡旋委員会」をつくった。 働く場所のない兵隊の職場をさがしまわるのが、この委員会の役目だった。 委員には中隊長、大隊長が命じられた。 委員といっても、実際は会社回りをすることだった。 どこも従業員を解雇しているときに、新たに採用してくれと頭を下げて歩くのが、その仕事だった。
「小使いでもいい。掃除夫でもいい。うちの兵隊をつかってくれないか」
将校は頭を下げて回った。こうして、とにかく除隊日までには全員の職場をさがした。
半面でこの委員会の運動は、将校の社会的な関心を広げることにもなった。 彼らのほとんどは陸軍幼年学校、陸軍士官学校出身者で、終生、陸軍の中でしか生活しない。 そういう将校が、会社回りをするうちに、自分たちのまったく知らない社会の断面に触れるのである。
桜会結成
引用ロンドン軍縮条約が枢密院で批准されたころ、すなわち昭和五年十月、 「桜会」が誕生した。 日ごろから「腐敗堕落した議会政治を改革するために、早急にやらねばならぬことは革命である」と豪語する 参謀本部ロシア班長橋本欣五郎が中心となった組織で、綱領の第一項には、結社の目的として、 国家改造のために武力行使も辞せずと唱えていた。 さらに趣意書の一節には「・・・・・・明治維新以来、隆々として発達し来たりし国運は 今や衰頽に向かわんとし、吾人をして痛憤憂愁措く能わざらしむるものあり」ともあった。 会員は「中佐以下国家改造に関心を有し私心なき者」に限ると明記されていた。
桜会には、根本博、土橋勇逸、武藤章、富永恭次ら無名会の会員も加わった。 だが彼らはまもなく脱会している。一夕会の会合で、東條が熱っぽく説いたためだ。
「クーデターを起そうというような連中と共に集ってはいかん。 過激な行動は断固排撃し、あくまでも合法的手段に頼るべきだ。 もうすこし待て。そうすれば永田さんを中心にしたわれわれの時代になる。 すべてはそこからはじまる」
そのあとを継いで、永田と岡村が口をはさんだ。
「国事は心配せんでいい。軽挙妄動は慎んで軍務に専念しろ」
そのことばで勇む会員も、彼らの側に戻った。 もうすこしの時間を辛抱することで多くのものが得られるとあれば、焦ることはないというのであった。
引用十一月に、いわゆる士官学校事件が起っている。 が、士官学校生徒を青年将校の村中孝次磯部浅一のもとに出入りさせ、 彼ら青年将校が不穏な非合法計画を練っていると摘発した事件である。 この計画を、は、参謀本部の片倉衷少佐や憲兵隊の塚本誠大尉らと共に陸軍次官に訴え、鎮圧を要求した。 その結果、村中磯部は拘禁され、取り調べを受けた。 ふたりは国家改造運動に熱心な皇道派の将校だったから、これは永田の指し金であると騒いだ。 も片倉も永田に近かったから、これも説得力があった。 のちに真崎が著わした『備忘録』には、永田一派の策略であったときめつけている。 むろん東條も、この策略の一部を担っていたとの意味が含まれている。
東條がこの策略に加わっていたか否かは明確ではない。 が、士官学校内に根強い皇道派の人脈を神経質な目で見ていたのは事実だし、 生徒が外部の勢力と接するのを嫌い、にも相当厳しい目で監視するように命じたことも想像に難くない。 はひときわ功名心に駈られている軍人だ。 彼が東條永田に忠勤を励んで、事件をでっちあげたこともありえないことではない。
昭和十年に入るや、村中磯部は停職、士官学校生徒五人が退学処分となった。 すると村中磯部は、と片倉を誣告罪で告訴し、軍法会議で却下されるや「粛軍ニ関スル意見書」を書き、 軍法会議の柳川平助議長に送り、三月事件十月事件の経緯をこと細かに明らかにして、 陸軍士官学校事件も、永田一派が教育総監の真崎を失脚させようと仕組んだものだと訴えた。 これも無視された。すると皇道派将校はいっそうその活動を強めていった。
引用昭和十年七月、軍中央では新たな権力闘争が起こっていた。 林陸相真崎が人事をめぐって応酬していた。
「こんどの人事異動は、私の手で行ないたい。 ついてはこの際、君も現役を退いてもらえないか」
顔色のかわった真崎を無視して、はことばを足した。も内心ではふるえていた。
「部内の総意なのだ。君が派閥の中心となって統制を乱しているのが、その理由だ」
「それはおかしいではないか。天皇のこの軍隊は部内の総意で動くのか」
のもとには人事局長今井清、陸軍次官柳川平助の作成した案が届いている。 それとは別に永田や参謀次長杉山元が加わっての人事構想もできあがっている。 ふたつの案とも山岡重厚、小畑敏四郎山下奉文、鈴木率道ら荒木真崎系の将校を省部から外すのを眼目としている。 この事情を知った真崎は激しく抵抗した。 三回にわたる話し合いでも、の決意は動かない。 すると真崎は、「こんな筋のとおらない人事を強行すれば何が起こるかわからない」と脅した。 軍の最高人事は陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官で決めるという内規があるではないか。 それに陛下の教育総監として仕えている以上、私の意見を無視するのは統帥権干犯ではないか 真崎はくり返した。この意見をは退けた。
青年将校は真崎に加担した。 彼らは「天皇の大権を侵すのは、永田だ」と軍内にふれ回り、永田のロボットだから、 元兇は永田であると公言した。
七月十五日、真崎の罷免が決まり、皇道派の重鎮は軍中央から消えた。 青年将校の怒りは頂点に達し、永田の周囲では、テロの危険があるから外遊でもしたらどうかという声があがった。
引用東條のもとには軍外の来訪者も多かった。 協和会総務部長甘粕正彦は、しばしば彼を訪れ、自らの人脈を東條に紹介した。 そのいっぽうでは東條も、甘粕を頼みにした。 粛軍人事で予備役に追いこまれた軍人のなかにも、東條を頼って満州に職を求めて来る者があり、 彼らを甘粕の縁で協和会に送りこまねばならなかったからだ。 第二十四旅団長時代の副官佐々木清もそのひとりで、彼も、「困ったことがあったら何でも相談に来い。 だがこんどはお国の方針に叛いてはならんぞ」といわれ、協和会の職員になって、東條人脈の一員に加わった。
「二キ三スケ」の時代
引用参謀長に就任してからの一ヵ月間、東條は満州国要人、 日本人官吏を参謀長室に招き、建国五年目を迎えた満州の様子を熱心に学んだ。 この時期、昭和十一年夏に立案された満州経済開発五ヵ年計画の円滑な実施が、満州国官吏の主要な職務になっていた。 そのことは、建国当時の石原莞爾板垣征四郎らが企画した独立国家の野望を捨て、 この計画を実現して満州国を日本の植民地、後方基地に変質させるという国策を採用したことを意味した。
東條に課せられた職務のひとつに、重工業化促進のため、本土資本の導入があった。 折から鮎川義介の日産資本導入をめぐって論議がつづいていて、 関東軍参謀は日産資本を導入して一気に後方基地化しようとしていた。 東條は、この導入により満鉄資本が先細り、満州経済が混乱するのを恐れた。 それで松岡洋右総裁や満鉄社員の抵抗やサボタージュを防ぐために、 満州国総務長官星野直樹と産業部次長岸信介を呼び、松岡を説得するよう頼んだ。 その結果、満鉄は日産資本の導入を認めた。 これにより五ヵ年計画が軌道にのった。
一般に喧伝される〈ニキ三スケ〉の時代は、このときからはじまった。
引用昭和十二年二月、陸軍内部の満州派の将校が林銑十郎内閣を成立させていた。 この中心は、参謀本部第一部長石原莞爾で、彼はかつての無産政党議員浅原健三を動かし、 政界上層部に林内閣を打診し、それを最終的に元老西園寺公望に納得させた。
カンチャーズ島事件
引用六月十九日、カンチャーズ島沖でソ連軍と満州国軍の間に衝突が起こった。 もともと国境は密林、山岳、河川で曖昧だったし、この曖昧さのなかにカンチャーズ島があった。 この衝突を知ると、東條はすかさず軍中央に電報を打った。 すると軍中央からは現状保持(不拡大)に努めよとの訓電がはいった。 関東軍は一個師団を送った。軍中央は外務省や海軍と協議して、 この地帯で軍事行動を起こす必要はないと、第二次訓電を打ってきた。 石原が軍内に根回ししたのである。ところが現地軍はこの訓電を無視した。 一方的に砲撃を浴びせソ連軍の砲艦を沈めた。 だがモスクワでの外交交渉で、ソ連は撤退を約束し、関東軍が原駐地に戻り、事態は収まった。
だがこれは政治的には大きな意味があった。 のちに参謀本部作戦部員西村敏雄が、この一ヵ月後の支那事変の伏線として、 モスクワの腰の弱さを知ったことがあげられると告白している。 〈ソ連は日本の対支攻勢に干渉するだけの力がない〉と日本陸軍は自己過信したのである。
引用ノモンハン付近の国境線は、日本と満州国はハルハ河と主張していたが、 ソ連と蒙古はノモンハンとみなしていたため、しばしばこぜりあいがあった。 五月十二日の蒙古軍と日本軍の衝突のあと、日満ソ蒙は兵力増強をつづけ、 六月から九月にかけて二次にわたり戦闘が行なわれたが、日本軍は完膚なきまでにたたきのめされ、 戦死者行方不明者八千三百名、戦傷戦病を含めると一万七千人もの兵隊が戦力から脱落した。 この戦闘の結果、「ソ連地上兵力の主戦力である砲兵、戦車の火力、装甲装備は日本軍とは段違いに強力であること」が 明らかになったし、航空兵力も当初は日中戦争の経験を積んだ日本空軍が優勢だったが、 そのうちソ連空軍は速力、火力での優位を利用して戦力を向上して猛爆撃を加えてきた。
参謀本部は「ノモンハン事件研究委員会」を設けて敗因を検討したが、 抜本的な装備には手をつけず、あるていどの火力装備補強で当面の欠陥をカバーすることにした。 歩兵の白兵主義という戦術を一掃する機会であったのに、それを捨てる勇気はなかったのだ。
ノモンハン事件は植田関東軍司令官、磯谷廉介参謀長の消極論に対して、 参謀の辻政信、服部卓四郎らが強硬論を唱え、参謀本部を説得して進めたものだった。 圧倒的なソ連軍の航空機と戦備のまえに、無暴な作戦を進め、あまつさえ敗戦の因を現地の連隊長に押しつけ、 自殺を強要するという、これらの幕僚の無責任さはその後の日本軍の退廃の予兆だった。 しかも植田と磯谷は予備役に編入されて責任はとったのに、 も服部も閑職に追われただけで、のちに東條によって重用されたのは、 東條人事の専横さを裏づけるものとして汚点になった。
兵務局長田中隆吉と憲兵政治
引用部下のなかには兵務局長田中隆吉のように、 武藤にライバル意識をもち、東條の腰巾着として積極的にふるまう者もでてきた。 彼は信頼する憲兵に命じて、要人の電話盗聴、小型カメラをつかっての写真撮影などを行ない、 それを得意気に東條のもとに届けて忠勤に励んだ。 もし東條が均衡のとれた指導者であったら、こうした田中の処置をそくざに中止させただろうが、 彼はむしろ、この情報に興味をもちすぎてしまった。 陸相官邸の執務室に座っていて、近衛木戸、そして議会の有力者が何を考え、誰に会い、 どのような話をしているのかがわかるとあれば、必要以上に関心を示してしまうのも無理はなかった。
引用陸軍省の実力者となり、閣議でも重みのある発言をするようになっても、 あるいは近衛松岡にそれなりに遇されるようになっても、東條自身は充足感を味わったわけではなかった。 彼がもっとも気にしているのは、天皇との関係だった。
陸相になってはじめての上奏で、「身体のふるえがとまらなかった」と、赤松貞雄に述懐したとおり、 東條の上奏はいつまでもその緊張ぶりのなかでつづいていた。 彼も他の陸軍の将校と同じように、天皇が陸軍を信用していないのを知っていた。 しかも三国同盟には賛成でない様子を示しているともきかされていた。 英国流の教育を受けた天皇は、独伊の側に好意をもっていないのは公然の秘密だったのである。
天皇が陸軍を嫌っているのは、そのほかにも理由があると噂されていた。 これまでの陸相や参謀総長の杉山元が、天皇のまえで、前回と異なったことをいい、 あるいはちぐはぐな言い訳をし、ときに質問されても答えることができず、「次回に詳細をご報告いたします」と退出して、 あわてて部下に説明を求めることもあったからだ。 ところが東條は、メモをとり克明に整理することでほとんどを暗記し、天皇のどんな質問にもこたえた。 それが細部にまで及んだ。 前任者の態度とはまったく異なっていた。 面接試験に答える生徒の図であるにしても、東條の上奏態度は、天皇の疑問にこたえ、不安をなくする、 それこそが政務を輔弼する自らの責任だとかたく信じている節があった。 それが天皇の信頼を得た理由だと、省部では信じられた。
「われわれは人格である。しかしお上は神格である」
上奏のあと、きまって東條は赤松にそう言った。
「今日はお上にやりこめられた」
ときには宮中からの帰りの車の中でつぶやき、子供のように頬を染めた。
引用七月十五日、松岡が欠席した閣議のあと、 近衛平沼騏一郎内相及川海相、それに東條を呼びとめ、松岡の罷免をそれとなくもちだした。 東條にも異論はない。それどころか内相海相を制して言ったほどだ。
「これまでなんとか協調していきたいと努力してみた。 だがもう限界にきている。こうなったら総辞職か外相更迭しかない」
近衛は喜び、アメリカの要求を受けいれたように見えぬように、形式だけの総辞職をしようと言った。 松岡にさとられぬような秘密行動で、近衛の総辞職劇は進み、予定どおり重臣会議で近衛が推され、 第三次近衛内閣が誕生した。七月十八日である。 外相には海軍出身の豊田貞次郎が座り、東條は陸相としてとどまった。
大西洋会談
引用ルーズベルトチャーチルは、米英両国の共同戦線結成を目標に、 ニューファンドランド沖の軍艦上で八月九日から十四日まで秘かに会談をつづけた。 彼らはソ連を陣営にひきいれることで一致し、日本とは当面摩擦を起こさないよう努めることで合意した。 しかし日本のこれ以上の武力進出には警告をだすことを決めた。 最後通牒にも等しい警告をだしておけば、日本はタイや蘭印に進出することはあるまいと考えたのだ。
チャーチルの対日認識
引用チャーチルは下院で演説し、大西洋会談の報告を行なった。 そこにはつぎの一節があった。 「日本は中国の五億の住民を侵害し苦しめている。 日本軍は無益な行動のために広大な中国をうろつきまわり、中国国民を虐殺し、国土を荒らし、 こうした行動を“支那事変”と呼んでいる。 いまや日本はその貪欲な手を中国の南方地域にのばしている。 日本はみじめなヴィシー・フランス政府から仏印をひったくった。 日本はタイをおどし、英国と豪州の間の連結点であるシンガポールを脅迫し、 米国の保護下にあるフィリピンをも脅している」
ルーズベルトチャーチルは、アメリカの軍備が整いしだい、日本にたいして仏印、中国からの撤兵を 押しつけると予想される意味をもつ演説であった。
引用次期首班に誰が座るのか、東條武藤もそして佐藤も、 軍務局の将校たちも落着かぬ様子で、午後からの重臣会議の終わるのを待っていた。 陸相官邸の芝生に椅子をもちだして、彼らは雑談にふけりながら、まもなく発表されるであろう東久邇宮内閣か、 それに近い皇族内閣を想定し、誰を陸相に推挙するかを話し合った。 二・二六事件以後、陸軍の政治的意思を担うことになった陸軍省軍務局の将校たちは、 陸相を推すだけでなく、希望する閣僚名簿まで用意するのが慣例であった。 この日午前中に、その名簿が武藤の机の上には用意されていた。 東條はこの名簿を見ていなかったが、それが自らにつきつけられる名簿になろうとは知る由もなかった。
午後一時すぎから、宮中では、重臣会議が開かれていた。 木戸倒閣にいたる経緯を説明し、そのあと次期首班についての検討にはいった。 若槻礼次郎宇垣一成を推し、林銑十郎は皇族内閣とするなら海軍関係の皇族がいいと言った。 発言が止まるのを見定めて、木戸が強力に東條を推した。
「この際必要なのは陸海軍の一致をはかることと九月六日の御前会議の再検討を必要とするのだから、 東條陸相に大命を降下してはどうか。 ただしその場合でも東條陸相は現役で陸相を兼任することとして、陸軍を押えてもらう」
重臣会議は重苦しい空気になった。 木戸ののこした『木戸幸一関係文書』によれば、かれの主張は、東條なら九月六日以後の情勢を逐一知りぬいていること、 それに陸軍の動きを押えることが可能であるが、若槻が推す宇垣では陸軍を押さえることはできぬというのであった。
東條の名前があがったとき、重臣のなかにも反撥する者はあった。 若槻は外国への影響が芳しくないといい、枢密院議長原嘉道は、木戸の考えている旨をよく東條に伝えるならば ・・・・・・と注文をつけた。 広田弘毅阿部信行林銑十郎は賛成し、近衛岡田啓介も強いて反対はしなかった。 午後四時すぎ、木戸天皇に会い、東條に大命降下するように決まったと告げた。 午後四時半、宮内省の職員が陸相官邸の秘書官に電話して、東條陸相の参内を要請した。
赤松貞雄から参内の伝言を聞いた東條は、顔をしかめ、日米交渉の資料と支那撤兵に異議申し立てをする上奏文を 鞄につめこみ、自動車に乗った。「相当厳しいお叱りがあるのだろう」、彼は不安気に赤松に洩らしている。 しかし宮中で、東條の予想は裏切られた。
「卿に内閣組織を命ず。憲法の条規を遵守するよう。 時局極めて重大なる事態に直面せるものと思う。 この際陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ。 なお後刻、海軍大臣を召しこの旨を話すつもりだ」
天皇は、視線を伏せている東條にそういって大命降下を告げた。 この瞬間、東條は足がふるえて、なにがなんだかわからなくなったと赤松に述懐した。 のちに東條自身が綴った記録には、「然ルニ突然組閣ノ大命ヲ拝シ全ク予想セサリシ処ニシテ茫然タリ」とある。 天皇から大命を受けたあと、木戸の部屋で、改めて東條及川に聖旨が伝えられた。
「・・・・・・尚、国策の大本を決定せられますに就ては、九月六日の御前会議にとらわれることなく、 内外の情勢をさらに広く検討し、慎重なる考究を加うることを要すとの思召しであります」
白紙還元で、改めて国策を練り直せというのである。 控室に戻ってきた東條は、興奮のため下を向いているだけだった。 よほど衝撃的な叱責を浴びたにちがいないと、赤松は思った。 自動車に乗っても無言だった。自動車が走りだすと、明治神宮に行くように言い、また口を結んだ。 赤松は「どうかされましたか」とおそるおそるたずねた。 すると東條は震える声で大命降下を受けたことを告げた。 こんどは赤松のほうがことばを失った。 明治神宮、そして東郷神社、靖国神社と自動車を回しながら、東條は「このうえは神様の御加護により 組閣の準備をするほかなしと考えて、このように参拝している」といって長時間参拝した。
このころ陸軍省にも、「東條に大命降下」の報がはいっていた。 武藤、佐藤をはじめとする将校は、その意をはかりかね、天皇は戦争の決意をしたのかと緊張した。 そういう緊張とは別に、政策決定集団の中枢になっている陸軍に組閣の命が下ったことは、 彼らにいくぶんの充足感を与えたことも否定できなかった。
引用ハルは、その回顧録に「東條は典型的な日本軍人で、 見識の狭い直進的な、一本気の人物であった。 彼は頑固で我意が強く、賢明とはいえないが勤勉でいくらか迫力のある人物」と書いている。 もっとも、駐日大使グルーの報告によって、この内閣近衛路線を継ぎ、日米交渉に尽力すると知るや、 ハルは警戒を解いている。 だが、政治的に、この内閣を利用することだけは忘れなかった。
国民の開戦願望
引用自らの内閣がさまざまに受けとられている様子は、 軍務課の将校によって東條にも伝えられた。 〈軍人は世間の評価を気にしてはいけない〉といわれているのを守って、 東條はその報告をあまり重視しなかった。 しかし日を経るうちに、官邸に殺到する激励の手紙の数がふえていくことに衝撃を受けた。 日中戦争から五年目、耐乏生活に倦いた国民感情は強力なカタルシスを求めていたが、 それが東條に殺到したのである。 その凄じさに、東條は恐怖を感じた。 国民も軍人も民間右翼も、東條に期待しているのは、対米強硬態度、その果ての対米戦争であった。 激励文とはそういう内容で満ちていた。 それがこれまでの東條の帰結だったからである。
引用会議が終わるたびに、東條武藤と打ち合わせて、陸軍省の態度を確かめた。 ときに佐藤賢了、真田穣一郎、石井秋穂の軍務局の将校も官邸に呼び、彼らの意見に耳を傾けた。 東條は、日米交渉に全力を尽くすが、その一方で作戦準備も進めるという考えを採り、 この方向で陸軍省を統一したいと、彼らに言った。 そのために統帥部の強い態度にどう対応するか、頭をひねった。 杉山永野は開戦論にこだわり、そこから動こうとせず、 東郷賀屋に強圧的な発言をくり返すばかりで、これがつづけば東條内閣の基盤も危くなるという危惧もあった。 武藤は「白紙還元の方向で努力するには参謀本部の強硬派、田中新一部長を更迭しなければならない。 そのために私も身を退く」と東條に人事での相撃ちを申し出た。
だが東條は統帥部の人事に手をつけなかった。 本来ならこの案を受けいれるべきだった。 しかし田中更迭で参謀本部がいっそう態度を硬化させるうえに、 新たに就任した者が事情に精通するまでかなりの時間を要するのが不安だった。 それに日米交渉をまとめるには武藤の政治力が必要だと、東條は考えていた。
主戦テロ
引用陸軍省の中枢である東條武藤日米交渉に本気で取り組んでいるという噂が 陸軍内部に広がると、公然とテロがささやかれだした。 「天誅を加えると公言する者がいる」と憲兵隊は情報をもってきたので、 軍務局長室には終日護衛の憲兵がついた。 東條もまた数人の護衛が身辺を守った。
東條白紙還元の枠をつけて推挙したのが内大臣木戸幸一だという事実は、 広く政策集団や民間右翼にも知れわたった。 木戸襲撃という噂も流れ、二十名に近い護衛が彼の周囲を警戒する事態になった。 木戸東條も、一面では自らのこれまでの幻影に脅えているともいえた。
1941年の対米感情
引用国民は国策が着々と動いていることなど知らない。 だがアメリカにたいする国民の憎悪は高まった。 新聞、雑誌、書物、そしてニュース映画。 そこで描かれたアメリカは、個人主義、金権万能主義、エロティシズムの氾濫する国であり、 アメリカ陸軍の士気は弛緩し、軍隊の体裁をなさぬ国として扱われていた。 そしてこのアメリカが、ABCD(アメリカ、イギリス、支那、オランダ)包囲陣の音頭をとり、日本を苦しめ、 生存を脅かそうとしているのだとあった。 東京朝日新聞が「見よ米反日の数々/帝国に確信あり/今ぞ一億国民団結せよ」と檄をとばした。 反米的記事の隣りに、ドイツ軍の猛攻で、ソ連の降伏も時間の問題という記事が飾ってある。 スターリンは弱音を吐いているとあった。
「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」
引用十一月十五日、連絡会議は「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定した。 ここに並ぶ字句には、不確かな世界に逃げこんだ指導者の曖昧な姿勢が露骨にあらわれていた。 二つの方針と七つの要領があり、方針には、極東の米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに、 蒋介石政権の屈服を促進し、ドイツ、イタリアと提携してイギリスの屈服をはかる、 そのうえでアメリカの継戦意思を喪失せしむるとあった。 この方針を補完するために、七つの要領が書き加えられていた。 そこにはイギリスの軍事力を過小評価し、ドイツに全幅の信頼を置き、アメリカ国民の抗戦意欲を軽視し、 中国の抗日運動は政戦略の手段をもって屈服を促すという、根拠のない字句の羅列があった。 願望と期待だけが現実の政策の根拠となっていたのである。
引用ハルと国務省のスタッフがまとめた二つの案、すなわち「暫定協定案」と 十ヵ条から成る「平和解決要綱」が最終的に成文化されたのは二十二日である。 「暫定協定案」には、両国が平和宣言を発し、太平洋地域で武力行使せず、 日本は南部仏印から撤退し、仏印駐留の全兵力を二万五千名に制限するとあり、 これを日本側が受けいれれば対日禁輸緩和を認めるとあった。
ハルは、この案を英・蘭・中国・濠州の大使に説明した。 事態が進展すれば相談すると約束していたからだ。
しかし蒋介石は、駐米大使からこの報告を受けるや失望の色を濃くした。 日本の「乙案」、アメリカの「暫定協定案」、それは彼のもっとも恐れている日米戦争回避の可能性を示していたからだ。 〈断じて潰さなければならぬ〉―彼は外交部長宋子文と駐米大使胡適にたいして、 ハルや国務省首脳、陸海軍有力者を説得するよう命じ、彼自身もチャーチルに「われわれの四年以上の抗戦も ついに無益に終わるだろう」「わが軍の士気は崩壊しよう」「わが国をいけにえにして日本に譲歩するのか」と訴えた。
この電報を読んだチャーチルは、蒋介石が同盟から離脱するのではないかと懸念した。 チャーチルハルから示された案を受けとったとき、 日米戦争勃発になればイギリスだけで対独戦を戦わねばならぬのではないかと不安に思ったのだが、 蒋介石の電報を読んでからは、蒋介石の自棄的な行動が心配になったのだ。 インドをはじめアジアに植民地をもつ英国としては、アジア人のアジアという日本の宣伝を裏づけてしまうのを恐れて、 中国をつねに陣営に引きいれておかねばならないと考えていた。 彼はルーズベルトに宛てて、「われわれは明らかにこれ以上の戦争を望んではいない。 われわれは一点だけを心配している。・・・・・・われわれは中国について心配している。 もし中国が崩壊したならば、われわれの共通の危険は非常に大きくなる」と警告した。 このメッセージが、国務省に届いたのは十一月二十六日の早朝だった。 ところがこれが、実際にルーズベルトに大きな影響を与えることになったのである。
メッセージが届く三時間まえ、ワシントンでは最高軍事会議が開かれ、 日本の最終期限をひとまず延長させるため「暫定協定案」の提案を検討していた。 会議に集う者は、それが事態の本格的解決にならないことも知っていた。 会議は難航したが、ルーズベルトが「日本人は無警告に奇襲をかけることで名高いから、 もしかすると十二月一日ごろに攻撃されることもありうる」と発言してから、出席者たちは、 この奇襲こそが救いになると気づいた。 戦争反対の声や孤立主義に傾く世論を燃えあがらせるには、第一弾を日本に発射させるべきだというのである。 対独戦に参加するためにも対日戦は必要だという暗黙の諒解がそれに輪をかけ、「暫定協定案」より「平和解決要綱」を 示したほうが、日本に第一弾を投じさせることになるかもしれないという誘惑が彼らを虜にした。 しかし最終的な結論をださぬまま、会議は休会となっていた。
この休会の間にルーズベルトチャーチルの電報を読み、すぐ宋子文と胡適に会って蒋介石の要望を丹念に聞いた。 またハルも陸海軍の責任者に会い、日本からの攻撃に反撃できるかを確かめた。 そのあとルーズベルトハルは長時間話し合い、この際事態を延ばす途を採らず、 日本に第一弾を投じさせる途を選択することにした。
十一月二十六日午後五時、ハル野村と栗栖を呼び、「平和解決要綱」を手渡した。 いわゆる「ハルノート」である。 国務省の応接間にはいるまえ、ハルは陸軍長官スチムソンと海軍長官ノックスに、 「まもなく日米間の主役は交代するだろう」と事態が政治から軍事に移ることを予言した。 そして事態はそのとおりに動きはじめたのである。
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