「東條英機と天皇の時代(下) ― 日米開戦から東京裁判まで ―
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書籍: 文庫(323ページ)
目次: 第三章 敗北の軌跡
  戦いの始まり
  快進撃から停滞へ
  「への反逆はお上への反逆である」
  舞台から消える日
第四章 洗脳された服役者
  承詔必謹
  「戦争全責任ノ前ニ立ツコト」
  象徴としての死
参考文献資料
あとがき
文庫版のためのあとがき
綜合人名索引
正式名称「大東亜戦争」決定
引用十二月十日、連絡会議はこの戦争を大東亜戦争と称することを正式に決めた。 海軍は「太平洋戦争」「興亜戦争」を主張したが、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものとして、 戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」という陸軍の意見がとおった。 自給自足、資源確保を重視する海軍と、自給自足と大東亜共栄圏建設の折衷を戦争目的と考える陸軍の 微妙な対立がここにはあらわれていた。
東條首相の民情視察
引用地方に出るまえ、東條はまず東京都内を視察した。 戦時下とあって、すべてが配給制なのだが、末端役人の不誠実、不明朗が目にあまり、 尊大な態度で〈与えてやる〉式の態度をとる者があるらしく、庶民の訴えが官邸にも数多く寄せられた。
そこでその訴えの役所を視察に行き、役人をどなりつけることが重なった。
「役人は重点をつかんで国民をひっぱっていかなければならぬ」
最高権力者の声は絶対である。役人はうなだれ、叱られた子供のようにうつむく図が、 東條のまえにあった。
たまたま東京の千住署を視察したときだった。 「身上相談所」という看板のまえに人が並んでいるのに、だれひとり応対をしていなかった。 すると例によって東條は、署長を呼びつけた。
「係員がいないのであれば、署長が窓口に立つのはあたりまえではないか」
署長がうつむいていると、東條が窓口に座って相談に応じはじめた。
徴兵検査の視察にもでかけた。 かつて陸相就任時に強調した健兵育成の推移を調べるためだった。 米穀店の倉庫に入り、貯蔵状況も確かめた。配給所では、応急米の配給の様子も見た。 配給を受け頭を下げている老婆がいた。 係員はそれを無視してつぎの者に配給をつづけると、東條はどなった。 「君も挨拶しなさい。ちょっとの気持で同じ一升が二升にもなる。 逆に五合にもなってしまうこともある。役人根性は捨てなければいかんではないか」。 係員は万座のなかでうつむいた。東條の叱責は正論でもあり執拗だった。
引用戦後明らかになったところでは、この爆撃はアメリカの示威行動だった。 アメリカ軍上層部は、昭和十七年の初期に日本の面子を失なわせる奇襲作戦で米国民の士気を鼓舞しようと考え、 〈日本本土爆撃〉を太平洋艦隊のキング提督が主張し、ドウリットル陸軍中佐を隊長とする爆撃隊が編成されたのである。 キングは「大損害を与えることは期待できぬが、日本の天皇にはいろいろ考えさせることは確かだ」と、 空母ホーネットからB25型爆撃機十六機を六六八マイル離れた東京をめざして飛び立たせた。
ドウリットル爆撃隊は、東京を爆撃してから中国奥地の基地に逃げこむことになっていた。 が、爆撃隊は日本国内では日本軍によって撃ち落されなかった。 このニュースはアメリカ国内を沸きたたせた。 アメリカのマスコミはしきりに「反転攻勢」ということばをつかって情勢の転換を期待したが、 この爆撃はその象徴的なてきごとと、とらえられたのである。
アメリカの対日戦略
引用アメリカの戦略は、まず日本を執拗なまでの消耗戦にまきこむことだった。 物量をつぎこんで消耗させる作戦にかえていた。 ルーズベルトは議会で報告し、二年間は生産に力をいれ、昭和十九年からは大反抗にでるといったが、 それが国民にも共鳴をよんだ。 態勢を整えつつあるアメリカのこの実態を、日本の指導者は見抜けないでいた。 むしろ開戦前よりも軽視が深まっていた。 あまりの戦果に具体案をつくるのを忘れ、かわって空虚なことばと、戦争協力に名を借りた指導者の傲慢がはじまった。
尾崎行雄逮捕
引用尾崎行雄東條宛に「憲政の大義」と題する一文を送ってきたが、 そこには「閣下が主宰し、巨大な国費を使用する所の翼賛会が、直接と間接とを問わず、総選挙に関与し、 遂に翼賛会をして候補者を推薦せしめたるに至っては、私が閣下のために嘆惜する所であります」とあった。 だが東條はまったく無視した。 それどころか東條尾崎を憎み、身柄を拘束できる理由をさがさせたのち、 東京三区の応援弁士として演説した尾崎の言のなかに不敬罪に抵触する部分があるとして、 強行に逮捕させた。ところが尾崎を逮捕させたことは政党政治家の閣僚のなかに反撥を招いた。 閣議でも即時釈放を主張する者もあるほどで、このあまりの抗議に東條もまた驚き、 尾崎を釈放するように警保局長に命じざるを得なかった。
東條の軍人たち
引用東條によって陸軍を追いだされた石原莞爾は、 東亜連盟会長のポストに就きながら、東條憎悪に燃え、 ときに東久邇宮のもとに行ってはその怒りを語った。 「日本は重慶政府と和平交渉し、アメリカとの戦闘はこれ以上深入りしないほうがいい」。 そして「今回の翼賛選挙で、人心は悪化し、国民は東條内閣と陸軍を恨んでいる。 この内閣は一日も早く交代し、外交および国内問題を解決しなければならない」と訴えた。
真崎甚三郎、柳川平助、香椎浩平、小畑敏四郎ら皇道派の重鎮は予備役になっていて、 陸軍内部に影響力はなかったが、訪う者には反東條を公言した。 香椎は、「あんな男が戦争指導などできるわけはない」と罵った。 皇道派ではないが、西尾寿造、谷寿夫、酒井鎬次、それに多田駿らは東條の包容力のない性格を皮肉った。 予備役という自由な立場で、彼らは、しだいに軍外の要人とも接していくことになる。 逆に東條が嫌った軍人は、『東條英機』(東條英機刊行会編)によれば、 「同期十七期の篠塚義男、鈴木重康、前田利為、一期後の十八期の山下奉文阿南惟幾、安井藤治、 二十二期の鈴木率道などがその最たるものであり、これに皇族の秩父宮、朝香宮、東久邇宮・・・・・・」という。 いずれも「頭脳明敏で批判精神の旺盛な人々であったので、東條陸相の下では余り重く用いられることはなかった」と書いている。 東條の度量のなさが露骨にあらわれているというのである。
引用軍務局長武藤章は二年半にわたってその職にあり、 開戦前の日米交渉では、東條の右腕だった将校であり、しばしば大胆な直言もした。 はじめのうち東條もその言を受けいれたが、真珠湾攻撃以来の戦果のまえに、 しだいに渋い表情を見せるようになった。 武藤は、東條内閣の他の閣僚より政治、軍事の両面に発言権をもち、なかでも書記官長星野直樹をぬくほどの権勢をもった。 それが徐々に星野との対立に発展した。東條自身は星野の側に立った。
四月にはいって、東條武藤を南方の占領地視察に赴かせたが、その間に、 武藤を南方の近衛師団長に転勤させることを決意した。 直接のきっかけは、星野鈴木貞一東條に働きかけたためといわれている。 東條を補佐するその役割に、東條のほうがしだいに疎んじるようになったとみるほうがあたっている。 立川の飛行場に戻った武藤に、副官の松村知勝が転任の命令書を手渡した。 無礼といわれても仕方のない方法だった。このとき激昂した武藤は、迎えに出ていた松村にむかって、
東條は政治亡者になったのか。 クーデターを起こして東條を倒すか。このままではズルズルと亡国だ」
とまで口走ったという。しかし軍務局長という激務に疲れていたこともあって、 彼は黙したままスマトラのメダンに赴任していった。
引用昭和十七年六月十日午後に、大本営海軍部はミッドウェー作戦を 「我が方損害(イ)航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破、(ロ)未帰還飛行機三十五機」と発表した。 東條もこのていどの数字しか知らされてなかった。 ところが政務上奏の折りに、天皇が何げなく実際の数字を洩らしたのである。 秘書官赤松貞雄は、「天子様がミッドウェーで喪失した隻数を洩らされ、この海戦への憂慮を示されたおりに、 東條さんは自分に報告されている数字とあまりにも違っているのに驚き、 改めてそれを調べてみるとやはり相当の被害があることが判ったのです」と証言している。 実際の数字は、空母四隻を喪失、重巡洋艦一隻、巡洋艦一隻、潜水艦二隻が大破していた。 しかも三千二百名の死傷者をだし、このなかには多くのベテランパイロットが含まれていたのだ。
引用八月七日にソロモン群島の最南端の島ガダルカナル島にアメリカ軍の急襲があった。 ラバウルから南へ千キロの距離にあるこの島には、航空基地を設営した海軍の陸戦隊二千人が守備にあたっていたが、 充分な防禦基地もできていなかったので、あっさりと上陸を許した。 アメリカ軍はガダルカナル、ツラギ両島に日本軍が航空基地を設営するのを警戒し、 早めにこれをたたいておこうというのであった。
日本軍は、この急襲を重視しなかった。 陸軍中央はガダルカナル島という名前さえ知らなかった。 ましてやこの島で半年間にわたり死闘がつづくことになろうとは予想もしなかった。 急襲の翌日、日本軍は第八艦隊(三川艦隊)が攻撃をかけ、アメリカの重巡四隻と四千名の乗組員を沈めた。 これが大本営にアメリカ軍の実力を過小評価させた。 全力をあげれば、ガダルカナル奪回は容易であるとして、ミッドウェー占領を予期してトラック島に待機したままの 一木支隊九百名に作戦命令が下された。 八月二十一日、一木支隊は夜襲をかけたが、戦車と砲火の集中攻撃を浴び全滅した。 このことはアメリカ軍が急激に態勢を整えていることを意味した。 実際、アメリカ軍はガダルカナルに滑走路を完成し、爆撃機と戦闘機を進出させて制空権を握り、 攻撃圏内に日本の輸送船の侵入を許さない戦略をとっていたのである。
東條東郷の対立
引用占領地行政の責任者は軍司令部が兼務するとなっているが、 その実態は歴史上で誇れるものではなく、占領地を補給地と考え、戦勝国の傲慢さで日本化を要求した。 現地の人びとに日章旗への礼拝を要求し、神社への参拝を求め、真影への敬礼を強要する・・・・・・。 そういう占領地行政が各国での軍司令官の実態だった。
「主権を尊重して経済協力の基礎のうえで善隣外交を行なわなければだめだ」
東郷は言い、武力統治一本槍でなく、文官統治へと変えていくべきだと主張した。 閣議に大東亜省設置がもちだされたとき、東條の意を受けて東郷と論争したのは、 企画院総裁の鈴木貞一であり、情報局総裁の谷正之だった。 彼らには東條の根回しができていたからだった。
だが東郷は猛然と反論した。
「外交が二元化されるではないか」
この執拗な反論に、東條がこんどは答えた。
「従来の外務省の外交だけでは、東亜の諸国はその他の諸外国なみだと不満に思い、 日本にたいし不信の念を抱くことになろう。 これらの国々の自尊心を傷つけては独立尊重の趣旨に反する」
東條はきわめて都合のいい論で対抗し、そして最後に本音を吐いた。
「大東亜諸国は日本の身内として他の諸外国とは取り扱いが異なる」
だが東郷もひるまず、外交二元化の不利をなんどもくり返した。 外交関係があるのはドイツ、イタリア、ソ連、バチカン、スイスなどわずかの国々だ。 このうえ東亜各国との外交交渉から手をひいてしまえば、外務省としても手足をもぎとられたと同然だという反撥が彼にはあった。 それだけに東郷も必死だったのだ。 ふたりの論争は意地のはりあいとさえなった。
【中略】
閣議後もふたりで話し合ったが、結局結論はでなかった。 かつての近衛東條のような険悪な雰囲気となり、東郷は辞意をほのめかした。 閣内不一致で東條内閣総辞職につながる恐れに、東條鈴木貞一を呼んで命じた。
木戸賀屋を説得して、とにかく大東亜省の設置を認めさせろ」
【中略】
八月三十一日、鈴木賀屋木戸に会い、大東亜省設置を説き、消極的な賛成を得た。 その報告を受けた東條は、きわめて手のこんだ手段で東郷追いだしをはかった。 九月一日の午前、東條東郷に通知せず、閣議を開いた。 そこで閣僚に大東亜省の設置の諒解を求め、全員が賛意を示すと、 「どんなことがあっても結束を乱さないように・・・・・・」と確約をとった。 午後、東條東郷を官邸に呼んだ。 東郷を待ち受けながら、すでに東條は興奮を押さえきれずに言いつづけた。
「国務大臣たる者は犠牲を忍んでこそ、そこに発展がある。 第一線で将兵は大君のために名誉の戦死をしている。 大戦下になればこそ、このくらいの心がけがなければ国務大臣たる資格はない」
自らはあらゆる政治的責任から免責された地位にいるという認識、 そして自らこそ聖慮の具現者であるとの自負だけが彼に宿っていた。
ふたりの会話は初めからかみあわなかった。
「大東亜省設置案は断固実施する予定だ。 この案に不賛成ならば、午後四時までに辞表を書いていただきたい」
東郷が出て行くと、東條は宮中に木戸幸一をたずねた。 外相が辞職しないときは閣内不統一で総辞職のほかはない、と言った。 木戸は驚き慰留した。この期に首相がかわるのは、内外に与える影響は大きいというのである。天皇も驚いた。
「内外の情勢、戦争の現段階、ことにアメリカの反抗気勢の相当現われ来れる今日、 内閣の総辞職は絶対に避けたい」
天皇のことばは木戸をつうじて、たちまちのうちに政策集団内部に広まった。 そうなると東郷も打つ手がなく、辞表を書かざるを得なくなった。
きわめて狡猾な東條の戦術だった。 この期に首相更迭ができるわけはないと知っている。 しかも天皇に信頼されていると自負している。 それを読みとって木戸に恫喝をかけた。思惑どおり成功したのである。
「戦時宰相論」と東條
引用元日付の朝日新聞に掲載された囲み記事、東方同志会の中野正剛が、 「戦時宰相論」と題して原稿を寄せていた。 ビスマルク、ヒンデンブルグルーデンドルフを引用しながら、非常時宰相は強くなければならぬ、 戦況が悪化したといって顔色憔悴してはならぬ、と説いていた。
「・・・・・・非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄足らずともその任務を果たし得るのである。 否日本の非常時宰相はたとえ英雄の本質を有するも、英雄の盛名をほしいままにしてはならないのである」 ―。桂太郎は貫禄のない首相と見えたが、 人材を活用してその目的を達したと賞め、「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。 強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しこうして気宇広大でなければならぬ」と結んであった。
新聞記者出身の中野正剛の文章だが、読みようによっては東條を激励していると受けとめられる。 彼の政治経歴はそのほうがふさわしい。 が、東條は、自分へのあてこすり、批判、中傷と読みとった。 一語一句にこもっている意味は、戦局への対応を誹謗しているというのであった。
すぐさま電話をとり、情報局検閲課を呼びだして「新聞紙法第二十三条により発売禁止にしろ」と命じた。 すでに内相の椅子を離れている彼の行為は、この二十三条の〈内務大臣の権限で、安寧秩序を紊したと認めたとき発売、 頒布を禁止できる〉という条項そのものに違反していたが、東條は、 こんな記事をパスさせるのは検閲課の官僚が寝ぼけまなこで仕事をしているからだと疑って、 そんなことにはお構いなしだった。
引用このころ東條自身、精神論を吐く者に異常なまで傾斜した。 たとえば、インド独立運動の志士チャンドラ・ボースとの出会いがそうであった。 マライのペナンでドイツ潜水艦から日本の潜水艦に乗りかえて日本に来たボースは、 日本にいるビハリ・ボースと手を結んで反英活動に入ろうとしていたが、 そのまえに協力を求めようと、東條に面会を申し込んだ。 だが東條は申し込みを無視した。 〈自国の独立運動を自国で進めていないうえにドイツの力に頼ろうとしている〉、それが不快の因だった。
東條が、ボースの執拗な依頼にやっと応じたのが六月十四日だった。 翌十五日から第八十二帝国議会がはじまるが、その最終的な打ち合わせで忙しいときに、 わずかの時間をさいて会おうというのであった。
その日、官邸の応接室にはいってきたボースは、東條に会うなり、射るような視線でまくしたてはじめた。 インド人がインド独立のためにどれほど熾烈に反英運動をつづけているか、 ことばは途切れることなく、通訳が口をはさむのももどかしげに吐きだした。 東條はこの男に関心をもった。
「明日もういちどお会いしましょう。私のほうもあなたといまいちど話したい」
翌朝、ボースは官邸にたずねてきて、また自説を述べた。 雄弁は彼の最大の武器であった。
「日本は無条件でインド独立を支援して欲しい。 インドの苦衷を救えるのは日本しかないのだから、その点は約束して欲しい」
ボースの申し出に東條はうなずいた。
「もうひとつお願いがあるが、インド内にもぜひ日本軍を進めて欲しい」
さすがにそこまで東條は約束できない。 これは統帥にかかわる問題だったからだ。 だが、この日からボース東條の交際がはじまった。
あの男は本物だ。自分の国をあれほど思いつづけている男を見たことはない。 なんとか協力したいものだ」
いちど胸襟を開くとあとは肝胆相照らす仲になる癖をもつこの首相は、いままた新しい友人を見つけたのである。
軍需省設置
引用このころ航空機生産は、陸軍と海軍の対立のなかにあった。 両者とも一日も早く、一機でも多く航空機を手に入れたいと、三菱飛行機や中島飛行機に予算を先に払ったり、 相手の生産工程の工員をひきぬいたりの足のひっぱりあいをしていた。 機種の選定も運用も陸海軍まちまちで、大量生産の組織も作業順序もできていなかった。
まず陸海軍で調整し、資材を適当に配分し工程を整えるのが必要だった。
「航空機、船舶だけを生産管理する組織、軍需省が必要だ」
それが機構組織を点検したうえでの東條の結論だった。 陸軍と海軍の間では「軍需省に庇を貸して母屋をとられる」警戒心が働いたが、 十一月一日を期して企画院、商工省、それに陸海軍の航空兵器総局を加え軍需省をつくることにまとまった。 東條は自身が軍需相に座って、航空機生産の陣頭指揮をとる心算だった。
中野正剛自決
引用いまや東條には、中野は目障りだった。 このまま野放しにすれば議会で何を言いだすかわからないと恐れた。 二十六日からの第八十三帝国議会の開会前にその動きを封じたいと考えていた。 しかし警視庁から届く報告は、中野の容疑はひとつとして固められないというのである。 議会召集日の前日、二十五日の夜、東條は首相官邸に安藤紀三郎内相、岩村通世司法相、松阪広政検事総長、 薄田美朝警視総監、四方諒二東京憲兵隊長を集め、中野正剛の処置を打ち合わせた。 このとき、東條は戦時に準じて法解釈すべきだと、松阪と薄田に詰めよった。
「警視庁からの報告のていどでは身柄を拘束して議会への出席を止めることはできない」
と松阪は拒み、薄田も同調した。 そこで東條は四方に意見を求めると、四方はそくざに「私のほうでやりましょう」と応じた。 それは議会に出席させないための罪状をつくりあげようという意味であった。 そして二十六日早朝、中野の身柄は憲兵隊に移され、四方は腹心の大西和夫に「二時間以内に自白させろ」と命じた。 午前中に拘留手続きをとらなければ、中野の登院阻止ができないからだった。
大西と中野がどのような会話をしたのかは明らかでない。 だがある憲兵隊関係者は、中野の子息を召集し最激戦地に送り込むと、大西が脅迫したという。 妻、長男、次男の三人をこの三年の間に亡くしていた中野は驚き、 それで憲兵隊の意に沿うような証言をしたとしている。 中野と親しかった人物が、昭和五十二年に岐阜に住んでいる大西をさがしだし、 脅迫的に証言を迫ったが、彼は震えるだけで決して詳細をもらさなかったという。
この日の夜、自宅に戻った中野は、隣室で大西ともうひとりの憲兵に監視されていたが、秘かに自決した。
この報は開会中の議会にも伝わった。 原因は不明とされたが、あの豪気な中野が自決するには東條の圧力があったからだと噂した。 噂はふくれあがり、東條中野に向かって「不忠者」とどなりつけたとか、 日本刀を渡して暗に自決を勧めたとか、ひそひそ話となって流れた。 「東條という男は何をするかわからん」という恐れを露骨に口にだす者もあった。
引用大東亜会議は、十一月五日、六日の二日間、帝国議会議事堂で開かれた。 議長席に東條が座り、式の一切は日本側の手で進んだ。 東條自身がもっとも得意の絶頂にあったのは、このときだったろう。 首相退陣後、彼はこの大東亜会議をしきりに話したし、昭和二十年九月に自殺未遂を起こしたとき、 彼の応接間にとびこんだMPの眼を最初に射たのは、このときの会議の写真である。
この会議の初めに、東條は、いつものかん高い声で、「英米のいう世界平和とは、 すなわちアジアにおいての植民地搾取の永続化、それによる利己的秩序にほかならない」と言い、 日本はその解放者であり、独立を援助する救世主だと説いた。 そこにはルーズベルトチャーチルに向けての意味もあった。 つづいて各国の指導者が演説した。 ラウレルは「中国が速やかに統一され、三億五千万のインド民衆がボース氏指導のもとに完全に独立し、 再びイギリスの支配に帰するがごときことのないよう希望する」といい、 ビルマのバーモも同意した。 しかしラウレルの演説のなかに、日本の軍部の占領行政を批判した部分があったが、 それは、不思議なことに東條には訳されなかった。
翌六日、自由インド臨時政府を代表してボースが発言した。 インド民衆は、イギリス帝国主義に抗して自由を戦いとらねばならぬといったあと、 「岡倉覚三(天心)および孫逸仙(孫文)の理想が 実現に移されんことを希望する」と結んだ。 雄弁に長けている彼は、この戦争を自国の独立運動、アジアの解放に結びつけ、 日本の自存自衛の戦争だけではないぞと宣言したのである。
ボースの演説が終わると、東條は発言を求め、 彼にしては珍しく芝居気たっぷりにメモを読んだ。 「帝国政府はインド独立の第一段階として、もっか帝国占領中のインド領アンダマン諸島およびニコバル諸島を、 近く自由インド臨時政府に隷属せしむるの用意ある旨を、本席上において闡明する」―。 ボースの表情が大仰に喜色にかわり、自由インド臨時政府の幹部たちと肩を抱きあった。 それは彼のスケジュールが成功したことを物語っていた。 来日するや、東條に、アンダマン、ニコバル諸島への自由インド臨時政府の進出を許可してほしいと訴えつづけ、 それを受けいれた東條は、この日の午前中に連絡会議を開いて、 急遽、ボースの申し出を受けいれることを決めたのである。 国土をもたなかった自由インド臨時政府は、これによってはじめて自国の領土に足がかりをもつことになった。
軍需省発足
引用軍需相に東條、軍需次官岸信介、総動員局長に椎名悦三郎が座り、 付設された航空兵器総局には長官遠藤三郎、総務局長大西瀧治郎が就き、 さしあたり昭和十九年四月からの生産計画を練り直した。 昭和十九年七月までに十八年九月の二・一倍の航空機生産、つまり月間三千八百機を目標とすることに決めた。
引用六月十九日朝、日本の艦隊とアメリカ軍艦隊が遭遇した。 小沢提督は、第一次、第二次と三百四十機の攻撃機を出撃させた。 先制攻撃で一気に決着をつける考えだった。 ところが同じ日の朝、陸上航空部隊が米軍の執拗な攻撃を受け、 グァム、トラックの航空部隊はすでに機能を失なっていた。 そのため「あ号」作戦の狙いである母艦航空部隊と陸上航空部隊が一体となっての航空決戦構想は、あっけなく崩れた。
日本軍は空母搭載機だけで戦わねばならなかった。
アメリカ軍には高性能レーダーがあり、これが日本軍の攻撃機接近を捉えた。 四百五十機の戦闘機が待ちかまえていた。 日本軍の第一次攻撃隊は、この迎撃の網にかかり、 辛うじてこれを突破した攻撃機も戦艦からの対空砲火を受け撃墜された。 四分の一がやっと母艦に帰りついた。 第二次攻撃隊はもっと惨めだった。 技倆未熟な搭乗員では遠距離攻撃が無理だったためもあるが、ほとんどがアメリカ軍の攻撃で撃墜された。
航空兵力だけでなく、空母翔鶴、大鳳は魚雷を打ちこまれ炎上した。 不沈空母とされていた大鳳が魚雷一本で炎上を起こしたのは、海軍の首脳部には衝撃だった。 空母瑞鶴に乗り移った小沢は、翌二十日に再び攻撃をかけようと戦力を点検したところ、 艦載機が百機に減っているのに驚かされた。 さらにこの日夕刻、アメリカ軍は日本の機動部隊に攻撃をかけ、空母千代田、瑞鶴の飛行甲板を破壊し、 飛鷹を爆発炎上させた。 豊田連合艦隊司令長官は、ここに至って全軍の撤退を命じたが、 日本海軍は三隻しかない大型空母のうちの二隻と三百九十五機を越す艦載機、 それに四百名近くのパイロットを失なっていた。 アメリカ機動部隊に被害らしい被害を与えることができなかったばかりか、 決戦まえには誰ひとりとして想像しなかったほどの惨敗であった。
東條・岡田会談
引用六月二十七日の朝、赤松が岡田をたずね、 首相に会って陳謝し、今後は自重して策動と思われるような行動を慎しむ旨をはっきり述べて欲しいと求めた。 岡田はうなずいた、と赤松は言う。そのあと、赤松は沢本海軍次官をたずねて、 岡田東條が和解することになろうとの見とおしを述べた。 岡田の動きを批判的にみていた沢本は、そのことを歓迎すると言った。
この日午後、岡田東條に会いに来た。 いくつかの不明朗な動きに岡田は遠回しに謝まった。 しかし岡田は、海軍部内で嶋田の評判は悪く、部内掌握もできていないと海相交代を要求することは忘れなかった。 岡田はその回顧録で、「果たしあいにのぞむような気持だった」と言っている。 東條岡田の申し出を、この期に政変があっては国家のためによろしくないと拒み、つぎに睨み据えて言った。
「現今、注意すべきは反戦策動である。 ひとつは近衛公を中心とする平和運動、二番目は某々らの赤組、三は各種の倒閣運動で、 閣下はこれらのものに利用されているのを承知されたい」
そのあとに、つぎのようにつけ加えた。
「おつつしみにならないとお困りになるような結果を招きますよ」
まさに脅しだった。のちに岡田は、回顧録のなかで、このとき暴力的な脅威を感じたと告白している。
東條のいう「某々らの赤組」というのは、石原莞爾と東亜連盟の動きをさしていて、 この人脈と岡田との接触を東條は恐れていたのである。
岸国務相、辞職拒否
引用十七日朝、東條を呼んで、当然のことのように辞職を促した。 するとは、東條の期待に反して意外なことを言いだした。 彼は、「挙国一致内閣」ができる保証がない限り辞職はしない」と言ってから、 「しばらく時間が欲しい、木戸内府に相談する」とつけ加えたのである。
それはどういうことか東條は困惑した。 飼い犬に手を噛まれたような気持になった。 が退出したあと、東條は側近たちを集めた。 そして憲兵隊にの終日監視を命じ、富永や星野には有力者をたずねて情報を集めるよう伝えた。
は二時間ほど経てから、再び官邸に来て東條と話し合った。 彼は辞表の提出を拒み、改造が完了するまで国務相としての発言権を留保すると言いだした。 東條の申し出を拒否するというのだ。 『岸信介回想録』(毎日新聞連載)によれば、「・・・・・・この戦争の状態をみると、 もう東條内閣の力ではどうしようもない。だからこの際、総理が辞められて、 新しい挙国一致内閣をつくるべきというのが私の原則だ」と言ったとある。
の造反は、東條だけでなく陸軍省軍務局の幹部たちを怒らせた。 彼らはの電話を盗聴し、この二、三ヵ月の行動をさぐり、さまざまな情報を集めてきた。 「木戸は一体のようだ。は他の重臣とも連絡をとり後押しを受けている」 「松平康昌内大臣秘書官長の話と、これまで届いた憲兵情報や警視庁情報をつき合わせるとの造反をにおわせている。 やはり岡田らが元兇だ」「は閣内で自爆覚悟である」―。
引用への辞職勧告が暗礁にのりあげたと同様に、 米内光政の説得も進まなかった。 海軍省軍務局長岡敬純、大麻唯男、石渡荘太郎がのりだして説得したが、 米内は他の重臣との約束を守り、入閣要請には決してうなずかなかった。 米内の背後では、海軍の反東條の幕僚が説得に負けぬようにネジをまいていた。 最後に佐藤賢了が米内邸に来て、威圧した。
「あなたは東條内閣だから入閣しないのではないですか。 それともいかなる内閣でも入閣するつもりはないのですか」
「いかなる内閣であっても入閣するつもりはない」
米内はあっさり答えた。
ここで東條の延命策は停滞した。 十七日夕刻、陸相官邸に、東條は、富永、佐藤、赤松ら腹心の将校を呼び、対策を打ち合わせた。 彼らの怒りは深く、「国賊どもを逮捕しろ」という激したことばがなんども吐かれた。 木戸や重臣は君側の奸だ、彼らをはずして直接天皇を説得しようという案も語られた。 民間右翼をつかい、に圧力をかけ辞表を書かせようという案。 ついで陸軍の兵隊を動かしてのクーデターに近い方法も練られたが、 それでは国内の摩擦が大きすぎるという結論が出て沙汰やみとなった。 ところがこの打ち合わせの席に新たな情報がもたらされてから、東條の意思は急に萎えた。
その情報というのは、重臣阿部信行からのもので、 平沼邸での重臣会議の結果、挙国一致内閣樹立が必要で、 一部の閣僚の入替えでは何の役にもたたないという結論をだしたというのであった。 阿部の伝言は、「これに抗したのは自分だけで、全員の見解がこれに集約され、 この方針のもとに木戸から上奏されることになろう」といっていた。 東條内閣では人心掌握はできないというのが切り札だともいい、 はじめから重臣たちは入閣の意思などなかったことも明らかになった。
部下たちの激怒をよそに、東條の辞意はかたまった。 天皇には重臣の入閣を約束していたのに、それが無理なことが裏づけられたのである。
お上のご信任にこたえられなくなった以上、もうこの地位にとどまることはできぬ」
そのあと無念そうにつけ加えた。
「重臣たちの排斥にあって退陣のやむなきに至ったのだ。 むずかしい改造計画をだしてきて、しかもそれを邪魔するというのだから言語道断な話だ」
その夜、東條は、家族に荷物の整理を命じた。 二年十ヵ月に及ぶ官邸生活は、この住居を自分のものであるかのように錯覚させていたことに気づくと、 改めて重臣を呪詛することばを吐いた。 が、これまでと同じように、そこに自省のことばはなかった。
引用午後一時すぎになると、ジープがつぎつぎと横づけされた。 新聞記者と、銃を肩にしたMP三十人あまりが東條家の回りを徘徊し、ある者は邸内に入りこんで、 ガラス越しに室内を覗きこんだ。
〈なぜ何も言ってこないのだろう〉
東條は首をひねった。彼は連合軍が逮捕に来たと思ったが、それよりも前に射殺されてしまうかもしれぬと恐れた。 そのまえに自殺しようと心に決めた節がある。 それで応接間を死に場所にふさわしいように最後の点検をした。 長年つかっていた机、椅子、書類棚。ソファの後ろには等身大に近い肖像画があり、 机には彼の心の拠り所である大東亜会議の写真を飾った。 そして応接セットのテーブルに遺言状を置き、二挺の拳銃と短剣一刀を並べた。 それから部屋の隅に大将の肩章と六個の勲章の略綬をつけた軍服をたたみ、その脇に軍刀三刀を立てた。 それが帝国軍人の最後を見守る舞台装置であった。
動きがはじまったのは午後四時近くになってからである。 二台の高級将校用のジープが玄関前に横づけになると、数人のMPが降り、 これまで監視をしていた兵隊を指揮して玄関と応接間周辺をとりまいた。 MP隊長ポール・クラウス中佐が玄関をノックした。 と同時に、邸をとりまいていたアメリカ兵が一斉に銃をかまえた。 彼らも銃撃戦を覚悟したのである。
ノックの音をきくと、東條は女婿の古賀の形見の拳銃をテーブルにのせた。 たぶん彼は、軍服を最後の衣装としたかったにちがいない。 そうしておいて彼は、半袖開襟シャツにカーキ色の乗馬ズボンという服装で応接間の窓をあけ、 「拘引の証明書をもっているか」とたずねた。 するとMPのひとりが書類を見せたので、東條は「いま玄関をあけさせよう」と言って窓を閉め、鍵をかけた。 軍服に着がえる時間はなかった。 のちに東條が巣鴨拘置所で語ったところでは、このあと彼はソファに座り、左手に拳銃を握り、 ○印の個所をシャツ越しに確かめて古賀の拳銃を発射させた。 しかし彼が左利きだったことと、発射の瞬間に拳銃がもちあがったことで、弾丸は心臓から外れた。
一発の銃声はアメリカ兵たちを驚かせた。 彼らは、東條とその護衛たちが絶望的な戦いを挑んできたと考えた。 すぐに応射し、何発もの弾丸を家に射ちこんだ。しかし邸内からの応射はない。 幾人かが玄関を破り、拳銃を手に応接間のドアを壊しにかかった。 興奮した英語が応接間のなかに投げこまれた。
このときカツは、隣家の庭で農婦を装いながら様子をうかがっていた。 邸内から一発の銃声が響き、それに応じてMPの乱射があり、 あとは喧騒が自宅を支配しているのを知って覚悟をきめた。 軍人らしい死に方であって欲しい・・・・・・と合掌し、夫はそのように死んでいったであろうと確信して、 彼女は庭から離れた。 高台の道を降りていくと、あちこちにジープがとまり、待機しているMPが無線にとびついているのが眼についた。 ジープのなかに機関銃が無造作に積みこまれてあり、もしもの場合にはアメリカ兵は射ちあいを覚悟していたのだと思った。 それが夫への〈対応〉だったのかと、彼女は不快の念を押さえることはできなかった。
引用花山は、東條につづいて板垣木村土肥原と面会を終えた。 そのあと彼は、モーニングの上に法衣をまとい、第一棟の一階一号室に駈けつけた。そこが仮りの仏間だった。
花山が水を入れたコップ七つとブドウ酒のコップ七つを準備してまもなく、 土肥原松井武藤東條が二階から降りてきた。 午後十一時四十分だった。四人の姿を見た花山は絶句した。 彼らの姿はあまりにも異様だったからだ。 両手に手錠がかけられ、その手錠は両股と結ばれ固定してあった。 正装して死にたいという彼らの望みはかなえられず、アメリカ軍の作業衣のままで、 背中と肩のところにはプリズンの「P」の字が刷りこんである。 それが彼らの最後の衣裳だった。 靴はアメリカ陸軍の兵隊たちが履いている編みあげ靴、両足には鎖がついていた。 彼らの誇りは一顧だにされていない。
両側に立つ将校は、いつもとちがって身体の大きな者にかわっていた。 連合軍の警戒が厳重なのは、ニュールンベルクの教訓のためである。 処刑場にカメラマンをいれて処刑の様子を撮影させたため、被告は興奮状態になり、 あばれる姿がそのまま世界に報じられた。 これは死者への冒涜であるとして花山は総司令部に訴えていたが、巣鴨ではカメラマンは入れないことになった。 しかし七人が錯乱状態になって暴れることを想定し、がんじがらめにすることだけは忘れていなかった。 四人には暴れる徴候はなかった。
仮りの仏間での最後の儀式が行なわれた。 花山が線香に火をつけ四人に渡し、四人はそれを香炉にいれた。 辞世の句を書いてもらおうと用意していた筆と硯をさしだし、せめて名前だけでもと花山が言うと、 四人は動かぬ右手に筆を握り、土肥原松井東條武藤の順で署名した。
つぎに花山はブドウ酒のコップを手にして、四人の口にあてた。 アメリカ人将校の差し入れのブドウ酒だった。 彼らはぐいぐい飲んだ。「うまいなあ」東條だけが声を発した。花山が『三誓偈』の一部を読経した。
護衛の将校が処刑場にむかうよう促した。 そのとき誰いうともなく、「萬歳を・・・・・・」ということになり、武藤が「東條さんに」と名ざしした。 すると東條は「松井さんに」と答えた。松井は彼の先輩にあたる。 松井が音頭をとり「天皇陛下萬歳」を三唱した。 ついで「大日本帝国萬歳」を三唱した。両手を下げたままの萬歳だった。
このころ「萬歳」は、アメリカ人が嫌うというので、あまり聞かれることばではない。 しかし四人の将軍は、アメリカ人のまえで三唱できたことに充足を覚えたようであった。 大日本帝国の「大」も「帝国」も消滅したのに、彼らは死の瞬間まで大日本帝国でしかものを考えられないことに、 花山はいささかの異和感をもった。
萬歳三唱のあと四人は、両隣りの兵士に「ご苦労さん、ありがとう」と言った。 それから花山の手を握り、期せずして同じことばを吐いた。
「先生、いろいろお世話になりました。 どうか国民の皆さんによろしく。家族もよろしく導いてください。先生もお身体をお大事に・・・・・・」
入口の扉が開いた。将校が先導し、そのあとを花山とアメリカ人教戒師が並び、 土肥原松井東條武藤とつづいた。 そしてその後ろにさらに数人の将校がつづいた。 「南無阿弥陀仏」と花山が唱えると、四人は唱和した。花山は空を見た。 星が無数に散っている夜で、それはいかにも彼らの葬送にふさわしく思えた。
処刑場の窓からは電灯の光が洩れていた。 が、厚手のカーテンがかかっていて内部は窺えなかった。 ドアが開いたが、花山と教戒師の入場は許されない。 だが室内には明るいライトがあり、四つの階段が中央にできあがっているのが垣間みえた。 四人はもういちど花山の手を握った。 東條は数珠をはずし、花山に渡した。 そして身をかがめるようにして処刑場にはいっていった。
そのあと花山と教戒師は、いま来た道を戻った。 つぎの組の準備をしなければならなかったからだ。 三、四メートルほど歩きかけて星空をみた。 そのとき処刑場からガタンという音がきこえた。反射的に時計を見た。午前零時一分だった。
板垣広田木村も同じような儀式を終え、たんたんと刑場に消えていった。
総司令部の発表では、四人の死亡時間は午前零時七分から十三分までと分かれているが、 それは六分間から十分間、彼らが仮死状態にあったことを意味している。
そのあと花山は、処刑場内部へ招じられた。 七人は七つの寝棺に横たわっていた。 彼はひとりずつに念仏をとなえ、回向をつづけたが、どの顔にも苦痛はなかった。 平常心そのままに死に就いた七人に、花山自身は感銘にも似た気持を味わった。
虚像の起源
引用新聞もラジオも七人の処刑を伝えたが、 そのことによって軍国主義が一掃されたかのようなとりあげ方であった。 憎悪と侮蔑で七人を謗れば自己証明ができるかのような無節操な論もあった。 彼ら七人を謗ることが一切を免罪するかのような意図的論調は、無反省で無自覚な国民心理を培養するだけであった。 やがて七人のなかの東條だけが〈普通名詞〉に転化していったのは、その培養の結果といえた。
東條英機の名誉も基本的人権も踏みつけであった。
ひとつの例をあげれば、ある有力な新聞が二十四日の朝刊に、 「幼児の心持つ東條―満足し死の旅に、夜通し祈った勝子夫人」と題して センセーショナルに報じた記事が指摘できる。 それは「この日勝子夫人は一切の面会をさけ独り静かに冥福を祈っていたが、 特に本社記者に次のような談話を発表した」と前書きして、東條はすでに幼児の心境になっていたとか、 これからの時代に東條の遺族として負けずに生きていこうとか書かれていたが、 この記事を書いた婦人記者松田某は、その日の夕方、この新聞をもって謝罪にかけつけたという。 また彼女は、判決宣告の翌日にも東條夫人の手記として、 「主人の精神的な命は敗戦と同時に終りました。 今は肉体的生命の有無は問題ではありません。 主人として死は願うところでしょうし、私共家族といたしましても主人の願うところはつまり家族の願うところであり・・・・・・」 といったような記事を捏造していた。 その日も訂正を求める家族に、「男性と伍していくには、こういうことでスクープする以外にないんです」と 得手勝手をいいつつ、問題を大きくしないように懇願して帰っていったという。
この種の記事がいたるところで見られた。 東條と舞踊家某との情事、連日の豪遊といった根拠もない話が氾濫し、 外地のある捕虜収容所では、思想改造の手っとりばやい方法として、 東條が酒色と金銭を目的に日本人民を欺いていたと、彼を卑劣な無頼漢にしたてあげた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。