「占領 1945〜1952 ― 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人 ―
参考書籍
著者: ハワード・B・ショーンバーガー
訳者: 宮崎章(みやざき・あきら)
発行: 時事通信社(1994/12/15)
書籍: 単行本(402ページ/二段組)
定価: 4000円(税込)
目次: はじめに
第1章 ジョセフ・C・グルー ―天皇と占領計画
第2章 ダグラス・マッカーサー ―平和をもたらす者と大統領職
第3章 T・A・ビッソン ―占領下の日本における改革の限界
第4章 ジェームズ・S・キレン ―占領下日本におけるアメリカ労働界の冷戦
第5章 ハリー・F・カーン ―アメリカ外交におけるジャパン・ロビー
第6章 ウィリアム・H・ドレーパーJr. ―第80連邦議会と日本の「逆コース」の起源
第7章 ジョセフ・M・ドッジ ―世界経済への日本の統合
第8章 ジョン・フォスター・ダレス
         ―対日講和条約交渉におけるアメリカ軍基地・再軍備・中国問題
おわりに
補足情報:
本書は 【中略】 日本占領の主要な段階における八人の重要なアメリカ人を論じている。 このうち五人は対日政策の正式な立案者である。 残りの三人はアメリカの政策立案グループの中では下位に位置するか、 あるいはまったくその外側にいた人物である。 (「はじめに」)
この本を入手
引用一九四七、四八年に起こったアメリカの対日占領政策転換の中心人物は、最も直接的に占領に責任をもつ部局にいた ウィリアム・H・ドレーパーJr.陸軍次官であった。
【中略】
ヨーロッパでのマーシャル・プランに相当する対日経済復興四ヵ年計画を提示したことは、ドレーパーのすぐれた貢献であった。 国務省や総司令部の中心人物の猛烈な反対を乗り越えて、当初の非軍事化・民主化政策の転換を確実にする条件が、 この計画にはつけ加えられていた。 日本の資本家階級と保守政治家を完全に復活させて初めて、日本でもアジアの他の地域でも、 ナショナリズムと共産主義の脅威に対抗してアメリカの利益(主としてアメリカ企業の利益)を保証できるとドレーパーは考えたのである。
【中略】
対日援助計画の資金をめぐって連邦議会との新たな闘いに直面したドレーパーは、 デトロイト銀行頭取ジョセフ・M・ドッジを説得し日本に赴かせた。 ドッジは、おそらくトルーマン政権のもとで最も重要な海外経済問題の解決者である。 ドッジの任務は、経済安定化計画と日本の世界市場への統合を保証する単一の円・ドル為替レート設定をもとめる 一九四八年一二月の国家安全保障会議(NSC)の指令を実行することであった。
ジョセフ・グルー、駐日大使になるまでの経歴
引用ジョセフ・C・グルーは、一八八〇年ボストンで生まれた。 生家は裕福で、ボストンの名士という家柄である。 グロートン校からハーバード大学に進み、一九〇二年にハーバード大を卒業すると、外交官の職についた。 カイロの領事事務官として出発した若き外交官は、 「ボストンの名家」出身の妻と一緒に世界中を転々としたのち、ベルリンに約九年間駐在した。 アメリカが第一次世界大戦に参戦する前のことである。 パリ講和会議におけるアメリカ代表団の秘書としての仕事ぶりをウッドロー・ウィルソン大統領の顧問エドワード・M・ハウス大佐に認められたグルーは、 二〇年、公使に昇進した。 駐デンマーク公使、駐スイス公使となり、二二年から二三年にかけてトルコ問題を扱ったローザンヌ講和会議ではアメリカ代表を務めた。 ローザンヌ会議によって、練達した外交官としてのグルーの評価は確立し、 チャールズ・エバンズ・ヒューズ国務長官によって国務次官、理屈から言えば国務省のナンバー2の地位に選ばれた。 しかしヒューズは、グルーにつまらない仕事ばかり与えた。 後任のフランク・ケロッグ国務長官も同様だった。 グルーは国務省内の政策決定グループから急速に孤立していった。 専門的な外務職員局をつくろうという彼の計画は、議会からも世論からも厳しい批判を浴びた。 二七年の春、面子をつぶされた国務次官は駐トルコ大使に指名されたのを幸いにトルコに赴き、 以後五年間はその職に満足していた。
グルーの日本人脈
引用宮中の人たちはグルーに特に強い影響を与えた。 松平恒雄内大臣、将軍家の最後の跡取りであった徳川家達公爵、天皇の弟でオックスフォード大学を出た秩父宮雍仁親王、 きわめて裕福な貴族で、一九三〇年代後半には首相となり、グルーにとって日米間の衝突を避ける希望の星となった近衛文麿公爵グルーをこうした貴族たちとつなげたのは、貴族院の樺山愛輔伯爵であった。 当時駐イタリア大使であった吉田茂は、三〇年代の日本の政界とグルーをつなぐ最も重要な役割を果たした一人である。 吉田と彼の義父牧野伸顕伯爵は、穏健派は天皇にも支持されており、 その力は上向いていることをわかってもらおうとした。 樺山、吉田牧野、松平、それに二〇年代においてワシントン条約遵守を外交方針としていた元外相幣原喜重郎男爵といった人々は、 日本の発展に関する「振り子理論」をグルーに説いた。
国務省「日本派」の台頭
引用一九四四年初頭、国務省の再編成によって、グルーをはじめとする日本派は、 思いがけず自分たちの考える戦後計画を推進する機会を得た。 しばしば悪口を言われ、まったく逆の事実があるにもかかわらず蒋介石の政治的・軍事的進展ばかり楽観的に報告するスタンレー・ホーンベック博士に うんざりしていた部下たちが反乱を起こし、ハル国務長官を動かして、ホーンベックを新設された極東局の局長に異動させたのである。 政策決定にかかわる新たな機会を与えられたのは、国民党に批判的な中国問題の専門家たちばかりではなかった。 もっと重要なことは、五月一日、グルーが極東局の局長に就任したことである。 イギリスの友人にグルーは控え目にこう述懐している。 「極東の戦後の発展に関する自分の考えが一部採用されるかもしれない」。
国務省「中国派」の台頭
引用グルーの引退後まもなく、他の日本派も国務省から去った。 アメリカの極東政策の中心として依然として中国が出てくると期待する者、また占領下の日本に懲罰的で徹底的な改革計画を望む者たちが、 日本派の代わりに座った。 国務次官としてのグルーの地位は、かつて天皇問題に関して彼の論敵であったディーン・アチソンにとって代わられた。 天皇裕仁を戦争犯罪人として逮捕することに賛成していた中国問題の専門家ジョン・カーター・ビンセントがドーマンからSWNCCの 極東小委員会委員長に地位を、ジョセフ・バランタインが極東局の局長の地位を譲り受けた。
軍需物資放出と臨時軍需費支出の継続
引用東久邇内閣は、資本家階級の発言に耳を傾けることで、いにしえの明治時代にならった。 すなわち軍需生産契約の支払いや戦争被害に対する賠償金要求を払い続けたのである。 こうした方法は大企業を破産から守ったが、戦後の猛烈なインフレーションをもたらして都市大衆を飢餓寸前に追い込んだ。 最も重要なことは、降伏後まる二週間で、内閣が公的機関をはじめ一部の実業家や個人に倉庫の裏口を開け、 取り引きの記録をすべて破棄したことである。 アメリカの命令に違反して、日本の官僚は機械工具、銅線から衣類、食料品に至るまで何でも軍の倉庫からもち出した。 当時、アメリカ人はいわゆる隠匿物資スキャンダルの広がりの大きさも意味も理解していなかった。 六年以上にわたる占領期間中、アメリカの対日援助総額は二二億ドルであった。 隠匿物資はこの額を実質的に上回っており、緊急に必要な食料品を供出できず、 また原材料を生産に振り向けられないことで初期のインフレ循環を悪化させた。
引用当初、グルー一派は、誰はばかるところのない保守的政治観で有名なマッカーサーとの衝突に困惑した。 しかしグルーたちは、マッカーサーの保守的政治イデオロギーが変化したというよりは、 一九四八年の大統領選挙で共和党の大統領候補者になろうという彼の野心がマッカーサーを動かしているのではないか、と思い始めた。 こうした疑念は、最近の歴史研究が示唆するとおり根拠のあるものである。 そしてこうした疑念をもつことで、グルーやジャパン・ロビーは、 マッカーサーの日本における行動の自由を制限し、日本を太平洋におけるアメリカの中心的同盟国として復興させようとする ワシントンの努力を支持することになったのである。
ボーナス・マーチのマッカーサー
引用一九三二年のボーナス・アーミーに対する処置ほど、彼に対する世評を傷つけたものは生涯にない。 二万人以上の第一次世界大戦の退役軍人やその家族がワシントンに集まり、 議会に対し軍務補償債権の即時支払いを要請したのである。 共産主義革命家たちによって扇動された群衆だという確信のもと、マッカーサーは、 退役軍人たちにキャンプ地退去を求めたハーバート・フーバー大統領命令を、無鉄砲かつ野蛮に解釈した。 マッカーサーの命令で、サーベルを抜いた騎兵隊と六輌の戦車、歩兵隊が平和的なデモ隊を蹴ちらしたのである。
9月17日のマッカーサー声明
引用「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」がはらむ矛盾は、 マッカーサーがワシントンの当局に対して行った最初の公然たる挑戦の背景となっていた。 降伏文書調印から三週間も経ていない九月一七日、マッカーサーは、 天皇の叔父の東久邇宮稔彦を首相とする保守政権は総司令部の指令を実行するうえで非常に協力的であるので、 アメリカ軍の人員を八月段階での五〇万人という推定から、六ヵ月以内に二〇万人にまで減ずることができると公式に発表した。 JCS、国務省、それにホワイトハウスは、この不明確な声明中のいくつかの点に関して激怒した。 第一に、マッカーサーの表現は、アメリカ政府や他の諸政府よりもむしろ最高司令官が対日基本方針の作成者であり、 決定者であるという印象を残した点。 第二に、マッカーサーが言うほど日本政府が協力的であるかどうか、かなり疑問である点。 そして第三に、日本駐留軍の消滅は、急激に増大したアメリカの軍事要求に応えるため 戦後の動員解除のペースを遅らせ徴兵制を維持するという全体構想と相容れない点。 最後の点が最も重要だった。
戦後、アメリカにおけるマッカーサーに対する評価
引用マッカーサー信者たちにとって、短期間の占領でマッカーサーが成功し政治家としての信用をつくりあげることが、 一九四八年選挙の展望のために重要なことであった。 戦争中のどの調査でも、マッカーサーは常に、アメリカで最も讃えられている軍人の一人であった。 しかし世論調査の専門家であるエルモ・ローパーが言ったように、 「文民指導者としての彼の能力を信じている人はほんの一握りしかいなかった」。 この問題は戦争終結後もそのまま残った。 四六年四月に行われたギャラップ世論調査によれば、世界で最も讃えられる人物として、マッカーサーは、 ドワイト・D・アイゼンハワー将軍トルーマン大統領ウィンストン・チャーチル、トーマス・デューイ知事、 ハロルド・スタッセン知事らを押さえて第一位であった。 しかし四六年、四七年のどちらのギャラップ調査でも、大統領候補者を選ぶよう求められた共和党員への質問では、 マッカーサーは一〇%以下の支持しか得られなかった。 文民と軍人を区別するという伝統を反映して、調査に答えた圧倒的多数の人々は、 アイゼンハワーマッカーサーをはじめとする戦場の英雄は、大統領候補者にはなれないと考えていたのである。
公職追放の実際
引用実際のところ、日本における公職追放の衝撃は、日本の保守派やアメリカの友人たちが恐れ、 のちに主張されたほど広範なものではなかった。 というのは、マッカーサーは追放の執行を日本政府に頼ったし、 「新日本の組織の中で他の者と代わることが難しい有能な官僚の職を数多く失わせる」つもりはなかったからだ。 全人口の二・五%が追放されたドイツにおけるアメリカ占領地区と比較すると、 日本の数字は〇・二九%だった。 さらに言えば、漸次追放された二一万人の日本人の中で、八〇%は軍人だった。 政治指導者の追放はおもに政党の再編をもたらしたが、ほぼ全占領期間を通じて、 保守政党による内閣あるいは議会支配の土台を崩すことにはならなかった。 一九四六年四月に予定されていた最初の総選挙を公職追放が完了するまで延期すべきだという極東委員会提案をマッカーサーは却下した。 極東委員会は、資金と影響力を有する旧勢力の政治家たちが当選しやすいことを正確に予想していたのである。 そうした政治家の多くが追放されたとしても、彼らは自身の身代わりを指名することができた。 さらに政治家の追放は、アメリカが日本を統治していくうえで頼りとした国家官僚の力を強化するという効果をもっていた。 戦前の日本の侵略と抑圧の体制の中で、官僚がその一翼を担っていたことは明らかであるにもかかわらず、実際には、 官僚が追放されることはなかった。 同様に実業界やマスメディアの指導者たちも、追放令によって影響を受けることはほとんどなかった。
ジャパン・ロビーの設立
引用カーン、カウフマン、パケナム、ドーマンの四人がアメリカ対日協議会(ACJ)の設立委員会を構成した。 四人がACJの目的を定めた規約を起草し、強力な幹部からなる委員会組織をつくりあげ、 会員資格・会費・会合に関する当面の方針をつくった。 一九四八年六月二八日、ニューヨークのハーバード・クラブにACJの設立メンバー一八人が集まり、 グルーとキャッスルの二人を共同名誉議長に、カーンを設立委員会委員長に選出した。
ACJの目的は、アメリカの大衆を啓発し、「〔日本における〕勝利を確かなものとするため、 対処しなければならない諸問題を解決する」うえでハリー・S・トルーマン政権を支援することだと、 カーンは最初の公式声明で述べていた。
引用アメリカに代表部を置くことを禁じられていた戦後の日本政府高官や、銀行家・産業家といった日本政府の支持者たちは、 アメリカ国内のまだ見ぬ同志に訴えるべく、改革指向の最高司令官を出し抜く方法を探っていた。 窓口の一つはロバート・L・アイケルバーガー陸軍中将だった。 彼はジャパン・ロビーと親しく、一九四七年以降マッカーサーとは敵対的になっていたのである。 四八年夏まで第八軍司令官だったアイケルバーガーは、横浜に司令部があったため、 総司令部からはある程度自由に動くことができ、陸軍省と直接連絡をとることもできた。 占領軍の行う政治改革・経済改革のほとんどに反感を持っていた吉田首相、それに芦田均外相や終戦連絡横浜事務局の事務局長鈴木九萬は アイケルバーガーと親しく、彼の助言や支援をしきりに利用した。
引用ジャパン・ロビーにとって最も価値ある日本人の一人は、元外相野村吉三郎海軍大将であった。 野村真珠湾奇襲の時には駐米大使を務めている。 占領期間中、ACJのメンバーは積極的に野村に近づいた。 一九四六年八月に野村が公職追放された後、パゲナムは定期的に(実は違法に)食料や煙草を送り、経済的に苦しい彼の便宜を図った。 ウィリアム・R・キャッスルは野村とのつき合いを再開し、 野村こそ「日本を、正しい道筋で、再び重要な国家となるように再建するのに役立つ人物の一人だ」と主張した。 日本を訪問するたびにカーンは野村をもてなした。 そして野村の最も親しいアメリカの友人であるウィリアム・V・プラット提督は海軍の軍人仲間をACJの活動に引っ張り込んだのである。
野村は一時的に追放状態にあったが、日米関係では彼が引き続き重要なことをACJはよく理解していた。 野村は、日本側では旧帝国海軍の将校たちに活動の舞台を提供していた。 すなわち右翼国家主義者からなる再軍備団体の顧問あるいは代表として動いていたのである。 海軍復員省という誤れる名前の組織の外で、新たな日本海軍建設を計画するグループの「ご意見番か精神面での父」でもあった。 戦後外相や首相となり、日本国憲法の戦争放棄条項に反対したことで知られる芦田均とも親しかった。 そして山梨勝之進海軍大将を通して吉田茂首相とも連絡をとることができたのである。 野村は、アメリカ側ではアーレイ・バーク提督やターナー・ジョイ提督、ジョン・フォスター・ダレス特使といった高官と定期的に連絡をとっていた。 こうした交際はすべてACJの支援によって始まり、進展したものである。 野村のとってACJは、日本海軍を復活しようとする自らの活動の役に立ったし、 降伏後における初期対日方針によって自分たちの立場が脅かされたと感じていた日本の旧支配層内部のいわゆる「穏健派」の憂慮を、 アメリカ世論やワシントンにはっきり知らせるためにも有用であった。
サンフランシスコ講和条約
引用一九五一年九月、サンフランシスコで四九ヵ国が調印した講和条約は、 すでにダレスが日米間の交渉で達成していたものを正式に認めたということである。 対日講和条約はアメリカの寛大さの例として広く認められているけれども、アメリカの必要性と利益に合致したものであった。 それは基本的にアジア不在の講和だった。 中国、インド、ソ連というアジア大陸の三つの大国が講和条約に調印していない。 オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンの三国は、アメリカから圧力を受け、 日本の復活に対してアメリカと個別的安全保障条約を結ぶという保証をとりつけることでようやく調印した。 さらにこの講和条約の成否は、講和後の日本でアメリカ軍に事実上無制限の自由を与え、 なおかつ日本陸海軍の早期創設を前提とするアメリカとの軍事同盟に、日本が同意するかどうかにかかっていた。 さらにダレスは、アメリカ上院が講和条約を批准するための条件として、吉田内閣に台湾の蒋介石政権承認を求めた。 このことは、イギリスとの間でダレスが結んだばかりの合意に違反するものであった。 イギリスは、主権を回復した日本が中華人民共和国と関係正常化することを望んでいたからである。
引用一八九四年にニューヨークで生まれたドレーパーは、ニューヨーク大学で経済学を学び、一九一六年に学士号を、 翌一七年に修士号を得た。 第一次世界大戦中は、一年半の軍務のほとんどをニューヨーク州プラッツバーグの将校訓練キャンプの教官としてすごしている。 陸軍少佐で退役した後、予備役となり、四〇年、大佐として陸軍省参謀部に呼び戻された時には、 ウォール街の金融界を代表する人物としての地位を確立していた。 礼儀正しく、柔和な話し方をし、背も高くつねに上品な身づくろいをしていたドレーパーは、 一九年から二六年までナショナル・シティ・バンクやバンカーズ・トラスト社に勤めた後、二七年、世界最大の投資銀行の一つ ディロン・リード社に入社し、またたく間に副社長に昇進したのである。 終生の共和党員で、准将になっていたドレーパーが、初めてハリー・S・トルーマン政権に仕えたのは、 ドイツ軍政長官代理ルシアス・クレイ将軍の首席経済顧問としてであった。
ジョージ・ケナンの対ソ封じ込め理論
引用ソ連の行動はそもそも膨張主義的であり、西側に敵対的であるという見解を戦後最も早い段階から提唱していたケナンは、 トルーマン政権は、モスクワとの協調という無駄な試みをやめ、共産主義封じ込め政策に転換すべきであると主張した。 封じ込め理論は、ソ連の軍事力ではなく、西ヨーロッパ・日本・中東の国内経済、および政治・精神面での弱さが、 戦後のアメリカの安全保障にとっては最も脅威であるとの前提に立っていた。 第二次世界大戦による損害や被害の大きさからして、ソ連はもう一度戦争の危険を冒す意図はないというのである。 「我々を脅かしているのはソ連の軍事力ではない。 ソ連の政治力だ。そのことを忘れてはならない」とケナンは、一九四七年一〇月、陸軍大学での講演で語り、 また著作の中で繰り返し強調した。 ソ連は、政府転覆、あるいはクーデター、そして自由選挙での勝利といったことを通して権力を握った現地の信頼できる共産党を使うことで、 志気を喪失し戦争で疲弊したヨーロッパやアジア諸国で、自分たちの目的を広めているというのである。
ソ連の意図を失敗させる鍵は、ソ連帝国の外で共産主義に対して「自ずから発生する抵抗勢力」を強化することだというのが、 ケナンの考えであった。 ヨーロッパやアジアの保守政権のもと、アメリカからの経済援助によって強固な資本主義経済をつくることが共産主義に対する防波堤になるというのである。 PPSでのケナンの最初の仕事は、四七年五月、西ヨーロッパ、とりわけドイツの西側占領地域における経済復興計画、 すなわちのちのマーシャル・プランであった。 アジアにおける工業力・軍事力の中心としてアメリカの同盟国日本を復興させることは、 アメリカの安全保障に関するケナンの戦略的観点からすれば、ヨーロッパと同じように重要であった。 アメリカの資源には限りがあったので、共産主義の脅威を受けている一部の国、特に中国は、 ケナンの観点からすると援助する価値がなかった。 国民党のもとで、中国はあまりに混乱し腐敗しきっているばかりでなく、工業的・軍事的な基礎を欠いており、 ソ連の手に落ちても世界的なバランス・オブ・パワーに影響を与えないというのである。 ケナンの地政学的な世界規模の封じ込め戦略は、ソ連帝国内部の緊張を高め、最終的にはソ連権力を「乱熟」させ、 あるいは完全に崩壊させるというものである。 日本の経済復興は、中国とは異なり、そうした封じ込め戦略からすれば、まさに要だったのである。
ドレーパー使節団の真の目的
引用ドレーパー使節団の表面上の目的は、日本の経済問題について調査し、陸軍省に勧告を提出することだった。 しかし、ドレーパーが二五年ほど後のインタビューで回想しているように、使節団の実際の目的は政治的なものであった。 「私がこの実業家グループを率いたのは、ドイツでの経験や、二、三度の訪日を通じて、 日本経済に関する指令は変更されなければならないと確信したからです。 大統領や国務省、それに連邦議会に対して私が出した勧告は、日本にいるマッカーサーへの指令を変更すべきだというものでした。 この勧告を支持させるために〔彼らを〕連れていったのです」。 従来の指令は、「産業に関する限り、日本を死体置き場として」放置しておく日本版モーゲンソー・プランにも等しいというのが、 ドレーパーの考えであった。
ドレーパーの日本経済安定戦略
引用ドレーパーや彼の仲間たちにとって、インフレを抑制し、外国からの投資を呼び寄せ、 世界的なドル不足にもかかわらず繊維製品をはじめとする輸出を促進することは、 日本の経済復興を成功させるための相互に関連し合う重要な要素であった。 占領開始から一九四九年までの間、日本経済は慢性的な厳しいインフレに悩み、鉱工業生産は低水準にとどまり、 輸出はさらに低迷する状態であった。  【中略】 当初ドレーパーは、こうした問題の責任を、日本の経済界の自信喪失をもたらした財閥解体・賠償・公職追放などの改革政策に帰して 批判する傾向があった。 しかし改革政策を停止し逆転させるのにおおむね成功したにもかかわらず、 ドレーパーの二度目の訪日の時になっても、悪性インフレは沈静しなかった。 ドレーパー芦田首相に、均衡予算の実施がインフレ抑制の鍵であると述べている。 国家公務員の削減、企業への補助金の削減、国鉄運賃など公共サービス料金の引き上げ、 徴税強化などの措置によって、国家予算は均衡し、インフレの主因を抑えることができるだろう。 こうした措置が政治的に人気のないものであることは、ドレーパーも承知していた。 実際ドレーパーは、アメリカの対日援助計画が政府の均衡予算の厳格な実施に直接結びつかなければ、 弱体な芦田内閣はそれ以前の内閣と同様、経済の安定化には成功しないだろう、と思っていた。 そこでドレーパーマッカーサーに対して、帰国後ただちに、 デトロイト銀行頭取で占領下のドイツで通貨安定化計画を立案したジョセフ・M・ドッジに要請して、 日本経済の混乱を収拾する均衡予算という処方箋をつくらせるつもりだと述べたのであった。
ドレーパー使節団のメンバーが外貨導入こそ経済復興計画にとってきわめて重要だと考えていたのは、驚くことでもない。 アメリカによる対日投資は、高収益が期待でき、日本にとっては不足しがちなドルの獲得源となり得るし、 鉱工業の輸出競争力を強化する手段となる。 そして、連邦議会から対日復興援助要求への支持を獲得する際にも役立つものだったからである。 しかしアメリカの投資家は、「日本経済の現状に満足しておらず、日本は外国からの民間投資を促進するために最大限の努力を払っているとは言えない という印象を受けている」とドレーパー使節団ははっきりと忠告した。 不安定な複雑為替レートがかつてのような貿易関係の再開を困難にしており、 外国からの対日投資増大に対する最大の障害の一つとなっていると、ドレーパー芦田に語った。 インフレが沈静化しない限り、円の単一為替レートは成立し得ない。 しかしそれが成立しなければ「この以上〔外国からの〕投資はあり得ないだろう。 すべてが安定した為替レートにかかわっており、それはさらに均衡予算の必要性にかかっている」のであった。 さらにドレーパー使節団は、外国からの対日投資を妨げている他の多くの要因をも考察していた。 すなわち、日本の税制、獲得した財産に対する法的保護の欠如、収益の本国送金に関する条項の欠如、 戦前にアメリカ人投資家が日本企業に保有していた資産の損害に対する返済や保証に関しワシントンに何らの政策もないことであった。
日本経済復興のための三角貿易構想
引用ジョンストン報告は 【中略】 アメリカの原綿を日本に売り、 日本の綿織物をオランダ領東インド諸島に輸出する三角貿易方式を提案していた。 オランダは綿織物の代金を、アメリカの戦略的備蓄計画にとって必要な錫などの原材料の売却代金であてるのである。
引用ドッジは内気で内省型の、世の注目は決して浴びないタイプの人間だった。 しかし銀行分野での有能さは世人から認められており、そのことが国内問題でも国際問題でも大きな権力を彼にもたせることになった。 しかし産業界や政府部内の同僚たちは、彼のことをほとんど認めていなかった。 一八九一年、ドッジはデトロイトの貧しいクエーカー教徒の芸術家の息子として生まれた。 大学には進学せず、高校卒業後、銀行にメッセンジャーとして勤め、事務や簿記をしていた。 一九一一年にミシガン州政府で証券と銀行の調整分野の仕事についた。 デトロイト銀行の創立者がドッジの能力に感心して、二〇年代初め、銀行の株式売買担当員として迎え入れた。 大恐慌の最中、ドッジはデトロイトのいくつかの銀行の合併と再編成を支援し、 三三年にミシガン州で一番歴史のあるデトロイト貯蓄銀行の頭取兼取締役に就任した。 彼は、固い仕事をするまじめ一方の銀行家という評判を獲得している。 ドッジの指導のもとで、デトロイト貯蓄銀行はデトロイト銀行として知られるようになり、 資産額も三六年の六〇〇〇万ドルから、ドッジが総司令部の財政顧問に任命された四八年には五億五〇〇〇万ドルへと急成長した。
デトロイト銀行の頭取室から、ドッジは自らの影響力を各方面に広げていった。 クライスラー社やスタンダード事故保険会社などの重役も兼任している。 ミシガン州銀行家協会や全米銀行家協会の委員会で何年も活躍した(一九四四年から四五年にかけて前者の会長を、 四七年から四八年にかけては後者の会長を務めた)。 同世代の多くの共和党員と同様に、政府関係の仕事は民主党政権下で行っている。 三七年にデトロイト代表として復興金融公社の諮問委員会に加わり、翌三八年にはシカゴ地区連邦準備銀行の総裁を六年の任期で務めた。 戦争中、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の要請で、軍需契約委員会や価格調整委員会の委員長などいくつかの経済関係の役職についた。
ヨーロッパの戦争が終わると、ドッジはアメリカの世紀を築くための役回りを演じることになった。 ドイツの金融体制が崩壊した際、ドワイト・D・アイゼンハワーは、 「ドッジをドイツに早くよこせ」とワシントンに打電した。 ドッジは軍政長官ルシアス・クレイ将軍の経済顧問代理となり、デフレ的な通貨供給量削減を計画し、 一九四八年のベルリン封鎖を招いている。 四七年五月、ドッジはオーストリア平和条約委員会のアメリカ代表として国務省から派遣されてウィーンに行き、 オーストリア問題でジョージ・C・マーシャル国務長官に助言するためにいったんアメリカに帰国した。 四七年から五一年まで、マーシャル・プランの基金を扱う経済協力局(ECA)に対して財政・金融問題を諮問する委員会の委員でもあった。
サンフランシスコ講和会議
引用アチソンダレスが慎重に舞台を設定したサンフランシスコ講和会議は、まばゆいばかりのテレビ用ライトの下で、 一九五一年九月八日、四九ヵ国が対日講和条約に調印し、五日間の日程を終えた。 ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの代表は驚いたことに会議に出席し自分たちの反対を記録に残そうとしたが、 会議の議長を務めたアチソンによってすばやく却下されてしまった。 講和会議代表のほとんどはアメリカの同盟国、すわなち主としてヨーロッパとラテン・アメリカ諸国であり、 あらかじめ用意された台本にしたがった。 アチソンは自分の回想録に、いつもの傲慢な書き方で、会議に出席した者たちの雰囲気を描いている。 「これほど多くの代表が出席したにもかかわらず、これほど愛されず、これほどひどい講和条約はなかった」。 講和条約の署名のインクが乾かないうちに、吉田首相アチソンはサンフランシスコ市内をプレシディオまで車で移動した。 ダレスと二人のアメリカ人だけが見守る中、吉田アチソンは二月に東京でつくりあげていた日米安全保障条約に静かに調印した。 同じ日に二つの条約が調印されたことは、ジョン・ダワーが書いているように、講和条約の性格を象徴している。 すなわち講和条約は「それだけで独立して存在していたのではなく、むしろ日本がアメリカとの軍事同盟に合意することを条件としていた。 厳重に錠をおろしたうえでの寛大さだったのである」。
「奇跡」の真相
引用朝鮮におけるアメリカの軍事作戦は、日本からの補給を必要としていた。 五〇年六月から五四年までに国防総省は、毛布、テント、化学薬品、トラック部品、小火器、 それに海軍船舶の修理のため造船所を使用することまで含めたさまざまな物資とサービスの購入に、 日本で三〇億ドル近くを使っている。 こうした特需が日本の経済ブームに口火をつけ、アジアにおける共産主義の封じ込めというアメリカの活動を助けることになったのである。 日本「経済の奇跡」や日本の輸出競争力説明するうえで、アメリカの慈悲や寛大さよりもはるかに重要なものは、 国防総省が戦争物資を日本から調達し続けたことである。 調達物資総額は五〇年から七〇年まででおよそ一〇〇億ドルと推定されている。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。