「巣鴨の生と死 ― ある教誨師の記録 ―
参考書籍
著者: 花山信勝(はなやま・しんしょう)
発行: 中央公論社(1995/07/18)
書籍: 文庫(406ページ)
定価: 円(税別)
初版: 朝日新聞社(1949/「平和の発見」)
目次: はしがき
序章 巣鴨の門
第一章 文人の感起
第二章 花とローソク―老軍人の告白
第三章 東京裁判の二年間―病室の東条大川
第四章 二十七死刑囚の記録
第五章 巣鴨生活みたまま
第六章 東京裁判の終幕
第七章 七人との面談記録
第八章 昭和二十三年十二月二十三日午前零時一分
第九章 平和の発見
補足情報:
東条英機広田弘毅板垣征四郎・・・・・・極東国際軍事裁判で死刑を宣告された戦犯たちは、 念仏を唱え、ブドー酒を飲み、微笑さえ浮べて処刑場に向った。 死を前にして彼らの胸に去来したものは何だったのか。 巣鴨拘置所で戦犯たちと接し、最期まで見送った教誨師が、平和への願いを込めて綴る、 極限下の生と死の記録。(裏表紙)
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巣鴨の生活
引用日本の刑務所で、囚人と話すと、よく一種のくさ味を感ずる。
しかし、ここでは、そうした臭気は全然ない。 この住人たちは、少くとも、一週に二度は入浴するし、着衣も一週に一回くらいはとりかえる。 毛布も、布団も、交換は早い。DDTがまかれる。ノミも、シラミも、蚊もハエもこの構内にはいない。
日本の行刑も、相当改革に努力しているようだが、なかなかこうはゆかない。
ここでは、野球チームがあって、ブロック別の試合もやる。バスケットもやる。土曜などは映画もある。 音楽バンドができて、クリスマスなどのときは、Aクラスの部屋や死刑囚の居房などを訪問、 なぐさめの曲を一節やったようなこともあった。
独房同士の訪問も許されているので、碁や将棋もさかんである。 死刑囚も、手錠をはめているが、散歩がゆるされるようになった。
食事も、いまの日本人の生活を標準にすると、きわめていい。
着物は、米兵の使わなくなったものを洗濯して着ているが、パリパリした毛織物である。 ただしP印があちこちに押してあるのは、ぜひもない。
重労働者は、それぞれの職能によって、花壇や、菜園つくりに廻るもの、 下駄をつくるものなどの部類に分けられているが、ヂャンバルヂャン時代の、鉄のクサリなどを連想する人があったら、 とんでもない見当ちがいといえよう。
スガモ新聞
引用愉快なのは、所内の人々がその道のヴェテランをスタッフとして、 スガモ新聞を発行していることで、これは事後検閲で、週に一回発行頒布される。 日本の刑務所にも、アメリカと同様、受刑者の新聞を刑務協会で「人」と題して出しているが、 ここの新聞は、ガリ版四ページの小粒ながら、なかなかのにぎやかさで、「人」の低調さとは比すべくもない。
手許にある六月十九日附の一面をとってみると、まず社説で、「社会党再思せよ」という論説をかかげ、 「社会党いまにして三省、自己清算を行うにあらずんば、ついに民心の世論を失うにいたるや必至である」と、きめつけている。 かたわらには、「東と西はついに合わざるか」などの論陣をはっている。
愉快なのは、「顔と手」といったテーマをとりあげ、「顔は、表情の場である」といったなかなかハイカラなスタイルをみせたり、 宮崎県令で、売笑禁止法が可決されたことをとりあげ「このことは、近ごろの米国式な、 法的地方分権主義の一傾向として興味がある」といった視角から、滔々論ずるといった、その粗野な、スタイルである。
この中には、何しろ読者が、各方面の人によって構成されているので、 医者の座談会が開かれたり、巣鴨歌壇展望があったり、「人事一束」があったりするが、 座談会などでも、堂々と「本社側M記者」といった工合にしゃれている。
言論の自由は、空気を吸う自由とともに、人間の生きる、もっとも大きな支柱の一つだが、 私は、このスガモ新聞を読んで、こうした一枚のガリ版新聞が、どれだけ、この特異な生活のなぐさめとなり、 また修養の糧となっているか、はかりしれないと思う。
A級戦犯たちの礼
引用十一月十二日、断罪をきく。 私は、東大の文学部事務室でラジオを通して、それを聞いていた。
絞首刑は、土肥原広田板垣木村松井武藤東条の七名。
重光の七年、東郷の二十年を除いて、あとの十六名はいずれも終身禁固刑。 無罪はついに一名も出なかった。
断罪の劇的な情景を、新聞はきそってこれを報道した。 その中に、断罪の宣告をうけた人々が、いちいち礼をして退出したという描写がみられた。 これについて、外人筋では、判決をうけるに際して、暴言を吐くとか、あるいは失神するとか、 そういった動作を予期していた口吻がニュースの端々にみえた。 ある日本の新聞は、またこれを「お辞儀をするのは習慣」と簡単にあつかっているものもみられた。
しかし、私は、これらの見解を皮相なものと思い、その浅薄さを情けないものに思わないわけにはいかなかった。 私は、これよりまえ、これらの人々に接した体験によって、この人々が、 すでに深い宗教的な気持にひたっていると感じていたので、暴言も予期しなければ、失神も予期せず、 当然、こうした礼が素直に出るものと、予想していたのである。
それは、単なる「習慣」などのものではない、もっと深い境地のものである。 私はその気持を―つつしんでうけるということと、いろいろご苦労でありました ―の二つが、しっくりと、混合したものであったと、とっている。
松井石根が最後に語る南京虐殺事件
引用それから、あの南京事件について、 師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。
南京事件ではお恥しい限りです。 南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにとが申したところ、 参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、 師団長はじめあんなことをしたのだ。 は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、 問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、 ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。 政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。 慰霊祭の直後、は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。 その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。 折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。 ところが、このことのあとで、みなが笑った。 甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。 従って、だけでもこういう結果になるということは、 当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。 折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
引用かくしてもう十一時半にもなったので、私は大急ぎで一階にかけ降りて、 再び仏間の用意をし、コップにブドー酒をつぎ、水を入れたりして七人の到来を待った。 まもなく三階から処刑第一組として土肥原松井東条武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。 それぞれ二人の看視につきそわれていた。 両手には手錠がかけられ、さらにその手錠は、褌バンドで股に引っかけられていた。 極めて不自由な姿である。 着物はいつも着ていられた米軍の作業衣であった。しかしシャツは見えた。 クツは編み上げの日本クツであった。 係官から時間が七分しかないということをいわれたので、取敢えず仏間のローソクの火を線香につけて、 一本ずつ手渡し、私が香炉を下げて手もとに近づけて立てていただき、それから仏前に重ねておいた奉書に署名をしてもらった。 不自由な手ながらインクを含ませた筆をとって、土肥原さんから順に筆を揮った。 それからコップに一ぱいのブドー酒を口につけてあげて飲んでもらう。 さらに水のコップを私が少しずつ飲んでは、みなさんに飲んでいただいた。 東条さんの「一ぱいやりたい」も、どうやらこれで果され、大変な御機嫌であった。
その後、まだ二分あるというので、『三誓偈』の初めの三頌を声高らかに私は読んだ。 四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、
「非常に有難うございました」
とお礼をいわれた。それから誰いうとなく「万歳」という声が出て、たぶん東条さんと思うが、
松井さんに」
というので、松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、 さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。
ブドー酒のあとで「お菓子はどうですか」といったが、みな入れ歯を取っていられたので、 歯がないからと遠慮されたが、松井さんに、やわらかいビスケットを一つ口の中に入れてあげたら、 もぐもぐたべられた。
以上の行事は、仏間ではせまくて、すべて廊下に立ったまま行われた。 この時、東条さんから、約束通り念珠を受取った。 松井さんも、手にかけておられたので、
「これを、奥さんに差上げましょうか」
といったら、
「そうして下さい」
といわれ、受取った。他の二人は、部屋(独房)の袋に残して来られたという。 やがてチャプレン・ウォルシュ師及び二、三人の将校にあいさつをして、それぞれしっかりと握手を交わされた。 私も、いちいちみなの手を握って、最後のあいさつをかわした。 いずれの方も非常に喜んで、長い間の労苦を感謝され、また、
「あとの家族のことをよろしく」
と頼まれた。時間は、刻々と迫ってきた。
出口の鉄の扉が開いた。当番将校先導で、その後にチャプレンと私がつづき、そのうしろに 土肥原松井東条武藤の順で並び、両脇には看視、あとに将校が二、三名つづいて、 静かに中庭を歩んでゆく。その間、約二分ぐらいかかったが、念仏の声が絶えなかった。 とくに東条さんの声が・・・・・・。
刑場の入口(コンクリート塀)で、私は隊列を離れ、さらに四人と、 また一人一人手を握って最後の「御機嫌よろしゅう」をいったところ、
「いろいろ御世話になって、有難う。どうか、また家族をよろしく願います」と、 みなにこにこ微笑みながら、刑場に消えられた。 あとで聞いたところ、台上では四人とも、最後の南無阿弥陀仏を称えていられたということだ。 急いで仏間に帰る途中、ガタンという音をうしろに聞いた。時計をみると、午前零時一分だった。
仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、 板垣広田木村さんが降りて来られた。 顔を合せると、すぐ広田さんが真面目な顔で、
「今、マンザイをやってたんでしょう」といわれた。
「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか」
私も真面目に、こうこたえた。
「いや、そんなことはないが・・・・・・」
とにかく、今度は三人とも仏間の中に入ってもらって、お線香を一人ずつに、 前のように渡して立ててもらい、署名をされたあとで、今度は時間があったので『三誓偈』を全部読んだ。 木村さんだけは、眼鏡をかけて降りて来られ『意訳聖典』も持って来られたため、 私の読経中それを開けて読み、私の読経に合せておられた。お経の終ったあとで、広田さんが、
「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」といわれた。 私も、やっと気がついて、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といった。 それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、
「それでは、ここでどうぞ」
というと、広田さん板垣さんに、
「あなた、おやりなさい」
とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、 まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。もちろん、手はあげられない。 それから、仏間の入口に並んで、みなにブドー酒を飲んでもらった。 このときは、米兵の助けをかりず、私がコップを持って、一人一人全部に飲ませてあげた。 広田さんも、おいしそうに最後の一滴まで飲まれたし、 板垣さんの如きは、グッと元気よく一気に飲みほされた。 よほど好きらしかった。 木村さんだけは、半分以上残された。 余り、酒の好きな人でないと見えた。 次に、水を飲みかわして、しっかりと握手をした。 みな、にこにことあいさつをされて、
「いろいろお世話になりました。どうぞお大事に、また家族たちをよろしく」
たいへんに、感謝された。
それから、前のような列になって刑場の入口へすすみ、私はここで、前と同じように、別れた。 最後に、木村さんは頭を幾度も下げ、にこにこ笑って、私に、
「どうか、家内たちをよろしくお願いいたします。お世話になりました」
と、長いあいさつをして刑場に入られた。 中庭はそうでもなかったが、刑場の中はあかあかと照明に照らされていた。 この時も、また途中でガタンを聞いた。零時二十分だった。
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