「宋慶齢 ― 中国の良心・その全生涯 ― (上)」
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書籍: 単行本(450ページ)
目次: 20世紀を先駆けた女性―日本の読者へ
宋慶齢に託されて―まえがき
アメリカ留学―エピローグ
T 孫文との出会い―一八九三〜一九二五年
  1 宋一族の絆
  2 帰国、そして結婚―東京
  3 革命家、孫文
  4 共和国の擁護に―上海〜広州
  5 国共合作と孫文の死―広州
U 孫文の遺志を継いで―一九二五〜三七年
  1 悲しみを力に
  2 分岐点に立って―武漢
  3 モスクワへ
  4 ヨーロッパにて
  5 革命家たちを救援―上海
  6 民族の危機に―上海
平和と人民と女性に捧げた生涯―訳者あとがき
宋3姉妹
引用宋慶齢は子供時代にさえ、偽善に対して強い嫌悪感を示したと伝えられている。 ずいぶん後のことであるが、彼女は、友人に、物欲があり野心的でもあったのに見せかけは道徳的な言動を好んだ美齢より、 富に対する追求を隠そうとしなかった率直な靄齢のほうが好きだと言っていたという。
総じて、慶齢はとても若いころには美齢を一番かわいがっていたが、 後になって一番失望した相手も美齢だった。 慶齢と美齢との相互の絆は、長い間とても強かった。 【中略】
慶齢の、後年の美齢に対する一貫した批判的な見方は、責任あるおとなとしての、 社会的な、あるいは政治的な状況に対する二人の異なった対応を通して一九二十年代の半ばから形成されていった。
のちに美齢が蒋介石と結婚し、がキリスト教に改宗した時に、 慶齢は苦い幻滅感を味わった。 は一九二七年に革命家たちを裏切って虐殺したばかりであったし、 結婚直後の(政治的には有利な)改宗は、これ見よがしのものであったからである。 慶齢は「もしがクリスチャンなら、私はそうではない」と、のちに語った。 このような批判や否定は、慶齢の原則的な考え方にもとづいている。 そして、かつて姉として妹を熱愛しただけに、個人的な失望感はより深く、それだけまた反発が強くなるのだった。
引用一九一四年六月二二日、彼の努力の結果、中華革命党が東京で結成大会を開き、 孫文を党首〔総理〕に選んだ。 しかし、発足してすぐに亀裂が生じた。 それは袁世凱を武力で倒そうという強力な新しい計画や、生死にかかわらず革命の理想に対して断固たる忠誠を表明するという、 より強硬な綱領をめぐるものではなかった。 分裂は、全党員が自身に対して絶対の忠誠を誓うようにという彼の主張に起因するものであった。 は、このことを、新しい勢力が一致団結した行動をとり、 これまでのように逆境にあっても勝利のときにもばらばらにならない保証をする唯一の方法と考えていた。
黄興
引用黄は十数年にわたって繰り返された武装蜂起の英雄であり、 一九一一年の勝利をもたらした組織者であり、獅子の心臓をもつといわれた。
孔祥熙
引用孔は山西省の伝統的な銀行家〔銭荘。旧式銀行〕の子弟で、資産家であった。 彼は孔子の直系の子孫であり、中国の最高位の、 もっとも古い祖先をもつ地主・学者・紳士という三位一体の家系に属することになる。 彼はアメリカのオベリン大学とエール大学の卒業生である。 それゆえに、欧米の教育を受けた新エリートという最高層に属する。
他方、孔はクリスチャンであり、東京で、中国人学生のためのYMCAの幹事を務めていた。 さらに重要なことは、あいまいなところはあったけれども、孔祥熙が孫文の部下であったことである。
引用一九一四年、第一次世界大戦が始まった時、日本は連合国側に加担し、 ヨーロッパの戦場では戦わず、東アジアや太平洋地域のドイツの植民地を奪った(そして、 他の同盟国にはそうさせないようにした)。 これらの戦利品の最大のものは、山東省のドイツの支配領域で、青島の重要な軍港と貿易港を含んでいた。
そこで、日本軍は、ドイツ軍と大戦中唯一の地上戦をした。 しかも、カイゼルの小さな守備隊と戦い、ほんのわずかな代償を払っただけで、 無気力になった中国本土の要地―孔子の故地に、根拠を築いた。
一九一五年一月、ヨーロッパ大陸での戦いがヨーロッパの植民地宗主国に出血を強いている時、 日本政府はますます大きな試み―全中国に対する独占的支配を企んだ。 日本政府は、独裁者袁世凱に、最後通牒をもって「二十一ヵ条要求」をつきつけた。 その用紙には大砲の絵がすかし模様で書かれていた。 服従しないなら、武力がものを言うぞ、という威嚇である。
はいくらかの外交的駆け引きをした後、もし要求を十分に呑んだら東京の保護国におとしめられてしまう、 これらの不当な強要の前に腰を屈した。 彼の心は国家の存亡にあったのではなく、彼みずからの戴冠への企みにあった。
孫文の少年時代
引用「彼は、若いころのことをたくさん私に語りました」と、慶齢は、 彼の生涯の生き方を決定的にした農村における非常に貧しかった少年時代の思い出について書いている。
「彼は、農民の生まれでした。 一五歳になるまで、履く靴がなく、はだしでした。 子供の時、彼は、米ではなく、一番安い食物を食べました。 米はとても高かったのです。 主食はさつまいもでした。 幼少の時期を、貧しい農民家族の貧しい息子として育ったので革命家になったのだと、彼はいくたびも私に話しました。 中国の農民は、このような悲惨な状態を続けるべきではない、中国の小さな子供たちに履く靴がなければならないし、 食べる米がなければならないと、彼は心に決したのです」
このような回想をからたび重ねて聞くことによって、 これまで裕福な都会生活、学園生活に限られ、また、本を読み、活字を通しての知識に限られていた彼女の視界が広げられた。
孫文逮捕監禁事件
引用一八九六年、ロンドンにて、は、驚いたことに、清帝国公使館によって監禁された。 汽船がチャーターされ、母国に連れ戻されることになっていた。 そこで彼を待っていたのは、(彼自身も書いているように)残酷な長い時間をかける死刑であった。 「だれも私の遺骸を鑑別できないように、足首は万力でくだかれ、大腿はハンマーでたたきつぶされ、 両眼は摘出され、全身が細かく切りきざまれるはずだった」
孫文の監禁について、在ロンドンの封建中国の外交官たちは、 イギリス人顧問で、三〇年前に太平天国反乱の鎮圧に力を貸したサミュエル・ホリデー・マカトニー卿の援助を受けた。
この両国の反動主義同盟に対して、孫文は民衆対民衆というような積極的な面に活路を見出そうと工夫を凝らした。 彼は公使館の中で食物を運んでくれる召使を味方につけた。 この人が、の香港時代の外科の教授ジェームズ・カントリーのもとへメモを届けた。 カントリーは、もう一人のの以前の教師で、熱帯病の医療で著名なパトリック・マンソン卿の協力を得た。 この二人の医師はロンドン警視庁やイギリス外務省に行動を起こさせることに失敗した時、 この問題を新聞に持ち込んだ。
新聞の一面トップ全段抜き見出しや、ポートランド・プレイスにある清国公使館の外での民衆の声とどろくデモに促されて、 イギリスの外務大臣ソールズベリー公爵〔首相〕は、孫文の逮捕者を説得して、彼を釈放させた。
一八九五年の広州蜂起のすぐあとの清朝政府の指名手配は、 それまで無名だった孫文を中国で有名にしたのだが、 一八九六年のロンドンでの監禁と劇的な救出は、その名を国際的に知らせることになった。 「変わることのない中国」において、いままでは思いもよらなかった革命の指導者あるいはシンボルとして、 彼は世界的に広く知られることになった。 清朝も、孫文や彼の主張を有名にしたことで、思わぬ恩恵をほどこしたわけだ。
引用一九〇〇年、愛国的ではあるが自然発生的であり、綱領のない義和団 ―華北農民の反帝国主義的武装蜂起が起こったが、八ヵ国連合軍により鎮圧され、 流血の惨事に終わった。 以前よりずっと抑圧的な、新しい不平等条約〔辛丑条約〕が中国に強いられた。 華北の港湾都市天津では、一つの都市に八ヵ国の支配する「飛び地(包領)」のような外国支配地、 つまり「租界」を抱えることになった。 これらはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、ベルギー およびオーストリア=ハンガリー〔当時、両国は一帝国〕の租界であって、 これらの国のほとんどとアメリカ合衆国の軍隊が駐留することになった。
事実、首都北京においては、列強の公使からなる外交団が、あらゆる問題において、 清朝政府に命令を下した―この都市の中心部に軍隊に護衛され、 防備を固めた「公使館区域」を設けた。 中国人は外国の通行証なしでは立ち入ることができなかった。 その周辺の広い区域からあらゆる建物がとり壊された。 この堅固に防備された侵略者に、勇気をふるってはむかおうとするものに対して、 外国の銃砲が射撃しやすくしたのである。 直接的な征服の場合は別として、これ以上の民族的屈辱はなかったといえる。
引用段祺瑞は、一九一七年の初夏に、 初期の独裁者袁世凱と同様に簡単に一九一二年の中華民国臨時約法〔臨時憲法〕を蹂躙して、 ドイツに宣戦布告した。 黎総統はを罷免したが、黎自身、奇怪な「弁髪将軍」張勳によって打倒された。 数千の軍隊を率いるだけのこの将軍は、消滅した王朝への忠誠のしるしに、弁髪を保っていたのである。 満州王家は、短期間、墓から戻された。 その名目上の主人、九歳の前皇帝溥儀は、一九一一年に退位してから、まだ北京の紫禁城に住んでいたが、復位を宣言した。 大衆的な支持のないままに、彼の「治世」は辛うじて一二日間続いた。 袁世凱でさえ、皇帝在位期間はもう少し長く―三週間だった。
【中略】
この茶番じみたエピソードは、軍閥が必要としたものだった。 兵隊をもたなかった黎総統は、「弁髪」を倒すために彼を呼び戻さねばならなかった。 再び首相となったは、この不運な黎総統を人の言うままになる人物〔馮国璋〕と取り替え、 一九一二年に選出され、袁世凱の死後、再召集されていた議会を解散した。
孫文、広東政府@樹立
引用権力の強奪者、段祺瑞が軍事力に依存していたため、 孫文もまた、軍事的なうしろ盾を探した。 一九一七年に、彼は、上海に停泊する七隻からなる海軍の艦隊にそれを見出した。 その艦隊はに離反したものだった。 宋慶齢は、この企てを成就させるために何かしなければならなかった。 何香凝(廖仲ト夫人)とともに、彼女は将校の妻たちの間で宣伝活動をし、 その夫たちに影響を及ぼそうとした。
この艦隊に守られて、孫文慶齢や大勢の支持者のグループとともに一九一七年七月六日、 広州(広東)に向けて出航した。 解散された北京の議会の百名前後の議員たちも広州に向かった。 「非常国会」において、彼らは護法軍政府を樹立し、が大元帥に就任した。
しかし、この体制は、一九一七年半ばから一八年初めまで続いただけだった。 当時、広州市を実際に支配していたのは、広東の隣の広西省〔現、広西チワン族自治区〕に根拠をおく軍閥の軍隊であった。 臨時政府の弱点は、この広西軍閥への依存性にあった。 広西軍閥にとって必要なのは、孫文と国会が広州に留まるのは国家的目的のためではなく、 彼らの地方支配に威信を与えてくれることだった。 その中には、賭博やアヘンからの豊かな収入の確保も含まれていた。 よく言われる警句が指摘するように、軍政府に軍隊がなく、軍隊の眼中には「軍政府」がなかったのである。
まもなく将軍たちは、一部の議員に賄賂をやって買収し、 孫文から名ばかりの権力さえも奪い取った。 一九一八年五月四日、彼は辞職して上海に帰った。 北方、南方を問わず、軍閥は全部「同じ穴の貉」であると、彼は怒ってコメントした。
孫文、広東政府A樹立
引用一九二〇年、孫文には、上海のフランス租界での避難生活から、 もう一度広州の彼自身の拠点に戻る機会が訪れた。
一九一七年から一八年に孫文を歓迎しながら、やがて彼を締め出した隣接の広西軍閥たちが、 今度はその西方の雲南省から来た軍隊によって締め出されることになった。 そして、自身、支えとなる軍事力として陳炯明将軍指揮下の広東人部隊〔粤軍〕を掌握したかに見えた。 陳は早くも一九〇九年に中国同盟会に参加し、改革や進歩のための政策に関心を示し、 しばしばに忠誠を誓い、彼の信頼を得ていた。 そのころ、陳の軍隊は隣の福建省に駐留していた。 は片腕の朱執信を通して、再開した護法運動のための確固たる地盤を得るために、 陳に広東に戻るようにと説得した。 省外の軍閥の悪政に懲りていた広東の人びとは喜んだ。 孫文は、慶齢や久しく政治活動をともにしてきた友人たちといっしょに、 一九二〇年一一月、再び軍艦で広州に戻ることができた。
【中略】
の二回目の広州政府での生活は、多忙かつ多事多難だった。 議会は再び召集されたが、この政府自体、今度は軍政府とは名乗らず、全中華民国を代表する合法政府であると宣言した。
一九二一年五月五日、は「非常時大総統」に正式に就任し、慶齢は祝賀行進する一〇万の広州市民を前に、 彼とともに演壇に立った。 彼らはその慶祝の行列に加わり、その夜、広東人が大好きな色彩豊かに精巧に飾りたてた提灯の祭典を楽しんだ。
その翌月の六月、パレードは戦闘への隊列に変わった。
アドルフ・アブラモヴィッチ・ヨッフェ
引用ヨッフェは、一九一七年の十月革命においては革命軍事委員会の委員であった。 一九一八年にロシアとドイツの間の戦争を終わらせたブレスト・リトフスク条約交渉の、主要な交渉者であった。 この条約は、建国後まもなく外敵に包囲されたソビエト・ロシアの生存を保証するのに、 重要な役割を果たした。
彼は、一九二二年のイタリアのジェノバでの国際会議で決定的な役割を演じていた。 その会議で、国内の反革命と外からの一四ヵ国の干渉を打ち破ったあと、 世界の最初の社会主義国家が、(レーニンの平和共存の原則のもとに)国際政治舞台での孤立から脱出するための、 外交活動の第一歩を踏み出していたのである。
レーニンは、党の幹部をできるだけ客観的に評価しようとしていたが、 ヨッフェについては、種々の欠点はあるが献身的な共産党員であり、有能な外交官だとみなしていた。
『レーニン全集』に収められているレーニンのヨッフェ宛の手紙には、 称賛と、厳しいがしかし同志的な批判との、両方の面が見られる。 ヨッフェの欠点は、各省庁間の職務権限争いに過敏なこと、 中国行き以前のいくつかの外交交渉で、モスクワの指示を請わずに独断で処理し、 常軌を逸することがあったこと、などである。
このように叱責したけれども、レーニンはヨッフェに新しい重要な任務を託したのであった。 レーニンは古い同志を簡単に捨て去るような人間ではなかったのだ。 スターリン治下では、ヨッフェはこのような待遇は受けず、大きな困難に巻き込まれた。 トロツキスト反対派とみなされたヨッフェは一九二七年には自殺することになる。
李大サ
引用李大サは、中国の知識人の中では、異色の男であった。 李は学者階級の出身ではなく、華北の生粋の農民の出身であった。 体格や人柄においても、きゃしゃでよく弁の立つ中国式の文人ではなく、 骨太で正直者であった。 彼の話はよく考え抜かれていて、人の思想を刺激するところがあった。 孫文の亡命時期の日本への中国人留学生の間では、彼は政治上において最先頭に立っていたことだろう。 そして、その後すぐ、ロシア革命の衝撃の下で、中国における最初のマルクス主義の宣伝者の一人になった。
祖国に戻り、一九一九年の五四運動の中で、李大サは、思想的な指導者でもあり、 活動の前衛的指導者でもあった。 わずか三〇歳の若さで、すでに北京大学の歴史学、経済学、社会学の教授となり、 その図書館長となり、中国でもっとも先進的かつ影響力のあった月刊誌「新青年」の編集者になった。 空想的理想家でない彼は、学生たちと手を組んで進み、 のちには、とくに華北において、新生の共産党の組織と指導のために尽力した。
外見や服装の点では、李大サはまったくの中国人であった。 彼の同僚たちの多くは、進歩のシンボルを外に示すために洋服を着用したものだが、 李は、長衣の上に黒い上衣を着る伝統的な服装を好んだし、中国の学者によく見られるように、 ポイントが少し下方にある口ひげを生やしていた。 しかし、彼は日本語と英語をよく知っていて、世界の出来事についての情報をより身近に受けとめていた。
彼の教授法自体、オーソドックスなものでなかった。 その多くは日曜日に行なわれ、教室ではなく、ソクラテスのように対話形式で、 大学の図書館の彼の館長室で行なわれた。 李が教えた学生たちは、彼が中国ばかりでなく、トルコやエジプト、インドのような東方諸国の現実の動向を分析するために、 教科書上のマルクス主義を応用するようにと、しきりに勧めたことを思い出している。
孫文、広東政府B樹立
引用孫文は一九二三年の二月中旬、再び広州に向け出発した。 慶齢はほぼ三ヵ月遅れて行った。 を追い出した軍閥陳炯明は、いまや、華南の他の省の将軍たちに追い出されていた。 将軍たちは、この豊かな都市の税収だけが欲しくてたまらなかったのだけれども、それでも 将軍たちは孫文の名声を利用し、彼ら自身も箔をつけたくて、を再び招いたのである。 彼らは気前よく、に「大元帥」(最高司令官)の称号を与えた。 には彼自身の軍隊がなかったので、将軍たちにとってはなんの心配もなかったからである。
しかし、将軍たちが非常に驚いたことには、到着後すぐに、孫文は、「余分の軍隊」をすべて解散すること (兵士を労働者にするために)、ギャンブルの禁止と役人の綱紀粛正を命じた。 これら政策のすべては、長い間苦しめられてきた市民を喜ばせた。
それから、は一九一七年以来、広州で三回目の、彼の政府を成立させた。 宣言された目標の一つは、北洋軍閥が企図した軍事的「統一」に反対して、全中国を平和的に統一することであった。 対照的には、中国全土の軍隊の縮減を提案した。 これは、いくつかの地方の軍事クーデターの企みを誘発した。 に対しては、彼を招いた同じ張本人たちによって企まれた。 軍隊こそは、将軍や政客たちの権力、ギャンブルの収入、 収賄やその他の不当な方法で手に入れた富にとって決定的だったのだから、こうしたことは不思議ではない。
また、給料をごまかしたり、取るに足りない略奪物をあきらめきれない下士官や兵卒たちの暴動も起こった。 騒乱のすべては、が諸勢力間の競合関係を利用したり、説得したり、あるいは策略を用いて鎮めた。 それらとは逆に、進歩を求める学生の示威行動は止められず、はこれを奨励した。
ミハイル・ボロディン
引用当時三九歳のボロディンの人となりは強い印象を与えた。 「背が高く、雄弁ではないが社交的・・・・・・ユーモアがあって、魅力的で、堂々としていた」と、 ソビエトの同時代の人が語っている。 活動的で、多才多芸の彼は乗馬を好み、チェスゲームの名手で、数ヵ国語に精通し、幅広く読書していた。
ボロディンは「東洋」と「西洋」両方の世界革命の産物だった。 今世紀の初め、彼がまだ十代の時にボルシェビキ党に入党、レーニンに会い、そのもとで働いていた。 一九〇五年と一九一七年のロシア革命の間、ツァーリズムからの政治亡命者としてアメリカ(主としてシカゴ)で過ごした。 彼はアメリカ社会党に入党し、そこで多くのリベラルな人たちや進歩主義者と知り合ったが、 その中に有名な改革者で、フルハウス〔シカゴの福祉施設〕の創設者ジェーン・アダムス〔ノーベル賞受賞〕もいた。 彼が家庭で、合衆国市民権をもつ妻や二人のアメリカ生まれの子供たちとの間で使った流暢な英語は、 孫文との直接のコミュニケーションを可能にした。
は彼の革命経験に関心を抱いていた。 ほんの数年前まで、彼はイギリスやメキシコ、スペインに対するコミンテルンの密使であって、 トルコの民族革命派や反革命派にも接触したことがあり、インド独立運動の左翼と連絡をとっていた。
孫文はボロディンを大変信頼していた。 その男の本当の名前を知っているのか、とたずねた国民党右派の人に対して、は答えた。 「彼の名前はラファイエットだ!」と。
このことから、がその新参者の役割をどんなふうに見ていたかがわかる(彼らの付き合いは親密であったので、 は、ボロディンが白ロシアに定住させられたユダヤ人家族の出身であること、 そして、のちにラトビアに移り、そこで出生してミハイル・グルーゼンベルグと名づけられ、 やがてシカゴに住むようになってからは、氏名を短縮してマイク・バーグと称したことなどを知っていたに違いない)。
彭湃
引用南部の革命基地広東においては、農民組合が強力な新しい勢力として台頭しつつあった。
そのもっとも早期のいくつかは、若く、やせてはいるが情熱的な青年、 彭湃(一八九六〜一九二九年)によって組織されていた。 彭湃は地主の息子であったけれども、日本に留学〔早稲田大学〕している時に社会主義思想を受け入れ、 帰国してから共産党に入党し、彼自身の所有地を農民の間に分配した。 農民と同じように着て、食べて、生活することにより、彼は戦闘的で、信頼される地域の指導者になった。
引用三月の初め、もはやペットから起きあがることができなかったものの、 彼はまだ、側近の背が高い李栄や、背が低くずんぐりした馬湘と冗談を交わすことができた。 彼は体を動かされる時、この二人に別々に頭と脚をもってもらった。 三月一一日、すでに危篤状態の中で、彼は小さな孫息子、孫治平〔先妻との子、孫科の子供〕を呼び入れ、 いまは病気が悪くて起きることができないけれども、おじいちゃんは、よくなったら、 またすぐに坊やといっしょに遊ぶから、とやさしく約束した。
彼のそばで、慶齢は時折「ダーリン、何かして差し上げることがありますか」と英語でたずねるのだった。 一度、彼は、ベットから床に降ろして寝かせてくれと頼んだので、彼女が「冷たすぎます」と反対したところ、 彼は微笑み返して、「冷たいのなんかこわくない。氷の上に寝るほうがもっと楽になる」と言った。 それは死体安置室のことを意味したので、彼女はワッと泣き崩れた。 「ダーリン、取り乱してはいけません。私のものは、すべてあなたのものです」と彼は彼女を慰めた。 「私が欲しいのは、私が愛しているのは、あなただけです」と彼女は答えた。
その同じ日、孫文は、何香凝に広州への電報による指示を命じた ―北伐を準備中の軍隊は人民を困らせるようなことがあってはならない、という内容のものであった。 また、彼は、この年上の女性に〔「おばさん」と日本語で呼びかけ〕「妻のことを頼みます」と懇願し、 忠実な警護の副官たちをちらりと見て、「革命政府が続くかぎり、彼らを任用しつづけてください」と約束してもらった。
すすり泣く慶齢に手を支えられて、彼は三通の遺書に署名した。 それは早くから準備されていたが、彼女を混乱に陥れないように延期していた、彼の最後の仕事だった。
一つは、彼の私的な遺言だった。
「私は国事に没頭して、家族のために財産を残せなかった。 私の所有物のすべて―家と書籍―は、 記念として、わが愛する妻、宋慶齢に遺贈する。私の息子と娘は成人しているので、自活することができる」
次に、彼の政治的遺嘱。
「四〇年間、私は国民革命の大目的のために貢献してきた。 その目的は中国を独立と平等の地位にまで引き上げることであった。 これら四〇年間の経験が、この目標に達するためには人民が目覚めて立ち上がらなければならないこと、 われわれは、対等にわれわれを遇する世界の人民と共通の戦いの中で力を合わせねばならないことを、私に確信させた。
革命はいまだなお成功していない。 同志諸君には、私の著作―『建国方略』『建国大綱』『三民主義』 および『第一次全国代表大会宣言』にもとづき、継続して努力し、その貫徹を期せられたい。 とくに国民会議開催および不平等条約の撤廃は、短期間においてその実現を促進されたい。
三月一一日」
三つめのものは、ソ連政府の中央執行委員会宛の書簡だった。
「親愛なる同志諸君へ
私は不治の病気で、病床にあります。 私の思いは、貴国に向かい、またわが党や国の将来に向かっています。
貴国は自由な共和国の大連合の頂点にあります。 この連合は、不朽のレーニンが被圧迫民族に遺した真の遺産であります。 この遺産を通して、帝国主義の犠牲者たちは、古来の奴隷制度や戦争や不義に根ざす国際的な体系から、 必ずや解放され、救出されるはずであります。
私は、国民党を遺していきます。 帝国主義支配から中国や他の搾取されている国々を解放する歴史的な事業において、 この党が貴国と力を合わせることを願っています。
運命によって、私はこの未完の任務を、 国民党の主義と教訓に忠実で、私の真の後継者にふさわしい人びとに託さなければなりません。
それゆえに、私は中国が、帝国主義が強いた半植民地的地位から解放されることを目指して 国民革命運動の活動を続けるように、国民党に命じました。 この最後の日、この目的達成のため、私は国民党に、貴国と絶えず連絡をとるように命じました。 また、私は、貴国政府がいままでにわが国に差しのべた支持を継続すると確信しています。
親愛なる同志諸君、あなた方との告別にあたり、私は熱い希望を表明いたします。 すなわち、久しからずして夜が明け、ソ連邦が強盛かつ独立の中国を友人として、同盟者として迎え、 この両同盟国が、世界の抑圧された人民の解放のための偉大な闘いの中で勝利を得るために、 ともに手をたずさえて前進することを願います」
三月一一日、彼の人生の最後の日に、彼は午後八時三〇分まで、何人もの人に話しかけた。
三月一一日、彼は口ごもり、午後には、もはやその言うことは首尾一貫していなかった。 単純な言葉を話すのがやっと聞き取れ、四時三〇分には「ダーリン」と慶齢を呼び、 六時三〇分には「精衛」と、当時彼の身近にいた部下、汪精衛を呼んだ。
公的な問題に関する彼の最後の発言は、「平和・・・・・・闘争・・・・・・中国を救え」であったといわれる。
三月一二日の朝、彼の心臓は鼓動するのを止めた。 彼はまだ五九歳だった。彼の宋慶齢との結婚生活は、一〇年間に満たなかった。
引用上海に着いて二ヵ月目、孫文の死去からわずか一〇週間後に、 この沿岸の中心都市と国全体が、 一九二五年「五月三〇日」(五・三〇)事件として知られるようになった出来事で震撼させられた。
その日、外国の管轄下にある上海の「公共租界」の警察官が、イギリスの監督官の命令で、 デモ行進中の学生たちに対して銃火を浴びせた。 この学生たちは、日本人経営の綿紡績工場において、ストライキのリーダーが殺害されたことに抗議していた。 一二名のデモ参加者が殺害され、多数が傷つき、逮捕された。
孫文への追悼行動が、彼の遺嘱に従いたいという中国の愛国者の願いがどんな広範囲なものかを示していたとしたら、 「五月三〇日」の事件に対する国民的規模の爆発的反応は、の死の床での遺言に実質を与えるものであった。 何十年もの経験からの結論―「民衆を目覚めさせなければならない」は、 中国革命に新しい大きな波を引き起こした。
廖仲ト暗殺
引用広州から、こちらでは革命が活発であったが反動もまた同様であるということを示す 悲しい証拠の知らせが間もなく届いた。 八月二〇日に、廖仲トが会合に出るために訪れた国民党中央委員会の玄関先で、暗殺者に撃たれたのである。
背が低く、浅黒く、気さくによく動き、幅広い読書家で、有能で、明るい瞳をしていた廖仲トは、 一九〇〇年代初め、東京滞在のころからの、孫文のもっとも親密な仲間の一人だった。 慶齢にとって、廖と、背が高くがっしりとした彼の妻、何香凝は、個人的にも政治的にも最良の、 もっとも心の温まる友人だった。 二人とも、東京での彼女の結婚の支持者であり証人であった。 何香凝は、の最後の時、日々の世話をしながら、慶齢を強く励ました。
国民党の内部では、廖仲トは、孫文の新しい三大政策の重要な擁護者だった。 暗殺された時、彼は中央執行委員会の要にあたる存在であり、党の農民部長であり、 広州政府の財政部長であるとともに、広東省の省長でもあった。 彼は都市や農村の働く人たちに人気があった。 それらの人たちは、いつも彼に親近感を覚えていたし、彼もまた、高い官職にありながら、 革命家として大衆と接触することを決して忘れなかった。 香港・広東ストライキ委員会の顧問として、廖は積極的に活動し、一方、彼の妻は毎日、 ストライキ参加者のために、宿舎、食事、その他の必需品を整える活動を組織していた。 慶齢が上海から送った資金は、彼女を通じて配分された。
広州では、特別調査委員会(周恩来がメンバーの一人であった)が、 廖の暗殺は国民党右派によるテロリスト活動であるとみなした。 香港からの、イギリスの扇動と金銭援助があった疑いもある。
このことは、国民党右派が、大衆運動が一方では北方軍閥に対する闘いに強力な援護射撃となったことを喜びながら、 他方、その力を恐れ、憎んだことを暗示している。 彼らはいかなる手段を講じても大衆運動の発展を阻止し、その指導者を駆逐し、 大衆の友人がいかなる権力ももてないようにしたのである。
引用国民党左派の首領汪精衛は、死んだ廖仲トとは大変違う人物だった。 廖は率直で、素朴で、近づきやすく、活発であったが、は容姿端麗で、 年齢よりはるかに若く見えるという生来の利点を意識してふるまう気どり屋であった。 はいつも服装に細かく気を配り、身ぎれいにしていた(マレーシアのゴム農園の女相続人であった妻のおかげで、 彼はそのような優雅な身なりをする資産をもっていた)。 は文章もうまく、雄弁で流暢な話し手であった。 彼の過去は、ロマンティックな革命家の日々であった。 若いころ、清朝の摂政王に爆弾を投げつけて暗殺をはかり、逮捕されたが、 光緒帝の未亡人(東太后)のおかげで死刑をまぬがれた。 世評によると、彼の若さと容貌に彼女が心を動かされたから、という。
しかし、後半生には、汪精衛はかつての勇気ある決断の名残さえとどめなくなった。 彼の握手でさえ、マシュマロのように骨のない、やわらかいものであった。
中山艦事件
引用一九二六年三月二〇日、広州で「中山艦事件」が発生した。 これは孫文の政治的遺嘱に対する、国民党右派からの最大の挑戦であった。
軍艦名「中山」は孫文を記念して名づけられたもので、もとの名は「永豊」であった。 「永豊」は、一九二二年に陳炯明と戦った時の彼の避難所であり、大本営でもあった。 いまや、それは、蒋介石による新たな挑発の犠牲になった。 は、陳炯明討伐戦で活躍して最大限の名声を得ていたが、彼自身、新しい軍閥への道を歩みはじめていた。
彼が企んだ計画は単純だった。 最初、彼は第三者を通じて、共産党員であり海軍局長代理であった李之龍〔兼中山艦長〕に対して、 中山艦を広州から黄埔に回航させるよう命令した。 そうしておいてから、は、この移動は黄埔の大本営を攻撃するために、 共産党員とロシア人顧問が共謀して行なったことである、と言明した。 その証拠となるように、は、李がに広州のすべての個人企業を国有化するよう要求し、 そうしなければは打倒され、逮捕されて、ソ連のウラジオストックに船で運ばれるぞと脅迫した、 という噂を流した。
これを口実にして、蒋介石は、李之龍とソ連人の顧問たちを逮捕し、拘留した。 周恩来ら、黄埔軍官学校の多くの共産党員も逮捕された。 広州では、が戒厳令と外出禁止令を布告した。 このことは、「政府主席」であった汪精衛をパニック状態に陥れ、彼は、香港に逃れるのが賢明だと考え、 そこからフランスに赴いた。 がじゃまにならない所にいることを望んでいたから、の外遊はまたしてもにとって好都合であった。
このようにして、蒋介石は実権をもった古参政治家の地位を獲得した。 当初の目的が達成されたので、蒋介石は、緊張した人心を鎮めるために戦術的後退を打ち出し、 逮捕された人びとを釈放し、ロシア人に対して謝罪した。 左派(その地位を奪われた人びとのほとんどが復職していなかった)の力を弱めてから、 彼は「右派に対して」打撃を与えた。 短期間にその中の数人を拘留し、何人かを広州から立ち去らざるをえなくさせた。
この二重の策動を通じて、蒋介石は何も失うことなく、得だけをしたのだった。 右派が全体としてに反対しないことがわかっていたので、彼は、権力争いをめぐる二人のライバル、 右派の中心人物を追放した。 この二人とは、前総司令官の許崇智と、国民党の指導的政治家、胡漢民である。 彼らは、廖仲ト暗殺者と関係があるという疑惑をかけられたのである。
このようにして、は左派の歓心を買うこともできた。 それに、両派とも彼を必要とするようになったので、どちらも彼を追い出すことができなかった。 なぜなら、彼は一身に軍事権力を掌握しつつあったからである。
2租界実力回収
引用一九二七年一月三日、江岸から上陸したイギリスの海軍陸戦隊が、 武漢三鎮の一つ、漢口のイギリス租界の境界を横切ったところで祝賀集会をしようとしていた労働者たちに銃剣を突きつけた。 参加者たちはお祝いどころではなかった。 彼らは、革命の新首都においてこれら外国の軍服と武器を見ることに怒りを示したばかりではない。
同じイギリス人が、中国のもう一つの彼らの租界(北方の海港都市天津)で一四名の国民党員を逮捕し、 北京の軍閥政府に引き渡し、監禁あるいは処刑させたことに憤慨していたのである。
さらに武漢でも、イギリス人管理下にあった税関当局が、以前の広州におけると同様、 歳入から革命政府に当然交付すべきものを拒み、それを北京の反動派に送りつづけていた。 しかしながら、集まっていた中国人たちは、砂袋を積んだ租界の境界をあえて越えて行動を起こさなかった。 それにもかかわらず、陸戦隊員が先に飛びだしてきて民衆に銃剣を突きつけ、数名を死傷させた。
そのニュースが広がって初めて、示威行進は周囲を圧倒する数にふくれ上がり、 イギリス租界に津波のように押し寄せる勢いになった。 イギリス軍は形勢不利と見たが、これ以上、武力を使えばその影響は測りしれないことに気づいた。 軍艦に退き、イギリス租界は中国人大衆の支配下におかれた。
しかし、まだ問題は残っていた。 どちらの意志が最終的に勝利するのか。 武漢政府は、過去の世紀にたびたび行なったと同じように、 大衆の意志に反して外国の特権に屈するのだろうか。 それとも、人民の側に立って、外国の特権の廃止を強く求めるのだろうか。 それは、これまでには一度もなかったことではあるが。
武漢政府は屈辱的な先例と絶縁し、大衆行動を支持した。 そして大胆にも、漢口のイギリス租界を接収し、また、人民がすでに占領していた下流の九江の租界をも接収した。 それは歴史的な行動だった。 一八四〇年から四二年のアヘン戦争以来初めて、不平等条約によってもぎ取られていた中国の領土の一部が、 中国人民と政府によって回復されたのである。
引用政権の妨害にあいながらも、第一九路軍が勇敢に日本軍に抵抗した上海防衛戦の後、 蒋介石はおとなしく「上海停戦協定」に署名した。 中国政府は、その中で、中国軍をこの中国最大の都市から撤退させること、 および全国的に抗日運動を禁止することを侵略者に約束した。 政権は、このことを全国の激怒渦巻く抗議を無視して行なった(愛国的学生たちは、停戦会議の代表、 郭泰祺を怒りのあまり殴ったほどである)。 その後、この政府は態度を変えた。 彼らにとって本当に関心のあることに対しては、どうもうさを増してきた。 ―大衆運動に対する警察の弾圧、中国紅軍に対する軍事的鎮圧、 それに密偵と刺客による新しい団体、 「藍衣社」(ムッソリーニの黒シャツ隊やヒトラーの茶シャツ隊を意図的にまねたもの)の組織がそれらの現われであった。
引用中国文化の陳腐さを排して、 それに代わる新しい感性と思想をもたらした作家でエッセイスト、この恐れを知らぬ人物の役割は、 ロシアのマキシム・ゴーリキーやフランス革命前のヴォルテールのそれに比肩するものである。
魯迅は肺結核を患い、体質は弱かったが、精神力、意志力の強大さには驚くべきものがあり、 とくに原則を貫き堅持する力は特別であった。 孫文やチェーホフと同様、彼は、早年に医学を学んだが、堅忍不抜の革命精神では前者に相通じ、 洗練された簡潔な文体という点では後者に相通じるものがあった。 彼は、文学の世界だけでなく、広く中国の青年から熱愛され、尊敬され、民族精神の象徴になっていた。 愛とやさしさをこめて、彼は中国の反動派の犠牲になった無数の若者たちのために追悼文を書きつづった。 脅迫を恐れることなく、彼は公然と白色テロに立ち向かった。 ある抗議集会に行く前に、彼は帰宅できなくなることを覚悟して、自宅の鍵を投げ捨てた、といわれている。
研ぎ澄まされた風刺を用いて、魯迅は古い中国の(彼の言葉を借りれば)「人が人を食う社会」の 封建的な偽善を剥ぎ取った。 彼は、中国紅軍のめざましい活躍の中に新しい夜明けを見て、それを歓迎した。
魯迅は、国内の場合と同じように、外国のファシズムにも憤りを覚えていた (彼は国内外のファシズムを相互に関連あるものと見ていた)。 上海のヒトラー政権総領事館への抗議のほかに、 「中国とドイツのナチズムの優劣論」や「中国とドイツにおける焚書」などの文章の中で、 ファシズムを猛烈に攻撃した。 救国運動でも、彼は倦むことなく活動した。
引用一九三六年一二月、蒋介石は、彼の内戦の主要基地、西安で、 二人の部下の将軍によって強制的に拘留された。 一人は「青年元帥」張学良だった。 は、一九三一年に、彼の故郷東北(満州)に対する日本の占領に抵抗してはいけないと、 に命令されていた。 しかも今度は、日本軍ではなく「紅軍」と闘うようにから命じられた。
と彼の部隊は、紅軍に敗れた後、紅軍が捕虜を友人として待遇し、釈放したことを見て、 「中国人は中国人とは闘ってはいけない」という呼びかけにはどうしても応えなければならないと認識したとしても不思議ではない。 は、抗日と紅軍との停戦を決定した。
もう一人の将軍楊虎城は陝西で生まれ育ったので、西安を首都とする陝西省を内戦の主戦場にしたくなかった。 また、彼は帝国主義とは何のつながりもなかったが、 地元の進歩的な人たちと往来があったので、張学良といっしょに行動した。
蒋介石を掌中にした両将軍は、に統一戦線に同意し、それを全国的規模のものに発展させることを要求した。 は初めのうちはかたくなで、「いっそのこと、私を殺せ」と言った。 もし共産党が介在しなかったなら、事情は彼に不利に推移したであろう。
中共は周恩来を西安に派遣し、が国内平和を実現し、日本に対して強硬姿勢をとることに同意することを条件に、 の釈放を提案した。 共産党員は、これまで非常に長い間、に追われ、皆殺しの対象(周恩来の首にも高額の賞金がかけられていた)になっていた。 しかし、いまはの生死を思いのままにできる立場に立ち、しかもこのように提案したのである。 このことは、全中国と全世界に対して、共産党員は民族の運命の関頭に立って、 みずからの恩讐を超越したことを表明するものだった。
蒋介石は、同意の後、南京に送り返された。 それは、妻宋美齢と妻の兄宋子文の協力によるものでもあった。 二人はの釈放を求めるために南京から西安に飛び、張学良、楊虎城両将軍と話し合い、周恩来とも会談した。 彼らは国民党内の親欧米派を代表していて、親日派に反対していた。 彼らは蒋介石に、南京の親日派の政客たちは西安を爆撃することを画策し、 内戦を長びかせるだけでなく、機に乗じて彼を見殺しにして権力を奪おうとしていると信じさせた。
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