「日本の近代(6) ― 戦争・占領・講和 ―
参考書籍
著者: 五百旗頭真(いおきべ・まこと)
発行: 中央公論新社(2001/04/25)
書籍: 単行本(440ページ)
定価: 2400円(税別)
目次: プロローグ 「紀元二六〇〇年」と真珠湾
1 日米開戦
2 敗戦の方法
3 戦後体制へ
4 歩みだす日本
5 保守政治による再生
エピローグ 五五年体制の成立
補足情報:
リーダー不在が「敗戦」をもたらす。再生・新日本を領導したものは (帯)
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日本の悲劇的な思い上がり
引用日中戦争を当時観戦した欧米の武官たちは、日本陸軍の装備、補給、戦略思想の貧弱さに驚き、 三流軍隊ではないかと評していた。 それでいて、ドイツが電撃戦でめざましい成功をとげると、 まるで自らが強くなったかのように熱に浮かされ走りだす「紀元二六〇〇年」の日本であった。
オアフ島のレーダー、第一波攻撃隊の機影を探知
引用二時三十二分(現地七時二分)、オアフ島北端近くのオバナの訓練運転中のレーダーが、 北方一三二カイリより多数の飛行機が接近中であるのを捉えた。 一八分間これを追ったのち、防空指揮所の当直将校に通報した。 しかし当直将校は訓練員からの連絡を軽く扱った。 アメリカ本土よりこの日飛来予定のB17爆撃機の編隊が映ったかと、確かめもせず想像して、何の対応もしなかった。 米軍側にとって奇襲攻撃を逃れる最後のチャンスは失われた。日本側に幸運は続いた。
南進論の起源
引用日中戦争を蒋介石汪兆銘との合作により収拾せんとする桐工作が、四〇年夏を超えて破綻に瀕していた。 その結果、田中新一参謀本部作戦部長も認めたように、日中戦争の局地解決の見込みはなくなり、 世界戦争に連動する全体的決着の中でしか解決されない、と考えるに至る。 このような地球的な戦争を戦い抜く観点に立てば、長期持久の態勢を築くことが必須である。 時あたかも東南アジア植民地の宗主国がドイツによって制圧される事態と見合わせれば、 陸軍軍人にとって南方資源の確保こそ啓示であるように感じられたのである。
引用一九四〇年夏のドイツは、イギリス本土へ連日の爆撃を加えて制空権を奪い、イギリスを屈服させようとした。 しかし、レーダーの開発配備を世界でただ一国とげていたイギリスは空軍によるしぶとい効果的な守戦を展開した。 軍需生産基地からロンドンへ中心目標を切り換えるヒトラー自身の作戦上の誤りもあって、 秋の声を聞くころには、ドイツがイギリス本土上空の戦に敗れたことは否定できない事実となっていた。 ドイツの輝ける時は一九四〇年六月、フランスを屈服させたころに終わっており、 夏を分水嶺として挫折と転落の局面がしのびよっていた。
アメリカのルーズベルト政権は、陸軍戦争計画課長G・ストロングを長とするミッションをヨーロッパに派遣して現地調査を行い、 九月はじめにその報告を受けてドイツの凋落の始まりを認識していた。
ところが、日本陸軍は多くの軍人をヨーロッパに駐在させながら、 親独主義に毒されてドイツの行き詰まりを把握できず、松岡外相も同じくドイツの電撃戦の成功という残像に支配されて、 共同幻想に陥っていた。
松岡外相は、ドイツが第二次大戦の中で転落を開始した瞬間に、依然ドイツの対英勝利が近いと信じて、 九月二十七日に三国同盟を結んだのである。 それは、いわば「滅びゆく者との抱擁」であり「死の接吻」ともいうべき悲劇的決断であった。
引用作戦部長の論と軍務局長の論とをすり合わせて、六月十四日の陸軍案が生まれた。 それは、好機を捉えて南方に、さらに独ソ戦が「極めて有利なら」北方にも武力行使する、というものであった。 さすがに、田中の好機「作為」論は抑えられたが、二ヵ月前の「好機武力行使の否定」という路線は、あっけなく吹き飛ばされた。 優先順序はつけたものの、南進と北進の両方を作戦計画に組み入れる方針で、陸軍内は合意したのである。
これに対する海軍案が、二十日に示された。 それは、南進第一、北進第二、の陸軍提案に同意するかたちをとりつつ、第一と第二のあいだに本質的相違を設定するものであった。 すなわち、無条件に「南方要域進出の歩を進め」るとし、そのためには「対英米戦を賭するも辞せず」との、 驚くべき修辞をはじめて日本の公文書に登場させたのである。 その真意は、英米戦にのめり込みたいということではなかった。 陸軍と松岡外相が本気でやりたがっているようにみえる北進を、 海軍としては何としても阻みたいあまりに噴出した言葉と考えた方が正しいであろう。 どうせ戦う決意もなく、戦備と予算ばかり欲しがる海軍、と難じられないためにも、これぐらいの決意を記したかったのであろうか。 この政府内の駆け引き上の必要から派生した言葉が、しかし日本の運命を導くことになるのである。 言葉は言霊であり、人や集団を時として呪縛する。
南部仏印の戦略的意味
引用南方の資源を欲する日本の軍部が、南ベトナムの地を支配し軍事基地を設けることには理由があった。 当時の軍用機の航続距離から、それは戦略的要衝シンガポールも、経済戦略上の焦点である蘭印も、 日本軍の爆撃圏におさめることを意味したからである。
陸海軍作戦参謀のうちにも、それをもって威圧しつつ外交的に資源へのアクセスを得ようとする者と、 直接的に武力により獲得せんとする者とがあったが、いずれにせよ、戦略的な利点ゆえにこそ、 日本軍部は南部仏印進駐を強く求めたのであった。 同じ理由で、だからこそワシントンはこれだけは放置できないと眼をつり上げたのである。
引用天皇が声を荒げて叱るのはめずらしいことであった。 かつて即位後間もないころ、田中義一に憤りをぶつけたことがあった。 一九二八(昭和三)年の張作霖爆殺の件に際し、責任者を厳正に処罰すると約束した首相が、 陸軍組織の抵抗や閣議での反対によりそれを果たせなくなった。 天皇は首相が前言をひるがえしたことを責め、「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」と激語した。 田中首相は辞任し、ほどなく心臓発作により急死した。
張爆殺を行った陸軍軍人を処罰しなかったことが軍規の荒廃を招いた。 憂国の至情から出た力の行使であれば、たとえ現場の軍隊の独断であっても、また政府や軍中枢の指示に反する下剋上であっても許される、 という気分をその後の軍人たちにもたらした。 それを思えば、若き天皇の怒りは的外れではなかった。 たが天皇はこのことを「若気の至り」と反省した。 日本は立憲君主国である。 天皇が意思決定する専制君主制ではない。 決定は臣下が明治体制下の手順にのっとって行う。 自らの意思と異なる決定を政府・軍部が下すときも、天皇は質問といったかたちで婉曲に翻意を促すなどの影響力の行使にとどめるべきである。 それが立憲君主制の意味である。そう若き天皇は理解した。
東條陸相「聖慮は和平」
引用天皇の異例の発言は、御前会議出席者にひとしく衝撃を与えた。 だがまことに不思議なことに、九月三日に政府が決定した「帝国国策遂行要領」の内容は、六日の会議で何も変更されず、 そのまま了承され国家の最高政策として権威づけられた。 重ねて天皇から叱責された杉山永野の陸海軍トップは平身低頭して恐懼の極みを体で表現した。 しかし、名誉をまっとうできなかったときには切腹した武人の伝統は、彼らの遺伝子には受け継がれていなかったようである。 政策変更も引責辞任も、具体的な対応を何もしなかった。 天皇の発言は独り言として扱われたに等しかった。
一人だけ真剣に修正を含めた対応を考えた者がいた。 東条英機陸相である。 東条は陸軍省に戻ると「聖慮は和平であるぞ」と大声を発し、部下を集めて会議の次第と衝撃をそのままに伝えた。 さらに武藤軍務局長と長時間の談合のあと、聖慮を重んじ、外交に力を注ぐ方針を打ちだした。 ここに東条が軍人の中で最有力の存在として大をなし、天皇にも厚く信頼されるに至った所以が示されているであろう。 重大にして複雑な事態に直面して自らの観点と判断力をもてず、「決意」を迫る中堅幕僚の「内圧」にうろたえる指導者が少なくなかったが、 そんな中で、東条は問題に正面から取り組む生真面目さと勤勉さがあった。 さらには本気の尊皇思想の持ち主であったこともあった。 御前会議での天皇の発言を重く受けとめたのであった。
幻の東久邇宮内閣
引用近衛は後任に東久邇宮稔彦を推した。 ここまできて戦争をくいとめうるのは、強い信念の持ち主であり、皇族の権威を援用できる宮しかないと考えたのである。 実はこの案は東条の考えであった。 九月六日の決定をめぐって傷ついた当事者たちを超える新主体によって、 政軍を再統合してもらうほかないと、東条は着想し、十四日夕、これを鈴木貞一を介して近衛に伝えたのであった。 ここで興味深いのは、東条東久邇宮の強固な対米戦争反対論を知ったうえで推挙していたことである。
九月六日の御前会議の翌朝、東条陸相を自邸に呼んで注意した。 が第一次大戦後ヨーロッパに長期滞在した際、フランスのクレマンソー元首相ペタン元帥が日米戦争を予言し、 決してアメリカと戦ってはならないと忠告したことを、は話して聞かせた。 アメリカが外交的に日本を締めつけ、短絡的な日本が自分の方から開戦するとのクレマンソーの予言通りに昨今の事態は進んでいるとは指摘し、 猛省を促した。 東条は戦は賭けであり、やってみなければわからない、五分五分であると反論した。 見解の相違といって、東条は席を立った。 を推した東条は、宮首相が「聖上の御意」に沿って戦争を回避するなら、それもよいと達観していたようであった。
だが木戸内大臣が宮内閣の構想に反対した。 皇族をこの重大決定の当事者とすべきではない。 結果がどうでるかわからぬ瀬戸際だから皇族内のエースを使おうとの提案に対し、 そういう局面だからこそ皇族は使うべきでないと木戸は応じた。 陸海軍が一致して平和を支持するのでなければ、皇族内閣は不可能と考えたのである。 皇室の長期安泰を図る宮廷官僚の論理である。 天皇木戸に同意した。
嶋田海相の転向
引用海相就任直後の嶋田は、前任者の「総理一任」論の失敗を乗り超えて、明快な立場を示した。 作戦上の機会を失うから対米交渉を打ちきれというのは暴論であり、あくまで平和を本道として進むべきである、との正論を吐いた。 が、その志は半月と持続しなかった。 連日の会議において参謀本部の強硬な主戦論が東条を防戦に追い込む状況の中で、嶋田海相は十月末に転向する。 開戦に向かう今日の大きな方針は曲げられない。 自分一人の反対によって戦機を失しては申し訳ない。 決心すべきである、と海軍省の幹部に対して決意を披瀝した。 十一月一日の連絡会議において嶋田海相は、すでに明らかになりつつあった条件闘争の立場を鮮明にした。 鉄をはじめとする物資を海軍に回してもらいたい、そうでなければ対米戦争はできない、と頑強に要求した。 最高指導層は茫然としつつも、これに応じた。 「鉄をもらえば決心しますか」との杉山の念を押す問いに、嶋田はうなずいた。 一日の午前九時から一七時間続く重要会議の議事録に、これ以外に嶋田海相の重要発言はまったく記録されていない。 全体判断をリードする識見と志を見失い、全体の運命がどう転じようと当面の自己利益の確保だけに全力を注ぐという組織論理を、 ほとんど美学の域にまで純化した嶋田の海軍省であった。
11月1日大本営政府連絡会議
引用会議のテーマは、東条首相から二日前に宿題としてすでに参加者に提示されていた。 次の三案のうちどれを選ぶかであった。
(一) 戦争に突入することなく臥薪嘗胆する。
(二) ただちに開戦を決意する。
(三) 戦争決意のもとに、作戦準備と外交を平行させる。
二つの極論と中間案を提示するのは、いずこにあっても基本的な議題設定の技法である。 もちろん第三の中間点へと会議を誘導せんとするものである。 会議は東条首相の期待通りに進行した。 東郷外相賀屋蔵相が第一案を主張し、第二案を拒絶した。 参謀本部と海軍が第二案を強硬に主張し、第一案を峻拒した。 東条首相兼陸相は第三案を支持した。 第一案派と第二案派の激突は、激語する永野軍令部総長に加えて嶋田海相まで味方につけた参謀本部の杉山総長と塚田攻次長が、 東郷外相賀屋蔵相を圧倒する勢いであった。 だが、外交交渉による解決を説いて孤軍奮闘する東郷外相を、「東条首相も珍しく支持」したので、 何とか即時開戦論をくい止め、第一案と第二案が相殺しあう共倒れのかたちへ進んだ。
甲乙二案
引用前月の連日の会議において、駐兵期限を焦点とする「甲案」はすでに固まっていた。 東郷外相はそれで対米交渉が実らぬ場合の最終妥協案として「乙案」を、この会議に突然提案した。 それはアメリカが同意するはずもない「二五年の駐兵」などに言及せず、日本がこれ以上の武力進出を行わないことを約するかわりに、 アメリカが資産凍結石油禁輸を解き、その了解が成立すれば、日本は南部仏印から撤兵する、という簡潔なものであった。 つまり、日米関係の歯車が破局に向かっての回転を速めることになった南部仏印進駐以前の状況に歴史を戻そうとする暫定案であった。 東郷外相の回想によれば、「幣原元外相が局面収拾の方策として立案せしものなりとて吉田元大使が持参した」案に、 外相自身が若干の修正をほどこしたのが、この乙案であった。 外務省英米派の長老たちの知恵に支援された外相案である。
引用ジェームズ・バーンズ教授による二冊のルーズベルト評伝の副題「自由の戦士」と「ライオンにして狐」に、 ルーズベルトの本質が、よく示されている。 第一次大戦の指導者ウッドロー・ウィルソン大統領が、いかにも牧師の息子にして学者出身らしい、理念派の理想主義者であったのに対し、 その下で海軍次官補を務めたルーズベルトは、現実派の理想主義者であった。 普遍主義的理念をもっての新世界建設のロマンをウィルソン大統領と共有しつつも、 同時に力の闘争に尻込みしない現実主義者であり、与えられた条件の中で可能性を柔軟に求めるプラグマティストであった。
ルーズベルト海軍次官補は、ヨーロッパにおける米海軍の戦争指導を主たる職務としていたが、 太平洋方面において「対華二一ヵ条」を要求し、ドイツ領南洋諸島や山東半島に手をかける日本帝国の膨張に強い警戒と不信をいだいていた。 しかし、ルーズベルトがハーバード大学の学生であったときに、留学していた元老松方正義の息子松方乙彦から、 日本帝国にアジア制覇の「百年計画」があることを聞かされて、敵愾心をもったという話を、 決定論的に重視してはならないであろう。 また伯父のデラノが広東貿易に従事していたことから、親中反日観を確定していたかのように解するのも短見であろう。
彼がいかに柔軟なプラグマティストであるかは、 日本が第一次大戦後ワシントン体制を支える姿勢を示したときの反応に表れている。 一九二三年七月号の『アジア』に寄稿したルーズベルトは、 「原〔敬〕首相が信頼を基盤とすることに合意し、 その跡を継いだ日本海軍提督の加藤〔友三郎〕首相は海軍力削減を文字通り実施している」と、 ワシントン会議における米英日協調体制下での軍縮の実現を「画期的」と評価した。 また中国問題をめぐる九ヵ国条約の成立を歓迎し、「門戸開放というアメリカの外交方針がワシントン会議によって成文化された今、 われわれは今度は中国市場が日本に重要なことに理解を示さねばならない。旧思考を捨て去る時である」と、 よどみなく日米協調時代を謳い上げたのである。
幻の近衛・ルーズベルト会談、その真相
引用ルーズベルトは四一年八月に近衛首相から頂上会談の提案を受けたとき、結構乗り気であった。
確実な理由は日本との戦争の準備が整うまでの一定期間は開戦を先に延ばしたかったことである。 しばらくの間、日本が暴発しないよう「あやしておく」ことが望ましかった。 それに加えて、ルーズベルトは危機の日米関係を自らの手で急転直下平和にもち込むことに意欲を感じなかったともいいきれないと思う。 ひとたび大胆な平和のイニシアティブに応じ、偉業達成を試みることは悪いことではない。 天皇近衛組が陸軍を本当に抑えられるかおぼつかなかったが、 このたびは近衛が本気であることはグルーの電報からもマジック情報からも明らかであった。 もし軍部がそこから逸脱するようなら、その時にたたけばよい。 アメリカ政府は平和へのよい記録を作り、しかも準備時間を得たうえで、開戦を迎えることができる。 それは案外合理的な方策たりうる。
ではなぜ、ルーズベルトは最終的には、断ったのか。 しばしば指摘される中国など連合国の意向よりも、この局面で決定的だったのは、ハル国務長官の怒りであった。 ハルは日本への根深い不信感に動かされていたが、それ以上にルーズベルトの外交指導をめぐる国務長官の扱いに耐えがたい屈辱を覚えていた。 八月の大西洋会談へは自分の了解も得ずに部下のウェルズ次官が同行し、ハルの一番得意な格調高い原則的「憲章」を発表するに至った。 大統領が女房役たるべき国務長官の眼を盗んで、ウェルズや私的補佐官であるホプキンズを伴って、 国際会議に出かける悪癖にハルは苦しんできたが、このたびはとりわけ傷ついた。 ハルは普通の閣僚ではなく格別に偉大な国務長官とみなされていた。 大統領はその心中をすぐさま感じとって、 政治的影響力の大きいハルが自分への不信から暴発して辞表をたたきつけたりしないよう心配りを開始した。 やがてウェルズ次官を更迭するに至るが、とりあえずハルの頂上会談への反対を尊重し、近衛とのデートを断念したのである。 対日関係はハル国務長官の手許に残された数少ない外交領域であった。
ルーズベルト政権下のスチムソン
引用当時スティムソンは閣僚中最年長であったし、また人に抜きんでた実力者であった。 ルーズベルト大統領はワンマンであって、誰もあらがえないほどの権力と威信とをもっていた。 ところがただ一人、その偉大な大統領を叱りつけることのできた人物がいた。 それがスティムソンであった。
スティムソンは、この時点で七十七歳という高齢であった。 一九一一〜一三年―日本では日露戦争後の時期―に陸軍長官、 二九〜三三年―満州事変当時―には国務長官を務めたあと、 一九三三年に引退していた。 ところが、第二次大戦を迎えて一九四〇年にルーズベルトが、この戦争は民主党政権の戦争ではなく、 挙国一致で戦うべき戦争であるという観点から、野党共和党の長老であるスティムソンとノックスに入閣を求めた。 両者は受諾し、スティムソンは陸軍長官として、ノックスは海軍長官として入閣した (ノックスは四四年四月に没し、フォレスタルが後任になっていた)。 老人ながら「戦士スティムソン」と呼ばれるように、なお彼は体調さえ整えば頭はしっかりしており、気迫に満ちていた。
たとえば大戦初期、参戦前の時期にルーズベルトが、国内の孤立主義的世論を気づかい、 世論調査の数字を睨みながら、イギリス援助に一歩踏み込んでは半歩後退するというジグザグを繰り返していたとき、 スティムソンは大統領を叱りつけた。 大統領、こういう危機における大統領の務めというのは、世論の気圧計を観測したり、 偶発事を待ち望むことでしょうか。 アメリカが国際社会における責任をとるべく、国民に対して強い指導性を発揮するのが、危機に直面した際の大統領の任務でしょう、 と面を冒していう。
また、戦争末期にアメリカの勝利とドイツ、日本の敗戦が明らかになってくると、 ルーズベルトは財務長官モーゲンソーの策案を採り入れて、「モーゲンソー・プラン」を採択しようとした。 これは、二度までも世界の平和を乱したドイツが、三度刃物をかざして平和を乱すことがないよう、 この際ドイツを分割し、弱体化する。 加えて全工業を奪い、「農牧国家」に立ち戻らせる、という激烈なプランである。
ルーズベルトはこの方針を容れ、第二回ケベック会談(一九四四年九月)において、 嫌がるチャーチルに同意させてワシントンに帰ってきた。 その時スティムソンは大統領に覚書を送り、 「それは、ドイツがその犠牲者に対して犯そうとしたと同じ犯罪を、われわれ自身が全ドイツ国民に対してなすことを意味する。 それは文明そのものに対する犯罪である」と痛論して立ちはだかった。 世論もモーゲンソー・プランに批判的であった。 ルーズベルトもたじろぎ、先の問題を今から決めておく必要はない、とモーゲンソー・プランから実質的に撤退したのである。
引用東久邇宮は皇族の中で例外的な個性であった。 は一八八七(明治二十)年、久邇宮朝彦王の九人の子の、末の子として京都に生まれた。 生まれてすぐに親から切り離され、上賀茂ついで岩倉の農家に預けられた。 野山を駆け回り強健な心身に鍛えられたが、孤独で強情な「やんちゃ坊主」になったと自ら回想している。 その結果、五歳の時に東京の皇族社会へ戻されると不適応を生じ、たえず問題を起こした。 十三歳で地方幼年学校に入ってからの陸軍にあっても同じであり、二度まで「皇族をやめる」騒ぎを起こした。 にとって皇族や陸軍のしきたりは不必要に窮屈であり、自由を欲した。 しかしそれは独立心と知的判断力の反映でもあった。 その点を明治天皇はじめ周囲に評価するむきもあったらしく、陸大卒業後の一九一五(大正四)年、 明治天皇の娘(大正天皇の妹)聡子との結婚を許された。 したがって、昭和天皇の叔父にあたる。
が切望していた外国行きは、一九二〇年に実現した。 パリを中心とするヨーロッパでの七年間の自由な生活は「私にとって全く驚異であり革命」であったと本人がいうように、 を大きく成長させることになった。 六年間陸軍大学で学んだあと、政治法律学校に入学して、自由主義、平和主義、民主主義、社会主義などの入り乱れる社会科学を広く学んだ。 ペタン元帥をはじめとする軍人、クレマンソーら保守派だけでなく、左翼政党の政治家や、 モネ、ルノアール、ドガら画家・文人とも交流を楽しんだ。
窮屈な権威主義体制の日本は改革されねばならない、は自らいだいていた日本社会への不満に普遍的理由を見出した。 帰国したとき、は農地改革論者であり、労働改革の必要も認めていた。 ヨーロッパを知って日本のよさをかえって再認識する点もあったが、 日本の一般からすれば大胆な変革を考える視野の広い自由主義者もしくは民主主義者となって帰国したのである。
幣原内閣再生
引用幣原内閣の深刻な問題は、次田書記官長はじめ、松村農相、堀切内相、前田文相ら見識ある重要閣僚が追放に該当しそうなことであった。 首相不在の臨時閣議は、追放閣僚のみを代える内閣改造で乗り切ることを方針とした。 病床の幣原首相は、次第にマッカーサーの仕打ちに憤りをつのらせ、ついに十一日には内閣総辞職の意向を閣議に伝えた。 天皇およびマッカーサー幣原首相を信任し、改造によって政権を続けるよう求めていたが、老首相は聞かなかった。 しかし、閣議において松村農相が総辞職反対論をリードし、次田書記官長とともに病床の首相を訪ねた。 この国家存亡の重大危機にあって、あなたは後任首相として誰を陛下に奏薦するのか、良心をもって推せる者がいるのか、 と松村は迫った。 幣原三土忠造という財政に通じた長老の名を挙げたのに対し、松村は氏が「国際外交の知識経験者であることを聞かぬ」と反問した。 幣原首相は長い沈黙のあと落涙して、政権に留まると、翻意を告げた。
このエピソードが運命的な意味をもった。 失意の淵より再起した幣原首相が、新憲法を成立させる役割を担うからである。
引用冷戦によって、国連を中心とする国際安全保障に日本を委ねてはおけなくなることを最初に提起したのは、 どうやら天皇だったようである。 一九四七年五月六日、天皇は四回目のマッカーサーとの会談において、 「日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねばなりませぬ」が、 「国連が極東委員会の如きものであることは困ると思います」と直言した。 マッカーサーはそれに対し、滔々と世界平和論と憲法九条の偉大さを演説した。 天皇はそれに同調せず「日本の安全保障を図る為には・・・・・・米国が其のイニシアチブを執ることを要する」と直截に語り、 そのために「元帥の御支援を期待して居ります」と真正面から要請した。 マッカーサーももはや抽象的理念に逃げず、 「米国の根本観念は日本の安全保障を確保することである。 此の点については十分御安心ありたい」と応じた。
民政局の敗北
引用民政局は吉田に対する最後の「いじめ」を敢行した。 吉田が切に必要とする総選挙を抑えようとしたのである。 はじめは、公務員法、新給与、災害復旧対策のための追加予算という急務を終えるまで、国会解散を禁じた。 そして次には、憲法第六九条による内閣不信任案可決の場合でなければ解散は許されないと告げた。 内閣が第七条の自由使用により解散することには問題があるとの憲法解釈を宣下したのである。 もし中道連立政権期に解散が有利な状況であれば、民政局は正反対の解釈を与えたであろう。 この時期の民政局は日本のどの政党よりも仁義なき政争の鬼と化していた。 占領軍という無答責の絶対権力はここまで堕落していた。 マッカーサーが長い占領は望ましくないとかねがね語っていたのは、やはり正しい洞察だった。
吉田内閣は十二月二十三日、衆議院で内閣不信任案の可決を受ける屈辱を踏んで、ようやく憲法第六九条による解散を許された。 しかし、耐えただけのことはある。 すでに入党させ、各選挙区で選挙準備をさせていた敏腕の官僚人材群が政治指導者として浮上してくれるであろう。 池田勇人(大蔵事務次官)、岡崎勝男(外務事務次官)、福永健司(埼玉県副知事)、大橋武夫(災害復興院次長)、 佐藤栄作、前尾繁三郎(造幣局長)、らが翌四九(昭和二十四)年一月二十三日の第二四回総選挙に立候補し、 ことごとく初当選することになる。
選挙結果は、民自党が解散時から一一二増の二六四議席を獲得して過半数の二三四を大きく超え、議席の五七パーセントを占めた。 戦後はじめての一党による単独過半数である。連立三党は、民主党が九〇から六九議席に後退、 社会党は一一一から四八議席と半分以下、国民協同党は二九から一四議席と半減の憂き目をみた。 左翼にあって連立政権に加わらなかった共産党が、社会党に幻滅した革新票をさらって四から三五議席へと歴史的大躍進をとげた。 中道の凋落と保革両極化の様相を示した選挙であった。
吉田はこの選挙によって、戦後史においてはじめて政権を「自前」化した。 絶対多数を得ただけでなく、一二一名もの新人を当選させ、 「鳩山一郎から譲り受けた党から吉田茂自身の党へと変貌」させることができた。 自分の政治を展開する態勢を一気に築いたのである。 吉田体制といってもよい政治主体を確立したのである。
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