「ある歴史の娘」
参考書籍
著者: 犬養道子(いぬかい・みちこ)
発行: 中央公論社(1980/10/10)
書籍: 文庫(545ページ)
定価: 円(税込)
補足情報:
五・一五事件より終戦まで、歴史の綾にまといつかれたひとりの少女の魂の形成を描く物語。 家庭、交友、縁談、冒険心など心の遍歴をつぶさに描いた長篇自伝の青春編。 昭和秘史に新しい光を投げかける問題作。(裏表紙)
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犬養家の五・一五事件
引用狙い撃ちにされた当の犬養の家に限っては、事件ののち、 一種不思議な―そう、安堵感と言ってしまっては些か語弊があるが、 それにも通じる静けさが訪れたのであった。
無論、事件は一家全体に取って、めくるめくドラマであったし、 めいめいの受け取り方には相違があろうとも、家族ひとりひとりのその後の人生に、 永く尾を曳く強烈な個人的体験であった。とくにも、唯一の現場目撃者でありながら 「むざむざと(舅木堂を)撃たせてしまった」嫁である母の苦悩は深かった。
しかし、その彼女すらも含めて、一家全員が、安らぎとも解放感ともつかぬ気持を味わうようになったことはたしかである。
来るべきもの―のがれっこないもの―は、 来て去って行った。月並な表現を借りれば、嵐のあとの静けさ。
嵐はすさまじく、むごかった。破壊力に満ち溢れていた。 しかも、もっと大きな嵐を早晩余波として送って来ることをはっきり示す嵐であった。 とは言え、とにかく、去ったのである。
犬養毅、健、道子
引用ある日。
あれはいつであったろう。むしむしする陰気な空気を覚えているから、入梅のころか九月の台風の季節であったろう。
たれもいないと信じてすうと引いた襖の向うに、四十年か三十年かお祖父ちゃまが使いつづけた文机にもたれる恰好で 父が坐っていた。彼は左手に、私邸でも官邸でも毎日何度となく使われて把手の部分がもう黒ずんでしまった 象牙製のお祖父ちゃまの靴べらを持っていた。 右手はそれを撫でていた。 うるんだ眼はしかし靴べらを見ていず、揮毫の墨で方々汚れた、畳がわりの毛氈のどこかを見ていた。
とっさに私は、彼の心に大きく開かれた虚しさを、淋しさを、そしてまた、 そこに去来していたであろうさまざまの追憶の(苦みもまじる)大きさを感じとった。 私に気づいても、父は動作を変えなかった。 ゆっくりと近づいて私は父の肩を抱いた。
「この人が、忍び泣いていた小さな子供だったのだ。 小さな子供から大きな子供に育って行って、この人は―どんな思いを持っていたのだろう ・・・・・・いま、この人はこうやって靴べらを撫でている・・・・・・」
たまらなくあわれであった。
たまらなくふしぎであった。
万感をこめて、おそらく彼の察しとることも出来ぬ万感をこめて、私は父の耳元で言った。
お祖父ちゃま、死んじゃったねえ、パパ」
はじめて、彼は靴べらから手を離した。 その手をそのまま私の胴にまわすと引きよせながら、低いうるんだ声で答えた。
「ああ」
しばらくの間をおいて、
「みんな、死ぬんだ。死と言うのは重いものなんだ・・・・・・」
私は驚いて彼を見た。パパも考えてる、パパも道ちゃんの考えてるようなことを考えてるのかもしれない
引用父健も、とつおいつ考えて外交修辞を見つける前に大雷をそれこそ 「例の調子で」とにかく一応落す人だったが、原熊さんの雷は有名であった。 電話は非常に屡々かかって来たが、もしもしとか今いないとかの応答がモタモタすると、 「例の調子」が電話線の向うでたちまち落っこちるのであった。 したがって原熊さんからと知ったとたん、電話取次のすべての人間は、 母も私も女中も書生も競技レース出場のときのように敏捷になった。 「原田さんのお電話」と取次ぐさえ長すぎるから、「パパ、クマッ」「旦那様、ハラクマさま!」しかし、 そこが人柄と言うものか、早く猛烈に来るがすぐ消えて女々しい尾を曳かぬ雷の本性がわかっているから、 だれも原熊さんを悪く言わなかった。
しかし、いきなり怒鳴りつける「例の調子」の一方―と言うよりも 怒鳴らずにいられないほどすべての回転が他人より早いからこそ、彼、原熊さんはまた驚くべき緻密の人であった。 記憶力も綿密な事務能力も抜群であった。 そうでなかったら、興津と言う都を遠くはなれた漁村に住む元老と東京中央との機密連絡一切を引受ける秘書役は 決してつとまらなかった筈である。
熊さんは平河町の、いま都市センターホテルが建っているあたりにあった、地味で静かなたたずまいの、 外見は和風の家に住んでいた。陽当りはどうもよくなかった。 この家こそ、戦争までの日本の上層政治形勢の舞台であった。
四分の一フランス人の彼は少々太りすぎてはいたが、整った要望と日本風の黄色の甚だ少ない、 白人風の肌を持っていた。 だから、学習院で私の六つか七つ上級の―のちにシューマンの研究家となられた ―お嬢さん康子さんも極めて美しかった。 記憶にのこる当時の康子さんは、瞳の大きな足のすんなり伸びた明るい少女で、 いつも軟球テニスのラケットを粗末なズックの袋に入れて持ち歩いていた。
引用まことに地味でこの世の富とは何の縁故も持たなかった(また持とうとしなかった) しかし語学の才能と学識に関しては図抜けていた英学者斎藤祥三郎を父とする彼は 「外務省はじまって以来の語学の名手」と言われ「外交工作の稀才」「日本の外交には斎藤以後に斎藤なし」 (新潟日報一九七四、二、二四、共同通信社社長福島慎太郎)と言われて、 四十歳半ばの若さでロンドンの世界経済会議の日本代表次いで最重要職の駐米大使にと進んだものの、 東京の自宅はてらいのみじんもない粗末手ぜまのままにのこして何ら頓着しなかった。 外交官は―とくに上級外交官は―名門家柄を背に あるていどの富を持たずにはつとまらぬと一般に信じられていた「原則」とは別のところで、 彼は才能と思考力と驚くべき不断の勉強と「大胆不敵な開けっぱなしの魅力」(のちに筆者に語った ローズヴェルト夫人の言葉)とを富とし、まっしぐらに要職への最短距離を突走ったのである。
彼はおそろしく官吏らしくない官吏であった。 灰をそこらじゅうに振り落すのもかまわず、いつも葉巻か紙巻煙草を口の片一方にぶらさげて、 新潟長岡の出身と言うのにいなせな江戸弁をあやつって相手がたれであろうと誠実且つ単刀直入に語った。 官僚的保身術のとみこうみは微塵もなく、有名なエピソードとしてのこるひとつは、 パネー号事件(昭和十二年十二月十二日、米国旗を明らかにかかげて中国の南京上流六マイル地点《視界良好》に 碇泊ちゅうのアメリカ砲艦パネー号を日本海軍航空隊が爆撃し沈没させた大事件で日米関係は極度に緊張した。 パネー号は日本軍の南京攻略前後、南京在のアメリカ人保護のためそこにいたのである)のさい、 独断ですぐさまアメリカのラジオの、スポンサーつき番組の時間を買い取ったことである。 自分で出演して広くアメリカ国民に直接に呼びかけ真情溢れるまっ正直な謝罪をした。 これにはさすが開けっぴろげのアメリカ人すら驚いたくらいであったから、 日本の政府としきたり・面子にしばられ切った外務省がどれほど仰天したかは容易に察することが出来る。 「大胆不敵な開けっぱなしの魅力」とエレノア・ローズヴェルトにいついつまでも言わせた面目が 躍如としてこの挿話にあらわれている。 いや、エレノアだけではなかった。 日本が世界じゅうの爪はじきとなっていた、しかも対日感情の日ごとに険しくなっていたあの時代のアメリカで、 彼ほどすべてのアメリカ人に―上は大統領国務長官から下はホテルのボーイに至るまで、 あるいは意地の悪いアメリカ人記者連中をも含めて―愛された日本人は他にいなかったのである。 保身・出世に一顧を与えずラジオ番組を買って謝罪するような果敢な即行性、ためらいを知らぬ積極性、 不敵な胆力、「否」をはっきり言う明確さ。緻密極まりない工作の腕。 まさにアメリカ魂にぴたりと来るものを彼は持っていたのである。
引用祖父犬養木堂暗殺の重要要素をなした満洲問題は、 その発生から満州国建立までの筋書一切を、極端に単純化して言うなら、たったひとりの、 右翼的神がかりの天才とも称すべき人間に負うていた。 「満洲問題解決のために犬養のよこす使者はぶッた斬ってやる!」と叫んだ(『花々と星々と』晴れた暗い日の章)あの、 石原莞爾(昭和十三年当時少将、北満作戦部長)その人である。 読者の忍耐をもうしばらく乞うことにして、太平洋戦争への確実な第一歩であったあの石原構想 つまり満洲大問題について触れてみよう。 忘れてはならないのは、石原莞爾が国学者の家に生まれ、東北出身者であったと言うことである。 「神ながらの道」「すめらみことによる四海平和と五族同等」の「王道」を謳う国学に幼くして胸おどらせ、 長じては草の根すら食用にするほどに荒れはてて貧しい日本の農村の悲惨に胸ふるわせた。 財閥は肥え政治家は資本家と結託する・・・・・・「すめらみことの王道を実現し、 広き天地に農民を救い」・・・・・・と石原青年は大夢をえがいた。 その大夢の地を彼は、日露戦争の結果ロシアから鉄道と炭鉱の権益をもらいうけ従業の日本人も守護の兵をも 多く送りこむことになった、あの満洲に見出したのである。 単純極まりなく、彼は「そこに王道政治をつくれば」満洲地元の民、つまり満人も支那人も「共によろこぶ」と考えた。 迷惑なのはそう勝手に信じこまれ見込まれた地元側であった。 大夢を抱く神がかり的青年は、身を軍籍に置くや、夢抱く人にしてはめずらしい、 理論的な明晰な軍法家であることを示し出した。 彼の兵の用い方や作戦法はそれこそ天才的だった。日本の不幸はそこに始まったと言ってもよい。
彼が在満日本軍つまり音に聞こえたあの関東軍の中心人物となったころ、 支那の方では、満洲鉄道や炭鉱やその他、条約に明記される権限以上に―はるか以上に ―投資はするわ人間は送りこむわの日本に、 ようやく強い反撥を示し出していた。 「なんてったってお客じゃないか、土地はこっちのもので、土地までやった覚えはない」と言う気持である、 「図々しいじゃないか」
しかし、石原の頭の中には、貧苦にあえぐ東北農村を救い、「立ちおくれた支那民衆」にも「光明を与える」 理想国家の青写真がもう出来上っていた。 その青写真が現実のものとなる上に邪魔するヤツは、日本の総理犬養であろうと、支那の総統蒋介石であろうと、 満洲の王者のごとくふるまう小僧らしい若僧張学良であろうと、容赦はしない。 天才的軍略家の彼は綿密に計画をたてた。昭和六年秋九月のことである。 彼の計画と手際がどれほどみごとであったかは、のちに国際連盟から調査を依頼されて満洲事変をしらべに行った 英国のリットン卿の次の言葉によって証される ・・・・・・「九月十九日の朝、奉天市民がいつものように平穏に起き出てみたら」 「支配者がなんと、一夜で変っていた」!
引用型として汪さん(一八八五−一九四四)は「雅び」の人であった。
ポロをまとおうと、身をやつそうと、内からにじみ出てしまうエレガンス。 しかもその「雅び」は、詩人の雅び、文人の雅びと言ってよかった。
壮年時代には、革命軍を指揮して兵を挙げ(一九二六−二七年)、武漢政府をつくり上げたような、 血の気の多い左系指導者だったが、草を食み土に寝、砲弾の下をくぐって走る激越な軍人の血も、 持って生まれた雅びを消すことは出来なかった。 生来の「詩人の情」を消し去ることも出来なかった。 当時の彼の写真がそれを示してくれる。
古典的な静かな雅びのせいで、汪さんは一見、女性的なたおやかな印象を人に与えた。 背は高く(当時の日本人として決して小さい方でなかった父より肩から上の分だけ高かった)、 肩幅は広く、兵を挙げたころの鍛錬がいつまでも刻みこまれた堂々たる体躯の持ち主であったのに。
興亜院
引用興亜院とは、昭和十三年十月、日本軍が武漢三鎮を攻め落した直後、 いわゆる「東亜新秩序」建設を進める上の各事務扱いの機関として設けられ内閣に直属した役所をさす。 (昭和十七年十一月以降は、拡大されて、大東亜省と改名し、陸海軍にべったりの行政機関となった。 ちなみに、東条内閣外務大臣であった東郷茂徳の戦犯としての刑が軽かったのはこの大東亜省設置に反対して 辞職したからであった)
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。