「占領期 ― 首相たちの新日本 ―
参考書籍
著者: 五百旗頭真(いおきべ・まこと)
発行: 読売新聞社(1997/12/31)
書籍: 単行本(430ページ)
定価: 1905円(税別)
目次: 第一章 占領統治の受容 東久邇宮・皇族内閣
第二章 二人の君主 マッカーサー天皇
第三章 平和国家への転生 「幣原外交」の成就
第四章 「よき敗者」 第一次吉田内閣
第五章 民主化改革の担い手 片山哲の革保連立政権
第六章 「中道」の火を消すな 芦田均の保革連立政権
第七章 保守政治による再生 吉田茂の季節
あとがき
補足情報:
本書は占領下で重い荷を負った「首相たちの新日本」をクリックせんとする試みである。 戦後日本の再生のドラマを、通史的に描くのではなく、五人・六代の首相たち(吉田のみ再度、政権についた)が、 何を想い、何を資源として、この地に堕ちた国を支え上げようとしたか。 そして何に成功し、何に行き詰まったか。「人とその時代」を六つ重ね合わせるスタイルで描こうとの試みである。 (あとがき)
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東久邇宮内閣の危機管理的性格
引用近衛の好む皇道派の小畑を閣僚に迎えることに緒方は賛成し、石原莞爾を内閣顧問に招聘し(結果は辞退)、 海軍からは高木惣吉の副書記官長への就任を得た。 緒方は、軍が暴発した場合の討伐軍の指揮官に彼らを予定していたのである。
大蔵省、占領軍の軍票使用に関する機密情報をキャッチ
引用軍票問題の兆しは、早くからあった。
「桑港放送に依れば米本国よりマニラに向け一億弗の軍票を輸送中なりと謂ふ。 右は日本進駐軍の使用に当つるを目的とするものにして占領期間中円札と併用せらるる模様なり」。 八月二十二日、大蔵省に飛び込んだ同盟通信経由の「機密速報」である。 もちろん「桑港」とは、サンフランシスコのことである。 米国は「間接統治」の一般方針を日本に示したものの、占領下で軍票を用い、通貨と経済を日本政府のコントロールの外に置こうとしている。 それは経済を通しての「直接統治」への移行を意味するであろう。 少なくとも、外部支配者の都合による通貨の乱発が、日本経済の混乱と壊滅への道となるであろうことは、 日本占領下の香港はじめアジア各地を思い起こせば明らかであろう。 軍票だけは許してはならない。 八月二十四日、津島寿一大蔵大臣は、占領軍に軍票を使わせないため、 日本銀行に円紙幣を刷って占領軍にとりあえず提供させる案を用意し、 外務省の同意を得て、その方針を閣議に報告した。 このように、占領軍の進駐前から、大蔵省と日本政府はこの問題の重要性を認識し、 間接統治下で通貨と経済の主権を失わないことに全力を傾けたのである。
「三布告」問題
引用それは、ミズーリ号艦上の式典が終わって数時間しか経ていない午後四時過ぎのことであった。 GHQのマーシャル副参謀長から呼び出された鈴木公使が、そこで「翌三日に告示する予定」と言って提示されたのが、 有名な「三布告」である。
「連合国最高司令官総司令部」の「布告第一号」は、 「行政、司法及立法ノ三権ヲ含ム日本帝国政府ノ一切ノ権能ハ爾今本官ノ権限下ニ行使セラルルモノトス」と宣言し、 英語を公用語とするとした。 どうやら、日本政府が最も恐れていたものが来たようであった。 「布告第二号」は、SCAP命令への違反者を「占領軍裁判所」が死刑以下の刑に処するとした。 治外法権という明治の悪夢どころの話ではなくなるわけである。 そして「布告第三号」が、占領軍の発行するB軍票を「日本銀行ノ発行スル法定通貨」と同等の「日本法貨」とすることを命じた。
鈴木公使は、その場でこの措置が「天皇および日本政府を通して統治する」公的な方針にもとるうえ、 天皇の詔書に従って日本国民が懸命に協力しようとしている最中にそれを覆すことが政治的に賢明でないことを説き、再考を求めた。
この報を受けて日本政府は、ただちに動いた。 二日深夜、政府の命で横浜に急行した終戦連絡中央事務局の岡崎勝男局長は、サザランド参謀長と会見した。 参謀長は岡崎の要請を容れて、とりあえず三布告の公布差し止めに同意した。 翌三日、重光外相が決着すべく、焼け野原の中を、あわただしく連日の横浜行きとなった。 午前十時半からのマッカーサーとの会見で、重光は説得に成功した。 マッカーサーは、「要スルニ政府及国民ノ出方一ツニテ之ノ問題ハ如何トモナル」と語って、 重光の言う日本側の誠意を持っての協力姿勢を認めた。 布告を「日本政府に対する命令」に変え、日本政府が自らの手で執り行うことは差し支えないと答えた。 勝者の側で、日本国民を直接統治する意図は、必ずしも断固たるものではなかった。
引用重光は情に流されず論理を通すことのできる人であった。 それだけに相手の心理をもとらえて感服させることは得意ではない。 むしろ、論理で押す中で、人を怒らせることが多い。
東久邇宮首相の情報公開の前に立ちはだかる壁
引用議会を開き、「大本営発表」しか聞かされていなかった国民に、戦争と敗戦の実相を告げることも、 東久邇首相が強く主張したところであった。 だが、閣議において、「敗戦」という言葉ではなく「終戦」に改めるべきであるとの提案がなされる日本であった。 首相と外相は事実を曲げることはない、と貫いたが、組織と国家の面目についてまことに重い日本社会である。 官僚主義は敗戦によっても不死身であり、「例のごとく法規にとらわれ・・・・・・なかなか決定しなかった」(『東久邇日記』)。
ようやく九月四日、五日に臨時議会が開かれることになった。 すると今度は、議会で報告する敗戦の真相をなるべく少なくしようとする陸軍・海軍の説得に苦労することになった。 たとえば、小畑国務大臣は、敗戦の事実を明らかにすると国民の指揮にひびき、軍人を刺激する、と反対した。 軍部にとって不都合な動きを抑えるのに、二・二六事件再発の危険性をほのめかすことほど効果的な武器はなかった。 不穏な風評が飛び交うこの時期、この脅迫はまだまだ有効であった。 批判を浴びるかもしれぬ不都合な事実をないことにする情報封印感覚は、今も統治の任にある人々の間で健在であるから、 当時において抵抗が強かったことは、あえて説明を要しないであろう。 むしろ、戦前期に皇族と陸軍に育ちながら、首相が情報公開や透明性の真の信奉者であったことの方に、 驚きの眼差しを向けて然るべきであろう。 首相は伝統社会の体現者たちに応酬した。 戦争がこういう結果になる前に、自分が東条首相や軍に意見をしても、採りあげられた例がなかった。 今は責任者である私がすべてを自分の判断で決める。 今になってくだらぬ不平を言っても一切採りあげない、と。(『緒方竹虎』)
東久邇宮首相の試み「総理への手紙」
引用情報と民主主義にかかわる試みとして、東久邇首相は、国民が直接首相に対して手紙を書くことを求めた。 八月三十一日の『朝日新聞』一面トップ記事は、厚木への「マッカーサー元帥到着」を抑えて、 「首相宮への信書お許し 直接民意御聴取 言論暢達に畏き思召」がとった。 『読売新聞』も同様である。 「嬉しいこと、悲しいこと、不平不満何でもよろしい、率直に真実を書いてほしい、一々返事は出しませんが、 即座に解決できるものは出来るだけ早く解決し、参考になると思ふものは十分に研究する」。
もちろん、緒方書記官長との合意で始めたことであったが、予想を上回る反響を呼び、 連日八百通、多い日には千通を超える手紙が官邸に届くようになった。 後に政治家となる長谷川峻秘書官が「総理への手紙」の処理にあたったが、最も多かったテーマは、 やはり切実な食糧問題であり、次いで衣住の問題、学校、戦災家族の東京復帰問題、さらには官僚機構の改革、 政財界指導者の退陣問題、統制経済の撤廃などが、国民が総理に訴えようとした問題であった。 東久邇首相は激務の合間に、さらには夜家に持ち帰ってまで読むのを楽しみ、 約束通り可能なものについては熱心に対応した。
引用とりわけ、重光外相東久邇首相近衛副総理ら日本側指導者をマッカーサーと会見させまいとしたことが、憤りを巻き起こした。 重光には、首脳が会うべきは、外務省が実務的に十分詰めてからであり、それまでは時期尚早であるとの伝統的外交観があった。 日本のトップがマッカーサーのもとへ安易に近づくことは、「ディグニチー」(威厳)を損ない「媚態」外交の危険があると、 重光は論じた。 しかし、敵同士であった勝者と敗者が東京で一つの事業を始めようというのに、首脳間の相互理解なしにやっていけるわけがなかった。 重光にとって不幸なことに、マッカーサーもまた「重光一元性」を嫌っていた。 重光をバイパスしつつ、九月十三日に近衛が、十五日には東久邇が、それぞれマッカーサーと会見した。 会ってみれば、首脳会談を望まないのは重光一人であることが明らかであった。
重光の外相就任を推進した近衛木戸も今では見放していた。 九月十五日、重光東久邇近衛に対し、内閣全面改造を提案した。 二日後、首相は木戸と相談のうえ、外相に対し単独辞任を要求した。
【中略】
孤立無援を悟った重光は、素直に辞任した。後任には吉田茂が選ばれた。
軍部大臣現役武官制
引用大命降下を受けると、閣僚を任命できるが罷免できない、それが明治体制下の首相であったが、 正確にいえば、首相の閣僚任命権にすら制約がある。 とりわけ「参謀本部の独立」と「軍部大臣(現役)武官制」とに支えられて、陸軍大臣と海軍大臣については、 両軍から推薦された組織代表者を首相がいただくことになっていた。 陸軍の場合、陸軍大臣・参謀総長・教育総監の三長官の合意により推薦する慣行が形成されていた。
アメリカ、直接統治、軍政実施も辞さずの構え
引用九月六日、米国政府は日本に関して最も強引にして乱暴な指令をマッカーサーに発する。 マッカーサーの日本統治権限は至高であるだけでなく、日本との関係においては無際限であると宣言する。 「日本との関係は、契約的基礎に立つのではなく、無条件降伏にもとづくものである。 ・・・・・・日本管理を日本政府を通じて行うのは、その方途が満足な成果を上げうる限りにおいてである。 貴下が必要な場合に直接行動をとる権限を妨げるものではない」
吉田茂幣原擁立工作
引用六月、外務省の後輩である市川泰次郎は、吉田の指示で幣原を訪ねた。 五月二十五日の大空襲で千駄ヶ谷の自邸を、大事にしていた日記、書類、蔵書ともども焼失した幣原は、 打ちひしがれ最悪の事態に陥っていた。 多摩川畔にあった三菱系の東山産業の農場の一隅に逃れて仮住まいしていた。 幣原と会って、これが和平派希望の星かと市川は驚いた。 「非常にやせて生気がなく、がくがくとあごをならし、手もふるへ、誠に老齢そのものであつた。 このやうなご老体を和平運動にかつぎ上げて、果してどうかとさへ怪しんだ」
吉田は自ら多摩川畔に幣原を訪ね、さらに七月に入って丸ノ内の日本倶楽部で再度会って、和平運動の先頭に立つよう求めた。
【中略】
体力の衰弱と病みがちな健康は、家と書類を焼かれ流浪の身となって以来、おそらく加速したのであろう。 手がふるえあごが異音を発して、来訪者を驚かせる上述の事態に至っていたのである。 それでも幣原引き出しをやめない吉田らは、常識的には老人に対し人情を欠いた残酷な後輩ということになろう。 ところが、人間分からないもので、幣原は七十三歳の老齢をもって政治の最高責任を帯びることにより、 活力をとり戻し、手のふるえもあごのぐらつきも消え、意義ある最晩年を持つことになるのである。
幣原喜重郎の「終戦善後策」
引用思いもかけず、過去から呼び起こされて戦後政治の担い手となる幣原の構想をうかがう材料としては、 やはり終戦後に書き、十月初めに吉田外相に手交した「終戦善後策」以上のものはない。 それは四か条から成る意見書である。
第一、連合諸国の我国に対する信頼の念を深からしむること
第二、敗戦より生ずる事態の重大性を国民一般の胸中に明記すること
第三、我国は国際情勢の機宜を逸せず、われに有利なる新局面の展開を図ること
第四、政府は我敗戦の原因を調査し、其結果を公表すること
第四の敗戦の原因の解明と公表についてみると、幣原の視点はすこぶる具体的・実際的であって、 全く道義論や精神論に陥っていない。 敗戦原因を、(一)国務と統帥の混淆、(二)自然科学研究の不備、(三)空襲による生産力の破壊、 (四)原爆による無差別破壊、の四点に見いだしている。 事態の正確な認識に基礎を置いた再建と後代への教訓を重視しており、 東久邇前首相が臨時議会を開催して敗戦原因を国民に開示しようとした着想を継承するものといえよう。
婦人参政権実現へ、楢橋渡の戦い
引用男尊女卑の根強い社会にあって婦人参政権への反発はやはりあった。 「枢密院が猛烈に反対」して、担当大臣が立往生する事態となった時、 楢橋法制局長官が野人ならではの武勇を働いたことを自伝に記している。

皇居の中にある枢密院に駆けつけ、ドアをパットあけて乗りこんだ。 痩身鶴の如き平沼議長はチラリと底光りのする眼で私を見た。 顧問官も一斉にこの異様な男を、好奇心よりもむしろ苦々しい顔をして眺めていた。・・・・・・
私は手を後に組み大喝一声した。 「枢密顧問官諸君は婦人参政権法案に挙げて反対しているようだが、あなた方は、 平沼議長をはじめ皆戦争犯罪人ではないか!・・・・・・相手国の力も計らず、自己の力も知らず、 やたらに戦線を拡げて遂にパンクして、三千年の歴史を泥土に帰せしめたのは、 政治上の発言権を持った男性の世界の失敗ではないか。 然らば今回の戦争によって一番苦しんだ者は誰であるか。 それは老いたる母親であり若き妻である。 はえば立て、立てば歩めと、千辛万苦して愛育した子供が成人に達すると赤紙一枚を以って、大陸の荒野に、南海の孤島に、 母や妻をしのびつつ、チリ、アクタの如く死んで行った。・・・・・・もしこれらの女性に今少し早く、 男性と同様の政治上の発言権を与えていたら、母の子への愛情、妻の夫への平和への願いから、 この無謀な戦争は或いは喰い止められていたかも知れない。
平沼議長、あなたは男から生れたとは聞いていない。 ・・・・・・女を大事にして母親を偉大ならしめることが何か男性の損になるのか。 ・・・・・・枢密院の顧問官諸君に一言警告する。 貴殿の坐っている椅子は日本の敗戦マッカーサーの進駐によって既に転覆しているのである。 それに気付かず旧い制度を守り、呑気にしているのは時局を見る目を失った惰性と見る。 マ司令官が貴殿等を戦争犯罪人として牢獄にぶち込む準備をしていることを私は知っている」(楢橋『激流に棹さして』)

いやはや、たいへんな法制局長官があったものである。 粗暴といってよい剛腕ぶりと、どこか胸をうつ本質をとらえた言動、 その両方を持つのが楢橋という人物である。 枢密院がふるえ上がって抵抗をやめたことは言うまでもない。
山梨勝之進
引用山梨勝之進は海軍の誇る知性であった。 海軍から首相となった加藤友三郎斎藤実岡田啓介鈴木貫太郎米内光政らの人脈に連なり、 その中でも秀でた人材であった。 加藤幣原両全権が活躍したワシントン会議の随員として働き、一九三〇年(昭和5)のロンドン会議に際しては、 海軍次官として幣原外相とともに海軍軍縮実現のために戦った。 しかし、山梨次官の条約締結への大きな貢献は、海軍内の艦隊派の反発にあい、早くに予備役へ追われる結果になった。 惜しまれながら、本人は不遇をこぼすこともなく、六年の田園生活のあと一九三九年(昭和14)に乞われて学習院長となった。
引用十月四日の自由の指令と内相以下警察幹部の追放が前の内閣を崩壊させたように、 一九四六年(昭和21)一月四日の公職追放令は、幣原内閣を存亡の淵に追い込んだ。 追放事由の広範なリストを一読して、閣僚の半分以上がひっかかるのではないかと次田書記官長は重大事態を認識した。 閣議を開かねばと考えて、もう一つの重大な要因を想った。 幣原首相が病に臥して出席できる状況ではなかったのである。
この日、軍国主義と超国家主義の抹殺を目的として、二つの指令、すなわち団体に対する解散指令(SCAPIN五四八)と 人物に対する追放指令(SCAPIN五五〇)が発せられた。 後者の付属書が、排除すべき人種をAからGまで七種にわたり列挙していた。 A 戦争犯罪者、B 陸海職業軍人、C 極端な国家主義者、D 大政翼賛会・大日本政治会等の重要人物、 E 日本の膨張政策を狙った開発会社や金融機関の役員、F 占領地長官、G その他の軍国主義者・極端な国家主義者。
総司令部内の政策形成を見れば、CIS(民間諜報局)段階の案では一九三〇年代すべてを対象としていたのが、 日中戦争開始の一九三七年(昭和12)七月以降に限定され、また全官庁が対象となっていた案に対して、 陸海軍・軍需の三省に対象が絞り込まれた点で、抑制的な側面もある。 その面での問題点は、形式的にある地位と組織にあった者を、熱狂的軍国主義者と良識派の内実を問わず一網打尽に追放することであった。 D項によって、衆議院に議席を持つ者は、ほぼ全滅と思われた。
他方、それ以上に大きな問題となるのは、G項であった。 AからFまでは中身を問わないとはいえ、逆に限定性が明瞭であり、いわれのない罪を着せられる危険は乏しい。 それに対し、G項は定義が不明瞭であり、誰でも追放しようと思えばできる。 三月一日の発表により、この点の明確化がなされた。 それによると、一九三七年から一九四五年八月の期間に政府の政策決定に関与した全閣僚を含むトップレベルのすべての官職が、 特に平和主義的であったと逆証されない限り、該当するとした。
引用一月四日金曜日は「御用始め」の日であるが、宮中では「政始の儀」が行われた。 それを終えた閣僚たちを公職追放令が襲った。 新年早々なんと無慈悲なことをと日本人は感じたが、GHQ側からすれば、暮れに用意できていた指令を、 日本人にとって格別に大事なお正月休みを特に配慮して、長く待ってやった結果なのである。 次田書記官長はただちに閣僚懇談会を官邸に帰って開き、その後世田谷の幣原邸へ走って病床の首相に報告した。 新聞が「内閣に致命傷―五閣僚、指令に該当」「政局は重大なる局面」と書いたように、 深刻な衝撃を受けつつも、内閣にとって事実関係を確かめることがまず急務であった。
確かめるため吉田外相が総司令部を訪ねようとしたが、 木戸御免の感のあった吉田外相もなかなかマッカーサーに会ってもらえなかった。 そのため五日に閣議は開かれず、六日の日曜日の午前十時から午後三時まで長い臨時閣議が開かれた。 そこでは三つの対応策が論じられた。 第一案は追放閣僚を外して、内閣改造により乗り切る。第二案は総辞職を敢行する。 第三案は、公職追放令の中の平和的業務遂行に不可欠であり代わりを得難い者については追放の一定期間の猶予を願い出ることができるとの規定を活用して、 総選挙まで現幣原内閣を全員継続する許可を得る。 以上のうち、第一案をもって基本方針とし、改造のうえ総選挙まで幣原内閣を政局を担うことを閣議は了承した。
なお、追放該当の閣僚は、堀切内相、前田文相、松村農相、田中運輸相そして次田書記官長であるとみられた。 それにしても痛感するのは、この五閣僚がそろいもそろって、軍国主義・侵略主義とは縁もゆかりもない良識派の立派な人物であり、 有能な政治家である点である。 翼賛政治の時期に役員であった事由に該当するわけであるが、中身を問わず形式要件のみで処分することの粗暴さは、 このリストを見ただけで明らかである。
幣原首相の翻意
引用松村と次田は総理の病床に報告し、閣議の意向を伝えて翻意を求めた。 しかし、「知られるとおり総理大臣は、一度こうと言いだしたらなかなか主張を撤回されぬ性格」と次田が危惧した通り、 「どうしてもきかない」。 そこで松村が返問した。 総理のお言葉はもっともであるが、後はどうするのか。 総辞職すれば元老も内大臣もなく枢密院も傾いた今日の事態では、総理に対し後継についての御下問があろう。 誰を奏請するのか。 「良心をもって奉答しうる」候補者がいるのか。 幣原はほとんどの指導者が追放に該当する事態での人選難を嘆きつつも「枢密顧問官の三土忠造君」の名をあげた。 それに対し松村は反問する。

「・・・・・・いま日本の時局は存亡の重大危機である。 内閣総理大臣たる資格に第一の条件としては、国際的知識と経験とをあげなければならない。 これは国家の興廃にかかる大事である。 いかにも三土氏は財政通として知られているが、かつて国際外交の知識経験者であることを聞かぬ。 はたして国政を担当しうるか。 御下問にたいして、貴下は良心をもって安心して奏請しうるかどうか・・・・・・」と言うと、 幣原さんはほろほろと涙を流して泣き、「そう言われると熱湯を飲まされる思いがする。 胸の中が熱くなる・・・・・・」と言って、二、三十分も沈黙していたが、 それからようやく「一身の事にかかわるべき場合でない。 諸君の要請に答えて留任することにする」と翻意する旨を明らかにした。(松村『三代回顧録』)

幣原とその内閣は「失意の淵に沈淪」していた。 戦争をなんとか生き延びた七十三歳の老人が発奮して重責を帯びたのはよかったが、 三か月にして無理がたたり病に倒れた。 マッカーサーからペニシリンをプレゼントされて、なんとか一命はとりとめた。 死なせぬようにしておいて、マッカーサーは公職追放の痛棒をくらわせた。 一体、マッカーサー幣原政権を生かしたいのか殺したいのか。 上げたり下げたり弄ばれて、幣原は病床で怒り、閣僚たちの内閣改造論を斥けて総辞職を十日には決心したようであった。 しかし、東久邇内閣と違って、そのまま総辞職とはならず、再浮上することになった。
引用八月十五日、玉音放送を大阪市内の銀行において聞いた西尾末広は、その日のうちに京阪電車に乗り、 京都に水谷長三郎を訪ね、上京を約した。 十七日の夜行で上京した西尾は、松岡駒吉を訪ねて労働組合の再建を説き、平野力三と社会主義政党の結成を語った。 後に社会党右派を構成する社会民衆党系が、早い動きを示したのであった。
二十四日には徳川義親邸に旧無産政党各派のリーダー十数名が集まった。 「どうせアメリカに没収される皇室財産」を侯に引き出させて、平和研究所を作るとか、侯を党首にかつぐとかの計画があったようである。 翌二十五日には、平野の仲介で新党構想中の鳩山一郎を中心とするグループと銀座の交詢社で会った。 鳩山グループは共同して新党を作ろうと説いた。 西尾の返答は「われわれ指導者同士は、大人だから大局的に考えてあるいは協調できるかも知れないが、 お互いの背後にいる多勢のものを同調させることは、なかなか困難であると思う」であった。 鳩山は「育ちが違うから」と笑って同意し、「政治的余韻を残したままで別れた」。 「余韻」とは、別個に歩むが、折あれば提携・協力の可能性も空けておこうとの意味合いである。
伊藤隆教授が指摘するように、のちの保革対立的イメージでこの時期の社会主義政党をとらえてはならないであろう。 少なくとも右派の西尾らにとって、自由党を作りつつある人たちとの距離は、 左派の日本無産党系の加藤勘十や鈴木茂三郎らと比べても、遠いものではなかった。 とはいえ、社会主義政党を作る以上、バラバラでは支持層を失望させることになるので、日無系も、 そして日本労農党系の川上丈太郎、三輪寿壮、河野密、三宅正一、浅沼稲次郎らも糾合し、大同することとした。 他方、共産党は除外することになった。
かくて、十一月二日、日比谷公会堂において代議士一七名を擁する社会党結成式が、たいへんな盛り上がりのなかで挙行された。
共産党再建
引用十月四日の自由の指令が府中刑務所の門を開かせた。 十日、徳田球一、志賀義雄らが出獄して、凱旋将軍のように迎えられた。 徳田は「天皇制打倒、人民協和政府樹立」を訴え、連合軍を解放軍と規定した。 十二月一日から徳田を書記長として再建大会を開き、たいへんな勢いを示した。 獄中で耐え続けた共産党指導者に公職追放の咎はなく、かえって不遇と受難ゆえにまじりけのない正当性の輝きを帯びた。
さらに、一月十二日に「亡命十六年」の野坂参三が帰国すると一大フィーバーが巻き起こった。 野坂は天皇制について、日本国民の圧倒的多数が愛着をもっていることを配慮して柔軟な対応を説き、 「愛される共産党」を語ってジャーナリズムをとりこにした。 当時の新聞を読むと、今では想像もつかないほど共産党が知的道義的権威を帯びた存在として報道されている。 大新聞の論調は、かつての大本営発表に劣らず、共産党の認識や分析に自らのそれを合致させなければ戦後ではないと感じているかのようであった。 この雰囲気があの時代の無視しがたい政治的風景の一角をなしていたのである。
引用安藤正純や芦田均らが戦後政党づくりに動き始めたのは、日本政府のポツダム宣言受諾の動きが本格化した戦争末期であった。 仲間の要請を受けて、鳩山一郎は八月二十二日に軽井沢から東京に戻った。 このグループは東条内閣に抵抗した鳩山を中心とする「同交会」と呼ばれた小さな、しかし力ある人たちの集まりだった。
進歩党が旧政治家を広く糾合しようとしたのに対し、鳩山グループは政治の手あかに染まっていない官僚、 学者、ジャーナリストら新人を発掘し、穏健の社会主義者たちも包含して、 清新な活力ある新政党を樹立する意欲を持っていた。  【中略】 平野、西尾ら社会主義グループを誘ったのもその表れであった。 十一月九日、鳩山を総裁として四三名の代議士を集めて自由党を結成した。 小粒に出発したが、総裁という顔を明瞭に持ち得たのは自由党のみであり、有力政党となるであろうことが予期された。
引用一九四〇年(昭和15)二月、斎藤隆夫は再び演台に立った。 小柄でもの静かな村夫子の風貌ながら、その演説は暗夜の雷明のごとくである。 すでに二年半、十万の犠牲を出している支那事変という「聖戦」の欺瞞を彼は衝いた。 「我が国民は実に従順であります。 悲憤の涙を流しながらも黙々として、政府の統制に服従するのは何が為であるか。 政府が適当に事変を解決して呉れるであろう。これを期待して居るが為である。 ・・・・・・然るに、歴代の政府は何を為したか。 この二年有半の間に於て三度内閣が辞職をする、政局の安定すら得られない。 斯う言うことで、どうして此の困難に当ることが出来るのであるか」。 議場は興奮し、芦田は体がふるえるほど感動した。 両政党は斎藤の立場を支持し結集して軍部支配をはね返すべきだと芦田は信じた。 しかし、事実は逆であった。 斎藤議員に対する懲罰動議が提出され、両党の多数がそれに追随した。 これを許せば、政党政治の終焉を意味する。 真実を語る斎藤を失ってはならない。 芦田は「ひとりになっても反対する」と起ち上がった。 懸命の戦った末、芦田は二九六対七で惨敗した。 そのうえ青票を投じた芦田や牧野良三ら五名は、党議拘束を破った科で政友会から除名処分を受けた。 七名のあからさまな反乱者のほかに、斎藤除名に反対して欠席した議員が一四〇名もいた。 このときに欠席したため離党勧告を受け、それを拒否して除名処分を受けた社会大衆党員には、 片山哲、西尾末広、水谷長三郎、鈴木文治ら八名がいた。 戦後の片山芦田の連立内閣は、いわば斎藤反軍演説に殉じた者の同窓会と見ることも可能である (皮肉なことに、その時点で斎藤自身は吉田自由党との連携に走るが)。
山崎猛、議員辞職で山崎首班工作に幕
引用民自党の益谷秀次が、一九二〇年(大正9)の初当選以来、政友会を共にした旧友である山崎を訪ねて語りかけた。 「君は水戸の生れだが、水戸の人間というのは由来正義を尊び、しかも常に国の利、不利を考えて行動する。 ・・・・・・これが正義というのに値するだろうか。 ・・・・・・謀叛政治が憲政の常道のように大手をふって歩くようになったら、民主政治の将来はどうなるだろうか。 僕は君の古い友人だ。 私情をもってすれば、長い労苦を重ねた君を一度は首相の椅子に坐らせてやりたいとも思っている。 しかし、今度のような方法で、君を首相にすることは・・・・・・」。 山崎は何かホッとしたような明るい顔になって、昔からの友人同志としてウイスキーを勧めながら談笑した。 翌朝、山崎は議員辞職を届け出た。首班になる資格に自ら手を下したのである。
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