「中国史重要人物101」
参考書籍
著者: 井波律子(いなみ・りつこ)他
発行: 新書館(1996/12/15)
書籍: 単行本(254ページ)
定価: 1600円(税込)
補足情報:
本書は、「神話・伝説」の皇帝から毛沢東まで、四千年以上にわたる中国の歴史のなかから、 特筆すべき人物一〇一人を選び、紹介したものである。 (まえがき)
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引用李鴻章は安徽省合肥の出身。道光二十七年(一八四七)に二十五歳で科挙に合格して進士となり、翰林院に入った。 翰林院は皇帝の詔勅の作成を担当する官庁で、特に優秀な学者が勤務する部署であった。 科挙の上位合格者がここに入るのである。 咸豊元年(一八五一)に洪秀全の上帝会を中心として太平天国の乱が起こる。 広西の金田村で蜂起した太平天国軍は、大衆の支持を得て連戦連勝。北上を続けた。 咸豊三年(一八五三)、太平軍が安徽をおびやかすと、李鴻章は防衛のため郷里に帰り軍務についた。 咸豊六年(一八五九)に当時江西にいた湘軍に合流し、曽国藩の幕僚となった。 同治元年(一八六二)、太平軍が江蘇にむかうと、曽国藩の命により、李鴻章は故郷で義勇軍を募り、 湘軍にならってこれを淮軍と名付けた。 江蘇巡撫に任命されると、淮軍を率いて上海へ駐屯し、巧みに外国軍と交渉して、英国軍、仏国軍、さらには常勝軍の協力を得て、 江蘇の太平軍に勝利した。 後に李鴻章は外交官として活躍するが、この頃から外国人との交渉には長けていたようである。 ちなみに常勝軍とは、太平天国の乱の際に外国人が組織した義勇軍で、咸豊十年(一八六〇)に太平軍が上海に迫った時、 米国人ウォードが外国人部隊を組織してこれを阻止したのが始まり。  【中略】 同治三年(一八六四)、淮軍などの活躍で天京が陥落し太平天国の乱が終わると、 湘軍も常勝軍も解散したが、李鴻章は淮軍を解散させなかった。 翌年に捻教徒による乱が起きると、李鴻章は再び淮軍を率いて制圧した。 これ以後李鴻章は、この淮軍という武力をバックボーンとして要職についていくのである。
引用満州族である彼女の姓はエホナラ(葉赫那拉)。幼名は蘭児。 美しく頭の良い少女であったと伝えられる。 十七歳で咸豊帝の後宮に入った。 咸豊六年(一八五六)に男子を出産、これが後の同治帝である。 これにより彼女は妃、さらに貴妃となる。 当時はアヘン戦争と不平等条約により、西洋列強の圧力が日に日に強まっていた。 彼女が皇子を出産した年、広東でアロー号事件が起き、英仏連合軍は咸豊十年(一八六〇)には北京に至った。 咸豊帝は熱河の離宮に避難し、そのまま翌年逝去した。 最初西太后を寵愛した咸豊帝であったが、皇子を産んでからの彼女は権力への意欲を見せたため、帝は次第に警戒するようになった。 臨終の際も、多くの后妃を枕元に呼んだが、彼女だけは呼ばなかったとも伝えられる。 また皇后(東太后)に「西太后が権力を握ろうとすれば、殺すことを認める」という内容の遺詔を残すが、 後に西太后が東太后に取り入って焼却させたという。
咸豊帝の次に即位したのは、わずか六歳の同治帝である。 その居室の東西により皇后が東太后、彼女が西太后と呼ばれるのはこれ以降のことである。 当時朝廷の実権を握っていたのは皇族の載垣、粛順らであったが、 西太后は咸豊帝の弟恭親王奕訴()と共謀して、載垣らを倒し実権を握った。 幼い同治帝の背に御簾をひき、その後ろに東太后と西太后が並ぶ。 しかし、指示を与えるのは、常に西太后の方であった。 同治十二年(一八七三)に帝は親政を始め、二人の太后による垂簾政治は終わるのだが、 翌年の暮れに同治帝は逝去してしまう。 次の皇帝に、西太后は咸豊帝の弟醇親王奕環()の四歳になる息子を指名した。 その母親は西太后の妹である。 激しい反対を押し切って、この光緒帝を即位させると、再び両太后による垂簾政治が始まった。 そして光緒七年(一八八一)に東太后が亡くなるが、これにも西太后による毒殺説がある。 さらにその三年後には、長年の盟友であった恭親王奕訴()を失脚させる。 権力は完全に西太后によって独占されることとなるが、 奕訴()の失脚は、西太后に対して、対等に近い立場で献策する人物がいなくなったことを意味し、 西太后の行動は、歯止めがきかなくなっていくのであった。
引用孫文は、中農の子に生まれ、子供のころ叔父の語る太平天国の体験談に聞き入っていた。 とくに洪秀全が好きだったという。 一八七九年、ハワイで成功していた兄を頼ってホノルルへ行き、カソリックの学校で英語を学んだのち、 ハワイ大学へ進学した。 三年後、帰国させられるが、この間に学んだアメリカ流のデモクラシーが、孫文に革命家の道を歩ませた。 八三年、ふたたび故郷を後にして香港にでて、クィーンカレッジに入学し、キリスト教の洗礼を受ける。 軍人を志したが適当な学校がないので医学校に入学し、そこで会党(秘密結社)と関係を結び、民族主義に目覚めた。 九二年、澳門で開業し、「興中会」という会党に入会、広州に移って指導的役割を果たすようになる。 九五年、蜂起を画策したが、事前に当局に知られて失敗、孫文は香港、日本を経てハワイへ亡命した。 翌年、アメリカ本国へ渡って、洪門会を足がかりにして在留同朋に倒清興漢を説いて回り、 イギリスに回ったところで清国公使館に拘禁されたが、イギリスの友人らの奔走で釈放され、名を知られるようになった。 その後二年間ヨーロッパで読書し、後年の「三民主義」の基礎を築いた。
一九〇〇年、宮崎寅蔵(滔天)がフィリピン独立戦争支援のために準備した武器を譲り受けて、 恵州で蜂起を企てたが、またも準備不足で失敗した。 横浜に逃れた孫文は、梁啓超ら改良主義者に排撃を受けたが、革命派の中に確乎たる地位を築いていった。
一九〇三年、海外華僑に革命を宣伝、組織拡大と資金を集めるためベトナムからハワイを経て世界一周の旅にでて、 アメリカを経て一九〇五年、ヨーロッパへ向かう。
孫文の興中会のほかにも、民族主義革命を唱えた結社に、章炳麟、蔡元培、秋謹など浙江省系の「光復会」、 黄興、宋教仁ら湖南系の「華興会」があったが、一九〇五年夏、日本に帰った孫文は三民主義と五権憲法を発表して、 この三派を統一して中国革命同盟会を結成した。
引用建国当初、毛沢東が国家主席となって、民主的党派を中心にした政治協商会議が政府を構成し土地改革を徹底して農民を解放したが、 やがて共産党の一党支配が強まってくる。 一九五二年には早くも「三反五反」運動で民族資本家と知識人に圧力が加えられる。
第一次五ヵ年計画の成功は、毛沢東の性急な理想主義を刺激し、 一九五七年には反右派闘争が発動されて多くの知識人が「右派」のレッテルを貼られて社会的に口を封じられた。 五八年には「大躍進」政策が鼓吹され、基礎技術のない新農法や水増し報告、企業や学校で小高炉を築いて鉄の増産をはかる「土法製鉄」などが行われ、 産業に大きな打撃が加えられるとともに、政経一致の人民公社が設立され、収穫期に農民が動員されたため収穫ができず、 自然条件も災いして多くの損害がでた。 三年間で二千万人の餓死者がでたと一説には言う。
一九五九年、盧山で開かれた中央政治局拡大会議で、毛沢東に諫言した彭徳懐将軍は失脚し、 自身も国家主席を退くが、六〇年以降、経済建て直しで実権を得てきた劉少奇を標的に、六六年、文化大革命が発動された。 毛沢東は、学生を中心にした紅衛兵を動員して党内の実力者を排除し、林彪や自身の妻の江青ら「四人組」の台頭を許し、 政治、経済、文化の面で全国的に大きな被害をもたらしてしまった。
一九七六年、周恩来朱徳に次いで、九月、毛沢東も波乱の生涯を閉じ、文革も終息した。
引用魯迅は九歳のとき、清の官僚だった祖父が投獄され、まもなく父も病死、紹興の生家が没落するという運命の激変を経験する。 世間は掌を返すように冷たくなり、幼くして魯迅は、人の心に裏表があることを、骨身に徹して知った。 この苦い原体験は、彼を冷徹なリアリストにした。
一八九八年、十八歳で南京の江南水師学堂に入学するが、翌年、 新設の鉱務鉄路学堂に転学。 四年にわたる学生生活のなかで、清末の変法派(改革派)知識人の雑誌『時務報』や厳復が訳した『天演論』を読み、 進化論をはじめ新しい思想を知る。 一九〇二年、鉱務鉄路学堂を卒業後、東京に留学、弘文学院で日本語を学ぶかたわら、ヴェルヌの科学小説『月界旅行』『地底旅行』を翻訳する。 これを皮切りに、魯迅は生涯にわたり、幅広い分野の翻訳を手掛けることになる。 一九〇四年、仙台の医学専門学校入ったが、医学から文学にシフトを変更する決意を固め、一九〇六年、退学する。 一時帰国後、東京にもどり、弟周作人とともにロシア・東欧の小説を翻訳し、 また「摩羅詩力説」など尖鋭な評論を著す一方、変法派と対立する革命派のリーダー章炳麟と出会い、 筋金入りのラディカリストになってゆく。
一九〇九年、帰国。杭州や紹興で教師生活を送るうち、一九一一年、辛亥革命がおこる。 翌一二年、招かれて成立したての中華民国の教育部スタッフとなり、南京ついで北京に移る。 その後、袁世凱ら軍閥が主導権を奪い合う混乱がつづき、失望を深めた魯迅は古典研究に没頭する。 しかし、一九一八年、文学革命運動がおこるや、陳独秀主編の雑誌『新青年』に、白話(口語)小説「狂人日記」を発表、 以後二一年まで堰をきったように、「孔乙己」「薬」「故郷」「阿Q正伝」(いずれも二三年刊『吶喊』所収)など、 初期の傑作を著した。 伝統中国の欺瞞の体系を鋭くえぐったこれらの作品は、一九一九年におこった意識変革運動「五・四運動」と連動し、 人々に深い影響を与えた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「恭親王奕訴」の「訴」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。
「醇親王奕環」の「環」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。