「近衛新体制 ― 大政翼賛会への道 ―
参考書籍
著者: 伊藤隆(いとう・たかし)
発行: 中央公論社(1983/11/25)
書籍: 新書(234ページ)
定価: 円(税別)
目次:  序章 新体制の成立
第一部 近衛新党運動 〈昭和一三年〉
 T章 さまざまな「復古−革新」派
 U章 軍部の中の動き
 V章 社会大衆党の「復古−革新」派化
 W章 実現しなかった近衛新党計画
第二部 近衛新体制運動の展開 〈昭和一五年〉
 X章 近衛新党に対するさまざまな期待
 Y章 動き出した新体制運動
 Z章 大政翼賛会の発足
 [章 大政翼賛会の落日
 終章 新体制運動とは何であったのか
あとがき
補足情報:
「ファシズム」を、党による国家の支配、政治による経済の支配を中核とする新しい体制をめざす、 別の言葉でいえば全体主義を意味するとするならば、 それに最も近いものをめざしたのは新体制運動を推進した「革新」派であったといってよい。 近衛をはじめとして、軍内の「革新」派、新官僚の多く、そして風見章有馬頼寧中野正剛、尾崎秀実、社会大衆党の多く、 さらに転向した共産党員(この大半が戦後再転向して日本共産党を構成する)がそうだということになるが、 多くの論者が彼らを必ずしも「ファシスト」とよんでいるわけではないのは一体どういうわけであろうか。(あとがき)
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近衛内閣A成立/「大命を拝して」
引用昭和一五年七月二二日、近衛文麿は三年前につづいて二度目の内閣を組織した。 この日午後七時に参内した近衛は閣員名簿を天皇に捧呈し、八時には宮中で近衛首相の親任式、 九時に閣僚の親任式が行なわれたのであった。 翌二三日夕、近衛は「大命を拝して」と題するラジオ放送を行なった。 その中で彼は、世界情勢の一変に対応して国内体制の一新を図らねばならぬとし、とりわけ、 政党を「立党の趣旨において、自由主義をとり、民主主義をとり、或は社会主義をとって、 その根本の世界観人生観が、既に国体と相容れ」ず、 またその目的が政権争奪にあることは「立法府における大政翼賛の道では断じてない」として非難した。 そのほか、日本独自の立場で外交をすすめること、そのためにはまた、日本経済を外国依存から脱却せしめて、 満州・中国との提携、南洋方面への発展を要すること、国民生活は確保するが、 しかし増産と節約が不可欠なこと、個人の創意を重んずるが、種々の統制は不可避だということ、 教育の刷新が根本だということなどをのべた。
川崎ギャング事件
引用特高のはげしい弾圧で中心的な指導者を失っていたにもかかわらず、 三二テーゼのもとにくり返し中央部を再建し、天皇制打倒に突進し、共産革命をめざす彼らの姿は「英雄的」であった。 少数者になりコミンテルンからの資金ルートを失った彼らは昭和七年一〇月に川崎第百銀行大森支店を襲うピストル強盗事件をおこし 人びとを驚愕させた。
中野正剛の「転向」
引用左翼から「復古−革新」派への転向はむろん上述の事例だけではなかった。 さらに左翼からだけではなく、既成政党内部からもその動きがみられた。 一つの代表的事例は中野正剛の場合であった。 民政党内のリベラル派と目されていた彼が第二次若槻内閣の末期に政友会、民政党の協力内閣運動に失敗して民政党を出たあと、 ソーシアル・ナショナリズムを主張し、協力内閣運動のリーダーだった安達謙蔵をかついで国民同盟を結成したのは 昭和七年一二月のことであった。
国民同盟は人種平等、資源公開の原則、ブロック経済、国家経済統制を主張しており、 黒サージで両胸ポケット、バンド付きの制服をつけたが、これはファッショを模したものであった。 その後中野は昭和一〇年に国民同盟を脱党し、政治結社東方会を結成した。 東方会は「正義国際の建設により国民生活の活路を開拓すべし、国際非常時の克服に傾注し、 全国民均等の努力と犠牲とに愬うべし、政治によりて広義国防を担任し、軍部をして安んじて狭義国防に専念せしむべし、 生産力の急速なる拡大強化を目標として統制経済の動向を是正すべし、全体主義に則り、階級的特権と階級闘争とを排除すべし、 農民、労働者、中小商工業者、俸給勤労者の生活を保障し、国家活力の源泉を涵養すべし」とする綱領をもち、 代議士一一、木村武雄の山形農民同盟、大石大の土佐農民総組合、杉浦武雄の三河東方会を含む一万人余の会員を組織していた。
昭和研究会
引用昭和研究会は昭和八年に後藤隆之助が新渡戸稲造、志賀直方、近衛文麿らと相図り 東京帝大教授蝋山政道を指導者として一〇月に後藤隆之助事務所を設け、 これを中心としていくつかの研究会をスタートさせたことではじまっている。 昭和六年に欧米を視察した後藤は、激変する日本をめぐる国際国内情勢の下で、もはや現在の政党では乗り切れない、 政治経済をはじめとする日本を再出発させるための国策を研究しなければならぬと考えていたのである。 当時からいずれ首相になるであろうと考えられていた近衛が、 実際に内閣を組織した際の政策を準備しようということが会の中心になった人びとの気持であった。
矢次一夫
引用矢次は若い時代に各地で労働に従事し、 北一輝の居候になったり、西田天香の一灯園を訪ねたり、賀川豊彦の貧民窟での事業を訪ねたりしていたが、 大正一〇年協調会に入り、のち独立して労働事情調査所を設立した。 労働問題を通じて赤松克麿らと知り合い、また赤松の岳父である吉野作造とも懇意になり、 昭和七年四月に吉野を中心に水曜会なる組織を作ったという。
【中略】
水曜会は昭和八年三月の吉野の死で解散してしまう。 同年夏に陸軍省の池田純久から矢次にはたらきかけがあったらしく、新しい活動がはじめられた。 一つは国策研究機関であり、一つは『中央公論』に対抗する「復古−革新」的総合雑誌発刊計画であった。 後者は成功しなかったが、前者はこの年の暮から打合せ会が、 矢次、大蔵公望、添田敬一郎、道家斉一郎、小野武夫らによって開かれ、 翌九年三月二三日に創立総会を開いている。
引用橋本は昭和二年以来トルコ駐在武官をつとめ、 昭和五年七月に帰国して、参謀本部第二部第四課第三班(ロシア班)長のポストにあった。 トルコ駐在中に研究心酔したケマル・パシャの革命をモデルに、 日本で軍事革命をおこそうとする彼は、陸軍省、参謀本部の少壮将校にはたらきかけ、一〇月頃には五〇〜六〇名の参加者を得て、 青年将校の横断的結社桜会を結成するに至った。 採択された綱領は、「本会は国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力を行使するも辞せず」、 会員は「現役陸軍将校中にて階級は中佐以下国家改造に関心を有し私心なきものに限る」というもので、 武力行使をも含む国家改造をめざすことを明らかにした。 また綱領・趣意書は、左翼思想を排撃し、政党政治を攻撃し、 わが国が対外協調外交をすて対外的に積極的進出を行なうべきだと主張していた。
桜会はむろん公然たる存在ではなかったが、その存在は政界の一部や軍部内で注目された。 軍部内では建川美次参謀本部第二部長や小磯国昭軍務局長らもこれを支持していた。 また大川周明橋本の親密な同志であり、 大川が媒介となって社会民衆党や全国労農大衆党の一部幹部との交流も行なわれた。
引用昭和六年の三月事件といわれるクーデター未遂事件が この桜会の最初の行動であった。 大川周明らがデモ等で議会を混乱に陥れ、それをきっかけに軍部の力で戒厳令をしき、 浜口内閣を倒して軍政府として陸軍大臣であった宇垣一成の内閣を樹立するという計画であった。 宇垣が関与していたのか、仮に関与していたとしてどの程度であったのか、当時から疑問とされていたが、 今日もなおはっきりとした結論が得られていない。 とにかく三月初旬にこの計画の実行予定を聞いた宇垣が桜会に同調的な軍上層部を通じてその中止を命じ、 大川、橋本らも中止するに至った。 軍上層部も関与したこの事件は闇に葬られたが、橋本大川ら急進分子は初志をすてず、 あらたな計画の準備にとりかかったのであった。
引用九月満州事変が勃発した際、 彼らは関東軍の行動を掣肘する政府およびそれにおさえられていると思われた軍中央部に対し、 さまざまなかたちでおどしをかけた。 関東軍独立説を流して不拡大方針を牽制したりしたが、 また事変遂行の妨害者である第二次若槻内閣を倒して 事変遂行のための軍政府を樹立しようという第二のクーデター計画を練りはじめた。
彼らの計画では、一〇月二一日を決行の日とし、将校約一二〇名、歩兵一〇個中隊、機関銃隊二個中隊のほか、 大川周明西田税北一輝ら民間人、海軍の抜刀隊一〇名、海軍爆撃機一三機、陸軍機三〜四機が参加するはずであった。 この人員をもって、閣議中を襲い首相以下を斬殺し、警視庁や報道・通信機関を占領、 また陸軍省、参謀本部を包囲して軍幹部を同調させ、不良人物や将校を制裁するつもりであった。 こうした上で、東郷平八郎元帥が参内し、 荒木貞夫中将に大命降下を奏請、荒木が首相兼陸相、建川が外相、橋本が内相、大川が蔵相に親任され、 それに橋本の第一の配下長勇少佐が警視総監に任命される、これが彼らの計画の概要であった。
【中略】
一〇月一二日に、橋本を中心とした会合で計画を聞いた田中清大尉が中止を勧告するよう上級者に伝えたことや、 橋本自身が杉山元次官に同調を要求したことなどから計画が上層部の知るところとなり、 一六日、建川参謀本部第一部長が橋本をよんで中止を命じた。 一旦中止に同意した橋本はその後も荒木貞夫教育総監部本部長に決起を要請したりして、 荒木からも中止を勧告されている。 この夜金龍亭で最後の打合せが行なわれているという情報で、軍中央部は荒木を説得に行かせるが、不得要領に終り、 結局南陸相は全員検束を命じた。 この事件も公表されず、その処罰は軽微なものに終った。
このいわゆる一〇月事件は、実際に実行する気があったのか、 単なるおどしであったのかやや疑問が残る。
郷詩会
引用八月二五〜二六日には、 新宿の宝亭および日本青年館で郷詩会と名づけられた陸海民四〇名の有志の会合が開かれた。 出席したのは民間から西田税井上日召、橘孝三郎ら、陸軍からは菅波三郎、大岸頼好、野田又男(いずれものちの二・二六事件関係者)、 海軍からは藤井斉、三上卓、山岸宏、浜勇治ら(のちの五・一五事件関係者)などで、 大川橋本らのクーデター計画に参加することを決議した。
しかし、このグループ自体は結束の固いものではなかったし、 その上、軍中枢部への反撥もあった。 橋本らの行動に「不純」さを感じた桜会以外のものは次第にこの計画から離脱していった。 計画についての情報も洩れはじめていた。 のちにそのことに関し、大川西田が相互にスパイ呼ばわりをして、 五・一五事件の際に西田テロにあうという始末になる。
血盟団事件
引用昭和七年二月九日の夜、井上準之助民政党筆頭総務・選挙対策委員長が一青年のピストルに撃たれて死んだ。 井上は総選挙の応援演説のため駒込小学校におもむき、車から降り立ったところだった。 犯人はその場でとらえられたが、当初この事件の背景は明らかでなかった。 しかし1ヵ月足らずのち、三月五日の白昼、こんどは三井銀行から出たところを団琢磨三井合名理事長がピストルで射殺された。 井上を殺したのは小沼正、を殺したのは菱沼五郎という青年であった。
警視庁はこの二人の背後に、井上日召を指導者とする一群のグループのあることを察知し、 つぎつぎに検挙した。 検挙されたのは、井上日召と一一人の信奉者であった。 彼らは東京帝大、京都帝大、国学院の学生、小学校の訓導、農村青年であった。 日召らは、井上のほか、元老西園寺公望牧野伸顕内大臣犬養毅総理大臣床次竹二郎鉄相若槻前首相幣原前外相、三井の池田成彬らの政財界人をつぎつぎと暗殺する予定であった。
【中略】 井上日召のグループは郷詩会に集ったグループの一つであった。 一〇月事件後、 彼らはのちに五・一五事件の中心となった海軍の青年将校とともに決起して一斉テロを計画していたが、 海軍グループが上海事変で出征することになったため、 単独で決行するに至ったものである。
引用急進分子は依然クーデター計画を放棄したわけではなかった。 昭和八年七月一一日を期して決起し、閣議中の閣僚全員、重臣、政党首領、財閥首脳を殺し、 改造内閣―その首班には「革新」運動に理解のあるといわれていた東久邇宮を予定していた ―を樹立しようという計画が、事前に探知され、 参加者は神宮外苑の日本青年館に集合したところを一斉検挙された。いわゆる神兵隊事件である。
この事件は天野辰夫、前田虎雄、鈴木善一ら大日本生産党系の右翼青年グループが主体であったが、 元東久邇宮付武官の安田鉄之助予備中佐、海軍の霞ヶ浦航空隊司令山口三郎中佐らが加わっていて、 かなり大規模な計画であり、背後に陸軍部内の統制派とのつながりがあったともいわれている。
引用「国防」を中枢にすえて、 この強化のために全国民のあらゆる活力を国家的統制の下に動員していかねばならぬというのが、 このパンフレットの趣旨であり、陸軍の「復古−革新」派の宣言であった。
このパンフレット作成の中心になったのは 【中略】 池田純久少佐 (軍務局軍事課員で政策班長)と清水盛明少佐(新聞班員)であったらしい。 池田によるとこのほか満井佐吉中佐(新聞班員)も参加し、 「永田軍務局長の点検と承認を受け、陸軍省各局の同意を求め最後に陸軍大臣林銑十郎大将の決裁を受けた」という。
宮崎機関
引用昭和一〇年八月に石原莞爾は軍中央部にもどって参謀本部作戦課長に就任し、 ついで一一年六月戦争指導課長、一二年三月参謀本部第一部長となった。 中央部にもどった石原はソ満国境における日ソ両軍の兵力差を埋めることに力をつくし、 とくにソ連軍に対抗しうる軍の機械化、航空兵力の増強を中心とする兵備充実に着手した。 石原はこうした兵備充実のためにはその背景となる日本の経済力の正確な把握が必要と考えたが、 民間にも政府にも、その綜合判断に関する調査のないことを知り、 昭和一〇年秋に満鉄経済調査局東京駐在員であった宮崎正義を中心に日満財政経済研究会を創立した。 石原は、昭和一六年までに対ソ戦争準備を整える、 即ち対ソ八割の兵備を維持するために日満北支を範囲とする産業の綜合的飛躍的発展を図ることが必要だとし、 さらにそのために政治および経済機構に必要な改革を行ない、あわせて以後における「根本革新」を準備する、 ただし、経済界混乱の際には機を失せず根本的革新を断行し、新時代を指導すべき政治団体を結成するものとした。
参謀本部の機密費等を投入された日満財政経済研究会は調査にもとづきつぎつぎと策案を作成した。 これらは「満州産業開発五年計画」「重要産業五年計画」などになった。
引用の組閣は少くとも当初において石原の路線の下にすすんでいた。 そしてその組閣の眼目は、陸相に石原とともに満州事変の立役者であった板垣征四郎、海相に末次信正を得ようとするところにあった。 しかしこうした石原の動きは、すでに満州時代から対立のはじまっていた東条英機を含む軍中央部の一部から危懼の念をもってみられており、 はやがて石原グループをふりすてた。 板垣をあきらめ、十河らは憲兵の手で組閣本部から追放され、結局石原の計画は失敗に終るのである。
政党本部推参事件
引用これと関連する動きとして、中溝多摩吉らの防共護国団を中心とする政党解消運動があり、 昭和一三年2月にはいわゆる「政党本部推参事件」をおこしている。 この事件の中心人物の中溝多摩吉は三多摩壮士の一方の旗頭で、普選運動以来政治活動に入り、 この年一月「防共護国団」なる団体を結成していた。 中溝は秋山定輔と交渉があり、「国内相剋排除、一国一党」をスローガンとして、前記の一条らの声明に応じ、 その第一段階として既成政党の解消が必要だとして動きはじめた。 中溝らは東京に二ヵ所の屯所を作り、そこに団員を常駐させ、彼らをして各政党代議士を訪問、 政友・民政両党の解消を勧告させた。 中溝の配下の青木保三の回想録によると全団員は、「陸軍の軍服に似た、カーキ色の制服をつくり着用し」ていた。 この服は比留間安治なる「荻窪の近衛邸に、後藤隆之助(通称豪傑)らと常に出入りし、 いわゆる〈近衛ブレーン〉の一人として相当に重きをなしておった」人物の斡旋によるものであったという。
ところがこの運動が充分に成果を収めぬため、中溝らは実力をもって政友・民政両党本部に「推参」して、 党議をもって解消を断行させようとする計画をたてたのである。 二月一七日六〇〇名の団員を動員し、カーキ色の服に戦闘帽をかぶった彼らは、 トラックに分乗して両党本部に押しかけ、党の解消―挙国的態勢による新党樹立を要求した。 民政党に向った隊は阻止されたが政友会に向った一隊は本部を占拠した。 警視庁は一〇時間後には全員を検挙し、逃走していた中溝も三月一八日に自首して事件は落着した。 政友会は津雲国利、西方利馬の両代議士が中溝らに内応したとして事件後に除名にしている。 この二代議士はともにかねてから一国一党論をとなえていた政友会の領袖久原房之助の配下で、 久原もこの計画に関与していたことが推測されるのである。
しかし、この事件の背後は大きかったようで、青木は回想の中で、計画は中溝、横田、青木、神山らの団幹部で作ったとし、 「それは十六ヵ条よりなり、先生〔中溝〕自ら筆をとって書き上げ、私に『君がつきっきりで、誰にも見せず、 大至急タイプに三通取って来てくれ』と依頼された。 ・・・・・・私は直系の配下で能書家を呼び、四通複写して、翌日、三通と元書を先生に手渡した。 先生は秋山氏と荻窪の近衛邸に持参して、説明した。 先生が帰っての報告では『最後の項の、大日本党部の組織(内容は一国一党)に賛成をしない国会議員一人につき、 防共護国団員二名、警察官一名、憲兵一名をつけ、芝浦埠頭に待機の姿勢でおる橘丸に、一時監禁をし、 伊豆大島へ流島の刑に処するという項については“これは少し、行き過ぎではないか”と言って、自ら消したが、 あとのことについては“中溝君、なかなか面白い計画ですね”と言われて、自分としては、 非常に面目を、ほどこした』と、言ったことは、今でも、眼に見えるようである。 従ってこの内容については、近衛公はもちろんのこと、秋山氏、秋田氏、当時の内閣書記官長風見章氏、 内務大臣末次信正、麻生、亀井の各氏と、ほかに近衛側近では後藤隆之助氏ら、 極少数の人々は、あらかじめ承知して居ったと、私は今でも思っておる」とのべている。 また末次内相は議会での答弁で中溝と自分は無関係と弁明したが、のちに末次は中溝に対して「場合が場合であったので、 ああ言ったのだから、悪しからず了承してほしい」と弁解したこと、 「中溝先生が近衛公に提出した建策書のうちには、両党本部を占拠した暁には、都合によっては、 開催中の議会に押しよせ、その実力で議会を休会に追いこませる場合もあり得る、という項目もあったが、 これは実行できなかった」ことをものべているのである。 つまり、青木によると、この事件は近衛および前述のこの運動の推進グループの了解の下に行なわれた。 しかも場合によってはクーデターにもなりうる性格のものであったことになる。
引用昭和一三年三月一七日には、 近衛内閣が提出した国家総動員法案に対する討議中、 社会大衆党の西尾末広議員が演説の中で「ムッソリーニの如く、 ヒットラーの如く、スターリンの如く」勇往邁進すべし と近衛を激励したことが問題となって、二三日には同議員が議員を除名されるという事件がおこっている。 この事件は、政民両党が軍部の強い圧力で、 結局しぶしぶながら国家総動員法案賛成を表明せねばならぬ場面に追い込まれていたのに対し、 社会大衆党は当初から積極的に法案に賛成し、ひとり近衛内閣の与党の如く振舞ったので、 政民両党が言葉尻をとらえてその報復を試みたものといってよいであろう。 社大党は国家総動員法を「社会主義の模型」ととらえていたのである。
第一次近衛新党構想
引用厚生大臣であった木戸幸一にこの情報をもち込んだのは、 木戸のところに以前から出入りしていた政治浪人の松井成勲で、それは一三年九月七日であった。 近衛が新党党首として乗り出すという話を松井から聞いた木戸は、この夜近衛に事実をただしている。 これに対して近衛は、漢口攻略後においてあるいは蒋介石を相手にしなければならなくなるかも知れぬし、 また失業問題も深刻化しているので、これらに対処するためには政党を打って一丸とし所謂一国一党的態勢を整える必要ありとのことで、 秋山、秋田、久原、麻生などが参加し、政友会の前田米蔵も近頃秋田の仲介で秋山に会見したというが、 このように政党合同運動が進展した場合に、党首を断るのもどうかと思ってあいまいな返事をしている、 と答えている(『木戸幸一日記』)。木戸はこれにつよく反対した。
引用一〇月一二日午前九時二五分から首相官邸ホールで大政翼賛会の発会式が挙行されたが、 実はこの日は近衛の誕生日であった。 発会式をこの日に行なうことを誰が発案したのかはっきりしないが、 このことは大政翼賛会の指導者としての近衛を際立たせることを意図したものと思われる。 発会式には近衛をはじめ閣僚、内閣参議、貴衆両院議長、旧政党総裁、大政翼賛会の役員ら約一〇〇名が参加した。 松前総務部長が開会を宣言し、近衛が紀元二千六百年記念に賜りたる勅語を奉読、英霊感謝と武運長久祈願の黙祷をささげたのち、 有馬事務総長から経過報告と準備会での「誓」の朗読があり、つづいて近衛総裁が挨拶をした。 その中で近衛は次のようにのべた。
申すまでもなく、今やわが国は、明治維新にも比すべき重大なる時局に直面して居ります。 わが大政翼賛の運動こそは、古き自由放任の姿を捨てて新しき国家奉仕の態勢を整えんとするものであります。 歴史は、今やわが国に対し重大なる時期の到来を告げつつあります。 大政翼賛運動の将来は、真にわが国家の運命を決するものであり、 しかも本運動の遂行は容易な業ではありません。 われわれは前途にいかなる波瀾怒濤の起るとも、必ずこれを乗り切って進んで行かねばならぬのであります。 本運動の発足に当り、私はその推進的原動力となってこの難事業の完成に協力せられる役員諸君に、 衷心より敬意を表するものであります。 各位はこの重大なる使命達成のため、挺身これに当られ、大御心を安んじ奉り、 忠誠の実を挙げられんことを切望してやまざる次第であります。 最後に、大政翼賛運動綱領については、準備委員の会合においても数次、真剣なる論議が行なわれたことを承って居ります。 しかしながら、本運動の綱領は、大政翼賛の臣道実践ということに尽きると信ぜられるのでありまして、 このことをお誓い申上げるものであります。 これ以外には綱領も宣言もなしといい得るのであります。 もし、この場合において、宣言綱領を私に表明すべしといわれるならば、 それは「大政翼賛の臣道実践」ということであり、「上御一人に対し奉り、 日夜それぞれの立場において奉公の誠をいたす」ということに尽きると存ずるのであります。 かく考えて来て、本日は綱領、宣言を発表致さざることに私は決心致しました。 このことをつけ加えて明確に申述べて置きます。
九時四十五分に式は簡単に終了した。 だが近衛の挨拶の最後の段落、綱領、宣言の放棄ともいうべき発言は「革新」派に大きなショックを与えたのである。 有馬の日記によると、前日の一一日「夜十時近衛公を訪問、宣言文と挨拶と綱領を議したが遂に決定せず、 明日は読まぬことになる」、そして当日朝「八時官邸につき昨夜の事を書記官長に話す。 宣言綱領を出さぬ理由を率直に述べらるる方返ってよろしとの意見にて、首相も了承」という経緯であった。 富田書記官長の回想(『敗戦日本の内側―近衛公の思い出』)もほぼ同様の記述で、 当日一〇時になって官邸の来た近衛が富田にすぐ挨拶を書くように命じて、 本来一〇時にはじまるのを少しのばして、富田が「総理の机の上にあったメモに五枚ばかり一気に書き上げた」のだという。 富田によると「観念右翼の人からは賞められた」というが、そうした解釈とともに、 「本日は・・・・・・発表致さざることに私は決心しました」というのは、後日に発表という含みをももたせてあり、 富田が「とにかく問題の起らないよう」に書いたという回想は当っているようである。
牧達夫も次のように回想している。
此の頃近衛の身辺に寄せられた右翼及財界一部よりの猛烈なる反対にも拘らず新体制運動案の策定に参与した者達は 軍部側を始めとして世論の大勢上かかる反対の策動を軽視するかたわら 「今度という今度は」との言葉で表現された近衛の決意めいたものを最後迄信じて疑わなかったのである。 ・・・・・・此の頃自分も連日の如く井田磐楠、岩田愛之助、小林順一郎、太田耕造等より面談の強要を受け、 激越なる口調を以って既に立案された翼賛会のイデオロギーを否定するのは勿論、 ナチス独裁は我国体に相容れざる幕府の再現なりと指弾し時としては君達一派の思想の裏には たとえ無意識にせよ「赤」の影響があるのではないかとさえ詰め寄られたのであった。 特に井田、太田の両氏とも新体制準備委員であるに拘らず 「国民よ直ちに“新体制早わかり”と云う怪文書を破棄せよ」と怒号して触れまわる程、 彼等の反対は狂信的な熱風を孕んでいたのである。
かかる首相官邸周辺に低迷する不連続線的な空気のうちに愈々十月十二日の翼賛会発会式を迎えた。 その両三日前我々補佐役によって起案された宣言文、近衛声明の案文が総理の手許に届けられ近衛亦一応之れに諒諾を与えたのであるが、 後刻側近筋の洩らすところによれば機微なる近衛の心境は十一日夜半(発会式の前夜)俄かに急変、 翼賛会の政治性を棄てて第二の精勤たらしむる如く秘かに決意した模様である。 十二日朝来閣僚以下の全関係者は官邸の広間に集合し、昨夜の総理の心境変化は露知らず予定の宣言発表を粛として待っている。 そこに現れた近衛総理の口から徐ろに発表された宣言と声明は多くの者の全く予期しなかった意表的内容のものであった。 即ちそこに表明せられたものは「政治中核体」ではなく「一億一心万民翼賛」の単なる精神運動でしかない。 ・・・・・・かねて翼賛会の新なる政治推進力に期待していた我等支持者は発会式未だ終らざるうちに 早くも生まれ出ずる翼賛会の政治的無力を直感すると共に幻滅に似た失望を以って唖然として 等しく近衛の長身を冷く仰ぎ見るのみであった。
文中の『新体制早わかり』というのは、内閣情報部の『週報』第二〇八号・臨時号として一〇月七日に発行されたものである。 「革新」派の主張が色濃く出ていたこと、総務会等の議をへなかったことから、 「復古」派からはげしく批判されていたのである。
経済新体制問題
引用すでに第二次近衛内閣成立とともに 企画院は経済新体制に関する要綱草案の作成をはじめており(中村、原「経済新体制」『年報政治学一九七二・「近衛新体制」の研究』参照)、 それは九月末までにはほぼ内容が確定されていた。 この内容は少しずつ民間に伝えられていたが、九月初旬にその中心が「資本と経営の分離」論にあることが明らかになった段階で、 財界からのつよい反撥が表面化するとともに、新体制全体の性格についての議論が広く展開されるきっかけとなった。 企画院内で新体制関係の立案に当っていたのは秋永月三陸軍大佐を中心とする審議室であり、 そのもとで美濃部洋次(商工官僚で岸信介の配下)、迫水久常(大蔵官僚)、毛里英於菟(企画院)、 奥村喜和男(逓信官僚)といった革新官僚の一団がこれを推進した。
九月一三日、九月二八日に作成された経済新体制確立要綱は明白に「資本と経営の分離」を打出したもので、 戦時の圧力の下で、資本主義体制に大きな変革を加えようとするものであった。 即ち、企業利潤の追求を第一義としてきた従来の自由主義的経済体制を脱却し、 高度国防国家建設のための公共的経済原理を基調とする生産拡充を第一義としなければならない。 各企業が最も国家利益に副うように経営されるためには、経営者を、利潤追求を根本目的とする考え方や資本家からの掣肘から脱却させ、 国家奉仕の手腕を発揮しうるようにすることが必要であり、そのためには重要企業の経営者、 さらには経済統制機関の指導者である民間人に公的資格を与えることが必要である。 また国民経済が国家目的に従い計画的に且つ最も合理的能率的に綜合的一体として運営されねばならぬが、 そのためには国民経済組織=国民生産協同体の確立が必要である。 それは政府と密接な連絡をもつ公法人で、指導者原理による産業部門内の地方と中央を統制する経済団体、 およびそれら全産業を全国的に統轄する強力な中央経済本部の確立でなければならない。 またそれは中核体=大政翼賛会と密接な関係をもつものとして位置づけられねばならない ―おおよそこのようなものであった。
この案をめぐって各経済団体は反撥し、以後約三ヵ月間にわたってはげしい反対運動を展開した。 一一月一〇日商工大臣小林一三は丸の内工業クラブでの関西経済人との懇談会の席上企画院案をはげしく批判し、 役人の中に「赤」がいると公然と非難した。 これは財界の経済新体制案に対する反撥を反映したものであった。 そして一一月一二日に開かれた経済閣僚懇談会に経済新体制確立要綱 (すでに各方面からの反対で若干表現が緩和されて作成された一〇月二五日案)が附議されたが、 前述のような財界の反対気運が反映して企画院案を行過ぎだとする意見が有力で、 小林だけでなく、村田省蔵逓相、小川郷太郎鉄相、金光庸夫厚相らもつよく反対した。 一五日、二二日、二六日、二七日、二九日と懇談会はつづけられて、 一二月一日にようやく経済閣僚懇談会の修正原案が決定したのであった。 この修正案は単なる字句修正にとどまらず、相当根本的な部分にわたって前述の企画院原案の精神を変更し、 財界の要望をとり入れたものであった。
これでも財界側は不満であり、一二月六日日本経済連盟会をはじめとする有力七団体連名の意見書を近衛首相に手交していた。 こうした反対は財界に限られたものではなく、財界と関連の深い既成政党派の大部分ははっきりいわぬまでも反対であった。 旧政友会の長老であった小川平吉も一一月二二日に近衛に経済新体制案反対を書き送っただけでなく、 経済新体制反対の論客であった山本勝市とも相談し、政教社、黒竜会、愛国社などのいわゆる観念右翼と連携し、 一二月一〇日には頭山満、荒木貞夫、山本英輔、四王天延孝、小笠原長生、井田磐楠、鵜沢総明らと連名で 意見書を近衛に手交した。 それは「官吏の計画経済は、共産党の信条と其の軌を一にするものにして、 之れが徹底的遂行は国民の伝統的精神を破壊し経済生活を攪乱するものにして、 露国の覆轍を踏むものなり」と主張し「政府各庁及び大政翼賛会中の社会主義者を罷免する事」を要求するものであった。
商工次官で新官僚の総帥といわれた岸信介はさきの小林大臣の「赤」発言に憤り、 大臣にはげしくねじこみ、大臣次官との対立は決定的となった。 これは鮎川義介、高崎達之助らの仲介で一二月上旬に一応仲直りということになったが、 その直後におこった企画院事件(企画院内の和田博雄、勝間田清一らの「革新」官僚が 治安維持法違反で検挙された事件)で辞任を要求され、翌年次官を辞任している。 この事件も経済新体制と関連していたのである。
引用近衛自身に最高指導者として、 この世界的な大動乱の中で大きな役割を演じたいという期待がなかったわけではない。 彼がかつてヒットラーの仮装をしたというエピソードが示しているように、 強者へのつよいあこがれがあったことはたしかである。 そしてそれは彼自身が自覚していた自己の「弱さ」の裏返しでもあった。 近衛にはたしかに大衆的な人気があった。 しかし彼は決してカリスマではなく、彼の人気を支えていた一つは天皇家との近さという彼の出自であった。 しかも性格的に積極性を欠いていた彼は「指導者」というタイプではなく、かつがれ型の政治家であった。 だから尾崎秀実は近衛ケレンスキーに比したのである。 近衛が独裁者となりうるタイプの政治家でないことは、近衛をかついだ当の人びとの実感であったろう。 にもかかわらず近衛をかついだのは、近衛がすべての政治勢力から「悪く思われていない」ということ、 つまり当時の大義名分であった「挙国一致」を標榜しながら、 上から「党」を作っていくために必要欠くべからざる存在であったからである。 そのような人物はほかに存在しなかったのである。
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