「「社会」に出てくる人物X (1835〜1976年)
参考書籍
著者: 稲垣友美(いながき・ともみ)・鈴木喜代春(すずき・きよはる)
発行: あすなろ書房(1992/04/30)
書籍: 単行本(85ページ)
定価: 全8巻セット24000円(税込)
補足情報:
この本では、小学校の新しい教科書や、中学校の教科書に登場する歴史上の人物の中から、 代表的な一二四人を選び、「教科別」に分けました。(あとがき)
この本を入手
引用二十歳のとき砲術の修行をするために、長崎に行くことができました。 ほんとうは蘭学の勉強がめあてです。 ペリーが浦賀にやってきた翌年のことで、どの藩も西洋の砲術が一日も早く知りたかったのです。 中津藩も家老の息子と、そのおとも、ということで諭吉を長崎に出したのです。
ところが、この息子は、諭吉がみるみる蘭学が上達して評判になっていくのを見て、不愉快になりました。
とうとう諭吉を長崎から追い出してしまったのです。
諭吉は、そのまま大阪へ行って蘭学者・医師の緒方洪庵(一八一〇〜六三)の適塾に入りました。 この適塾は日本最高の塾でしたが、諭吉はすぐに力をみとめられ、三年目には塾長になりました。 二十四歳のことです。
諭吉をそまつに扱ってきた中津藩は、あわてて諭吉を重く用いようとしました。 江戸に出て蘭学塾を開けというのです。慶応義塾のそもそものはじまりです。
しかし、横浜へ行ったとき、もはや世界はオランダ語ではなく、英語の時代になっていることに気がつきました。 諭吉は、さっそく独学で英語の勉強をはじめました。
引用佐賀の武士の子は藩校弘道館で勉強することになっていました。 きめられたように勉強がすすまず、試験に不合格になろうものなら上級に上れず、藩の役人になれなかったり、 家の収入をへらされたりするのです。 たいへんきびしいやり方で、がんこに朱子学をおしつけていました。
そのうえ、佐賀には「葉隠」という武士道の教えがありました。 この教えは疑うことのできないもので、藩士たるものは絶対に守らなければならないとされていました。 それについて意見を言ったり、そむこうものなら、罰が加えられるというありさまです。
重信はこういう弘道館の教育の考え方ややり方には、とうていたえられなかったのです。
「『大学』や『論語』だけが学問だろうか」
「葉隠では、佐賀藩主鍋島さまに一身をささげよというが、それが正しいことなのだろうか」
「弘道館以外の私立学校をバカにするのはなぜだ」
「先生と違うことを言うと、のけ者のされるのは?」
こんなことが、重信の心をとらえていたのです。
重信は江藤新平(一八三四〜七四)ら、上級生も同じことを思っていることを知ると勇気が出てきました。
「館の教育方針を変えてもらおうではないか」
と言って、学友にはたらきかけました。
しかし、重信は弘道館から追われてしまいました。
藩主は西洋の学問をとり入れたいと考えていた人で、弘道館からはなれたところに、 オランダ学のための蘭学寮をつくっていました。 重信は、こちらへうつりました。
引用一八五六(安政三)年、十五歳のとき藩の命令で、相模の国(神奈川県)の沿岸の警備につきました。 その時の上官が来原良蔵(一八二九〜六二)という人で、長州藩きっての文武の達人でした。 その上、桂小五郎(木戸孝允 一八三三〜七七)の義弟でもあった人ですが、この人の目にとまりました。
「この伊藤という人物は、年は若いが出来る奴だ」
といって、ひまがあると博文に漢学を教えました。
翌年、博文は長州に帰ることになりました。 そのとき、
〈この伊藤俊輔は、見こみのある青年です。 相州にいるときも漢学を教えたが、よくできる。 めんどうを見てやってほしい。きっと役に立つと思います〉
という手紙を持たせて、吉田松陰(一八三〇〜五九)と義兄の桂小五郎のところへ行かせました。
十六歳のとき松下村塾にはいり、吉田松陰に学ぶことができました。 翌年は来原良蔵のおともをして長崎に行き、鉄砲を勉強します。 十八歳のとき木戸孝允のおつき役として江戸に出ます。 もとはといえば来原のおかげで、十代半ばすぎに長州藩内一流の人にであい指導を受けることができたのです。
引用野口英世は福島県翁島村(今の猪苗代町)の極貧の農家に生まれた。 父親は生活力がなく、母親シカによって育てられたといってよい。 二歳のとき、火のもえているいろりにはまり、左手を大やけどした。 生まれたときから苦しみだけを背負っているようであった。
はじめ開業医をめざしたが、やがて細菌学研究にすすもうと考えた。 しかし、日本での出世には限りがあると思い、二十四歳のとき、実力をとうとぶアメリカにあこがれて、 フィラデルフィアに渡った。
以後、英世は注目をあびる研究成果を発表した。 へびの毒の研究、梅毒の研究などで世界的学者になり、少年時代からの悲しみを振りはらうことができた。
ノーベル賞候補のうわさが伝わり、ドイツ医学会で尊敬されていることが知れると、 日本もようやく英世を見なおすようになり、帝国学士院恩賜賞をあたえ、勲四等をおくった。 それでもなお、英世は、世界の研究者の道を歩み続けた。 その最後の研究が黄熱病であった。 そして、自らこの病気に感染してアフリカで死んだ。
引用スターリンはゴリの初等神学校を卒業して、トビリシ(グルジア共和国の首都)の高等神学校へ進みました。 成績がよかったので、母親は牧師として立身出世ができるとよろこんでいました。
しかし、スターリンは社会のしくみやはたらきに興味を持つようになって、 神学校在学中に禁じられていたフランスの作家ビクトル・ユゴー(一八〇二〜八五『レ・ミゼラブル』など)の作品を読んだりして、 とうとう五年もいた高等新学校を退学させられてしまいました。
神の世界を学ぶのをやめて、物質中心の考え“マルクス主義”に熱中したのです。 レーニンの書いたマルクス(一八一八〜八三)主義の論文を愛読し、トビリシで政党に加わって活動家になっていきました。
レーニンに初めて会ったのは一九〇五年、二十六歳のときです。 この年は日露戦争中でしたが、ロシアでは革命ののろしがあがっていました。 やがてレーニンに認められ、共産党の中で重要な地位につくようになったのです。
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