「二〇世紀の世界史」 参考書籍
著者: 木村英亮(きむら・ひですけ)
この本を入手発行: 山川出版社(1995/05/25) 書籍: 単行本(318ページ) 定価: 2429円(税別) 目次: 序章 列強を中心とした世界史の成立
第1章 義和団の蜂起からロシア革命へ
補足情報:第2章 ヴェルサイユ体制とファシズムの台頭 第3章 アジアの戦争と第二次世界大戦 第4章 冷戦の始まりと中華人民共和国の成立 第5章 米ソ二極体制の成立 第6章 米ソ両大国の危機と中国の国連登場 第7章 世界政治の多極化と民族紛争の激化
過ぎ去ろうとしている20世紀。
ソ連史学者の著者が、民族解放運動と社会主義の視点から、この激動の世紀をふりかえる。(帯)
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引用イギリスの歴史家ヒュー・トレヴァー=ローパーは、ゲッベルスを寄生虫と呼び、かれは
「本質的には、言葉とイメージとジェスチャアだけの人間だった。
理念も信念もなかった。積極的な目的ももたず、ナチの掲げる人種・血・東方帝国建設などの目的も、
それほど意義深いものとは見ていなかった。
彼の人生はすべて、何かへの反応が中心であり、自ら行動をおこすことはなかった。
・・・・・・こうして知的・政治的機敏さが生まれた。
自分が客観的すぎ、偏見をもたぬことに、むしろ自分で自分にいやけがさしていた。
だが偏見のないことは、信念のないことの裏返しだった。
現実的な見方ができることを自慢していたが、それも宣伝上、現実を曲げる手段として必要だとみていた。
理念といえばほとんど借りもので、ヒトラーを発見するまでは、次から次へとイデオロギーを変え、
ニヒリズムと憤りに満ちた空虚な生活をしていた」と書いている。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.100
引用アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーは、『中国の赤い星』で、一九三七年に毛沢東にはじめてあったときの印象を
「非常に機敏で知的」と書き、さらに次のように補っている。
「毛は中国古典のひとかどの学者であり、りっぱな演説家であり、異常な記憶と、人なみはずれた集中力をもつ人物であり、
有能な文筆家であり、うまざる読書家であり、哲学と歴史の深い研究家であり、個人的な習慣や風采にはかまわぬが、
義務的事務には驚くほど細心であり、疲れを知らぬ精力家であり、また天才的な政治的、軍事的戦略家である」。
性格については「・・・・・・かれの周囲の雰囲気は、必要と考えたときには、かれが冷酷と思われるほどの決断力を持っていることを
思わせる」とも記している。これはアメリカの女性革命作家で、遺志により北京に葬られているアグネス・スメドレーの、
「毛沢東のなかには、朱徳にあるような謙遜はまったく見られない。
女性的な性質であるにもかかわらず、彼はらばのように頑固で、自尊心と決断の鋼鉄の棒が彼の性質を貫き通していた。
毛沢東という人は、何年でもじっと待っているが、結局は自分の意思をおし通す人だという印象を、私はうけた」と一致している。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.112
引用スメドレーは、周恩来については、「彼は身体をまっすぐにして立っていて、直接人の眼を見いり、
外国人や政府の高官にたいしても、共産党の同志にたいすると同様に、すこしも武装せずに率直に話した。
彼の知識と洞察力は包括的で、その判断は派閥心から自由であった」と述べている。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.113
引用野上弥生子はすでに一九三七年九月の日記に次のように書いている。
「戦争はますます規模と深刻さを増していった。・・・・・・もっとも不快なのは新聞紙にあらはれた日本人の独りよがりと
相手を馬鹿にしきった態度である。
読んでいるとなんと野卑の田舎者かと云ふかんじで恥かしくなる。
しかしこんな厚かましい口が云へる人間でなければ戦なんぞ始められないだろう」。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.123
引用かれは一八八八年に陸軍士官学校を卒業後、九八年インドへ出征、九九年ブール戦争に従軍、
その後内相、植民相などをつとめ、ロシア革命以後は一貫して反共の闘士であった。
一九三九年九月、大戦勃発と同時に海相、四〇年チェンバレン辞職後首相となり、労働党の協力を求めて戦時内閣を組織し、
国防相を兼ねて大戦を指導した。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.132
パレスチナ問題
引用一九四七年一一月、国連総会において、パレスチナを「ユダヤ人国家」と「アラブ人国家」に分けてそれぞれ独立させる、
パレスチナ分割決議案が可決された。
この決議案は、当時パレスチナの土地の六パーセントしか所有していなかったユダヤ人に国土の五六パーセントを与えるものであったが、
シオニストはこれにも満足せず、四八年五月イギリスの委任統治が終わると同時に、
国境を明示しないままイスラエル国家の樹立を宣言した。
周辺のアラブ諸国はこれに抗議してただちに攻撃を始めたが、この第一次中東戦争でイスラエルは定められた「ユダヤ人国家」の
一・五倍の面積をもつ領域を占領し、勝利をおさめ、現地住民からの組織的な土地の収奪をただちに始めた。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.165
ラッセル・アインシュタイン宣言
引用一九五五年七月、ロンドンでイギリスの哲学者バートランド・ラッセルとアメリカの核物理学者アルバート・アインシュタインは
核戦争の危機を警告する宣言を出した。
この宣言の特徴は、ひとつは階級や民族といった観点にかわって人類という観点の必要性を訴えたこと、
もうひとつは科学者の社会的責任がそれまでと違ってずっと重くなったことをあきらかにしたことである。
宣言の始めには、「私たちがいまこの機会に発言しているのは、あれこれの国民や大陸や心情の一員としてではなく、
その存続が疑問視されている人類、人という種の一員としてである」とし、
核爆弾による戦争の被害を「一般大衆はいまでも都市が抹殺される位に考えている」、しかし「もし多数の水素爆弾が使用されるならば、
全面的な死滅がおこる心配がある」が、「人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか」という避けがたい問題が
提出されている、と述べている。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.190
ナセルと第2次中東戦争
引用エジプトのナセルは一九三八年に士官学校を卒業して四〇年代に民族主義的な秘密組織・自由将校団の中心的な人物となっていたが、
第一次中東戦争では王政の腐敗と無能を身をもって経験し、五二年に王制を廃し、五四年に政権についた。
かれはアラブ世界で初めて農地改革を実現し、反植民地主義・非同盟政策をとって広くアラブ諸民族の支持を固めた。
エジプトは一九五六年、米英がアスワン・ハイダム建設への援助を打ち切ったのに抗議してスエズ運河を国有化した。
これに対してイスラエルは、英仏と共謀してエジプトに侵攻して第二次中東戦争(スエズ戦争)を引きおこし、
英仏中東支配の橋頭堡となっていることを示した。
ソ連はただちに英仏に警告を発し、アメリカも支持しなかったため、英仏とイスラエルは撤兵せざるをえず、
ナセルの名声は高まった。
かれはソ連からも援助を獲得し、一九六一年にはインドのネール、ユーゴスラヴィアのチトーとともに
非同盟諸国首脳会議を主催した。
この年には社会主義政策を宣言して第二次農地改革と大企業の国有化をおこない、エジプトの近代化を進めた。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.196
ベトナム戦争と高度経済成長
引用ヴェトナム戦争の時期は日本の高度経済成長の時期と一致している。
日本の直接間接のヴェトナム特需は、一九六六年にすでに一二億ドルを超えていた。
高度経済成長はけっして「勤勉さ」だけで達成されたものではない。
アメリカは、「共産主義の脅威」に対抗するために、この地域を資本主義世界経済の一翼として、
おもに日本の市場として統合しようという戦略の下に介入したのであるが、それはすでに戦争中に始まっていたのである。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.226
二千語宣言/チェコ事件
引用一九六八年一月、ながく実権をにぎってきたノヴォトニーにかわってアレクサンドル・ドプチェクが党第一書記に選ばれた。
検閲がなくなり、改革が始められた。
この動きは「プラハの春」と呼ばれ、六月には知識人によって「二千語宣言」が発表された。
それは次のように始まっている。
国民の大半は希望をもって社会主義のプログラムを受け入れた。
しかしその運営は正しくない人々の手に陥ちた。
彼らが、他人の意見に耳を傾け、より有能な人々に漸次交代してゆけるだけの賢明さと節度をわきまえていたならば、
たとえ政治家としての経験や専門的知識また人間としての教養などをさほど持ち合わさなくても、問題はなかったであろう。
戦後、絶大な信頼を集めていた共産党は、その信頼を次第に機構にすりかえてしまい、その機構がすべてで、
それ以外の何物でもない状態になった。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.229
イラン・イラク戦争
引用イラクは一九三二年に王国として独立していたが、五八年自由将校団の指導下に軍事政権が成立、
さらに六三年にバース党(アラブ復興社会党)と軍部の親ナセル派将校のクーデタによってバース党政権ができた。
これはまもなく元自由将校団のメンバーによって倒され、六八年ふたたびクーデタでバース党の政権が復活、
七九年にはフサインが大統領となり、ちょうどこのころに成立したイランのホメイニ政権と対立することになった。
イラクの政権はスンナ派であるが、南東部に集中していたシーア派は反体制運動と結びつくことになった。
フサインは、イランの革命による軍事的弱体化、少数民族の自治要求運動を利用して、一挙に勝利できると考えた。
またイランは、欧米諸国との関係が悪化しており、ソ連ともアフガニスタン問題をめぐって関係が悪く、
反政府的なシーア派の多いペルシア湾岸諸国において孤立していたこともイラクに有利な条件と考えられた。
イラクはアラブの戦いという大義を掲げたが、フサインの予想に反してイラクの四倍の広さの国土と三倍の人口をもち
イスラム革命をうたうイラン国民の士気は高く、戦争はじつに一九八〇年九月から八八年八月まで八年も続くことになった。
西側列強は両国に武器を輸出し利益を上げた。
八七年以後アメリカは大艦隊をペルシア湾に派遣し軍事介入の道を開き、イスラエルは両国の弱体化に利益をみいだした。
戦線は一九八〇年一一月には膠着状態となったが、八二年六月にはイラク軍のイラン領からの全面撤退が発表され、
イラン軍はイラク領へ侵入した。
しかし近代的兵器によって装備されたイラク軍に対する人海戦術には限度があった。
八八年七月イラン政府は国連総長に書簡を送り、停戦決議を受諾することを伝え、一ヵ月後に両国間で停戦が成立した。
イラクはこの戦争によって莫大な債務を抱え込むことになり、これが一九九〇年八月のクウェート侵攻につながるのである。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.256
マルコムX
引用マルコムXは一九二五年に七人兄弟の四番目として生まれたが、父親はかれが六歳のとき交通事故死し、
母親は精神病院に収容された。
かれは、九歳で窃盗をはじめ麻薬の売人、ばくち、ポンびきなどを重ね、
二〇歳のとき強盗で懲役八〜一〇年の刑を受け服役、獄中でブラック・モスレムに改宗した。
出所後黒人に対して意識革命を訴え、キング牧師の無抵抗主義に、「暴力を受け続けてきた者が、
何の自衛手段もとらず、相手の暴力を容認するのは犯罪である」と反対した。
しかし、メッカ巡礼後意見が変わって兄弟愛を説くようになり、公民権法成立の翌年六五年二月、
ニューヨークのハーレムで暗殺された。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.302
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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