「中国近現代史」 参考書籍
著者: 小島晋治(こじま・しんじ)
この本を入手丸山松幸(まるやま・まつゆき)
発行: 岩波書店(1986/04/21)書籍: 新書(308ページ) 定価: 円(税込) 目次: まえがき
T 中華帝国の動揺
補足情報:U 帝国主義の侵略と抵抗 V 民国の苦悩 W 「統一」と内戦 X 抗日戦争と解放戦争 Y 復興と建設 Z 社会主義への試行錯誤 [ 文化大革命から開放体制へ 中国近現代史年表 事項索引 人名索引
本書はアヘン戦争から中華人民共和国成立までの反帝反封建の歴史を詳述し、
文革など試行錯誤の意味を問い、中国理解への視座を提供する。(表紙裏)
|
日清修好条規
引用一八七一(明治四)九月、日清両国は「いよいよ和誼を敦くし、
天地と共に窮まりなかるべし。又、両国に属したる邦土もおのおの礼を以て相まち、いささかも侵越することなく、
永久安全を得せしむべし」と、子々孫々までの友好をうたった「日清修好条規」を結んだ。
これは両国が外国と結んだ近代最初の対等条約だった。
だがこの年、漂着した沖縄の漁民が、台湾の先住一部族に殺害された事件を機に、
維新政府は一八七四年五月に台湾に出兵した。
これは近代日本の最初の対外出兵だった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.39
日朝修好条規
引用一八七五年九月、李朝(李氏朝鮮)に対する条約締結交渉が行き詰っていた時、
日本軍艦雲揚号は無断で朝鮮沿海を測量し、飲料水補給のためという理由で、首都ソウル(漢城)の入口にあたる江華島付近に
ボートを接近させ、朝鮮側から砲撃を受けた。
これに対し、日本はペリー艦隊の故智にならった軍事力の威圧のもとで、
一八七六年二月、李朝に「日朝修好条規」(江華島条約)を受諾させ、釜山ほか二港の開港を約束させた。
それは第一条に「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を有せり」と、
清朝との冊封関係の否定を含意する条項をかかげていた。
だがその実質は、開港場における領事裁判権、居留地の設定と居留地内での日本貨幣の通用容認、
輸出入商品の無関税など、日本が欧米から背負わされていたそれに輪をかけた不平等条約だった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.39
日清戦争勃発
引用軍事的優位を自覚した日本政府・軍部は、開戦のチャンスを待っていた。
それは一八九四年春に訪れた。
この年全羅道で貪欲な不正官僚の糾弾から甲午農民戦争 ―「西学」(キリスト教)に対して
起こった「東学」という民間教団が大きな役割を果していたことから、日本では「東学党の乱」とよんだ
―が起こった。
李朝は清朝に鎮圧のための出兵を要請し、清朝はこれに応じた。
日本はただちに清軍を上まわる大兵力を派遣した。
李朝が農民軍と和約を結んで、出兵の名分がなくなると、清朝の拒否を予測しつつ、
日清共同して朝鮮の「内政改革」にあたることを提議し、これが拒否されると、清軍に奇襲攻撃をかけた。
こうして日清戦争がはじまった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.42
変法運動
引用東アジアの小国で、最近まで中国文化圏内の一国と考えられてきた日本への敗戦は、
中国の、とくに若い士大夫層に強烈な衝撃を与え、その覚醒をうながした。
先頭を切ったのは広東省南海県の士大夫康有為だった。
彼は清仏戦争の敗戦後、いち早く明治維新に着目し、同様な政治制度の改革(変法)によってのみ富国強兵が図れると主張していた。
下関条約調印の報が至ると、康有為は折から会試受験で北京に集まっていた千二百余名の挙人に呼びかけ、
連名で、条約を拒否し、政治を改革して屈辱から脱しよう、という上書を清朝に提出した(公車上書)。
これ以後、彼と梁啓超などの支持者たちは、「帝党」の官僚や袁世凱らをも含めて、
強学会、南学会などの学会を組織し、また十九種の新聞・雑誌を発行して、
欧米や日本の政治・教育制度、思想などを紹介し、改革の緊急性を啓蒙した。
富国強兵という見地から、良妻賢母を養成するための女学校の建設や、纏足廃止運動もとりあげられた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.49
変法運動の挫折
引用一八九八年(戊戌の年)六月十一日、帝は「国是を定める詔」を発して
変法の推進を公布した(戊戌の変法)。
以後、康有為に対する破格の接見、彼や梁啓超、湖南の急進変法派譚嗣同その他、若き変法派の登用が行なわれ、
彼らは光緒帝の詔勅をつうじて、次々に新法、新制度を布告した。
科挙の抜本的改革(八股文の廃止)、近代的な大学、中、小学校と、各種専門学校の設立、
新式陸軍の建設、冗員整理、民間の商工業・農業の振興などが主な内容だった。
だが官僚の大多数は新法を無視し、実行されたのは、京師大学堂(のちの北京大学)の創立だけだった。
頑固派は、科挙改革によって権威の根源を失うことに憎悪を燃やしていた。
西太后は、彼らの期待をにないつつ、腹心の部下栄禄を臨時直隷総督に任命して、北洋陸軍を掌握させ、反撃を準備した。
九月、上書の上達を妨害したという理由で、帝が頑固派の礼部尚書(文部大臣)を罷免したのを機に、
反変法クーデターの密謀が具体化しはじめた。
危機を察知した譚嗣同は、かつて強学会の会員で、「新建陸軍」(日清戦争後、
ドイツ陸軍をモデルに、袁世凱が天津近郊で編成した軍)を掌握していた袁世凱に先手を打つ軍事行動を要請した。
だが袁はこれを栄禄に報告した。
九月二十一日、西太后は光緒帝を幽閉し、譚嗣同以下六名の変法派を処刑した。
康有為・梁啓超は日本公使館や宮崎滔天の援助で日本に亡命し、維新は百日余りで流産した(百日維新)。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.51
清国、日本など8ヵ国に宣戦布告
引用義和団運動の拡大と列強の武力干渉を前に、
清朝支配層は、義和団鎮圧を主張する対外協調派と義和団を利用しようとする対外抗戦派に分裂した。
西太后は動揺した末、列強が光緒帝の親政復活を要求しているという情報に激怒して後者を支持した。
六月二十一日、彼女は連合国に宣戦布告し、排外頑固派の慶親王らに義和団の統轄を命じた。
だが、李鴻章ら華中・華南各省の洋務派総督は、列国と「東南互保協定」を結んで、これとの協調を維持した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.54
引用一九〇一年九月、清朝と列国間で締結された「北京議定書」(辛丑和約)は、
中国の半植民地としての地位を決定的にした。
条約の内容そのものが、列強間の対立する利害調整の結果として決定されたもので、
清朝はこの間相手にされなかった。
これにより、中国は四億五千万両、三十九ヵ年賦の元利九億八千万両の莫大な賠償金を課せられ、
関税・塩税・厘金がその財源として指定され、外国人総税務司の管轄下におかれた。
また北京に中国人の居住を認めぬ公使館区域を設定して外国軍隊が駐屯し、
北京−天津(大沽港)間の砲台撤去を強制される一方、北京から山海関までの沿線要地における外国の駐兵権を認めさせられた。
北京は丸裸となり、のちに日本は北京周辺の駐兵権を華北侵略のテコとして使った。
さらに今後一切の排外運動の死刑による取締りを約束させられた。
こうして清朝は、列強の権益擁護を使命とする「洋人の朝廷」に変質し、
そのかぎりでのみ存続を保証されることとなった。
反面、列強は中国の直接的「分割」、つまり植民地化をなしえなかった。
これは列強間の対立と相互牽制という要因にもよるが、
とりわけ、義和団に示された中国民衆の抵抗力の強さによる。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.55
清朝、新政開始
引用一九〇一年一月、西太后は「外国の長所をとり中国の短所を去って富強を図る」として、
高官たちに国政に関する意見の具申を命じた。
これを出発点として、清朝は生き延びるための新政を開始した。
新政の推進者は直隷総督袁世凱、両江総督劉坤一、湖広総督張之洞らだった。
その主な内容は、@三十六個師団の新軍建設を中心とする軍隊の近代化(清末までに十四個師団が編成された)、
A商部(商工業者)の新設、商会や会社の設立奨励、商法の制定などから成る実業振興、
B各県に小学校、府に中学、省に大学、また師範学校、各種実業学校を建設し、学制を公布し、
学部(文部省)を設置するなどの教育改革と、科挙の廃止(一九〇五年)、大量の留学生の外国、とくに日本への派遣、
これらによる新型官僚の養成などであった。
清朝の列強への従属が決定的になった時期にようやく行なわれたこの新政は、さまざまの変化を中国にもたらし、
それが清朝の墓穴を掘ることになった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.57
引用革命ののろしを最初にあげたのは孫文(号は中山、一八六六−一九二五)だった。
彼は広東省香山県(今の中山県)の農民の子で、太平軍に参加した一族の年長者からその戦いの話を聞いて反逆精神を養った。
のちハワイに移民して成功した兄のもとでアメリカ式の教育を受け、帰国後香港で医学を学んだ。
日清戦争さなかの一八九四年十一月、彼はハワイの華僑百二十六名を組織して「興中会」を設立した。
その「章程」(規約)は「堂々たる華夏(中国)」が「異族(満州族)に軽んぜられている」現状を痛憤し、
そのもとで列強による中国分割の危機が切迫していることを強調して、「有志の士」の決起をうながしたものだった。
つづいて翌年二月、彼は香港で、「韃虜(清朝)を駆除して、中華を恢復し、合衆政府を創立する」
という目標を明確にかかげた「興中会総部」を創立した。
こうして清朝の打倒と共和制国家、すなわち「民の国」の樹立をめざす最初の革命団体が成立した。
興中会は同年秋、広州で、会党(民間の秘密結社)や失業兵士、水兵などを集めて、
最初の挙兵を敢行した。
だが密告によって計画が洩れ、失敗した(この時処刑された陸皓東が挙兵軍の旗として作った「青天白日旗」が、
一九二八年に中華民国の国旗と定められた)。
孫文はロンドン、カナダ、日本などに亡命して、革命理論を練りあげつつ、
華僑に働きかけて運動資金を集め、また中国革命への支援を外国人有志に訴えた。
しかし当時の孫文は、中国内外で、たんに無鉄砲なお尋ね者の海賊とみなされており、
さしたる成果を得られなかった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.60
宣統帝即位
引用光緒帝と西太后が相次いで病死すると、
翌年溥儀(一九〇六−一九六七)が宣統帝として二歳で即位し、父載禮(※)が摂政として実権を握った。
彼は実力者袁世凱を足疾を理由に隠居させて北洋新軍を掌握しようとした。
また張謇らの国会請願同志会の十回にわたる早期国会開設請願をにべもなく拒否した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.67
清朝、鉄道国有化令公布
引用一九〇四年、清朝から粤漢線の敷設権を得ていたアメリカの企業が、
南端の一部分を敷設しただけで、株の三分の二をベルギー資本に売却し、これが同線の主要部を建設することになった。
これに対して、広東、湖南、湖北で抗議の世論が沸騰し、ついで外国資本に握られた鉄道と鉱山の利権を回収し、
自力で建設・経営しようとする運動が各地に起こってきた。
民族資本が比較的発展していた長江流域と華南が中心で、一九〇三年から一〇年までに、
十六の民間鉄道会社が建設された。
運動は立憲派につながるブルジョアジーや開明的郷紳を指導勢力とし、広範な階層を含む国民的な運動として、
清朝の対外妥協政策に抗しつつ展開された。
これによって、山西の鉱山や炭鉱の採掘権をイギリス資本から、また粤漢線の敷設権をベルギー資本から回収し、
川漢線(成都−漢口)が民間資本によって建設されることになった。
この運動は中国におけるナショナリズムと、自立的な資本主義の形成と発展に大きな役割を果たした。
民族意識の高まりのなかで、アメリカにおける中国人労働者の排斥、迫害に抗議するアメリカ商品ボイコット運動(一九〇五年)、
日本の第二辰丸による武器密輸事件、
ならびにゴリ押しに進めようとした安奉線(安東−瀋陽)改築に抗議する対日ボイコット運動(一九〇八−九年)がまき起こった。
このナショナリズムの高揚に挑戦するかのように、成立直後の親貴内閣は、
一九一一年五月、民営の川漢線と粤漢線の「国有化」を宣言し、湖北・湖南・広東、四川の民間鉄道会社の接収を強行した。
前年五月に成立したイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの「四国銀行団」から借款をえるために、
鉄道の敷設権をこれに売り渡そうとしたのである。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.67
引用革命政権内部の弱点と、イギリスなどの強力な支持を得た袁世凱の巧妙な攻勢を前に、
孫文は清帝の退位と共和制の実現、首都の南京への移転などを条件として、袁を臨時大総統とすることに同意した。
袁は段祺瑞ら北洋軍将領に「共和政体」を要求する電報を清朝に打電させ、
他方、退位後も大清皇帝の尊号を廃止せず、中華民国はこれを外国君主の礼をもって遇し、
歳費を支給すること、暫時宮城内に居住することを認める、などの皇室優遇条件を提起して退位を迫った。
二月十二日、これを受けいれて宣統帝は退位し、ここに秦の始皇帝以来の専制王朝体制は終焉した(辛亥革命)。
同月十四日、孫文は大総統の職を辞し、翌日、南京の参議院は十七票の満票をもって、袁を臨時大総統に選出した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.72
引用袁世凱は独裁権を確立するために手段を選ばなかった。
一九一三年三月、彼は刺客を放って最大の敵手と目されていた宋教仁を暗殺した。
宋教仁は、同盟会を中心に、群小政党をあわせて国民党を結成し、前年末から行なわれた最初の総選挙で、
国民党を第一党に導いていた。
議会内で責任内閣制を樹立して袁世凱を牽制しようというのが国民党の方針であり、
宋教仁は新議会で国務総理に予定されていたのである。
中心を失って、国民党の結束はもろくも崩れ、袁に対して有効な対抗策を講ずることができなくなった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.74
引用六月に袁世凱は国民党系の三人の都督を罷免して、
その武力を奪おうとした。
追いつめられた国民党急進派はやむなく武力抗争に起ちあがり、南方七省で討袁の兵を挙げた。
これが辛亥革命につづく第二革命である。
しかし期待された連鎖反応は起こらず、すでに民衆から遊離して革命のエネルギーを失っていた革命側は、
優勢な北方軍の前につぎつぎに撃破され、九月には完全に鎮圧されてしまった。
孫文、黄興をはじめとして革命派の指導者はすべて海外に亡命し、革命勢力は一掃されてしまった。
十月、わずかな銭で雇われた「公民団」と称する暴徒が脅迫するなかで、
国会は袁世凱を正式大総統に選任した。
その直後、袁は国民党の解散を命じて、残っていた国民党穏健派議員の資格を剥奪し、
機能を失った国会に代えて中央政治会議を設けた。
そして、大総統の権限を大幅に拡大した「新約法」が制定された。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.75
第三革命/袁世凱、皇帝即位/袁病死
引用二十一ヵ条要求が外から民国をおびやかすものであったとすれば、
内から民国を破壊しようとしたのが共和制廃止・帝制復活の「運動」であった。
袁世凱みずから皇帝となることで独裁体制を完成しようとするこの試みは、
一九一五年八月ごろから活発になった。
まず大総統顧問のフランク・グッドナウや有賀長雄らの「共和制は民智の低い中国の国情に合わない」という議論が流され、
ついで御用学者たちの組織した籌安会が、公然と「立憲君主制」を唱えはじめた。
袁世凱は御用新聞を動員して、各地ででっちあげられた「帝制推進運動」を大々的に伝え、
少しでも批判的な新聞・雑誌をつぎつぎに発行禁止にした。
秘密警察の監視は人々の私生活にまで及び、帝制に反対したために逮捕・殺害された者は数えきれぬほどであった。
こうして十二月には千九百九十三人の「国民代表」による国体決定の投票が行なわれ、
一票の反対もなく共和制の廃止・立憲君主制への移行が決定され、ただちに袁世凱を「中華帝国」皇帝に推戴した。
しかし時代に逆行するこの強引な動きは、内外の反発を招き、
まず袁世凱配下の将軍や高官がつぎつぎに辞職した。
さらに、これまで袁世凱を支援してきた日・英・露・仏の列強も、急激な国体変更は国内の混乱をきたす恐れがあるとして
反対を表明した。
国民党系急進派もテロや武装蜂起を試みはじめた。
こうしたなかで、これまで袁世凱の与党だった梁啓超らの進歩党を中心に、
反袁勢力が結集されてきた。
十二月、雲南に勢力を温存していた前雲南都督蔡鍔の指導する雲南護国軍が帝制反対をかかげて蜂起し、
五月までに十省がこれに呼応した(第三革命)。
袁世凱は帝制を取消すことで妥協を図ったが、革命側は大総統辞職を要求して譲らず、
袁世凱は一九一六年六月、悲憤のうちに病死した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.78
袁死後の中華民国
引用袁世凱の死によって、北洋軍閥は大きく二つに分かれた。
一つは段祺瑞をかしらとする安徽派で日本の支援を受けており、
一つは馮国璋(のちに曹棍(※)・呉佩孚)の握る直隷派で英米をうしろ盾としていた。
この二派が暗闘をくりかえしながら、その後の北京政府を動かしていた。
しかし袁世凱という強力な中心を失ったあとの両派は、いずれも全国を支配するほどの力をもたず、
各地に中小軍閥が割拠し、それぞれ列強のどれかと結びついてたがいに対立抗争をつづけた。
北京政府は名目だけの中央政府でしかなかった。
満州には日本と結びついた張作霖、山西には閻錫山、雲南には唐継堯、広西には陸栄廷、湖南には譚延ト(※)、
広東には陳炯明がいて、中央政府と対立していた。
そして民衆はこれら軍閥の野蛮な支配のもとで依然として無権利状態のまま、
戦乱の災禍と戦費調達のための過酷な搾取に苦しんでいた。
民国の誕生は清朝の皇帝支配を終らせたが、いまや軍閥という名の「小皇帝」の封建支配が、
これに代わったのである。
こうした軍閥割拠の状態は、一九二八年の国民政府樹立までつづくことになる。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.79
引用北京政局は対独参戦問題で混乱した。
段祺瑞はドイツに宣戦を布告し、参戦軍を編成することを名目にして借款を導入し、
自己の軍備を拡張しようと図った。
これに対して黎元洪は一七年五月、議会を味方にして参戦に反対し、段祺瑞を罷免した。
段祺瑞は各省の督軍を動員して武力で黎元洪を脅迫した。
このとき督軍団の一人として軍隊を率いて北京に入った張勲が、黎元洪に迫って大総統辞職、国会解散を行なわせたあと、
突如クーデターを敢行して、退位していた清朝の宣統帝溥儀をかつぎ出し、
共和制廃止、清朝復活を宣言した(復辟事件)。
この時代錯誤の試みはわずか十三日で失敗し、段祺瑞が国務総理に復帰してドイツに宣戦を布告、
「参戦軍」を拡充した(八月)。
しかも彼は張勲によって廃止された旧約法、旧国会の恢復を拒絶した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.81
日華陸軍共同防敵軍事協定調印
引用一八年五月、日本はロシア革命に干渉することを目的として、
ドイツ軍の極東進出を防ぐという名目で段祺瑞政権との間に秘密軍事協定を結んだ。
これは北部満州・モンゴルなどでの日本軍の自由行動、諜報機関の設置、中国軍の日本軍への隷属を規定しており、
「二十一ヵ条要求」の第五号を実質的に復活させた内容であった。
これを知った在日留学生はただちに反対運動をはじめたが、日本官憲の無道な弾圧を受け、
抗議のために二千人が一斉に帰国した。
彼らの訴えに呼応した北京の学生たちは二千余人で総統府に請願デモを行なうとともに、
全国各地に代表を送って「学生救国会」を組織し、雑誌『国民』を発行した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.87
安直戦争
引用一九一六年以来、日本の支援を受けて北京政府を握っていた段祺瑞らの安徽派軍閥は、
対日追随外交と南方に対する武力統一策とが世論の批判を浴びて孤立に陥っていた。
これに対して、英米をバックにした曹棍(※)らの直隷派は、一九二〇年はじめ、
日本と結託していた奉天派の張作霖とも提携して反安徽派八省同盟を結び、南北和平、対日妥協反対を看板にかかげて対抗した。
七月に至って双方の対立はついに大規模な武力衝突となり、結局直奉連合軍の勝利に終って安徽派は北京政府から一掃された
(安直戦争または直皖戦争と呼ばれる)。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.97
奉直戦争@
引用政権内の直奉両派の対立が表面化し、
会議のさなかの二一年十二月、
張作霖が北京に乗り込んで釿内閣(※)に代えて梁士詒内閣を登場させると、
梁は膠済鉄道の日中合弁に賛成し、日本から借款を取り付けようとした。
直隷派はただちにこれに反撃、世論を煽って梁士詒を辞職させるとともに、
軍隊を動かして決戦に備えた。
二二年四月、両派の軍隊は京漢線と津浦線の両鉄道にはさまれた広大な地域で戦端を開き、
呉佩孚の率いる直隷軍が圧勝した(第一次直奉戦争)。
これ以後、北京政府は直隷派軍閥の独占物となり、奉天派の張作霖は東三省(満州)に引揚げて「閉関自治」を宣言した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.97
呉佩孚
引用呉佩孚は、安徽派・奉天派と政権を争っていたときは、
和平統一、国会回復、憲法制定、労働者保護などの政策をかかげ、「開明的軍閥」として世論の支持を集めた。
また交通系(首領は奉天派の支持で国務総理となった梁士詒)の握る京漢鉄道の支配権を奪うために労働運動を利用し、
共産党とも協力して組合活動をむしろ奨励さえしてきた。
しかし直奉戦争の勝利以後、北京政府における直隷派の独裁体制が確立されると、
「開明的軍閥」の仮面をかなぐり捨てたのである。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.100
引用二二年八月、孫文は広東軍閥陳炯明の反乱に遭い、
広東を脱出して上海に着いた。
彼はここで共産党員の李大サ、陳独秀らと接触し、彼らの協力を得て国民党の改革を本格的に進めはじめた。
そして二三年一月、ソビエト政府代表ヨッフェとともに、「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、
ソ連はこの大事業に対して熱烈な共感をもって援助する」という共同宣言を発表して、
「連ソ容共」への転換を鮮明に示した。
このあと孫文は三たび広東におもむいて、ここに大元帥府を設けて国民革命を推進するための拠点を据えた。
ソビエトは政治顧問ボロディン、軍事顧問ガレンらを送ってこれを援助した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.104
奉直戦争A
引用一九二四年九月、第二次直奉戦争が勃発した。
曹棍(※)賄選、武力統一など直隷派の暴走に対して、
奉天派、安徽派、それに孫文の広東政府も加わって、反直隷派が大規模な武力抗争に出たのである。
直奉両軍は山海関付近で激戦を展開したが、直隷軍の馮玉祥(クリスチャン・ゼネラルと呼ばれた)が突如反旗をひるがえし、
北京を占領して大総統曹棍(※)を監禁、これを機として直隷軍は総崩れとなり、
呉佩孚も南方に逃れて直隷派勢力は北京から一掃された。
馮玉祥、張作霖、段祺瑞は、北京政府の空白を埋めるために、段を臨時執政に当てるとともに孫文の北上を要請した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.106
引用北京に着いた孫文は熱狂的な歓迎を受けた。
だが真の民意を結集するという彼の方針は、既成の軍閥や官僚を寄せ集めた「善後会議」によって、
とりあえず中央政府の形式を整えようとする段祺瑞らとの間に、とうてい一致点を見出せるものではなかった。
しかも孫文は北京に着くと同時に入院して肝臓がんの手術を受け、病状は絶望的であった。
国民会議促成会全国代表大会が北京で開かれているさなかの一九二五年三月十二日、
孫文は次の遺嘱を残して五十九歳の生涯を閉じた。
「余、力を国民革命に致すこと凡そ四十年、その目的は中国の自由・平等を求むるにあり。
四十年の経験を積みて深く知る。
この目的に到達せんと欲すれば、必ず須らく民衆を喚起し、世界の平等をもって我を待する民族と連合し、
共同奮闘すべきことを。
現在、革命なお未だ成功せず、凡そ我が同志は須らく・・・・・・継続努力して以て貫徹を求めよ」
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.107
引用五・三〇運動の発端は、一九二五年五月十五日、上海の日本資本の内外綿紡績工場の争議中に、
日本人監督が組合指導者の一人を射殺し、十数人に負傷させた事件である。
この工場では二月にも中国人労働者に対する日本人監督の非人間的虐待に抗議するストライキがあり、
争議は上海の二十二工場から青島の十工場(いずれも日本資本)にまで拡がった。
これらの争議は会社側の譲歩で一応解決したものの、労働争議の拡大を恐れた上海の日本紡織同業会は組合活動の抑圧、
排除を決め、内外綿では活動分子の解雇とロックアウトを強行していたのである。
射殺事件に憤激した上海の学生たちは、労働者支援と犠牲者救済を訴えて街頭宣伝をはじめたが、
租界当局は「治安を乱した」という罪名で彼らを逮捕し、五月三十日にその裁判が行なわれることになった。
ちょうどそのころ、租界当局は上海の支配強化を図る施策を実施しようとしており、
さらに青島の日資系紡績工場で奉天派軍閥の保安隊が導入され、争議中の労働者八人を射殺するという事件が起こって、
市民の怒りは一層高まった。
五月三十日、約二千人の学生が労働者の射殺に抗議し「租界回収」「逮捕学生釈放」を叫んでビラを配り、演説を行なった。
イギリス警察隊はこれらの学生百余人をつぎつぎに逮捕し、抗議のため南京路に集まった一万余の学生・市民に発砲して
死者十三、負傷者数十という大惨事を引き起こした。
この事件を契機として、反帝国主義(とくに反日英)の運動が上海全市に湧きあがった。
成立したばかりの上海総工会(委員長は李立三)は六月一日から全市労働者のゼネストを指令し、
学生の罷課、中小商人の罷市がこれに呼応して、上海租界を機能麻痺に陥しいれた。
租界当局は英・日・米・伊の陸戦隊を上陸させ、六月十日までの間に九回にわたる発砲で死者三十二人、
負傷者五十七人に達する弾圧を加えたが、これは闘争の火に油を注ぐ結果となった。
三罷闘争の統一指導機関として結成された上海工商学連合会(大資本家の組織である総商会は参加を拒否)は、
二十万人が参加する市民大会を開き、英日軍隊の永久撤退、領事裁判権の廃止を含む
十七項目の要求を租界当局および北京政府につきつけた。
反帝国主義の運動は、たちまち野火のように全国の主要都市に拡がっていった。
すでに国共合作が成立し、国民会議促進運動で統一戦線を形成しつつあった民衆は、
五・四運動の経験をふまえて、一致してさまざまな形で運動を展開し、
各地で列強の軍隊あるいは軍閥軍隊と衝突して多くの流血事件が起こった。
なかでも広東省と香港とが連携した省港ストは実に十五ヵ月間も闘いを持続し、
イギリスの東洋支配の根拠地香港を「死港」と化した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.108
引用二四年以来、北京政府は奉天派・安徽派・国民軍(馮玉祥)の三派連合が支配していたが、
民衆運動の高揚につれて国民軍はしだいに革命側に傾き、その支配地域では労農運動が比較的自由に発展していた。
二五年十一月、奉天派の郭松齢が張作霖に反逆して国民軍と手を結んだために、奉天派との間に戦闘がはじまった。
北京政府が左傾した国民軍に握られることを恐れた日本は、張作霖を支援して公然とこの戦闘に干渉するとともに、
イギリスと協力して直隷派と奉天派の連合を成立させた。
二六年四月、国民軍を北京から追い払った直・奉軍閥は、ただちに反帝国主義民衆運動に対する徹底的な弾圧にとりかかった。
五月に開かれた第三回全国労働大会は国民政府に対して「速やかな北伐」を要請している。
【中略】
かくて一九二六年七月九日、国民革命軍総司令蒋介石によって全軍(約十万)に動員令が発せられ、
「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する」ための北伐戦争が開始された。
北伐軍は怒濤の勢いで進撃した。
内部が腐敗しきっているうえに相互に利害の対立していた軍閥軍は、革命の意気に燃える北伐軍の前に、
つぎつぎに各個撃破されていった。
まず湖南に進攻した北伐軍の主力は、七月十一日に長沙を、十月十日には武漢を占領して湖南・湖北の呉佩孚軍を一掃した。
九月に湖南から江西に向かった中路軍(蒋介石指揮)は直隷派の孫伝芳軍の主力を粉砕しつつ十一月八日に南昌を占領して
江西省を手中に収めた。
さらに十月に広州を出発して福建に進んだ東路軍(何応欽指揮)は十二月九日福州を、翌年二月十八日には杭州を占領し、
中路軍とともに三月二十四日孫伝芳の本拠地南京を陥落させた。
その直前の三月二十一日には東路軍の一部が帝国主義最大の牙城上海郊外に到着した。
北伐軍はいたるところで民衆の歓迎を受けた。
民衆は敵情報告、道案内、物資輸送に積極的に協力し、軍閥軍の輸送・通信を妨害した。
なかには北伐軍の到着前に蜂起して軍閥軍を追い散らしたところもある。
軍閥が一掃された地域ではどこでも労働者・農民をはじめとする民衆運動が激しく燃えあがった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.112
引用この日未明、
上海の暗黒街を支配する青幇(※)・紅幇(※)のギャング団が労働者糾察隊を襲ったのをきっかけに、
蒋介石の命を受けた白崇禧軍が市内に進出して糾察隊を武装解除し、抵抗する者を射殺した。
糾察隊を指揮していた周恩来はかろうじて脱出した。
それから三日間、上海の街は血の海と化した。
二十万の抗議デモ隊には容赦なく機銃掃射が浴びせられ、市内のいたるところで共産党員、革命的労働者が逮捕、銃殺された。
この上海の惨劇はアンドレ・マルロウの『人間の条件』になまなましく描かれている。
つづいて四月十五日には広州でも同じような大虐殺が行なわれ、以後蒋介石の支配地域ではどこでも白色テロが荒れ狂った。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.117
引用蒋介石は日本と正面から対決することを避け、
「隠忍自重」、済南を迂回して北伐を続行した。
北伐軍が北京南方百キロ余の保定にまで達したとき、張作霖はついに北京退出を宣言した。
もし北伐軍に敗れて東三省(満州)に逃げ帰り、それを追って北伐軍がこの地域に入りこむことになれば、
日本軍は両軍ともに武装解除する、と強く警告されていたからである。
ところが張作霖を乗せた特別列車は、六月四日奉天(瀋陽)駅に到着する直前に爆破され、
張作霖は即死した。
この爆殺事件は関東軍高級参謀河本大作らの謀略によるもので、
満鉄延長増設問題などで必ずしも日本の意のままにならなくなった張作霖を排除し、
一挙に東三省を関東軍のコントロール下に置こうとしたのである。
しかし張作霖のあとを継いで奉天軍閥の総帥となった張学良は、
河本らの意図とは逆に南京国民政府のほうに傾いてゆき、日本の露骨な脅迫にもかかわらず、
一九二八年十二月二十九日ついに国民政府に忠誠を誓って、東三省に一斉に青天白日旗をかかげた。
こうして中国は蒋介石のもとに一応の全国統一を実現したのである。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.123
南京国民政府成立/蒋介石、国民政府主席就任
引用一九二八年十月、国民党は中央常務委員会を開いて「国民政府組織法」
「訓政大綱」を決め、立法、行政、司法のほか考試と監察(官吏の任免と監察)を加えた五院を最高機関とする
国民政府を正式に発足させた。
「訓政」とは「軍政」から「憲政」に移行する過渡期にあたり、この期間は国民党が「国民を指導して政権を行使する」
一党独裁が行なわれることとされ、民衆運動にはきびしい枠がはめられていた。
蒋介石がこの国民政府主席となった。
しかし形の上では統一されたこの政権も、
その内実は「革命軍将領」あるいは「国民政府委員・各省主席」の肩書をもつ新軍閥の不安定な連合にすぎなかった。
財政部長宋子文が「中央の財政権はわずかに江西、浙江、安徽、江蘇に及ぶだけで、
このうち安徽、江西の収入は中央に入ってこない」(二九年一月)と報告しているように、
その他の各省の税収はすべて張学良、閻錫山、馮玉祥、李宗仁、白崇禧、
李済深ら地方軍閥が勝手に処分して私兵を養っているありさまだった。
しかも党内には汪精衛らの改組派、胡漢民らの元老派、鄒魯らの西山派など、
蒋介石に対立する派閥が根を張っていた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.123
中原大戦
引用蒋介石は自己の独裁権を固めて「統一」の実を挙げるために、
まず軍隊整理会議(一月)を開き、北伐時に二百万に達した兵員を八十万に削減改編して、指揮権をすべて中央に集中しようとした。
しかしこれは地方軍閥の存立をおびやかすものであったから、
彼らの頑強な抵抗に遇った。
ついで蒋は国民党第三回全国代表大会を召集し(三月)、代表の四分の三を中央指定とする強引なやり方で一挙に党の主導権を握り、
反対派の急先鋒であった改組派および李宗仁、白崇禧ら広西派を除名した。
この蒋介石の独走に対して、まず三月広西派軍閥が反旗をひるがえした(蒋桂戦争)。
これにつづいて、西北軍の馮玉祥(五月)、宋哲元(十月)、第五路軍総指揮唐生智(十二月)らが、
相次いで反蒋の旗をかかげた。
さらに三〇年五月、平津衛戍総司令閻錫山と馮玉祥が連合して反蒋を宣言するに及んで、
南京国民政府は最大の危機を迎えた。
閻・馮連合軍が河南、山東まで進出すると、反蒋の政客たちも左派の汪精衛から右派の西山派までがぞくぞくと北平に集まり、
国民党第三回全国大会の無効を宣言して、新国民政府(閻錫山主席)を樹立するまでになった。
戦闘は総力を挙げて進撃してきた蒋介石軍との間で半年にわたってつづけられたが(中原大戦)、
この間去就を注目されていた奉天の張学良が、九月に至って南京政府擁護を宣言して出兵したために、
結局北方政府は瓦解し、蒋介石が勝利を収めた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.124
南昌蜂起
引用一九二七年七月国共合作が崩壊したあと、
中国共産党はコミンテルンの指令にしたがって「武装蜂起」路線へと急旋回していった。
八月一日、賀竜と葉挺の部隊、朱徳の将校教育連隊の約二万が南昌に結集して蜂起した。
彼らは数時間の戦闘ののち南昌を占領して革命委員会を設置するとともに、
賀竜を総指揮とする三軍を編成した。
これが、共産党が独自の軍隊をもった最初の日であった(南昌蜂起。現在八月一日は人民解放軍の建軍記念日となっている)。
しかし労働者、農民は全く動かず、国民党軍の大部隊に圧迫されて、蜂起部隊は三日のちには南昌を放棄して、
広東省めざして南下した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.127
引用満州及び内蒙古の地域に独占的な支配権を確立することは、
日露戦争以来日本の一貫した国策であった。
そのためにポーツマス条約、「二十一ヵ条」要求、西原借款などで多くの権益を獲得してきたし、
奉天派軍閥を育成してその保障としてきたのである。
しかし日本の満蒙支配は、二八年張学良が青年白日旗をかかげて国民政府に参加を表明してから、
明らかにゆらぎはじめた。
張学良は日本の南満州鉄道(満鉄)に対抗するための新しい幹線鉄道を計画し、
国民政府も新鉱業法を発布して外国人の鉱業権取得に制限を加えた。
しかも満州支配の根幹であった満鉄が、中国側の並行鉄道の競争と世界恐慌のあおりを受けて、
三〇年から極度の営業不振に陥った。
【中略】
三一年に入って中村震太郎大尉殺害事件、万宝山事件(長春近郊に入植した朝鮮人農民と中国人農民の衝突事件)が起こると、
軍部や右翼は「満蒙は軍事上、経済上日本の生命線」であると宣伝し、
武力により解決を主張しはじめた。
関東軍参謀石原莞爾中佐は、すでに二九年から「国内の不安を除くためには対外進出によるを要す」
「満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することによりてはじめて完全達成せられる」と主張しており、
三一年五月には、たとい政府が動かずとも「関東軍の主動的行動により回天の偉業をなしうる」として、
関東軍の独断的謀略による武力解決を唱えていた。
一九三一年九月十八日夜、奉天の北部八キロの柳条湖付近で満鉄線が爆破された(上下線あわせて一メートルたらずで
被害はほとんどなかった)。
実行したのは関東軍の中尉ら三人だったという。
関東軍はこれを「暴戻なる支那軍隊」によるものだとして一斉に軍事行動を開始し、
翌日中に奉天、長春、営口を占領、二十一日には吉林まで進出した(満州事変。中国では九・一八事変と呼ぶ)。
当時北平で病気療養中だった張学良は、電報で全軍に不抵抗・撤退を命じ、
戦火の拡大を避けようとした。
蒋介石は対共産軍作戦に追われていて軍隊を北上させる余裕がなかった。
中国の提訴を受けた国際連盟も有効な措置をとることができなかった。
ソ連もまた第一次五ヵ年計画に忙しく、満州事変に不干渉の態度をとった。
これらの諸条件に助けられて、関東軍の軍事行動は拡大の一途をたどり、
当初「不拡大」方針をとっていた日本政府を引きずっていった。
十月には張学良が本拠を移した錦州を爆撃し、翌三二年ハルビンを占領して、
わずか五ヵ月で満州の全域を軍事占領下においたのである。
これ以後、日本と中国は十五年にわたる長い戦争をつづけることになった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.137
満州事変下の中国
引用満州事変が起こると、日本の武力侵略と国民政府の不抵抗方針に対して、
激しい抗議の声があがり、空前の抗日運動が展開された。
上海では九月二十四日、学生十万、港湾労働者三万五千がストライキに入り、
二十六日には市民二十万人が参加して抗日救国大会を開き、対日経済断交を決議した。
北平でも二十八日に抗日救国大会が二十余万人を集めて開かれ、
政府に対日宣戦を要求し、市民による抗日義勇軍の編成が決議された。
この抗日救国運動はたちまち全国に拡がり、「停止内争、一致対外」をスローガンとして政府に徹底抗戦を要求するとともに、
排日ボイコットを推進していった。
九月以降、満州を除く全国の日本商品輸入は前年の約三分の一に激減し、
十二月には実に五分の一にまで低下した。
なかでも上海では対日貿易がほとんど杜絶し、日本商船を利用する中国人の積荷は皆無となった。
学生たちは全国からぞくぞくと南京に押し寄せ、蒋介石の北上抗日を迫った。
十一月に入ると運動は一層激しさを加えた。
日本軍の軍事行動は、錦州無差別爆撃、黒龍江省進撃と拡大の一途をたどり、
しかも蒋介石が期待した国際連盟の「有効な制裁措置」は実現せず、
国際的な「公理の裁決を待つ」という不抵抗方針は説得力を失ってしまったのである。
こうしたことから、抗日救国の運動は、しだいに国民党の独裁に反対して民主を求める反政府運動の性格を帯びはじめた。
十二月十七日、南京に結集した学生三万余の大デモが、
ついに軍警と衝突して死者三十余人、負傷者百余人を出すまでになった。
「一致抗日」の世論に押されて、蒋介石は汪精衛らの広東臨時国民政府との統一交渉を進め、
蒋介石が下野することを条件として統一政府を組織することになった。
新政権は政府主席林森、行政院長孫科、外交部長陳友仁ら広東派が要職を占めたが、
行政・軍事の組織は蒋介石派が抑えたままであり、
蒋の下野は世論の高まりを一時的にそらす以外のものではなかった。
事実、上海事変が起こると、孫科内閣は1ヵ月たらずで崩壊し、蒋は最高軍事指導者に復帰した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.139
引用一九三二年一月十八日、上海で五人の日本人僧侶が中国人無頼漢に襲われ、
一人が死亡、三人が重傷を負うという事件が起こった。
のちに明らかにされたところによると、この事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐が、
満州から列国の関心をそらすために国際都市上海で事を起こすよう、公使館付き武官の田中隆吉少佐に依頼し、
田中が無頼の中国人を雇って襲撃させたものである。
日本側は上海市政府に対して陳謝・犯人の処罰・賠償とともに抗日団体の即時解散を要求し、
武力を背景に最後通牒をつきつけた。
上海市政府は一月二十八日これを受諾したが、それにもかかわらず日本陸戦隊は
その夜半に閘北一帯の警備区域を中国側に無断で拡大し、中国軍と衝突した。
これが上海事変(中国では一・二八事変と呼ぶ)の発端である。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.141
引用長征が中国革命史上に占める最大の意義は、
毛沢東の指導権の確立、いいかえれば中国の大地に根ざす路線が、
絶対的な権威をかざしてきたコミンテルンの指導をしのいだことにある。
その転機となったのが、三五年一月十五日から貴州省遵義で開かれた中共政治局拡大会議であった(遵義会議)。
出席者は秦邦憲、張聞天、王稼祥、周恩来、陳雲、朱徳、劉少奇、凱豊、ケ発、毛沢東、李富春、劉伯承、林彪、
聶栄臻、彭徳懐、楊尚昆、李卓然、ケ小平、それにリトロフとその通訳伍修権である。
席上、毛沢東は第五次囲剿戦以来の党中央の「極左冒険主義」的軍事指導をきびしく批判して、その責任を追求した。
秦邦憲とリトロフは頑固に誤りを認めようとしなかったが、
一貫して党中央の路線を守ってきた周恩来が自己批判して敗北の責任を認め、
会議の大勢は毛沢東支持に傾いた。
その結果、総責任者に秦邦憲に代わって同じくソ連留学派の張聞天が選ばれたが、
毛沢東も政治局常務委員に復活して軍事を担当し、長征の過程をつうじて、
軍事面でも政治面でもしだいに党の指導権を確立していった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.148
華北分離工作
引用軍部の華北政策は、華北五省(察哈爾、綏遠、河北、山東、山西)の「自治」と華北経済圏の独立、
すなわち「第二の満州国」化に向けられていった。
十一月には河北省東北部の非武装地帯に、殷汝耕を首班とする冀東政権(冀東防共自治委員会、
翌月自治政府に改組)が作られ、
さらに十二月には中央政府からなかば独立して河北・察哈爾両省を管轄する冀察政務委員会(委員長宋哲元)が成立した。
このほか日本軍特務機関から金と武器を支給された「自治」運動が続出した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.152
引用宣言は、過去のいきさつや意見・利害の相違をいっさい棄てて、
「すべてのものが内戦を停止し、すべての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」として
「全中国を統一した国防政府と抗日連軍」を組織するよう提案し、
「金があるものは金を出し、銃があるものは銃を出し、食糧があるものは食糧を出し、
力があるものは力を出し、専門技能があるものは専門技能を捧げて、わが全同胞を総動員し、
かつすべての新旧の武器を用いて数百万数千万の民衆を武装しよう」と呼びかけた。
これは中国共産党の政策の一大転換であった。
かつての「プロレタリア的な中核」による「下からの統一戦線」に代わって、
国民党までも含む(ただし蒋介石は売国賊として除外される)広範な政治勢力を結集した
抗日民族統一戦線が提唱されたのである。
抗日救国こそがすべてに優先する最大の課題であるとしたこの宣言は、
盛りあがりつつあった抗日運動に巨大な影響を与え、やがて実現する第二次国共合作への契機となった。
※ 八・一宣言はじっさいには王明らコミンテルン駐在の中共代表団によって出された。
この年七月からモスクワでコミンテルン第七回代表大会が開かれ、
ヨーロッパにおけるナチズムの台頭に対して反ファシズム統一戦線(人民戦線)の方針が出された。
これに基づいて作られたのがこの宣言である。
当時張聞天、毛沢東らの党中央は長征途上にあり、また北上抗日に反対する張国Zとの対立をかかえていた。
毛沢東がこの宣言をうけて本格的に抗日民族統一戦線の問題と取組んだのは、
三五年十二月の瓦窰堡会議である。
ここで毛沢東は、日本帝国主義を当面の最大の敵として、広範な民衆を「統一した民族革命戦線」に結集するとともに、
一九二七年の敗北を教訓として、共産党が統一戦線において指導権を握ること、
そのためには紅軍と根拠地の拡大と強化が重要であることを強調している。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.154
引用冀東政権につづいて冀察政務委員会設立の動きが具体化すると、
華北分離の危機感が拡がった。
まず起ちあがったのは北平の学生たちである。
十二月九日、酷寒のなかを五千人の学生が、「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」「全国が武装して華北を守れ」
などのスローガンを叫びながらデモ行進した。
デモ隊の中心は奉天を追われて北平に移転していた東北大学の学生たちであった。
事前に学生の行動を察知した宋哲元は、警察、軍隊を大量に動員し、
放水、棍棒、大刀、銃剣で阻止し、多数の負傷者・逮捕者を出した。
しかし学生たちは屈しなかった。
さらに十二月十六日冀察政務委員会成立予定日に、ふたたび一万余の学生がデモ行進を行ない、
軍隊・警察と激しい衝突をくりかえしながら市民数万人が参加する民衆大会を開き、
「冀察政務委員会を承認しない」「華北のいかなる傀儡組織にも反対する」「東北の失地を回復せよ」などの決議案を採択した。
政務委員会の成立大会は十八日に延期され、ひそやかな形で行なわざるをえなくなった。
当局のきびしい取締りのなかで敢行されたこの学生たちの運動は、全国に波紋を拡げ、
蒋介石の「学生運動禁止令」(三六年一月)を無視して、全国主要都市で学生の集会、デモが挙行された。
学生たちは救国宣伝団を組織して農村に入り、農民たちに亡国の危機と抗日の道を説いた。
こうした運動を基盤にして、五月には全国学生救国連合会が上海で結成され、
おりからの日本の支那駐屯軍大増強(千八百人から五千八百人に)に反対する運動を全国に拡大していった。
学生たちの運動はさらに広範な階層へと拡がっていった。
一二・九の直後、上海で沈鈞儒、鄒韜奮(※)らの「上海文化界救国会」が、
また「上海婦女界救国連合会」がつくられ、三六年五月には、
全国の同様な組織六十余を結集した「全国各界救国連合会」が誕生して、「内戦停止、一致抗日」を要求した。
これに対して国民党政府は、三六年二月「治安維持緊急治罪法」を発布して抗日運動をきびしく抑圧し、
十一月には全国各界連合会の指導者沈鈞儒、鄒韜奮(※)、章乃器ら七人を
「民国に危害を加えた」との罪名で逮捕した。
いわゆる「抗日七君子事件」である。
しかしこのような弾圧は、運動に一層拍車をかける結果となり、抗日救国の声は全国にみなぎった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.155
引用中国現代史の大きな転換点となった「西安事変」は、
一九三六年十二月十二日未明に起こった。
蒋介石に内戦停止を説いて拒絶された張学良が、兵を動かして蒋介石を監禁し、
楊虎城と連名で八項目の要求を全国に通電したのである。
@南京政府の改組、諸党派共同の救国。A内戦の停止。B抗日七君子の釈放。C政治犯の釈放。
D民衆愛国運動の解禁。E人民の政治的自由の保証。F孫文遺嘱の順守。G救国会議の即時開催。
この事件は「内戦停止、一致抗日」の世論を劇的に表現したものにほかならなかった。
だが中国の最高指導者の監禁という異常な事件は、全世界に強烈な衝撃を与えた。
ソ連の新聞は「親日分子の陰謀」であり、「反日勢力の団結を破壊するもの」と非難した。
日本の新聞は、張学良独立政府とソ連が協定を結んだ、と報じた(民衆運動の動向から「抗日民族統一戦線」の結成を予見したのは、
朝日新聞記者尾崎秀実ただ一人であった)。
日本政府は蒋介石後の南京政府を親日派が掌握するよう画策しはじめた。
南京の国民政府では、蒋介石の生命の安全を無視しても張学良を討伐すべし、とする親日派の何応欽ら強硬派と、
和平解決を望む馮玉祥・宋美齢(蒋介石夫人)らが対立した。
「逼蒋抗日」を唱えていた共産党内でも、ことの意外な進展にとまどって、
蒋介石の公開裁判・処刑を要求する声さえあった。
【中略】
蒋介石は頑強にこの「兵諫」を拒絶した。
張学良討伐のための中央軍は陝西省東端の潼関に入り、西安近郊を爆撃した。
東北軍の青年将校の間に蒋処刑の声があがりはじめた。
この一触即発の危機を救ったのは共産党であった。
張学良の依頼を受けて十七日西安に飛来した周恩来、秦邦憲、葉剣英は、
「団結抗日の基礎に立つ和平解決」を求めて蒋介石を説得するとともに、
南京代表の宋子文、宋美齢らと折衝を重ね、ほぼ八項目要求の内容を認める形で合意に達したのである。
蒋介石はこの合意を文書にして署名することは拒否したが、十二月二十五日、西安を飛び立つさいに、
「約束はかならず守る」と言明した。
こうして内戦は事実上停止された。
張学良は、「兵諫」の責任を負ってすすんで軍法会議にかけられることを望み、
蒋介石に同行した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.158
引用上海戦線で総崩れとなって潰走する中国軍を追撃して、
日本軍は急速度で首都南京に迫った。
その間、補給はほとんどなく、物資はもっぱら現地調達=掠奪に頼っており、
抵抗する中国人に対する暴行・殺人がくりかえされていた。
二ヵ月にわたる上海の悪戦苦闘で多くの戦友を失い、しかもここで勝てば故郷に帰れるという期待を裏切られて
(南京攻略は軍の当初の方針にはなかった)、兵士たちの心は荒みきっていた。
そしてなによりも兵士たちの心を占めていたのは、想像だにしなかった中国の軍民あげての抵抗に対する激しい恐怖であり、
また投降兵を捕虜にしないという軍の方針であった。
こうして十二月十三日の南京制圧から十六日(入城式の前日)までの数日間に、
投降兵、「便衣兵」(武器を棄てて私服で民衆にまぎれこんだ兵士と目されるもの)、無辜の市民を含めて、
おびただしい中国人が虐殺された。
いわゆる「南京大虐殺」である。
当時第十六師団長であった中島今朝吾中将は、十二月十三日の日記に次のように記している。
「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルトモ千五千一万ノ群集トナレバ
之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ・・・・・・後ニ到リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、
大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル
此七八千之ヲ片付クルニハ相当大ナル濠ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百ニ分割シタル後
適当ノ個所ニ誘キテ処理スル予定ナリ」
※ 虐殺された者の数は資料によって大きな違いがあり、
中国側資料では三十九万人以上、極東国際軍事裁判の記録では二十万人以上、
少ないものは元陸軍将校の親睦団体が発行する『偕行』の三千―一万三千(投降兵虐殺を含まない)である。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.166
引用傀儡政権工作の最後にして最大のものは、
四〇年三月に成立した汪精衛の「国民政府」(南京)である。
蒋介石の最大のライバルとして国民党内に重きをなしていた汪精衛は、早くから「焦土抗戦」に反対し、
全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた(毛沢東のいう「亡国論」)。
ひそかに日本側と連絡をとりながら三八年末に重慶を脱出した彼は、
はじめ非占領地区(四川か雲南)に支持勢力を結集して反蒋政権を樹立し、
日本との和平交渉をまとめようとした。
しかし呼応する勢力は全く現われず、支持基盤をもたぬ汪精衛は、結局日本側のいいなりに各地の「政権」を統合した
傀儡「中央政府」をつくるほかなかった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.172
百団大戦
引用四〇年八月から三ヵ月余にわたって八路軍が展開した「百団大戦」は、
全国を震撼させ、共産党勢力の威力を内外に印象づけた。
河北と山西を結ぶ正太鉄路を中心に、全華北の交通網と駐屯日本軍に対して、百十五個連隊(団)四十万で総攻撃をかけ、
甚大な打撃を与えたのである。
この大攻勢は国民党の警戒心を一層強めた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.173
皖南事変
引用国民党は十月、黄河以南の全共産軍に対して黄河以北に移動せよと命令するとともに、
陝甘寧辺区の包囲軍を強化した。
共産党はこの命令に反対したが、決裂を避けるために北方への移動を指令し、
安徽省南部にいた新四軍九千余は四一年一月はじめに移動を開始した。
そのとき八万余の国民党軍が突然襲いかかり、七昼夜の激戦のすえに新四軍部隊は潰滅した(皖南事変)。
蒋介石は新四軍を反乱軍であるとし、捕らえられた軍長の葉挺を軍法会議にかけた。
皖南事変によって国共合作は事実上崩壊した。
しかしそれは統一戦線の崩壊を意味するものではなかった。
事変に対して、香港にいた宋慶齢、柳亜子、何香凝らが国民党に抗議したのをはじめ、
中間的な立場にある多くの個人や団体が、「内戦反対」を唱えて共産党に同情と支持を与えた。
この事変を転機として、統一戦線は、国共合作を中核とするものから、共産党を中核とするものへと、
しだいに転換していったのである。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.174
三光作戦
引用解放区は四一―四二年に重大な危機を迎えた。
百団大戦で大打撃を受けた日本軍は、これまでの掃蕩作戦ではなく、
「敵主力の撃滅とその根拠地および施設の覆滅と治安粛清工作を徹底的に敢行」する大作戦を展開した。
「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」という残忍な作戦(三光作戦)が解放区に向けて実施され、
制圧した地域には徹底的な連座制を布いて共産ゲリラに協力する農民を殺した。
このため解放区は縮小してその人口は半減し、八路軍は四十万から三十万に減少した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.175
大陸打通作戦
引用一九四四年四月から日本軍最後の大作戦「大陸打通作戦」がはじまり、
約半年かかって北平から広州まで大陸を縦断している京漢線、粤漢線の全線占領に成功し、
さらに西南の桂林、柳州、南寧にまで達した。
この作戦の最大の目的は、中国西南地区に設置されたアメリカ空軍基地群を占領することにあった。
日本は、中国戦線の制空権を完全に奪われていたばかりでなく、
この作戦のさなかに中国の基地から発進したB29長距離爆撃機によって、九州、山陰、朝鮮が空襲を受けていたのである。
すでに戦力を消耗しつくして満足な装備さえもたない日本軍(水筒は竹、小銃は数人に一丁)が、
ともかくもこの作戦に成功したのは、国民党軍に戦意がなく、撤退方針をとったからであった。
国民党軍は衡陽では激しく抵抗したものの、桂林、柳州ではやすやすと在華米空軍最大の基地を明け渡してしまった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.182
内戦前哨戦
引用戦後をめぐる国共の武力対決は、日本がポツダム宣言を受諾した翌日からはじまった。
八月十日深夜、延安の朱徳八路軍(第十八集団軍)総司令は全武装部隊に向けて、
日本軍占領地に進撃してその武装を解除せよ、もし反抗するものがあれば殲滅せよ、と命令した。
これに対して蒋介石は、翌日朱徳に、「すべての該集団軍所属の部隊は現在地に駐屯して命令を待ち」
「みだりに行動してはならない」と厳命するとともに、直系部隊に緊急進撃を命じた。
朱徳は「この命令は公正ではないばかりか、中国民族の民族利益に反し、
日本侵略者と祖国を裏切った漢奸に有利なだけである」として拒否した。
八月十五日、蒋介石は「われわれは決して報復を企図してはならない、
まして敵国の無辜の人民に侮辱を加えるべきではない」という、有名な「怨みに報ゆるに怨みをもってすべからず」
の演説を行なうと同時に、支那派遣軍総司令官岡村寧次大将に、国民党軍への投降と「現装備を維持し所在地の秩序維持」
にあたるよう命じた。
また傀儡軍に対しても「責任をもって地方の治安維持と人民保護にあたる」ことを命令した。
それは明らかに共産軍の活動を抑えよということを意味していた。
朱徳も同日岡村にあてて、八路軍・新四軍・華南抗日縦隊のみに投降せよと命令した。
二つの命令を受けた日本軍は、八月十八日、もし共産軍が抗日侮日の行動をとるならば、「断固膺懲」すべしと各部隊に通達した。
南京で行なわれた岡村・冷欣(副参謀長)会談でも、共産軍の攻撃に対して日本軍が占領地域を確保することが話しあわれた。
山西省では閻錫山と日本軍が共同してじっさいに共産軍と戦ったし、
国民党軍の到着が遅れた山東省、江蘇省などでは共産軍と日本軍の激戦がつづいた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.186
中ソ友好同盟条約
引用※ ソ連は八月十四日蒋介石と「中ソ友好同盟条約」を結び、
国民政府を唯一正統政府と認めるかわりに、ヤルタ協定で合意されたソ連の在華権益を承認させた。
当時スターリンは中共よりも蒋を信頼し、中共に対し、共産軍を解体して蒋政権に参加するよう勧告している。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.187
国共会談/双十協定
引用戦争終結の直後から、蒋介石は毛沢東に三たび電報を送って「国家の大計」について
重慶で話しあいたいと申し入れ、毛沢東もこれに同意した。
八月二十八日、中共代表毛沢東、周恩来、王若飛らがアメリカ大使ハーレーにともなわれて重慶に到着し、
国共会談がはじめられた。
会談にさきだち中共は、国民党の内戦の陰謀を撃破し、国際世論と中間派の共感をかちとるために、
「人民の根本利益を損なわないことを原則として」必要な譲歩を行なう用意があることを党内に向けて通知した。
しかし会談は難航した。
とりわけ国軍の統一(共産軍の解体)、地方自治(解放区政権の解消)、憲法制定の問題は容易に話しあいがつかず、
四十余日かけた交渉は、結局「長期に合作し、断固として内戦を避け、独立・自由・富強の新中国を建設し、
徹底的に三民主義を実行すること」、「政治協商会議を開いて平和建国方案と国民大会召集問題を討議すること」
に合意しただけで、あとは両論を併記した「政府と中共代表の会談紀要」(双十協定)が発表された。
中共は、共産軍四十八個師団を二十個師団に縮減し、華中・華南の軍隊を華北に引揚げるという譲歩を行ない、
内戦回避への意欲を強く内外に印象づけた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.188
五・四指示
引用共産党は、四五年末から、
戦後新しく生まれた解放区で「減租減息」政策を実施するとともに、
「清算闘争」を進めていた。
戦争中に日本軍に協力して民衆を殺したり抑圧したりしていた漢奸、悪質地主に対して、
起ちあがった民衆自身がその悪事を糾弾し、裁判したうえで財産没収、処刑を実行していったのである。
この闘争で解放された民衆のエネルギーは、やがて一直線に土地革命へと向かった。
四六年五月四日、中共中央は「清算、減租および土地問題に関する指示」(五・四指示)を発して、
地主の土地没収と農民への分配を指示した。
この土地革命の進行は、農民の革命への意欲を燃えたたせると同時に、
半封建地主勢力を基盤とする国民党との対立を決定的にした。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.189
マーシャル特使派遣/国共内戦勃発
引用深まりゆく内戦の危機に、アメリカは大統領特使マーシャル元帥を送って
国共の調停にのりだした。
共産軍の戦闘力の強さを誰よりもよく認識していたアメリカは、
腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ、蒋介石に大量の軍事援助を与えつつ、
国民党軍が強化されるまで衝突を先にのばそうとしたのである。
彼の仲介で、まっ先に火蓋を切った東北での戦闘は一時的な停戦が実現したが、
蒋介石の「武力剿共」の決意は変わらなかった。
四六年六月二十六日、蒋介石は中原解放区への進撃を命令し、翌七月から全面的な内戦が開始されたのである。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.190
二・二八事件
引用台湾民衆の「光復」(異民族支配からの解放)の喜びと期待は大きかった。
四五年十月二十五日、台湾駐屯日本軍は進駐してきた中国軍に正式に降伏し、
この日から台湾は国民政府の支配下に入った。
だが期待はたちまち裏切られた。
「新長官(陳儀)は傲慢な随員を引き連れて同島に到着したが、
随員たちは巧みに台湾を搾取しつづけた。
・・・・・・軍隊は征服者のごとくふるまった。
秘密警察は、大っぴらに脅したり、また中央政府の官吏が搾取するのを容易にした」(アメリカ国務省『中国白書』)。
四七年二月二十七日夜、タバコ密売をしていた老婆を取締官が殴り倒し、
抗議に集まってきた台湾人に発砲して一人を射殺した。
翌二十八日、長官公署に押しかけた抗議のデモ隊に軍隊が機関銃掃射を浴びせ、多数の死傷者を出した。
憤激した台湾民衆は台北市内の至るところで暴動を起こし、
放送局を占拠して全島民に決起を呼びかけた。
一年半の間に積もり積もった民衆の憤懣が爆発して、蜂起はたちまち全島に拡がり、
各地に「二・二八処理委員会」が設けられた。
三月四日には「全省処理委員会」が組織され、台湾の高度の自治と基本的人権を求める「三十二ヵ条要求」が提出された。
狼狽した陳儀は、妥協的な素振りを見せながら時間をかせぎ、
三月八日夜増援軍二個師団が到着するや、狂ったような殺戮を開始し、
民衆運動の指導者を逮捕・処刑した。
この事件で殺された者は一万人以上、数万人に達するといわれる。
これ以後台湾民衆は国民党の軍事支配下に置かれ、四九年に全島に発布された戒厳令は、
今もなお解除されていない。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.192
国共内戦の経過
引用四六年七月に全面的な内戦がはじまってからの約一年間は、
国民党軍が圧倒的な勢いで進攻した。
総兵力四百三十万、そのうち米軍の最新装備をもつ正規軍が二百万、対する共産軍は百二十余万、
日本軍から奪った旧式装備が中心であった。
アメリカは国民政府に二十億ドルの援助を与えたほかに、軍事顧問団を派遣し、
余剰軍事物資を放出した。
空海軍は内戦のために移動する国民党軍を輸送した。
こうして国民党軍は十月に張家口を攻略し、蒋介石が南京の軍事会議で「五ヵ月以内に中共軍を全滅させる」
と発言したとおり、四七年三月には共産党が十年間「首都」としてきた延安をも占領し、
蒋介石の企図は実現するかに見えた。
しかしこの華々しい戦果は、共産軍の「予定」したものであった。
四六年七月、毛沢東は全党に向けて、@持久戦を準備せよ、A運動戦を中心とし、地域を固守するな、
B広範な人民大衆の支持を獲得せよ、と指示し、一時的に都市や解放区を放棄して深く敵を誘い込む方針をとったのである。
多くの都市と交通要路を占領した国民党軍は、日本軍と全く同様に「点と線」を保持するだけで、
兵站線は延び、兵力は分散することを余儀なくされた。
共産軍は敵軍が薄弱になったと見るとすかさず反撃を加え、徐々に国民党軍の戦力を奪い、
大都市に封じ込めていった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.193
引用冷戦構造の中で、一九四九年十二月、毛沢東ははじめて外国に旅立ち、
翌年二月までモスクワに滞在した。
彼はスターリンその他と会談を重ね、中ソ友好同盟相互援助条約に調印し、
朝鮮戦争下の九月末に批准に至った。
スターリンは新政府の成立前夜まで中共の勝利の可能性に懐疑的だった。
いわばその指導に抗して自力で革命を成功させた毛沢東に、彼はユーゴのチトーに対すると同様な不信感をもち、
両者の関係には微妙なものがあった。
だが中華人民共和国の成立はアメリカの対ソ封じ込め政策を突き破る画期的事態であり、
これとの友好関係の強化は、ソ連の国際的立場を飛躍的に強めるものであった。
他方中国にとって、アメリカを主とする西方資本主義国との友好関係や経済援助を期待できない当時の状況の下では、
ソ連との友好、それからの経済的・技術的援助の獲得は不可欠であった。
こうして調印された同条約は、アメリカのアジア政策に対する抵抗、とくに日本からの攻撃に備える三十年間の共同防衛、
そして三億ドルの借款協定などの中国に対する経済援助を規定していた。
他方、同時に調印された協定によって、ソ連は一九四五年国民政府との友好同盟条約によって獲得した
長春・旅順港・大連に関する在華権益を新政府に保証させた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.201
中国、朝鮮戦争に介入
引用はじめは朝鮮人民軍が圧倒的に優勢で、
南部深く洛東江左岸の三角地帯まで進撃した。
だが九月十五日、アメリカ軍が仁川に上陸したことをきっかけに形勢が逆転し、十月一日、
米韓連合軍は三十八度線を越えて共和国領内に進撃し、十月中旬には中国との国境鴨緑江近くまで達した。
六月二十八日の周恩来声明で、中国政府はアメリカの新たな朝鮮・台湾政策を、
「アメリカ帝国主義の中国侵略とアジア独占」の企みとして激しく批判した。
だが中国駐在インド大使に対する周恩来の言明などをつうじて、韓国軍だけが三十八度線を北上する場合には介入しないが、
国連軍(アメリカ軍)が北上してきた時には、介入せずにはいられない、という意向をアメリカ政府に伝えていた。
十月中旬、韓国軍、アメリカ軍が中国国境まで迫ってきた時、ソ連の強力な介入勧告もあって、
彭徳懐を総司令官とする中国人民志願軍を、鴨緑江を越えて共和国領内に進撃させた。
中国軍は夜間の待伏せ攻撃によってアメリカ軍に大打撃を与え、年末までに朝鮮人民軍と共に三十八度線まで押し返した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.206
大躍進運動開始
引用毛沢東ら中国共産党代表団は一九五七年十一月、
モスクワで開かれた世界共産党会議に出席した。
そこで、彼らは資本主義から社会主義への平和移行の問題やアメリカ帝国主義の評価、
これとの平和共存と民族解放闘争の関係などの問題をめぐって、ソ連共産党と対立した。
毛は平和移行の可能性だけを強調することに反対し、また「東風は西風を圧する」、
「アメリカ帝国主義は張子の虎にすぎない」として、
核による脅しを恐れるなとのべた。
この会議では中ソ両党の見解を併記することで妥協が成立したが、
以後両党、ひいて両国関係には明らかな亀裂が生じはじめた。
毛はこの会議の間に、十五年前後の期間に、中国は鉄鋼など主な工業生産高の面で、
イギリスに追いつき追いこすという目標を提起した。
帰国後、五八年一月から四月にかけて、彼は各地で各種の党会議を召集、主宰し、
経済建設の速度や量に対する慎重論、いわゆる「反盲進論」を革命のはずみに水をかける保守主義として批判し、
大衆的な技術革命、地方工業の建設、大規模な水利建設などによる工・農業の「大躍進」を呼びかけた。
また中共八全大会の結論とはことなった主張、すなわち国内における搾取階級の存在とこれに対する闘争の必要性を強調した。
これを受けて、五八年五月に開かれた八全大会第二回会議で、劉少奇が、
毛の主張をほぼ全面的に受けいれた報告を行ない、できるだけ早く現代的工・農業と科学・文化をもつ
強大な社会主義国を建設するという決議を採択した(社会主義建設の総路線)。
この前後から、大衆的な技術改革運動や大規模な基本建設をつうじて、
生産の飛躍的高揚をめざす「大躍進運動」がはじまった。
五月から七月まで開かれた中共中央軍事委員会拡大会議では、
朝鮮戦争以後、彭徳懐国防相を中心に、
ソ連軍をモデルとして進められてきた人民解放軍の正規化と現代化を、
教条主義、ブルジョワ軍事路線、そして奴隷思想として批判する毛の主張が受けいれられた。
そして侵略者を国内に引きずりこんで戦う人民戦争に適合するよう、紅軍以来の革命軍の伝統を復活し、
民兵を強化すること、同時に自力での核開発を急ぐ新方針が決定された。
この中央軍事委員会の決議は、大躍進の国際的背景として、
経済的にも軍事的にもソ連の援助に依存せぬ、自立的な中国型社会主義を建設しようとする動機があったことを示すものだった。
他方、ソ連は五七年十月に調印された中ソ国防新技術協定を五九年六月に破棄し、
中国に原子爆弾製造の技術資料を提供することを拒絶すると通告してきた。
中国が核兵器を作れるようになると、西側に核兵器生産の口実を与えてしまうという理由によるものだった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.221
彭徳懐国防相解任
引用政治局員でもあった彭徳懐は、故郷湖南の農村での見聞などに基づき、
五九年七月、廬山で開かれた政治局拡大会議にさいし毛沢東に私信を送り、
大躍進の成果を認めたうえで「プチブル的な熱狂性、極左的主観主義が生み出している現実遊離の危険」を、
毛が作りあげた良き伝統である「実事求是」と大衆路線を回復することによって克服し、
失われた経済的均衡を回復するよう訴えた。
彼はこのなかで、従来強調されてきた右翼保守思想の批判よりも、
現在では極左的主観主義の批判のほうがより重要だとのべている。
だが毛はこの私信を「意見書」として公表し、
これはブルジョワジーの動揺性を表現する右翼日和見主義の反党綱領だとこっぴどくきめつけた。
毛の主張は会議の多数者に受けいれられ、会議の基調は「左」傾批判から「右」傾批判に変り、
以後これを「ブルジョワジーとプロレタリアートの生死をかけた闘争」(毛沢東)とする運動が展開された。
八月、彭は国防相を解任されて林彪がこれに代わり、
彭を支持した少数の党や軍の上層指導者も解任された。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.229
チベット反乱/ダライ・ラマ亡命
引用五九年三月、急進化しつつある中国社会主義の波及を恐れたチベット支配層が、
ダライ・ラマを擁して反乱を起こし、ラサの人民解放軍を攻撃した。
解放軍は六二年三月までに反乱を鎮圧し、この間インド国境まで進出した。
ダライはインドに亡命し、インド政府の同情を受けつつチベット独立を要求し、
五九年八月には国境付近で中印軍の武力衝突が起こった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.231
中共、大躍進運動を総括
引用一九六二年一月―二月、
中共は全国の党幹部七千余人を集めて開催した拡大工作会議(「七千人大会」)で、大躍進運動の総括を行なった。
劉少奇は党中央を代表して、この運動の失敗と、当面の多くの困難をもたらした原因は、
一つには自然災害の影響もあるが、「非常に大きな程度において」、
党の政策の誤りと、「実事求是と大衆路線の伝統」に違反した指導者のやり方にあり、
第一には党中央に責任があったとする報告書を提出した。
毛沢東も、党内・党外で「民主」を発揚すべきことをのべた講話のなかで、
「およそ中央が犯した誤りは、直接に私の責任であり、間接にも責任がある。
・・・・・・ほかの若干の同志にも責任はあるが、しかし第一の責任は私が負わねばならぬ」とのべた。
そのほかケ小平、周恩来など、主要な指導者も、それぞれの部署を代表して自己批判を行ない、
党指導者の見解は一致していたかに思われた。
そのなかで、「毛主席の思想はすべて正確であって」、
欠陥や困難が生じたのは、毛主席の指示どおりに事を運ばず、その意見が尊重されず、
あるいははなはだしく妨害されたからだ、とくり返し強調した人民解放軍総司令林彪の発言が、
異様にきわだっていたといわれている。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.238
「五・一六通知」公布
引用五月十六日には、四月中旬に康生・陳伯達が起草し、毛の修正を経て、
四月二十四日の政治局常務委員会拡大会議を通過した「五・一六通知」を採択、全党に公布した。
それは「高くプロレタリア文化大革命の大旗をかかげて、
徹底的に反党反社会主義の「学術権威」のブルジョワジーの反動的立場を暴露し、
学術界、教育界、新聞界、文化界、出版界のブルジョワ反動思想を徹底的に批判して、
これらの文化領域における指導権を奪取する」こと、
「それにはかならず、同時に、党、政府、軍隊と文化の各領域にもぐりこんでいるブルジョワジーの代表人物を批判して、
これらの人物を洗い清め、あるものはその職務を転換する」こと、
なぜなら彼らは「一群の反革命修正主義分子であり、いったん機が熟すれば、政権を奪取して、
プロレタリア独裁をブルジョワ独裁に変えようとする」からだと、
文化大革命の基本的内容を規定した。
この「通知」の公布とともに、文革は大衆運動として正式に開始された。
五月二十五日、康生の指示を受けた北京大学の女性講師聶元梓らが、
学長と大学の党委員会、北京市委員会を、「反党・反社会主義の黒い一味」として攻撃した「大字報」(壁新聞)を貼り出し、
六月一日、毛がこれを支持する談話を発表したことを契機に、
全国の学校で党委員会と「権威」ある教師に対する学生=紅衛兵の「造反」が拡大した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.254
劉少奇獄死
引用劉少奇はまもなく「党内最大の実権派」として、
中央文革小組に直結する紅衛兵に逮捕・監禁され、のち、江青・康生支配下の審査グループが作りあげた報告書によって、
建国以前からの「裏切り者」、「スパイ」として断罪され、党籍を剥奪(一九六八年十月)されたまま、
六九年十一月、開封の獄中で悲惨な病死を遂げた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.256
九全大、文革を支持
引用一九六九年四月、中共は北京で第九回全国代表大会を開催した。
だが参加代表約千五百人は党規約に基づく選挙によって選出されたものではなく、
「協議」と、「革命大衆の意見」を聴取して「推薦」されたもので、
林彪派や中央文革派が多数を占めていた。
この大会で林彪は党中央を代表して政治報告を行ない、
文化大革命は毛沢東の「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」に基づく「大規模な真のプロレタリア革命である」とのべた。
大会は林彪を毛沢東の後継者とするという異例の規定をもりこんだ新しい党規約を採択し、
林彪、江青系のメンバーが多数を占める新中央委員会を選出し、
林彪が党副主席、陳伯達、康生が政治局常務委員、江青が政治局委員の要職に就いた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.264
キッシンジャー訪中
引用アメリカはベトナムで窮地に立っていた。
この間にソ連は軍事的に強化され、アジアに対する影響力を増大させていた。
これに対処するために、アメリカは対中国関係の改善を望み、
七一年七月、ニクソン大統領の補佐官キッシンジャーがひそかに中国を訪れ、周恩来と会談した。
毛沢東、周恩来は、アメリカおよび日本などとの関係を改善して、ソ連に備える政策に踏みきった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.266
林彪下野/死亡
引用対外路線をめぐる対立に加えて、
林彪が七〇年九月の第九期中央委員会第二回総会で国家主席就任を要求したことから、
林と毛、周ならびに林彪系の軍事独裁に批判的な党、軍、行政幹部との対立が深まった。
七一年九月、追いつめられた林彪らは毛沢東を打倒するクーデターを企てた。
これに失敗した林彪はソ連に逃亡途中、乗機がモンゴル人民共和国領内で墜落し死亡したと、
後に公表された(詳細な真相はなお不明)。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.266
中国国連復帰/ニクソン訪中/日中国交正常化
引用十月の国連総会で、中華人民共和国は台湾の政府に代わって代表権を回復し、
安保理事会の常任理事国として国際社会に復帰した。
翌七二年二月、ニクソン大統領が訪中して共同声明を発表、つづいて九月、田中角栄首相が訪中して、
共同声明に調印した。
声明には「日本側は、過去において日本国が戦争をつうじて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、
深く反省する」、「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、
このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」とのべられている。
これによって、中華人民共和国の建国以来、法的には戦争状態が継続していた日本と中華人民共和国との国交正常化が実現した。
こうした中国は建国以来のアメリカ・日本との対立に終止符を打ち、また文革以来の孤立を打破して、
国際的地位を画期的に改善した。
同時に、ソ連との対立に加えて、アメリカ軍と大詰めの戦いを進めていたベトナム民主共和国との対立を深める契機となり、
後者はしだいにソ連との結びつきを強めていった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.266
ケ小平復権@/「四人組」結成
引用七三年八月の党第十回全国代表大会ではケ小平らが中央委員として復活した。
ケは、これにさきだち、毛沢東に全国の情勢について意見を求められたさい、
「軍閥割拠の危険」があることを率直にのべたと伝えられている。
他方、文革をつうじてのしあがった王洪文が中央委員会副主席、張春橋が政治局常務委員、
江青、姚文元が政治局委員に選出された。
彼らは毛沢東の威信を背景に、いわゆる「四人組」を結成し、
主として新聞、出版、文芸などのイデオロギー部門を握って、周、ケを中心とする実務派に対抗した。
七四年二月から、四人組は表向きは林彪を孔子に結びつけて批判する「批林批孔運動」をつうじて、
事実は周恩来を孔子になぞらえて批判し、ゆさぶりをかけた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.268
天安門事件@
引用民衆の真の声は、むしろ、七六年四月五日の天安門事件として爆発的に表現された。
墓参の日とされてきた四月四日の清明節が近づくにつれ、周恩来を悼む花輪や詩をもって、
天安門広場の人民英雄記念碑前に集まり、詩を朗読したり、演説したりする人々の群が、日ましに増えてきた。
抑えられていた周恩来への追悼をつうじて、四人組、毛沢東への違和、批判を表明したのである。
四月四日、この動きは頂点に達し、数十万の群衆が広場に集まり、あちこちの輪のなかで、
公然と四人組批判の声があげられた。
貼り出された詩の一つは、「人民は、はや愚か窮まりなきものにあらず、
始皇の封建社会はひとたび去ってまた返らず」と、明らかに毛沢東を始皇帝と等置して批判し、
人民が真に国の主体となるべき時がきたことを訴えていた。
これらの群衆のなかには、かつて紅衛兵として造反し、武闘や中央文革小組また軍事管制などによる弾圧や、
下放の経験などをつうじて、民主的諸権利の獲得こそ真の課題である、と考えるようになっていた多数の知識青年たちがいた。
天安門広場の高揚のさなかに、一部の在京委員によって開かれた党政治局会議で、
江青はこれを「建国以来かつてない、計画的・組織的な反革命的性質の反撃」であるとして、
花輪の撤去、演説者の逮捕を要求した。
首相代理華国鋒はこの主張をいれて、鎮圧方針を決定した。
翌五日、ふたたび広場にくりだした群衆は、花輪がもち去られ、
演説しようとした青年たちがつぎつぎに逮捕されるのを見て憤慨し、
配置されていた民兵や警察と衝突し、警察の宣伝車や自動車が破壊され、
東南隅の「首都労働者民兵指揮部」が焼打ちされた。
夜六時半、北京市革命委員会主任呉徳は「悪人どもが反革命破壊活動を進めている」として、
即時広場を離れるよう放送し、九時半、数万の民兵と多数の警察、警備部隊をもって広場を封鎖し、
残っていた群衆に襲いかかり、逮捕した。
南京、杭州、鄭州、太原などでも類似した動きが拡大した。
翌早朝、在京政治局会議はこの事件を「反革命暴動」と認定し、
事件参加者を徹底的に追及することを決定した。
首都をはじめ、各地は恐怖の雰囲気に包まれた。
すでに病重く、毛遠新をつうじて状況を伝えられた毛沢東は、これらの措置に同意し、
華国鋒を国務院総理兼党第一副主席とし、ケ小平のいっさいの職務を解いて、党籍は保留したまま、
今後の行動を監察する処分に付するよう指示した。
これは「人民、ただ人民のみが歴史を作る」とくりかえしのべ、
「造反有理」として、「起ちあがった」大衆による「真の社会主義」の実現を期待した毛沢東の晩年の最大の逆説であり、
悲劇であった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.271
「四人組」逮捕
引用天安門事件後、四人組はその掌握する言論機関を総動員して、
ケ小平批判と文革理念の強調に血道をあげていた。
だが毛の信任篤い華国鋒は、文革を肯定しつつも、イデオロギー闘争一本槍の四人組とは一線を画して、
葉剣英、李先念ら党長老グループ、ならびに行政官僚との結びつきを深めていき、
両者の隠微な対立がはじまっていた。
七月二十八日、渤海湾沿岸一帯にマグニチュード七・八の大地震が起こり、
天津に近い炭鉱と工業のまち唐山市を中心に、死者六十五万という大災害に見舞われた。
華国鋒らがその救援に全力を集中しているさなかの九月九日、毛沢東が死去した。
すでに林彪という軍事的支柱を失い、言論機関のほかは、上海などの民兵組織を手中に収めていたにすぎない四人組は、
巨大な支柱を失って孤立した。
天安門事件は、彼らに対する民衆の支持がすでに全く失われ、むしろその怨嗟の的になっていたことを明白に示していた。
彼らは「(毛沢東の)既定方針どおり行なう」という大キャンペーンを展開して、
死せる毛の権威にたよって劣勢を挽回しようとした。
十月二日には、華国鋒にあてたと伝えられる毛の「あなたがやれば私は安心だ」という遺言の解釈をめぐって、
華国鋒らと江青ら四人組の激論が展開された。
のちの「四人組訴状」によれば、このころ、彼らは上海の民兵の武装を強化して、クーデターを準備したともいう。
だが、機先を制して政変を発動したのは、華国鋒のほうだった。
十月六日、彼は葉剣英、李先念らの支持の下に、毛沢東の警護を多年勤めてきた汪東興が指揮する中央警護部隊を動員して、
四人組を逮捕した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.273
ケ小平復権A
引用四人組打倒後、華国鋒は毛沢東の正統な後継者としてみずからを位置づけ、
毛の「プロレタリア独裁下の継続革命」の理論を全面的に肯定した。
彼は、革命精神を高揚して社会主義の方向を堅持しつつ、生産力の急速な発展による現代化を進めることをこの理論の本質とし、
四人組が生産力発展の側面を無視し、生産を破壊したことを「極右路線」として批判し、
その打倒を「プロレタリア文化大革命のもう一つの偉大な勝利」と規定した。
他方ではケ小平が革命精神を軽視しているとして、なお彼への批判を継続した。
だが四人組批判運動が拡がるなかで、文革そのものへの批判がくすぶりはじめ、
党内外にケ小平の復活と、天安門事件の性質の再検討を求める声が高まった。
華国鋒はこれに抵抗したが、七七年七月の中共十期三中全会で、ケは党副主席、国務院副総理、解放軍総参謀長として
ふたたび復活した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.274
林彪、「四人組」裁判開始
引用十一月から「林彪・四人組反革命集団」の裁判が開始された。
翌八一年一月、江青・張春橋に二年間の執行猶予付きの死刑(のち無期懲役に減刑)、
王洪文に無期懲役、姚文元に懲役二十年の判決が下された。
このほか、被告全員が有罪とされた。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.278
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「載禮」の「禮」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「曹棍」の「棍」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「譚延ト」の「ト」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「釿内閣」の「釿」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「青幇」「紅幇」の「幇」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 「鄒韜奮」の「韜」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 |