「イギリス史重要人物101」
参考書籍
著者: 小池滋(こいけ・しげる)・青木康(あおき・やすし)他
発行: 新書館(1997/07/30)
書籍: 単行本(245ページ)
定価: 1600円(税別)
補足情報:
この本が目ざしているのは、あくまで個々の人間の肖像画である。 しかも、いわゆる「典型的(あるいは平均的)イギリス人」というようなレッテルで簡単にひとくくりできないような人も、 排除しないで、なるべく多く入れるように心がけた。 どこの国の国民もそうであろうが、とくにイギリス人には、 一つの枠の中に素直におさまることのできない、あるいはおさまることを嫌う人が多い。(編者のまえがき)
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引用チャーチルは、保守党革新派の政治家ランドルフ・チャーチルの長男として、 オックスフォード近くの壮麗な屋敷「ブレナム・パレス」に生まれた。 七歳で有名なパブリック・スクールのひとつハロー校に入学。 あまり優秀な生徒ではなかったが、彼は英語が得意科目で、個人の実力が発揮される水泳やフェンシングといったスポーツを好んだ。 この頃身につけた作文の能力は、チャーチル自ら執筆した多くの名演説で、人びとを魅了する政治家として彼の名声を高めただけでなく、 従軍記者や多作な文筆家(一九五三年にノーベル文学賞を受賞)として多方面に活躍したチャーチルの、生涯の宝物となった。
一八九五年にサンドハースト陸軍士官学校を終えた後、チャーチルはキューバやインドでの反乱の鎮圧や、 スーダン進出、ボーア戦争など世紀転換期の帝国主義戦争の数々を、主に従軍記者として経験した。 彼はそれらへの従軍体験記を出版して世にその名を知らしめ、一九〇〇年、保守党の下院議員として初当選をはたした。
だがチャーチルの政治家としての第一歩は、自由党とともに始まった。 彼は一九〇四年に自由党に移籍し、植民相次官、商相、内相にくわえて陸海軍の大臣という要職を歴任したが、その間、 労使協議会や労働紹介所を設置し、人民予算の立法化を支持して社会変革を推進した。 また、一四年に勃発した第一次世界大戦下には、海軍力の増強を断行しドイツの脅威に備えるとともに、 航空戦の到来を見通して空軍の育成にも力を入れた。 しかし、ダーダネルス海峡進攻作戦の失敗(一九一五)を厳しく批判されて第一線から退いたチャーチルは、 水彩画を楽しみながら次なる出番を待った。 一七年の夏、盟友ロイド・ジョージの連立内閣に軍需相として復帰。 二二年に下野するまでの間、彼は、大衆の時代を迎えた戦後イギリスの処理にあたる一方、「反共」を唱えて革命ロシアへの干渉を指導した。
一九三九年秋、イギリスは第二次世界大戦に突入した。 再び海相として入閣したチャーチルは、翌四〇年、首相に就任し、挙国体制を整えてナチス・ドイツ軍との戦いの陣頭指揮をとった。 国民総力戦が必須であることは、先の大戦の最も重要な教訓であった。 チャーチルは、国民の生活の一部となったラジオ、そして議会演説をつうじて、 ヨーロッパを震撼させるファシズムの脅威打倒をスローガンに、熱弁をふるって大衆に戦争協力を呼びかけた。
ケインズ
引用一九〇六年、高等文官試験を受けてインド省に入省。 確率論の研究に熱中。 これにより一九〇九年に母校のフェローになる。 処女作『インドの通貨と金融』(一九一三)では金本位制を否定、ルピーのポンド為替移行を主張した。 イギリスがまだ圧倒的な経済力を持ち、世界の銀行だったこの時代、イギリスは海外投資が多かったために金の入出を必要とせず、 諸外国よりはるかに少ない金しか保有していなかった。 つまり金の国際移動による通貨安定という原則は、とっくに崩れていたのである。 彼はつねに理論を追い抜いていく経済の動きに敏感であり、著作はほとんどがジャーナリスティックな時論として書かれた。 「経済学者は大著を書くという仕事はアダム・スミス一人に任せ、パンフレットを撒き散らさなければならない」と彼は書いている。
一九一五年、大蔵省に入省、金融に手腕を振るい、フランスから大量の名画を買いつける。 友人の文学者たち以上に巧みな悪罵でパリ講和会議を描きだしたウィルソンは「鈍感なドン・キホーテ」、 ロイド・ジョージは「古代の魔法の森からやってきた半人半獣の吟遊詩人」―『平和の経済的帰結』(一九一八)では、 敗戦国ドイツの経済状況を分析、講和条約による賠償金の額は巨大すぎ、その結果ヨーロッパの全経済が破壊されるだろうと予言した。 賠償金を減額すべきという主張は受け入れられず、彼は大蔵省を辞するが、一躍有名になって、 保険会社の社長、自由党の機関誌「ネーション」の取締役などを務めた。 また先物市場でかなり儲けている。 二五年にロシア人バレリーナ、リディア・ロポコヴァと結婚。 これ以前の彼の恋愛は大部分男性が相手だったようである。 離婚歴のある外国人と結婚したのも、彼の非因習的な性質の表れだろう。
大戦後、イギリスの経済的地位は劇的に弱くなる。 『貨幣改革論』(一九二三)でケインズは、金本位制への復帰はアメリカの金政策への従属しか意味しないとして反対したが、 時の大蔵大臣チャーチルはこの提案を容れなかった。 慢性的な不況は続いた。 彼の生涯は、イギリスの衰退を押しとどめようというなかなか報われない努力の連続だったのである。 『貨幣論』(一九三〇)を経て、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(一九三六)で「ケインズ経済学」は完成する。 いずれも彼としては例外的な専門家向けの大著である。 この時期彼のもとには、ロバートソンやリチャード・カーン、ジョージ・ロビンソンといった若手経済学者が集まって議論を重ね、 ケインズに逆影響を与えていた。 彼は友人や弟子に恵まれたし、人を選ぶ才能もあったようだ。
『一般理論』の革命的意義はあらためていうまでもなく、 サミュエルソンによれば「全世界の三十五歳以下の経済学者を熱病のように捉えた」。 古典派以来の需要供給バランスは、少なくとも当面の現実においては否定され、 利子率引き上げと公共投資による総需要の拡大によって大量失業を救うという政策は、ローズヴェルト政権のアメリカをはじめ各国の基本方針となった。 ケインズほどわれわれの生活に直接影響を与えている二十世紀の思想家はいない。 七〇年代以降のアメリカの「反ケインズ革命」にもかかわらず、たとえば利子率についての日常的語彙などはいまだにケインズ的である。 彼を葬りさるという論者が次々現れるのも、その力のゆえだろう。
チャップリンの晩年
引用愛と平和の理想を掲げ、非人間的な近代テクノロジーや巨大資本、戦争を攻撃したチャップリンは、共産主義者の烙印を押され、 『殺人狂時代』(一九四七)を直接のきっかけに下院非米活動委員会に召還された。 しかしこれを無視し続けたため、『ライムライト』の完成直後、「赤狩り」の嵐の吹き荒れるなか、 実質的にアメリカを追放された。 アメリカ映画芸術科学アカデミーは二十年後にチャップリンにアカデミー特別賞を贈り、映画の大恩人への非礼を詫びた。
アメリカを去った後、チャップリンはスイスを永住の地と定め、 一九四三年に結婚した四番目の妻ウーナによってようやくもたらされた家庭的な幸福のなかで、 待ち足りた日々を送った。 一九六四年に発表された『自伝』は、生き生きとした語り口がすばらしい、彼の晩年の〈代表作〉である。
エリザベス2世
引用次第に生気を取り戻しつつあった戦後のイギリスにも、その明るい前途を示すような記念すべき日が訪れた。 一九四七年十一月二十日、ウェストミンスター寺院で王女エリザベスの結婚式が行われたのである。 第二次世界大戦のおり、イギリス海軍で活躍した貴公子フィリップ・マウントバッテンとのロマンスが、 このイヴェントに花を添えていたが、何よりも人々は、美しくそして聡明な女性に成長した未来の女王エリザベスの幸せな門出を、 彼ら自身の新たな再生の始まりに重ねて、文字どおり帝国をあげて盛大に祝った。 その五年後、一九五二年には、彼女はエリザベス二世として即位。 この時の首相ウィンストン・チャーチルは、自分はエリザベスについて知らないことばかりだと嘆いたというが、 イギリスの古き良き時代の終わりを悲しむようにも聞こえる彼のこの言葉は、若い女王エリザベス二世とともに、 イギリスの新しい時代が幕を開けたことを告げてもいた。
国王という地位が、戦後すでに単なる象徴になりつつあったことは疑うべくもなかった。 だがエリザベス二世はこの事実を十分にわきまえて、かえって君主としての執務に励んだ。 彼女自身の言葉を借りれば、「統治ではなく奉仕」することが君主の務めであった。 エリザベスが彼女の結婚衣装を、イギリス連邦に属するすべての国の国花をあしらってデザインするよう求めたことが示すように、 君主となった彼女がとりわけ重要視したのは、イギリス連邦の絆を強め、その理念を高めることであった。 戦後めざましく発展した交通手段を使って、エリザベスは世界一周旅行を実行した。 そして訪問する先々で各種の行事に参加することはもちろん、福祉施設などを訪れることにも彼女は積極的だった。 女王の訪問が宣伝になって、それらの施設の活動がいっそう活性化することを彼女は期待した。 そして同じように、エリザベスは「イギリス」を掲げて各地へ赴いて国の紹介にも務めている。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。