「世界の歴史(26) ― 世界大戦と現代文化の開幕 ―
参考書籍
著者: 木村靖二(きむら・せいじ)
柴宜弘(しば・のぶひろ)
長沼秀世(ながぬま・ひでよ)
発行: 中央公論社(1997/12/25)
書籍: 単行本(494ページ)
定価: 2524円(税別)
目次: はじめに―「ソ連が消えて地図屋が儲かる」
第一部 第一次世界大戦―激動期の始まり
1 予想外の戦争
2 大戦下の西欧社会
3 アメリカと第一次世界大戦
4 二つの帝国の崩壊
5 第一次世界大戦の終結
第二部 宙吊りの世界―一九二〇年代の欧米社会
6 講和と新体制の模索
7 戦後経済と国際政治体制
8 繁栄と混乱の一九二〇年代アメリカ
9 西欧の政治・社会と文化
10 ロシア、東欧の社会と文化
11 「危機の前の危機」
12 世界恐慌
13 ナチズム体制
14 ニューディール体制
15 スターリンの時代
16 一九三〇年代の現代文化
17 第二次世界大戦への道
おわりに―「戦争は静かに始まった」
補足情報:
最初の三十年戦争が近世から近代への転換を印したように、 二十世紀の三十年戦争は近代から現代への転換を画した。 この巻では、私たちが生きている現代への移行期となったこの四半世紀の欧米世界を、 アメリカ合衆国、ソ連、ドイツの三国を軸にしながら見ていく。(はじめに)
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引用第一次バルカン戦争は一九一二年にロシアの仲介で、セルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロの四ヵ国間に バルカン連盟とよばれる同盟体制が築かれることによって、十月に開始された。 当時、オスマン帝国はイタリアとの戦争(イタリア=トルコ戦争)に煩われていただけでなく、 民族覚醒の遅れていたアルバニアやマケドニアでの民族運動にも悩まされていた。 バルカン連盟側の兵力は約七〇万、一方、オスマン帝国の軍隊は約三二万であり、 オスマン帝国の劣勢は明らかであった。
ブルガリアはバルカン半島中東部のトラキア地方でオスマン帝国軍の主力部隊と戦い、 セルビアとギリシアはアルバニアやマケドニア地方に進出した。 モンテネグロも隣接するアルバニアに軍隊を進めた。 一九一三年春までにオスマン帝国の敗北がはっきりすると、ヨーロッパ列強が介入してくる。 同年五月にロンドン条約が締結され、休戦が成立した。 この結果、列強はアルバニアの独立を承認したため、 セルビア、モンテネグロ、ギリシアの各国は占領したアルバニアの領域から撤退しなければならなかった。
引用バルカン諸国の関心はもっぱら、オスマン帝国が撤退し権力の真空地帯となったマケドニアに向けられる。 マケドニアをめぐってはブルガリア、セルビア、ギリシア三国の領土的要求が衝突した。
一九一三年六月、ブルガリアがセルビア、ギリシア両国を攻撃することによって、 第二次バルカン戦争が始められた。 それぞれの利害関係から、モンテネグロ、ルーマニア、オスマン帝国がセルビアとギリシアの側に立って参戦した。 ひと月もたたないうちに、ブルガリアの敗北が明白となる。 同年八月にはブカレスト条約が結ばれて、この地域の再分割がおこなわれた。
敗戦国ブルガリアはエディルネと東トラキアの一部をオスマン帝国に、 黒海に面した南ドブロジャをルーマニアに、マケドニアの大部分をギリシアとセルビアに割譲しなければならなかった。 一方、セルビアはボスニア・ヘルツェゴヴィナからコソヴォにいたる回廊地帯のサンジャクをモンテネグロと分割し、コソヴォを獲得した。 ギリシアは東エーゲ海の島嶼部を領有した。
しかし、バルカン戦争を通じて、バルカン諸国はそれぞれに領土的不満を残すことになり、 対立関係をいっそう強めた。
引用サライェヴォでのフランツ・フェルディナント夫妻の暗殺は、オーストリアを憤慨させた。 だがそれは皇位継承者の不慮の死を悼むというより、暗殺の背後にいると思われたセルビアに対する敵意からであった。 フェルディナントはオーストリア=ハンガリー帝国、とくにその支配層のあいだでは、あまり人気がなかった。 気むずかしい性格で、厳格なカトリックのフェルディナントは、チェコ人を軽蔑し、 ハンガリー旅行中は列車のブラインドを下ろすほど、ハンガリー人を嫌っていた。 かれは身分違いの結婚のため、自身は皇位継承者でも子供に皇位継承権はなく、子供たちは皇帝との謁見すら許されなかった。 夫妻の棺はだれも出迎えられないように、真夜中にウィーンに到着するよう仕組まれたし、 寺院に納められた妻の棺は、最後まで身分違いを示すかのように、夫より一段低く置かれていた。
もちろん、オーストリアの外交姿勢はこうした感情とは別であった。 スラヴ系民族の自立運動に動揺していたオーストリア支配層は、これを機会にセルビアとの戦争に勝利し、 多民族帝国のたがを引き締め、列強としての体面を守ろうとする強硬論が優位に立った。 とくに陸軍参謀総長コンラート・ヘッツェンドルフはセルビア一撃論者で、 一九〇八年のボスニア併合でセルビアとの戦争の機会を逸したことに不満であったから、強硬論の先頭に立った。
とはいっても、セルビアの守護者を自認するロシアの存在を考えれば、 オーストリア単独では戦争はできない。 同盟国ドイツの支持の保証が必要であった。 七月はじめ、ドイツの意向を確認する使者がベルリンに派遣された。 ヴィルヘルム二世とベートマン-ホルヴェーク宰相は、オーストリアを無条件で支持するという重大な確約を与えた。 ドイツの「白紙小切手」を得て、オーストリアはセルビアとの戦争も辞さない政策をとることができた。
ドイツは、戦争がオーストリア・セルビア間に局地化されれば、オーストリアの勝利は確実であり、 当てになる唯一の同盟国オーストリアは安定し、三国協商側は打撃を受けるだろうし、 ロシアが参戦しても、ドイツはロシア、フランスとの戦争のリスクを引き受けられると考えた。 列強介入前に既成事実をつくるため、ドイツはオーストリアに行動を急ぐよう圧力をかけた。
七月二十三日、オーストリアの最後通告がセルビアに手渡された。 オーストリア側がドイツに説明したところによれば、「少しでも自負心があり、体面を重んじる国なら、 どうあっても受け入れられない条件を入れてある」のだから、条件がきびしいのも当然であった。 セルビアは大部分の条件を受け入れたが、主権抵触条項は拒否した。
オーストリアにはそれで十分であった。 二十五日、オーストリアはセルビアに国交断絶を通告し、二十八日宣戦した。 オーストリア陸軍の公式戦時日記が、すでに二十三日から記述を開始していることからも、 開戦が既定方針になっていたことが確かめられる。
シュリーフェン・プランの破綻
引用大戦は、ドイツ側の攻勢で始まった。 シュリーフェン計画に従って、ドイツ軍主力は時計仕掛けのような正確さで西部国境に集結した。 二週間に二二万両を超える鉄道輸送によって、一六〇万の兵員がケルンのライン川鉄橋を渡り、中立国ベルギーに侵入した。 そこからフランスに進撃し、ドイツ・フランス国境地域に展開したフランス軍を背後から包囲、降伏させようというのである。 開戦後一ヵ月間は、ほぼ計画通りにいった。
フランス政府は九月はじめ、危機の迫ったパリからボルドーへ疎開した。 フランス軍のジョッフル総司令官は、緒戦に敗北した軍団・師団司令官一四〇名を罷免する峻厳な指揮で防衛陣を立て直し、 パリ防衛に全力をあげた。 九月のマルヌの戦いで「不敗のドイツ軍」はついに後退した。 開戦一ヵ月半で、「電撃戦のばくち」、シュリーフェン計画は破綻した。 神経の細いモルトケ参謀総長はショックから立ち直れず、ファルケンハインに後を譲った。 現在では、シュリーフェン計画の失敗は、戦術や技術的な原因より、作戦計画そのものに無理があったとみなされている。
シュリーフェン計画では、ドイツ軍はいわば半円を描くように、ベルギーからドイツ・フランス国境に進撃することになっていた。 そのために円のもっとも外側の部隊は、酷暑のなか、武器弾薬・重い背嚢を背負い、戦闘を交えながら、 休むことなく一日三、四十キロ以上を歩き通さなければならなかった。 しかも、これらの兵士たちはフランス軍に勝利したのち、すぐに東部戦線に転進してロシア軍と戦うことになっていた。 これでは、ドイツの兵士は国際級のトライアスロン選手でなければならなかったろう。
引用ドイツ、オーストリア側からみて東部戦線にあたるロシアとの戦争も、はじめから予測がはずれた。 ドイツ、オーストリアとも長い同盟関係にあったにもかかわらず、戦前に具体的な作戦の協議はなかった。 戦争になってはじめて、おたがいに相手側がロシア軍を阻止してくれるものと期待していたことがわかった。 さらに、ロシア軍の動員と進撃は予想以上に早かった。 開戦後二週間もたたないうちに、ロシア軍は防衛の薄いドイツの東端部に侵入した。 モルトケは、急遽予備役にあった老将軍ヒンデンブルクを起用し、ベルギー戦で功績をあげた参謀ルーデンドルフを派遣して、対応にあたらせた。 動員の早かった分だけ、ロシア軍の準備は不十分であった。 八月末から九月上旬のタンネンベルク、マズール湖沼周辺の戦いで、ロシア軍は捕虜一二万を含む二五万人を失って壊滅し、 本国に追い返された。 この戦いでヒンデンブルクは、国民のあいだで一躍救国の英雄になった。
ヴェルダン要塞攻防戦の意図
引用ヴェルダン戦は、ドイツ軍参謀総長ファルケンハインが一五年十二月に皇帝に提出した報告から始まる。 ここまで、東部戦線やバルカン戦線では古典的な機動戦が展開され、オーストリア軍の大きな損失にもかかわらず、 ドイツ・オーストリア軍側が優位に立っていた。 だが、ファルケンハインは、ドイツの主敵はイギリスであり、大戦の決着は西部戦線にあると確信していた。 かれはすでにドイツの勝利が困難と判断していたから、ドイツが負けないことを敵に納得させ、 継戦意志を挫くことに目標をおいた。 ここから、フランスが威信からも譲れない防衛拠点ヴェルダン要塞を「限定した兵力」で攻撃し、 フランス軍に多大な出血を強いて、勝利をあきらめさせ、イギリスとのあいだを分断する作戦が提案された。 ファルケンハインは、ヴェルダン要塞を占領する必要はなく、ドイツ軍とフランス軍の損害比率が五対三であれば成功と考えた。
一六年二月二十一日、一二〇〇門の大砲で一〇〇万発の砲弾を撃ちこんだ後、 ドイツ軍は火災放射部隊を先頭にヴェルダン要塞群に向かって突進した。 多くのドイツ軍兵士は尖頂付き軍帽ではなく、第二次世界大戦でもおなじみの独特の新型鉄かぶとをかぶっていた。 予想通りフランス軍はヴェルダンから後退せず、ペタンを司令官に招いて死守した。 以後九ヵ月間、幅三〇キロ、奥行き六、七キロの狭い地域で、両軍の凄惨な戦闘が間断なく続いた。 この時点では普通の兵器になってしまった毒ガスには、より強力なフォスゲンが登場して大量に使われ、 飛行機も大規模に参加した。 ドイツの撃墜王リヒトホーフェンが活躍したのも、この戦場であった。 両軍で作戦中に二〇〇〇万発以上、一三万トンの砲弾を消費し、戦場はクレーターに覆われた月面さながらの世界になった。 ファルケンハインは四月には失敗を認めたが、「限定した兵力」どころか、次々と新手の軍をつぎこんだ。 フランス側も兵員の損失の多さから、前線部隊を短期間で交代させる方針を採り、 結果的にフランス軍兵士の八割がこの地獄を経験した。 ヴェルダン戦は、ドイツ軍が最初の出発点に戻った年末に打ち切られた。 フランス軍の死傷者三六万二〇〇〇人に対し、ドイツ軍の死傷者も三三万七〇〇〇人に達した。
引用ヴェルダン戦が続いていた七月一日、二〇〇キロほど離れた平坦な北フランスのソンム河域で、 イギリス軍を主体とした連合軍の攻勢が開始された。 六月末から五日間続けられた大準備砲撃ののち、イギリス兵は朝七時半、朝霧のはれた快晴のなかを塹壕から飛び出して、 無人地帯を前進した。 イギリス軍総司令官ヘイグは、歩兵は砲撃で破壊された敵陣地を歩いて占領するだけだと楽観していた。
だが、ドイツ軍は攻撃を予想し、深い塹壕に砲撃を避けて待ちかまえていた。 イギリス兵は肩をならべ、横一列でゆっくりと前進した。 もっとも、砲弾で穴だらけになった戦場で、三〇キロちかい背嚢を背負うイギリス兵に、身をかがめて前進しろとか、 走れといっても無理だったろう。 最前線のドイツ兵は、この光景をあきれながらみていた。 結果はいうまでもなかった。 イギリス軍はこの日一日で死傷者六万人を出し、参加した兵士の半数、将校の四分の三を失った。 これはイギリス軍が一日にこうむった損害の最悪の記録である。
引用ドイツでは、東部戦線での勝利と国民の疲弊を前に、一七年二月最後の切り札、無制限潜水艦作戦の開始によるあらたな軍事攻勢で、 イギリスを屈服させようとした。 戦前大いに期待されたドイツ海軍は、イギリス艦隊と相打ちに終わった一六年五月のユトランド沖海戦以外たいした活動をみせず、 主力艦隊は港に釘付け状態で、イギリスの海上封鎖―ドイツでは飢餓封鎖とよばれた―を崩せず、 国民を失望させていた。
出番のなかった海軍指導部は、イギリス向け航路内の全船舶を無警告で撃沈するこの作戦で、 勝利への貢献をアピールしようとした。 海軍軍令部長の計画には、二月に作戦を開始すれば、海外からの食糧輸入の路を閉ざされたイギリスは、 収穫期前の八月までに和平を請うにちがいない、アメリカを参戦させるリスクもあるが、それは無視してよい、と記されていた。 作戦が始まると、アメリカ合衆国はドイツと断交し、四月ドイツに宣戦する。 作戦はそれなりに成果をあげたが、ドイツは、イギリスが自己の保有商船だけでなく、世界の船舶を利用できることを計算していなかった。
引用イギリスから、ドイツ外相ツィンメルマンがメキシコ駐在大使にあてた極秘電報を傍受したとの連絡があった。 もしアメリカが参戦したら、メキシコも対米開戦するよう、ドイツとメキシコの軍事同盟を工作することを指示したものだった。 さらにそれは、七〇年前にメキシコがアメリカとの戦争に敗れて割譲させられた地域、 アリゾナやカリフォルニアなどを奪還することを提案していたのである。
この電報は、商船武装法が審議されはじめた二日後に公表され、翌三月一日の新聞にいっせいに報道された。 理屈だけでいえば、かつて領土のほとんど半分を奪われたメキシコがそれを取り戻したいと考えることは、十分にありうる。 それは現実にはありえないことだったが、アメリカの世論は沸騰し、多数のアメリカ人は怒り狂った。 同じ日に下院議会は、四〇三対一三という圧倒的な差で商船武装法を可決した。
三日後、ウィルソン大統領は第二期就任演説において、アメリカが武装中立の状態に入ったことを声明した。 二週間後、アメリカ商船は武装したとはいえ潜水艦攻撃には十分に対抗できず、五隻が撃沈された。 他方、その数日前にロシアで二月(新暦では三月)革命が起こり、ツァーリズムの専制主義は打倒された。 いまや、連合国はすべての民主主義を守るために戦っているといえる状態になった。 アメリカが参戦する条件が整ったのである。
こうして三月二十日、ウィルソン政府は閣議で参戦の方針を固めた。 宣戦布告の権限は議会にあるため、ウィルソン大統領は四月二日、議会に宣戦布告を求める教書を提出した。 自国の権利を守るためだけではなく、平和と正義のため、世界の人民を守るため、 世界の民主主義のために戦うという格調ある文面を読んだのである。
四日、上院は八二対六という大差で宣戦布告を決議した。 その二日後、下院も三七三対五〇という圧倒的な差で決議を可決した。 反対者のなかには、一週間前にはじめて女性議員として着任したジャネット・ランキンが含まれていた (当時、まだ一般的には女性参政権は実現していなかった。 しかし彼女の出身地、モンタナ州では一四年にそれを認めていた)。
ただちにウィルソン大統領は決議文に署名し、アメリカの第一次世界大戦への参加が決定した。
ラスプーチン
引用皇后アレクサンドラは第五子として待望の男子アレクセイを産んだが、この皇太子アレクセイは遺伝による血友病であった。 一九〇五年から、不思議な能力を備えたラスプーチンはアレクセイの血友病の治癒のため宮廷に招かれ、 皇后アレクサンドラの厚い信頼を勝ちえていく。 宮廷に足繁く出入りするラスプーチンはニコライ二世にも、ロシアの政治にも大きな影響を与えることになる。
引用二十五日、ネヴァ川沿いにあるスモーリヌイ女学校の建物に拠点を築いた軍事革命委員会は、 ケレンスキー首相が執務に使っていた冬宮と「予備議会」が開かれていたマリア宮殿周辺を除く、すべての拠点を制圧した。 午前十時、軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、国家権力を掌握したとの声明を出した。 午後一時、ついにマリア宮殿が包囲され、「予備議会」は解散させられた。 臨時政府の閣僚は冬宮にこもっていたが、二十六日未明にはここも襲撃され、大臣たちは逮捕された。 ケレンスキーは二十五日のうちに、女装して市外に逃亡した。
一方、二十五日夜には、スモーリヌイで第二回全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会が開催された。 革命に反対するメンシェヴィキと社会革命党右派は大会から退場した。 ボルシェヴィキが圧倒的多数を占め、このほかに、都市の知識人層を中心とした社会革命党左派やウクライナ社会民主党などが残った。 この大会は二十六日朝まで続けられ、ソヴィエト権力の樹立を宣言したあと、この日の夜に再開された。 ここで採択されたのが、人びとの強い願望の表現でもある「平和に関する布告」と地主による土地所有を廃止する「土地に関する布告」である。
このあと、政府の構成に関して、社会革命党左派は入閣を拒否したため、ボリシェヴィキの単独政権が作られる。 憲法制定会議が招集させるまでの暫定政府である人民委員会会議が成立した。 大臣職は人民委員と称された。 議長はレーニンが、外務人民委員にはトロツキーが、民族問題人民委員にはスターリンが就任した。 ボリシェヴィキ以外の勢力はすべての社会主義党派からなる政府を主張したが、ボリシェヴィキは数でこれを押し切ってしまった。
このように、十月革命には、二月革命時に街頭にあふれた数十万にもおよぶ労働者や兵士の熱狂した姿はみられない。 十月革命は、反議会主義・反自由主義の立場をとるボリシェヴィキが設置した軍事革命委員会による武装蜂起であり、 事実上のクーデタだったのである。
引用同盟諸国とロシアとの休戦協定が結ばれたあと、ドイツはブレスト=リトフスクでの講和交渉には応じたが、 「平和の布告」にもりこまれた無併合・無賠償の原則は認めず、領土に関しても厳しい条件をつけた。 一月中旬、レーニンは単独講和の即時締結を提案したが、ボリシェヴィキ指導部にはヨーロッパでの社会主義革命を期待する傾向が強く、 受けいれられなかった。 レーニンは講和交渉引き延ばしの方針で党内の合意をはかった。
しかし、二月に入るとドイツ軍は攻撃を再開し、十二月末の講和提案より厳しい、 ウクライナとバルト地方の独立や巨額の賠償金支払いを内容とするあらたな講和提案を打ち出した。 ボリシェヴィキ指導部の対立は、このドイツ案を受けいれるか否かをめぐり再燃したが、 レーニンが党中央委員会で強く受諾を迫り、受けいれが決められた。 この結果、三月三日、講和条約がブレスト=リトフスク市で締結された。 これに抗議して、ブハーリンは党や政府の職を辞任し、左派社会革命党の人民委員は政府から離脱した。
ソヴィエト政権にとって、ブレスト=リトフスク講和条約は過酷なものであったが、 これによって完全に戦争状態から脱することができた。 国内の混乱はなお続いていたにせよ、第一次世界大戦という戦争のさなかに生じたロシア革命は大きな転機を迎えたのである。
引用十七世紀後半以来、オスマン帝国とならんで「ヨーロッパの病人」と称されたポーランド王国は一七七二年、九三年、九五年の三度にわたり、 プロイセン、ロシア、ハプスブルク帝国によって分割された。 以後、ポーランドは一二〇年以上にもわたり、地図上から姿を消すことになった。
【中略】
三分割されていたポーランド人は、第一次世界大戦を敵・味方に分かれて戦わなければならなかった。 実際に、東部戦線では分割三国に徴兵されたポーランド人同士が殺しあうといった悲劇が生じた。 だが、この戦争は分割三国を崩壊させることになるかもしれず、ポーランド統合の可能性を秘めるものでもあった。
一九一五年夏、態勢を立て直したドイツ軍とハプスブルク帝国軍はロシア領ポーランドを占領した。 翌一六年十一月一月には、ドイツ帝国とハプスブルク帝国の二皇帝の声明が出された。 占領下においた一〇〇万人にもおよぶポーランド人を同盟軍として動員するため、 形式的にせよ「あらたなポーランド王国」の創設を宣言する必要があったからである。 もう一つの分割当事国ロシアでは、一七年に二月革命が生じ、皇帝による専制政治は打破された。 臨時政府は独立したポーランドを認める用意のあることを宣言した。 十月革命によって生まれたソヴィエト政権は分割条約を破棄した。
一八年夏にドイツとハプスブルク帝国の軍事的敗北が決定的になると、 ポーランドの再生は現実のものとなった。 問題は、各地にさまざまに築かれていた地方権力を誰が統合するかであった。 開戦時に、クラクフを中心とするハプスブルク帝国領のガリツィアを拠点としていたピウスツキは、 一七年に反ドイツ的との理由で逮捕されドイツのマクデブルクに収監されていたが、 一八年十一月にドイツ革命が生じ釈放されると同時に、ワルシャワに戻った。 熱狂的な歓迎を受けるなかで、ピウスツキを国家主席としてポーランド共和国の独立が宣言された。 新生ポーランドには、ロシアおよびドイツとの国境画定が最大の問題として残されていた。
チェコ軍結成とシベリア出兵
引用マサリクらのチェコスロヴァキア民族会議も、ユーゴスラヴィア委員会も国際的には私的な団体にすぎなかったため、 協商国側に軍事的貢献をすることで目的を達成しようと考えた。 マサリクは開戦時にロシア側に投降したり、戦争以前からロシアに居住していたチェコ人やスロヴァキア人から、 チェコスロヴァキア軍団を創設して東部戦線で貢献させようとした。 【中略】 五万人のチェコスロヴァキア軍団が結成されたのは一八年一月であり、 三月にはブレスト=リトフスク講和条約が結ばれて、ロシアは戦線を離脱してしまう。 仕方なく、チェコスロヴァキア軍団を西部戦線に向けるための移動が開始された。 移動が滞り、シベリア鉄道沿線に集結していたチェコスロヴァキア軍団とソヴィエト政権とが武器の一時引き渡しをめぐって小競り合いを起こし、 これが両者の全面的な対立に発展してしまう。 ソヴィエト政権が成立したロシアへの干渉をねらっていた協商国は、窮地に陥っている「チェコスロヴァキア軍団の救済」を絶好の口実として、 干渉行動に着手した。 日本を含む協商国によるシベリア出兵はこうして始まるのである。
引用イタリアは、かねてから「未回収のイタリア」として、オーストリアに属していたティロルやダルマチアをねらっていた。 ドイツは、イタリアが中立であっても、イタリア経由で物資が輸入できる利点を重視し、 オーストリア領の一部譲渡もやむをえないと考えた。 だが、オーストリアはイタリアが要求するほどの譲歩を認める気はなかった。
イタリア政府は両陣営を天秤に掛けて条件をつり上げ、最終的に一五年四月ロンドン秘密条約を結んで、 条件のよい協商側について参戦した。 自分の懐が痛むわけではない協商側のほうが、イタリアの要求に気前良く応じたのは当然である。 イタリアの宣戦が最初オーストリア=ハンガリーだけに向けられたのも、 イタリアの要求する領土はドイツにはなかったからである。
この露骨な自国利益第一主義による振り子外交をイタリア首相サランドラは「これまでの意見や感情にとらわれず、 祖国イタリアにひたすらつくす精神、神聖なるエゴイズムだ」と強弁した。 国内に有力な参戦反対派をかかえたイタリア政府は、議会を恫喝して強引に参戦に持ちこんだ。 このためイタリアには他国のような挙国一致体制もできず、兵士の士気も低かった。
引用一八年三月二十一日早朝四時、北フランスのサンカンタンを中心とするイギリス軍戦線を、 ドイツ軍の砲六六〇〇門による大砲撃が襲った。 ドイツ軍最後の大攻勢「ミヒャエル」作戦が開始された。
無制限潜水艦作戦が決定打とならなかった以上、ドイツ軍は主戦場の西部戦線で決着をつけるほかなかった。 一七年末で、在欧アメリカ軍は一四万五〇〇〇人で、まだ前線には配置されていなかった。 「時間がたつほどドイツ軍は不利になる。アメリカ軍が前線に出る前に攻勢を」というのがルーデンドルフらの考えであった。 東部から三〇個師団以上を転送して戦線を補強し、先陣をきる突撃師団には特別食を配給して体力をつけさせ、 準備を徹底的に秘匿したうえで、一か八かの攻撃に出たのである。 作戦名「ミヒャエル」あるいはミヒェルはドイツの守護聖人の名だが、ヤンキーがアメリカ人、 ジョン・ブルがイギリス人を指すように、ドイツ人一般を指す言葉でもある。 作戦は文字通りドイツそのものを賭けた戦いになった。
攻撃は六月まで表面的には成功した。 ドイツでは勝利を祝って、学校に休日が与えられ、最終的勝利への期待から、第八次戦時公債の申し込みは大戦中の最高額に達した。 ドイツ軍は一時マルヌ川も越えたため、パリ市民一〇〇万人がパニックに陥ってパリを脱出し、 フランス政府も再度のパリ離脱を考えたほどであった。 連合軍がフォッシュを在欧連合軍最高司令官に任命し、統一戦争指導体制を実現したのはこのときである。
だが、「ハンマーで敵の戦線のあらゆるところを叩く」というルーデンドルフの戦術は、 目標を曖昧にしたばかりか、肝心のハンマーそのものがあちこち欠け、柄ももろくなっていたことを無視していた。 ドイツ軍兵士は、退却した連合軍が残したすぐれた装備、豊富な食糧に殺到し、 そのために前進が中断したことすらあった。 「わが軍歩兵の敢闘の動機は、略奪欲にある」と、ドイツの一将軍は率直に語っている。 同時に、豊かな物資をみて、多くの前線の将兵が、ドイツの勝利はないという確信をもったのは皮肉である。 ドイツ軍が損失を補充できなかったのに、在欧アメリカ軍は七月末で一〇〇万人に達し、さらに毎月二五万人が大西洋を渡ってきた。
引用十月末、海軍指導部は「海軍と将校団の名誉」のために、最後の大決戦を計画した。 「われわれが全滅しても、イギリスに一泡吹かせる」というのが、その真意であった。 「提督たちの反乱」といわれるこの作戦は、水兵ら乗組員が無益な死を拒否して蜂起したため、中止された。 そしてこれがドイツ革命の始まりとなった。
革命が首都ベルリンを制し、ヴィルヘルム二世がオランダへ亡命した翌日、十一月十一日、 ドイツ代表団はパリ近郊のコンピエーニュの森で休戦協定に署名した。 大戦開始から一五六八日目であった。
引用ウィルソン大統領は、【中略】 一八年一月、アメリカの戦争目的が宣戦布告のときと変わっていないことを宣言し、 さらに具体的な目標を掲げた。 上下両院の合同会議で発表された「十四ヵ条(ポイント)」である。 第一は、公開の平和契約(コヴナント)に達すべきこと、いかなる「私的」国際的了解も存在しないことだった。
ついで、平時・戦時を問わない航海の自由、通商における障壁の除去が提示された。 また、各国が安全確保に必要な最低限まで軍備を縮小すること、植民地問題を解決することが提案された。 しかし同時に、「主権の問題を決定するにあたっては、関係住民の利害が同じ比重をもつべきである」とされた。 つまり、宗主国の既得権にも考慮が払われることになり、民族自決の原理が全面的に掲げられたわけではなかったのである。
「十四ヵ条」は、このような一般的な原則の主張についで、戦場となった各地域に関する具体的な問題をあつかっていた。 諸勢力の「ロシア領からの撤退」、ベルギーの主権回復、アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還、 イタリアの国境問題の解決などが求められた。 また、オーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族の自立、ルーマニア、セルビア、モンテネグロなどの処理、 トルコの主権確保、ポーランドの国家的独立などが主張されていた。 いずれもアメリカに直接かかわる問題ではなかったが、戦争を終結するためにはいやおうもなく解決を迫られる問題だった。
さらに「十四ヵ条」の最後に出されたのが、「全般的な諸国家の連合が明確な契約のもとに結成されなければならない」というものだった。 国際連盟の設立構想であり、アメリカが世界平和の主役を担っていこうとする意思を示したものだった。
引用五ヵ月間かかってまとまった対ドイツ講和条約は、全体で四四〇条におよぶ膨大なものとなった。 第一編は国際連盟の創設を決めたものだが、第二編以下はドイツをきびしく制約するものだった。 ドイツは領土の一部を周辺諸国へ割譲し、海外領土を放棄し、巨額の賠償金を支払うことを求められた。 しかも、五日以内に受諾しなければ、戦争を再開するという強圧的なものだった。
六月二十八日、この条約はヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で調印された。 その日は、かつてオーストリア皇太子が暗殺された日であり、その場所は、かつてフランスがドイツ(プロイセン)に敗れ、 アルザス=ロレーヌ地方を割譲させられた条約を結んだ場所だった。 こうして、条約は「十四ヵ条」とはかなり異なるものになった。 とくに賠償金については、フランスの強硬な主張とイギリスのやや消極的な主張、アメリカの反対が折り合わず、この段階では、 暫定的に戦前の金平価で二〇〇億マルクとなった。 二年後のロンドン会議で、それは七倍ちかい一三二〇億金マルクになった
引用連合国側は、オーストリア=ハンガリー帝国に対しても、ヨーロッパの状況を一変させる決定をおこなった。 すでに大戦末期にハンガリーが分離し、敗戦直後には皇帝が退位し、共和国になっていたが、それらを正式に承認した。 こうして、オーストリアは小国になり、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアの独立が国際的に認められた。 この条約は、ヴェルサイユ条約の三ヵ月後にパリ郊外の町サン・ジェルマンで結ばれた。
引用二〇年四月、国境画定問題をめぐり不満をもっていたポーランドがソヴィエト政権に宣戦し、 ソヴィエト=ポーランド戦争が開始された。 この戦争のさなか、ロシア南部でウランゲリがデニキン軍の残党を再組織して、 ピウスツキ率いるポーランド軍と結ぶ動きをみせた。 だが、二〇年十月、リガで両国間に予備講和が調印され休戦が成立するのと時を同じくして、ウランゲリ軍は敗北した。
引用戦時共産主義のもとで、極度の国家統制による経済政策がとられたが、これが軌道に乗らず穀物の収穫は激減し、 二一年には数百万人が餓死している。 そのため、二一年春には新経済政策(ネップ)への転換がおこなわれた。 新経済政策の主要なものは、農民が嫌悪していた食糧割り当て徴発制度の廃止と現物税制度の導入である。 これは農民に好意的に受けいれられ、その結果、農民反乱は沈静化した。
引用ドイツが賠償金支払いに行き詰ると、フランスは不履行を責めて、ルール地方の占領を考えはじめ、 ついに二三年一月に軍隊を派遣するにいたった。 同時に、一ドルは一万八〇〇〇マルク、つまり戦前の四三〇〇〇分の一になった。 さらに十一月には、実に四兆二〇〇〇億マルクという信じがたい状況になった。
こうしてドイツでは、紙幣をいくら印刷しても間に合わず、 ついには古い紙幣の上に数字だけ印刷するようになった。 人びとは買い物をするために、お金をリュックサックにつめたり、はては手押し車に載せて運ぶようになった。 物の値段は日に日に変わるどころか、時間ごとに値上がりするようになったのである。
ドイツ政府はこの天文学的な数字のインフレに対して、価値のなくなった古いマルクに代えて、 新しい通貨を発行することを考えた。 さまざまな案のなかには、ドイツが大量に生産できるライ麦を基礎にした「ライ麦マルク」などという考えもあった。 しかし最終的には、土地など不動産を担保にした「レンテンマルク」が発行されることになった。 「レンテン」とは、レンテの複数形で地代とか利子、あるいは年金という意味である。
こうして、新しい発券銀行として「レンテンバンク」が設けられた。 農業用地や工業資産から一定の利子を受けとり、それを元本にして銀行券を発行する仕組みだった。 ともあれ、それまでの通貨の一兆倍の価値をもつ新通貨が発行され、新しく流通することになった。 インフレは急速に収まった。 この「レンテンマルクの奇跡」によって、ドイツ経済は復興への道を歩みはじめたのである。
引用二四年はじめ、ドーズを議長とする委員会が動きだし、賠償問題の解決策が模索された。 こうして作られたドーズ案は、賠償総額を変えずに、ドイツの支払能力を考慮して、当分のあいだ、年間支払い額を少なくするものだった。 第一年目は一〇億マルク、その後しだいに増え、五年目には本来の年二五億マルクとなるものだった。 それは、同年九月から実施されることになった。
しかしその現実化のためには、ドイツ経済が順調に発展することが必要だった。 そこでドーズ案は、さらに、アメリカをはじめとする民間資本の導入をはかることにした。 いわゆる「ドーズ公債」であり、八億マルク(約二億ドル)の大半がニューヨーク市場で起債された。 この功績で、ドーズは翌二五年にはノーベル平和賞を与えられ、またアメリカの副大統領にも就任した。
こうして二四年には、世界経済がうまく回転するようになった。 世界の貿易高は、数量的に戦前を上回るようになり、金額では四倍も増加した。 またドイツがドーズ案実施にともなって、新平価で金本位制に復帰したのにつづき、 イギリスも翌二五年春に金本位制に復帰した。 アメリカは、ヴェルサイユ条約が調印された直後の一九年七月に復帰していた。 いまや世界経済は「相対的安定期」は入ったのである。
ドイツ経済も急ピッチで成長しはじめ、二七年には国民純生産が戦前の水準を上回るにいたった。
引用ドイツの賠償問題は、根本的には解決していなかった。 総額を変更せずに年間賠償額を小さくしたため、支払い完了がはるか後の時代まで続くことになり、 ドイツ側に不満が残ったからである。 ドーズ案による通常支払いが始まるはずの二八年、賠償委員会はあらたな専門家会議を開くことにした。 二九年に始まった会議では、前回も加わったアメリカのヤングが、ふたたび私人の立場で議長になった。 今回は、以前の欧米五ヵ国のほか、ドイツと日本も参加した。
ヤング案では、ドイツの支払い負担がさらに軽減され、まず年額一七億マルク、 その後増えてもドーズ案の二五億マルクには達しないものとなった。 また、総額を以前の約四分の一に当たる三五八億マルクに切り下げた(そのときの元金に還元した額)。 さらに最終支払いは、ヨーロッパ諸国からアメリカへの債務返済と同じく、一九八七年ということになった。 その実施は一九三〇年から始まることになった。 世界の歴史にその後何も起こらなかったならば、ドイツの賠償と旧連合国の戦債支払いがごく近年まで続いていたはずだったのである。
引用連盟発足時にはラテンアメリカ諸国二〇ヵ国とアジアから六ヵ国、アフリカから二ヵ国が加盟していたが、 メンバーの半数ちかくはヨーロッパ国家であり、アメリカの不参加とソ連の排除もあって、 「ヨーロッパ諸国家のクラブ」という性格が濃く、また政治家もヨーロッパ中心主義的発想を脱していなかった。
引用フランスがルール進駐で失敗し、賠償問題がドーズ案で政治的次元から経済的次元へと移されて「商業化」されたとき、 イギリスではオースティン・チェンバレン外相がジュネーヴ議定書非調印の埋め合わせに、フランス、ベルギーとの同盟を検討した。 ドイツのシュトレーゼマン外相は、この対ドイツ西側同盟成立を阻止するため、 機先を制して西部国境不変更の保証を提案した。
【中略】
二五年の入って、フランスのブリアン外相、シュトレーゼマン、チェンバレンの交渉が進み、 十月十六日、スイスのロカルノで合意が発表された。 調印そのものはロンドンでおこなわれたが、チェンバレンの六十二歳の誕生日に当たるこの日、 風光明媚なマジョーレ湖での船上首脳会議、ドイツ・フランス両首脳の和やかな会食、バルコニーでの首脳のそろいぶみ、 鳴り響く教会の鐘の音と華やかな花火などの道具立ては、ロカルノ条約が戦後の「ドイツ・フランス冷戦」に終止符を打ち、 国際協調時代がやってきたと思わせるに十分であった。 会議の前後に、旧連合国間の会議がなかったことも、人びとに戦後処理の終わりを印象づけた。
ロカルノ条約は五つの条約・協定からなり、 もっとも重要なものがドイツの西部国境の現状維持を保証したライン条約であった。 ドイツの国際連盟加入も決まり、ドイツはポーランド、チェコスロヴァキアにも武力による国境変更をしないことを約束した。 しかし、ドイツは東部国境修正政策を放棄しなかったし、ロカルノ条約が西欧と東欧とで異なるあつかいを認めた結果、 ヴェルサイユ体制の全ヨーロッパ的性格をかえって弱めた点は見逃された。 フランスは条約を自国の最低限の要求を満たすものと考え、一方イギリスは自国ができる最大限の関与だとみる思惑のちがいもあった。
ブラジル、国際連盟脱退
引用ドイツが常任理事国として加盟すると、ブラジルとスペインはそれぞれ常任理事国の地位を要求し、拒否されると連盟を脱退した。 スペインはまもなく復帰したが、ブラジルは戻らず最初の脱退国となった。
引用東欧諸国の政治家のなかには、チェコスロヴァキアの外相ベネシュのように自国を小国と位置づけて、 小国の立場から積極的に外交を展開しようとする人物があらわれた。 ベネシュは東欧諸国が対立を乗り越え、相互に協力しあう状況を生み出すためには、ヨーロッパ全体に安全保障体制を築き、 相互の友好関係を保つ努力が不可欠であると考えた。 かれは二〇年一月に誕生した国際連盟に信頼をおき、大国中心の権力政治に代わる国際的な民主主義の実現に努めた。 たとえば、ベネシュは東欧三国からなる小協商とよばれる同盟体制を築いて、 これを拠点として活発な小国外交をおこなった。
フォードT
引用一台のモデルTを製造するためには、はじめ一四時間かかったが、ベルトコンベア方式で九三分になった。 さらに二五年には、年間一〇〇万台も生産され、一台当たりわずか一〇分程度になったといわれる。 ともあれ、アメリカ工業は「流れ作業」の時代に入ったのである。
これだけ大量の自動車が製造されることは、それが一般市民の買える値段になったということである。 はじめモデルTは、普通の労働者の年収を五割以上も上回る八五〇ドルだった。 しかし二四年には二九〇ドルまで下がり、一般労働者の年収の四分の一ないし五分の一程度になった。 月賦で払えば、労働者もそれほど苦労しないで買えるようになったのである。
第一次世界大戦後ドイツの中のアメリカ文化
引用アメリカ・ブームは大衆文化だけではない。 二三年末に自動車王ヘンリー・フォードの自伝がドイツ語に訳されるとベストセラーになり、 合理的経営・流れ作業・労働管理を提唱するテイラー主義とともに、アメリカ式経営法は経営者の合い言葉になった。 一九二四年から二八年にかけて、ドイツの企業で一大合理化運動が起こったのも、 アメリカにあやかって国際競争力の回復をねらったのが一因であった。
にもかかわらず全体としてみると、ドイツのアメリカ化は底の浅い模倣にとどまった。 ドイツにはアメリカ大衆文化の前提である「黄金の二〇年代」といわれた経済繁栄が欠けていたからである。 ドイツ経済の小春日和は、アメリカからの資本導入で支えられた脆弱なものでしかなかった。 大恐慌とともに、アメリカ化は中断された。 だが、青年層や個々の市民は、一度みえかけたアメリカ的現代生活像を忘れなかった。 われわれはそれをナチ時代の大衆のなかに見いだすことになる。
引用ブリューニングは前線世代に属したが、大統領に忠誠意識をいだき、帝政復活を最終目標とするカトリック系政治家であった。
引用七月末の選挙では、ナチ党は予想通り第一党になり、反共和国勢力は過半数を超えたが、政府を支持する党派は国会の五パーセントもなかった。
パーペン、大統領ともヒトラーを首相にする気はなく、一方、ヒトラーは首相職を要求して譲らなかったから、 ナチ党は政府との対決路線に戻った。 パーペンは開会したばかりの国会をすぐに解散するという暴挙に出て、三二年は全ドイツが選挙づけの年になった。 選挙の結果、政府に何の展望ももたらさなかったが、ナチ党ははじめて二〇〇万票を失って後退した。 すでにそれ以前から、ナチ党内部でヒトラーの「すべてか無か」の方針には危惧感が生まれていた。 選挙後のナチ党内部文書も、支持基盤の流動性を指摘し、政権に参加して積極的な成果を示さなければ、 また二〇年代の中核党員だけの運動に逆戻りする、と警告した。
一方、パーペンには、もはや軍を頼りにした大統領独裁の道しか残されていなかった。 軍の黒幕で国防相のシュライヒャーが協力を拒否すると、大統領もお気に入りのパーペンを辞任させるしかなく、 ついに黒幕がみずから表舞台に出てきた。 シュライヒャー新首相は、ナチ党内の動揺を見越してナチ党議員団長シュトラッサーを抱きこみ、 社会民主党系の労働組合も引きいれて、大衆的軍事独裁路線を構想した。 シュトラッサーは乗り気だったが、ヒトラーは頑として譲らず、シュトラッサーは全役職を辞任して去った。 この事件で、ナチ党はやはりヒトラーの党であることが証明された。 こうなっては、シュライヒャーもなすすべがなかった。
パーペンはこの間シュライヒャーに一泡吹かせる機会をうかがい、ヒトラーとひそかに接触し、 ヒトラー政権に逡巡する大統領の説得の説得に成功した。 一九三三年一月末、大統領内閣路線が破綻し、国会の出番がきたとき、第一党として待機していたのはナチ党であった。 保守派の陰謀は皮肉にも国会への復帰をもたらしたが、それは議会主義そのものの終焉となったのである。
引用党員が拡大し、スターリンは新党員に影響力を強める一方で、反トロツキー・キャンペーンが続けられた。 二四年十月、トロツキーは論文集『十月の教訓』を出版し、このなかでジノヴィエフやカーメネフが十月革命の直前に武装蜂起に反対したことを暴露した。 これに反発したジノヴィエフはトロツキー攻撃の先頭に立ち、トロツキーを政治局から追放することを要求した。 二五年一月、トロツキーは政治局員にはとどまったが、軍事人民委員を辞任せざるをえなかった。 トロツキーの政治的影響力は大幅に減少した。
反トロツキー・キャンペーンの嵐がおさまると、今度は、二五年五月にスターリンがはじめて公言した一国社会主義の是非をめぐって、 理論家として知られるブハーリンの支持を受けたスターリンと、一国社会主義は不可能だとするレニングラード・ソヴィエト議長のジノヴィエフ、 カーメネフらとの対立が表面化した。 この対立は、一国社会主義がはじめて明確化された二五年十二月の第十四回党大会から二七年十二月の第十五回党大会まで継続した。
結局、二七年十一月に、トロツキーとジノヴィエフは党を除名され、翌月の党大会で論争に決着がつけられた。 党大会の時点で、党員数は一二四万人であり、二二年とくらべると二倍に増えていた。 にもかかわらず、この大会に出席した約一七〇〇人の代表者のうち、反対派は一人もいなくなってしまう。 スターリンによれば、このように「一枚岩」となった党が、プロレタリア独裁を実現する。 党の指令は絶対であり、労働組合や協同組合などの大衆組織によって伝達され、実行されることになる。 農村社会をのぞき、上意下達の一党国家体制がほぼ完成されたのである。
引用社会党は農業労働者の掌握に成功して農村部でも勢力を伸ばし、二〇〇〇以上の自治体を掌握した。 労働者や零細農民の直接行動に私有財産の危機を感じた地主や土地を得た農民は、自由主義政府の支援を求めた。 だが、それがないとわかると、かれらはファシストの武装行動隊(スクァドロ)に参加し、 二〇年秋から農村部の社会党組織や労働組合事務所、活動家を「懲罰遠征」と称するテロで襲撃した。 警察の黙認、地主・工業界からの資金援助もあって、このテロ行動は効果をあげ、 二一年の農業労働者のストは前年の一割以下に激減した。 このころから、「ファシズム」「ファシスト」は、戦士のファッショやその行動、思想を指す用語として広まり、 一九年末で八七〇名だった戦士のファッショは、二〇年末には二万人、二一年には一〇万人に拡大した。
だが農村地域でのファシズムは、ムッソリーニの都市型ファシズムとは性格が異なり、 ラスとよばれたそれぞれの地方ボスに指導され、ムッソリーニの権威を無視しがちであった。 これに気づいたムッソリーニは、二一年十一月、全国ファシスト党を結成して、組織内の政治的統制を強め、 同時にみずからの指導権を確認させた。 新党綱領は、以前にくらべて国家主義的色彩が濃くなった。 ムッソリーニがドゥーチェ(指導者)とよばれるのはこれ以降のことである。
引用自由主義政府の弱体、左翼の分裂、議会の機能不全を前に、強力な政府を要求する声は既成政党の内部にもあらわれた。 こうした状況をみて、二二年十月、ムッソリーニは、二万五〇〇〇人の武装行動隊をローマに進軍させ、 勢力を誇示して政権樹立をねらった。 政府は戒厳令布告で対抗しようとしたが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世は内乱を恐れ、戒厳令の署名を拒否したばかりか、 逆にムッソリーニに組閣を命じた。
こうして実質二年間の短いファシスト党の活動で、これまでで最年少の三十九歳のムッソリーニ首相が誕生した。 かれは国会に政府への全権委任を認めさせ、ファシズム大評議会を設置して党と政府の協議機関とし、 武装行動隊を国家の民兵組織に組み入れた。 翌年には、最大得票政党に議席の三分の二を与える新選挙法を制定し、二四年の選挙でファシスト党は議会の多数をにぎった。
引用一九二九年十月二十四日、ニューヨーク株式市場で突然に大量の売りが出て、株が大幅に値下がりした。 この「暗黒の木曜日」が、アメリカの大恐慌、つづいて起こった世界恐慌の始まりだった。 それは皮肉なことに、二〇年代の繁栄の守護神のように思われたハーバート・フーヴァーが大統領に就任してから、 わずか半年あまり後のことだった。
しかし、株の値段が下がっただけで大恐慌になるわけではない。 それにつづいて、物が売れなくなり、仕事がなくなり、労働者が職を失い、職と食を求めてさまようホームレスがあらわれる。 工場や会社が次々と閉鎖され、倒産するようになる。 あらゆる経済活動が低下し、社会の秩序が混乱する状態になって、大恐慌となるのである。
ホーリー・スムート法
引用アメリカの下院は、景気が絶好調だった一九二九年五月に、関税を大幅に引き上げる法案を通過させていた。 それは、外国産業が低賃金労働によって、またはダンピングによって、アメリカに安い商品を輸出することを防止し、 アメリカの産業に悪影響を与えないことをめざす法案だった。 アメリカには資本も資源もあり、また技術や労働力にも恵まれている。 したがって、「高度の自給自足状態」が確保できれば、経済の繁栄が持続できるという理屈だった。
株式市場が崩壊した後にも、議会では、アメリカが海外経済からの悪影響を断ち切れば、国内の産業が保護され、 順調に操業・雇用が維持され、経済は回復するという考えが強かった。 こうして三〇年三月には、上院でも関税引き上げ法案が通過した。 三ヵ月後、両院の協議を経て、法案推進の中心となったホーリー下院議員、スムート上院議員の名前にちなんだ法律が成立した。
それは、アメリカの関税率を平均一三パーセント引き上げ、五割強にする関税法だった。 ただしアメリカでは、課税品の割合が三分の一程度だったため、輸入品全体に対する税率は、四パーセント増の一六パーセントとなった。 しかしこれは、すでにアメリカが世界最大級の貿易国(二九年に世界の総輸出の一六パーセント、総輸入の一二パーセント)になっている状況に対して、 近視眼的、自己中心的な政策だった。 このように関税障壁を高くすれば、ますます世界貿易が縮小し、世界経済がいっそう悪化することになるからである。
引用ドイツ経済を動かすうえで重要な役割を果たし、したがって、賠償支払いを円滑に履行するために必要だった外資が縮小したことは、 ドイツに大きな打撃となった。 さらに三一年、ドイツがオーストリアと関税同盟を結ぼうとしたところへ、 ウィーンの有力銀行、クレディット・アンシュタルトが五月に破産の危機に瀕した。 その信用不安はただちにドイツへ波及し、多くの銀行が取り付け騒ぎにみまわれた。
引用一九三三年一月三十日、ヒトラー内閣が成立すると、首相・大統領官邸のあるヴィルヘルム通りは、 ナチス突撃隊や鉄かぶと団のたいまつ行列が夜遅くまで続いた。 ヒトラー内閣といっても、ナチ党員は首相のヒトラーと内相のフリック、無任所相兼プロイセン内務国家委員ゲーリングの三名にすぎず、 他の閣僚ポストは副首相パーペン、経済相と農業食糧相を兼ね経済独裁者といわれたフーゲンベルクなど、 反共和国的保守派か保守的専門家が占めた。
パーペンヒトラー首相誕生に不安をみせる知人に、「われわれはナチスを政府に取りこんだ。 私には大統領の信任があり、二ヵ月以内にヒトラーを追いつめぎゅっといわせてやる」と豪語した。 保守派はナチスを「包囲し」、「飼い慣らせる」と信じていた。 社会民主党も共産党も、内閣は短命に終わり、その後に自分たちの出番があると考えた。
引用選挙戦の終盤の二月二十七日夜、国会議事堂が放火されて全焼した。 犯人としてオランダ人の共産主義者ファン・デア・ルッペが逮捕された。 政府は事件の調査をまたずに、共産党の仕業と断定し、憲法の基本的人権停止、州権への介入を定めた大統領緊急令を発した。 プロイセン州だけでも、二週間で八〇〇〇名以上の共産党員が拘束された。 政府はその後ドイツにいたブルガリア共産党指導者ディミトロフら四名の共産主義者を逮捕し、 ルッペとともに裁判にかけた。 ゲーリングまで証人に立った裁判でも、共産党の関与は認められず、ディミトロフらは無罪になり、 ルッペのみが新法を遡及適用されて処刑された。
この事件はナチスにあまりに都合がよかったことから、当時から真犯人はナチスだと噂され、 戦後もこの説が信じられた。 ところが一九六〇年代にルッペ単独犯説が西ドイツで発表されると、フランス人ジャーナリスト、 カリックと歴史家ホーファーがナチス犯行説を示す史料集を出して反論し、はげしい論争になった。 その後、カリックが提出した史料の多くは偽造の疑いが濃いことがわかり、 現在ではルッペ単独犯説が有力である。 ナチスを憎むあまり、カリックは勇み足をおかしたらしい。 この事件がなくても、ヒトラーやナチスの行動は変わらなかったという見方で歴史家は一致しているが、 ルッペの行動はナチスの急進化を早める結果になった。
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