「軍人の最期 ― 政治的将軍の生きざまとその死 ―
参考書籍
著者: 升本喜年(ますもと・きねん)
発行: 光人社(2001/02/15)
書籍: 単行本(330ページ)
定価: 2200円(税別)
目次: 東條英機
補足情報:
軍人たちの一人々々が、軍人として、人間として、どう生き、どう死んだかが問題である。 それを私の眼で見つめてみたい。そう思うようになった。 そして、いつかそれを書こうと思った。資料も集め出した。 【中略】 いつの頃からか、 表題は『軍人の最期』にしようと決めていた。(追記)
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極東軍事裁判所条例
引用東京裁判についても、極東委員会の干渉が連合国軍最高司令官に及ぶ以前の一月十九日に、 マッカーサーによる極東軍事裁判所条例が公布されていて、 裁判の性格づくりや進め方など基本的条項がすでに定められていた。
その条例を作成したのはキーナン検事を中心とするアメリカ・スタッフだけの国際検事局であり、 もはや東京裁判の主導権を完全にアメリカが握っていた。
ナチス・ドイツを裁いたニュールンベルク裁判に倣った条例だが、決定的に違うのは、 主席検事を各国から派遣の復名にするのではなく、アメリカ代表キーナン検事ただ一人にしたことである。
東京裁判は、その出発時点から、アメリカ主導の裁判であり、端的にいえばマッカーサー裁判であった。
東條の遺書
引用九月十日付で、東條は遺書を書いている。
几帳面な東條らしく、その遺書は五項目に分かれ、文学的表現は少なく、 簡潔な文体で天皇至上と愛国の思いを込めて綴られている。
要点だけを言えば―。
敗戦という結果となり、天皇陛下の宸襟を悩まし奉り、一億国民の忠誠の屍を積み、 光輝ある歴史を汚すことになって恐懼に堪えない。
開戦当時の責任者として、その責任は深い。 「茲ニ自決シ其ノ責任ヲ痛感スル處ナリ」と記している。
第三項目の中の「勝者ノ裁判ニ依リ決スルモノニアラズ」という文言や 第四項目にある「大東亜戦争ハ戦破レタリト雖モ其ノ意義ハ萬世ニ照シ正シキヲ信ズル」などは、 東京裁判における東條の主張の原点といえよう。
最後に、前途多難の日本国家に思いを馳せ、その興隆を祈念し、花押、捺印している。

  昭和二十年九月十日
   内閣総理大臣前官礼遇
   陸軍大将従二位勲一等功二級
                 東條英機

追記として「大東亜諸民族諸君」と呼びかけ、民族解放に尽くした協力に対し、 深謝しその多幸を祈念している。
ちなみに、東條がこの日、この遺書を書いていることを知る者はほとんどいなかった。
アメリカ側に押収されたまま、その存在が明らかになるには、半世紀以上の歳月を経なければならなかった。
数年前、ワシントンのアメリカ国立公文書館で、この遺書の原文コピーと英語の訳文があることが、 共同通信の編集委員によって発見された。原文の所在は、いまだに不明である。
清瀬一郎
引用日本政府は当初、弁護人手当を負担しようとしなかった。 そのこともあって、誰一人として、東條担当の弁護を引き受けようとしなかったが、 自ら進んで、その担当弁護人となった清瀬一郎が東條の強力な味方であった。
清瀬は識見豊かな硬骨の法律家であり、政治家である。 弁護人手当が支給されるようになってからも、それを拒否した。 この時、数え年で六十四歳。後年、衆議院議長となる。
アメリカ人弁護人の活躍
引用日本側の要請によって、 各被告にはアメリカ人弁護人も付いたが、ジョージ・A・ファネス(重光葵担当)弁護人、 ベンブルース・ブレークニー(東郷茂徳担当)弁護人らも次々に補足動議に立つ。
戦火の後遺症がまだ生々しいこの時期、敵国の戦犯被告の弁護に当たるというのは、 日本人の感覚と常識では考えられないことだが、彼らは公正であり勇敢であった。
判事団に向かって、彼らは言う―。
戦争での殺人は罪に当たらない。 国際法的には、「戦争」は合法であり、まして個人がその責任を問われて裁かれるのは不当である。 それでも裁くというのであれば、公正を期すために、中立国の判断に委ねて裁判にかけるべきである。
ブレークニー弁護人の反論は、原爆を投下したアメリカ側の問題にまで及ぶ。
彼は国際法に精通する学究だが、アメリカ陸軍の少佐である。 その軍服を着ているが、「我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることが出来る。 投下を計画した参謀総長の名も承知している。その国の元首の名も知っている」と皮肉る。
この原爆の件りは、ウェッブ裁判長によって速記停止が命ぜられた。 同時通訳の声も止まった。
天皇不起訴決定
引用一月六日、キーナン尋問は、十二月三十一日の天皇に関する東條答弁に及ぶ。
東條は答える。
「あれは日本人の気持ちを言ったもので、陛下の責任とはまったく別のことであります」
続いて、キーナンは開戦前の天皇出席の御前会議について聞き質す。
東條は眼の前に用意されたコップの水を一口飲んで、ゆっくりと答える。
「私が経験した間には、陛下が御発言なさったことはほとんどありません」
キーナンが突っ込む。
「あなたは、ある御前会議において、天皇が一回発言したことを覚えていると言いましたね」
東條は淡々と答える。
「・・・・・・それは九月六日の会議であったと思います。 当時、日米間は暗澹たるものになっていました。 重大な問題は戦争か平和かの問題であり、この点に関して出席者の間に意見の相違がありました・・・・・・」
さらに続ける。
「出席者が種々の意見を開陳した後に、陛下は次のような趣旨のことを申されました。 すなわち、外交による事態落着のため、また戦争を避けるためには、あらゆる努力をなすべきであると申されました。 これはその場だけの陛下の御意見ではなかったのです。 陛下は常にそう感ぜられていられました。 私は陛下に軍事に関し奏上する機会が幾度もありました。 陛下は常にそのような御意見を持っておられたのです」
宣戦布告の草案が準備された時、東條がそれを持って天皇に奉呈した様子も具体的に述べる。
「・・・・・・陛下御自身、米英との戦端開始には関係なく、 『寔ニ止ムヲ得ザルモノアリ、豈、朕ガ志ナランヤ』という文句を挿入されました。 陛下御自身で、そのようなものに御意見を挿入されたのは始めてのことであります」
鸚鵡返しにキーナンが言った。
「それは重要なことです」
天皇免責の有力な証言をやっと引き出したのだ。
開戦前後の経緯と責任の所在についての尋問を続ける。 内閣や統帥部が決定して奏上した事項を天皇が否決したことが一度もないとすれば、 開戦の責任は、天皇に奏上した者ということになる。
開戦決定を誰が天皇に奏上したのか―。
キーナンのその問いに、珍しく東條が息を呑んだ。
「誰か、ですか・・・・・・?」
つぶやくように問い返すと、一瞬沈黙した。
だが、すぐに、内閣総理大臣兼陸軍大臣であった自分と、参謀総長軍令部総長の三人で奏上したと事実のままを述べた。
おそらく、東條はこの時、後の二人に責任が及ぶと一瞬躊躇したのであろう。 自分一人だと偽って答えるのは簡単だが、そうなると、 これまで証言台でしばしば述べて来た憲法に定められた天皇輔弼に関する内閣と統帥部の分離、そのこととが矛盾する。
参謀総長杉山元は自決、軍令部総長永野修身は病死、 二人ともすでにこの世にないことを一瞬の間に思い出したのであろう。
キーナンは最後に聞いた。
「天皇や日本国民に対して、あなた自身は責任があると思うのですか」
「当然です」
東條は平然と答えた。
翌七日、東條尋問はすべて終わった。
被告席へ戻る東條の足取りはゆったりとしていて変わりはなかった。 席に着くと、満面を崩して莞爾として微笑んだ。 同時通訳のイヤホーンをゆっくりと両耳に当てる姿は、大業を成し遂げた男の満足の色がにじんでいた。
次の日、マッカーサー元帥は、連合国総司令部(GHQ)に、 ウェッブ裁判長、キーナン検事を呼んで報告を聞いた後、天皇の戦争責任なし、 訴追せずを最終的に決定して発表した。
引用宇垣の性格は、潔癖で傲慢、過剰なほどの自信家だが、 時流や周囲の状況に極めて敏感な現実主義という一面があった。
若き日の宇垣一成
引用農民階級の出である宇垣にとって、明治維新によって、 すべてが一変した新時代に生まれ合わせたことは幸運であった。
四歳になった明治五年一月、士農工商の身分制度が廃止され、四月には、庄屋・名主・年寄の制度も廃止となる。 そして、八月になると、国民皆学の義務教育制度が定められ、農民階級の子弟である宇垣も地元の小学校へ入ることが出来た。
近世以来、備前岡山は学問の盛んなことで知られているから、名主の子弟であり、頭脳明晰でもあるこの少年には、 それなりに学問の機会はあったろうが、武士の時代であれば、その様相はよほど違っていたはずである。
小学校を卒業した宇垣は、十四歳で、母校の代用教員になり、教員検定試験に合格して、明治十七年、 十六歳で、上道郡御休村の小学校長になったというから驚く。
十代の校長の仕事ぶりは想像もつかないが、正式教員の数がまだ極端に少なかった時代が生んだ珍現象といえる。
十代半ばにして、山陽の田舎村でのこの体験は、宇垣一成の人間形成に、少なからず影響を与えたと思われるが、 明治維新から十数年を経て、ようやく新体制が確立されつつあり、エネルギーに満ち溢れた青春の時代であったといえる。
こうした時代の若者は、いつの場合も、青雲の志を抱いて雄飛するものである。 まして、士農工商の身分制度はなくなったとはいえ、「士族」と「平民」に分かれて、身分区分は残っていた。 意識としても制度としても、その差は大きかった。
宇垣家は平民であり、戸籍や公式文書にはかならず「平民」と明記しなければならず、 その劣等意識を跳ね返すには、笈を負って、新天地で勝負するしかない。 交通機関といえば、まだ山陽本線も開通していなかったが、十八歳の宇垣は、単身上京し、二十歳になって、 陸軍士官学校の試験に合格して、明治二十一年十二月、入校する。
明治七年(一八七四年)、陸軍士官学校条例が制定され、東京市ヶ谷に校舎を新設して、翌年、 第一期生が入校し、第十一期まで続くが、宇垣が入校するのは、明治二十年(一八八七年)、 士官候補生制度が改正され、将校生徒教育が本格化した新制の陸軍士官学校である。
引用宇垣派閥」といわれ、後の「統制派」の源流ともいわれるが、 宇垣の形成した派閥の上下関係は、日本人独特の親分子分という情的関係というよりも、機能中心であった。 彼らを駆使して、宇垣自らの政策を断行していった。
宇垣の周囲に形成された、いわゆる「宇垣派」の中から、後に陸軍大将となる者だけを取り上げてみても、 金谷範三(陸士三期、大分)、南次郎(六期、大分)、畑英太郎(七期、福島)、阿部信行(九期、石川)、 本庄繁(九期、兵庫)、松井石根(九期、愛知)であり、さらに、小磯國昭(十二期、山形)、 杉山元(十二期、福岡)、畑俊六(十二期、福島)である。
杉山小磯に加えて、二宮治重(十二期、岡山、後の中将)、建川美次(十三期、新潟、後の中将)の四人を 「宇垣四天王」と呼ぶ。いずれも、やがて昭和陸軍の中枢を担うことになるが、 阿部小磯は後に首相となる。
引用昭和六年(一九三一年)二月三日、 衆議院予算委員会において、幣原首相代理が、ロンドン条約批准に関する野党代議士(中島知久平)の質問に対して、 「天皇の承認を得ている条約であるから不安はない」という意味の答弁したことから、 「天皇に責任を押しつける内閣最高責任者の責任回避」として、収拾困難なほどの混乱を招き、異常事態となった。
三月事件宇垣の変心
引用宇垣の変心について、司法省刑事局の「思想研究資料」(特輯五十三号、昭和十四年)は 次のように記録している。
宇垣陸相は始め大川に対して天下の形勢を論じ、一生一度の御奉公がしたい旨の事を言い、 政党の腐敗から国民が自暴自棄になって行くから、この際起とうと思う、 君もその時は一緒に死んでくれ、と言って改造運動に乗り出す意志をほのめかし、 小磯、建川等にも同様の意志を示しながら、その後、政界の有力なる方面から 宇垣陸相を首班とする内閣樹立の政治的陰謀が持ちかけられ、これによって憂国の至情よりする改造運動より変心し、 政権獲得の後に改造を図る考えとなって、小磯、建川との接触を避け、計画より脱退したといわれる」
宇垣のこの行為は、伝統の軍人精神から見れば、唾棄すべき、邪な野望ということになるだろう。 だが、国家のために、自ら政治のトップに立ち、その構想と手腕を発揮しようとする宇垣の凄まじさは、 我欲のエネルギーとはいえ、一個の人間として評価できる。
そのエネルギーが中途で消失してしまったのは、知性派宇垣一成の弱点であり限界といえるが、 それは同時に天皇制の下の政治軍人の限界でもある。
眞崎甚三郎のイメージ
引用歴代の大将の中で、眞崎甚三郎ほど悪イメージの色濃い大将はいない。
二・二六事件の叛乱幇助罪で起訴され、陸軍大将として、西郷隆盛以来の汚名とさえいわれている。 時代が違うといえば、それまでだが、西郷の場合、後に恩赦を受けて名誉回復している。 だが、眞崎にそれはない。
一言でいうと、眞崎甚三郎は自己の野心のために、革新派青年将校らを扇動し、 史上空前のクーデター「二・二六事件」を導いた老獪狡智の悪党将軍ということになっている。
決起した青年将校たちは、刑場の露と消えたが、眞崎は無罪であった。 そのことが、眞崎の悪イメージをいっそう増幅する。 眞崎本人の戦後の弁明もあるし、実弟眞崎勝次(海軍少将)のソ連陰謀説などの眞崎擁護論や弁明論もないではないが、 説得性は希薄である。
引用荒木はただの士族ではない。 御三卿の一つである一橋家の士族である。 超然として武士道精神を貫く文武両道の環境に育っている。自ら備わる気品もある。 頭もいい。剣道の達人でもある。
【中略】 こちこちの軍人精神の塊で、一直線の荒木という男は、単純であり子供っぽい。 愚直の若殿といった感じである。 今日の言葉でいえば、少々アナクロで漫画チックである。 真っ正直の世間知らずでもある。 一歩引いて見つめれば、優越感と親近感をくすぐることにもなる。
荒木の人気
引用荒木は演説が得意で、国体精神の昂揚を説き、満州事変の意義を強調し、 国政の改革を論ずる。 盛んに新聞、雑誌にも取り上げられ、荒木の古武士的日本主義の雰囲気と演説は、満州事変後のこの時期、 軍国的気分と軍国主義昂揚の波に乗って、爆発的喝采を浴びた。
荒木の外人記者相手の「日本は竹槍千万本あれば、列強恐れるに足らず」という「竹槍論」や 雑誌社(改造社)の招聘で来日したイギリスの文豪バーナード・ショーとの対談で度胆を抜いたと伝えられる 「古来、日本人は地震によって、強靭な国民性を養われて来た」という「地震論」などの派手な国防論は、 尾鰭をつけて広がり伝説とさえなった。
荒木の精神主義強調と野党的言動、それに上下の枠を越えた青年将校らとの接し方は、 彼らに抜群の人気があった。
引用眞崎が退くと、陸相荒木の実力はたちまち急落していく。 眞崎あっての陸相荒木であった。
荒木が非常な意気込みで、五相(首相、蔵相、陸相、海相、外相)会議に提案した『皇國國策基本要綱』と題する国策案は 広汎な主題を網羅した膨大なものだったが、出席者は冷淡だった。 「具体性を欠く」「範囲が広すぎて掴めない」など、反対意見は言うが、建設的意見は出ない。
改訂もして、荒木は孤軍奮闘するが、進展はなく結論は出ない。 荒木の非常時論ばかりがいたずらに空転して、ずるずると日が経つ。
農業救済案の方も、荒木陸相の『国内対策』として、内政会議に出すが、 こちらも議論が空転するだけで全く進展がない。
そんな荒木の挫折を見て、革新派青年将校らも荒木に益々失望して人気は急落し、 荒木から離れていく。必然的に眞崎のところへ集中して来る。
荒木は完全に行きづまった。
昭和八年暮、陸相辞任を言い出した。 理由は病気だが、これ以上つづけて、汚点を重ねたくはないというのが本心だった。精神主義の限界である。
引用永田が軍務局長に就任したのは、三月五日付だったが、 その政治感覚と辣腕は眞崎の予想を遥かに越えていた。
その手腕は冴え、その視野と抱負は群を抜いていた。 国策研究会を直ちにつくって、国家総動員体制の研究を開始すると同時に、従来からの新官僚と交わりを密接にし、 財界人ともさらに接触していく。 重臣とも接し、元老西園寺公望の秘書原田熊雄らとも親交を深めている。 彼らに信頼され支持されて、幅広く、その勢力が伝播していく。
永田も軍改造を思考することには変わりないが、 皇道派のような精神主義を掲げた短兵急な改造方式ではなく、陸相統率下に、軍が一体となって、 政府に軍改造の実行を迫るという冷静で漸進的な思考であり、軍部内の派閥や下剋上的風潮を全面的に否定する。
となると、永田自身が派閥意識はなくても、皇道派との対立は避けられない。
引用永田は一局長ではありながら、その政治的器量と存在感は、 昭和陸軍史上、宇垣一成以来といえる。 ただ、永田には宇垣のような巧みな権謀術策はない。 徹底した真正面攻撃型であり、「合理適正居士」の渾名が示す通り、きわめて現実主義で、 割り切りは早く強引である。
片倉衷が解説する皇道派と統制派の政策の違い
引用永田直系の片倉衷は「強いて言えば」を前提として、 皇道派と統制派の政策上の違いを次のように分ける。
ソ連が第一次五ヵ年計画を完成させた危機感の中で、 皇道派も統制派も軍改革を目指すことは同じだったが、皇道派の指導者たちは、 天皇制の国体を脅かす共産主義の国内侵入を防ぎ、対ソの軍備を急げと主張し、性急な軍改革を主張するのに対して、 統制派は、まず満州問題を安定させ、国力を強化させた後に、 対ソ戦力を充実させるという方針であり、短兵急な軍改革を避けるという考え方であった。 永田の唱える国家総動員論も統制経済論も、そこに発する。
引用陸軍切っての教養といわれる知性派であり、 日露戦争後の大尉時代、山縣有朋の副官でありながら、長州閥にも、どの派閥にも属さない孤高で剛毅の将軍である。
引用附録五点を含む長文のこの『意見書』は、今日、昭和史を語る上で、 声価ある史的資料となっている。
ついでにいえば、当時、リハルト・ゾルゲを中心とするコミンテルンの対日スパイ機関が、 翻訳して、モスクワの本拠に送ったと記録されている。 彼らは日本の国家権力を掌握しているのは軍部であり、その軍部の動向を左右するのは、 青年将校の動向であるとして、注目していたのである。
全勢力を傾けて書いた村中孝次磯部浅一は、や片倉の告発の域を越え、 その心情と主張を真正面から訴えかける。 同時に、宇垣から統制派に到る体制を痛烈に糾弾する挑戦状であった。
陸軍の現状を切実に憂え、「皇軍最近の乱脈は所謂三月事件十月事件なる逆臣行動を偽瞞隠蔽せるを動因」と断じて、 クーデター未遂の両事件の不始末が、現在の諸悪の根源と論破する。
陸軍の根幹を揺り動かす最大の焦点は「附録五」の『○○少佐の手記』である。
そこには、三月事件及び十月事件の経緯が詳細に書かれていて、真相暴露となっているが、 特に、三月事件については隠蔽されて来ただけに、その衝撃性は大きい。
執筆者の「○○少佐」とは、陸軍省(調査班)勤務の田中清少佐(二十九期、北海道)である。 田中は、村中の原隊である歩兵第二十七聯隊における先輩に当たる。
若き日の永田鉄山
引用現在の中学や高校でもそうだが、たまに「超」の字のつくほど凄い秀才がいる。 そんな生徒に限って、大して勉強しなくてもよく出来る。 友達つき合いもいい。畏敬もされるが、嫉まれもする。 永田鉄山は、その手の超秀才だったようだ。
【中略】
真面目で知性的で、現実的な合理主義の一面があり、馴れ合いの徒党を組むことを嫌い、 孤高の感じもあったが、酒も女も好き。器の大きさを感じさせたという。
相沢三郎
引用相澤三郎―。
色浅黒く容貌魁偉。武道に鍛え上げられた筋骨はがっちりとして逞しく、巨漢である。
少年のように純粋で朴訥、折り目正しく、滑稽なまでに生真面目で謙譲、 一途に生きた愚直な軍人であった。
引用八月十二日―。
午前五時半、久里浜の家を出た。 途中、渋谷区松濤の自宅に立ち寄って身支度し、午前八時半、三宅坂の陸軍省に出勤した。
その二階に、軍務局長室はあった。
猛暑の月曜日である。入り口のドアは開け放されていた。 入って左手に応接用の広い円形テーブルがあり、右手にある非常持出用の書棚の先に固定した木製衝立に並んで、 簀の衝立が立っていて、内部の様子が見えていた。
午前九時四十分過ぎ、永田は、南向きの窓を背に局長用テーブルに座って、 前の椅子に座る東京憲兵隊長新見英夫大佐、兵務課長山田長三郎大佐と打ち合わせをしていた。
その時、衝立の右側から、異様な形相の歩兵中佐が無言のままぬっと入って来た。 軍刀を抜いている。
殺気に気がついた永田は立ち上がった。
山田大佐はすっと出ていった。とされる。
右の方へ避けようとする永田の背後から、軍刀を握り上げて、白刃一閃、相澤が斬りつけた。 だが、一刀両断ではなかった。右肩に受けた永田の傷は浅い。
永田はテーブルの前に廻って、隣の軍事課長室へ逃れようとした。 追って迫って来る中佐の腰に、新見英夫大佐がとびついたが、中佐に斬りつけられ、左上膊部に重傷を負い、 転倒して意識を失った。とされる。
軍事課長室のドアはロックされていて開かない。 永田のその左背部に向かって、相澤は刀身に左手を添え、渾身の力を込めて突き刺した。 切尖は永田の心臓部に達した。
倒れた永田は気丈にも、入り口の方へ這っていったが、応接用テーブル付近で力尽きた。
仰向けになった永田の体の上から、そのこめかみに一刀を加えた中佐は、武士の作法通り、 永田の首筋に、とどめを刺した。
一瞬の出来事だった。
軍事課室から、課員の武藤章(中佐)らが駆け込んだ時には、永田はすでに息絶えていた。
この「相澤事件」は、半年後に勃発する二・二六事件の導火線となり、時代を変えた。
引用中村震太郎事件を満州事変の引き金と見る者は少なくない。
片倉衷もその一人であった。
新潟県蒲原郡出身の中村震太郎は、片倉と陸士(三十一期)同期だが、陸大も同期(四十期)だった。 一緒に石原教官の自宅を訪ねたこともあるという。
参謀本部第一部勤務だった中村が、興安嶺方面の軍用地誌調査の密命を受け、 大興安嶺の東側一帯の偵察に入ったまま消息を絶ったのは、昭和六年六月中旬だが、 片倉もその行方捜索に当たり、便衣を着て潜入し、密偵を放って探索もした。
結果、六月二十七日に関玉衛指揮下の屯墾軍に逮捕され銃殺されたという確証を掴んだ。 さらに証拠と現地の証言を揃えたが、政府(第二次若槻禮次郎内閣)は穏便解決の方針をとり、 事件解決の交渉は、軍中心ではなく、外交交渉に委ねることになった。
八月二十七日、陸軍中央部及び関東軍は、この事件を公表したが、それに対して、張学良政権側は 日本陸軍の捏造であると反発した。
このまま黙っているのか―。
国内輿論は沸騰し、在満日本人たちの憤懣は日に日に募った。 強硬論者たちは日本軍人に向かって、「腰の軍刀は竹光か!」と罵声を浴びせている有様である。
陸軍中央部の方針は、向こう一年間、隠忍自重して軍事行動を行なわないと決定しているが、 このまま黙認していれば、張学良軍が全面的攻撃を仕掛けて来ることも当然あり得る。
敵の二十分の一しかない関東軍だけの兵力で応戦できるのか。 もし敗退したら、在満日本人の生命が危険にさらされるだけでなく、 日露戦争以来の日本の権益は喪失し、政治的にも経済的にも軍事的にも、大打撃を蒙り、 国が滅びてしまうかも知れない。国論もそれを許さない。
九月初旬になって、ようやく張学良側も中村事件の事実を認めたが、 事件解決の外交交渉はなお進められていた。
引用板垣征四郎は、満鉄線爆破に始まった満州事変の発端について、 極東国際軍事裁判所の宣誓供述書の中で、「奉天北方北大営西側に於いて、支那軍隊が午後十時頃、満鉄線を爆破し、 偶々(わが軍の)虎石台中隊の巡察斥候が射撃を受けた」と述べ、中国軍の方から仕掛けた攻撃であるとしている。
石原莞爾にしても、終生、その詳細を明確にしていない。
だが、今日、その真相はほぼ明らかになっている。
それによると、板垣石原が中心となり、陸軍中央部の一部中堅将校や朝鮮軍の参謀らと連絡を取りながら 準備を密かに進め、好機をうかがっていたとされる。
アメリカやソ連の出方を分析検討する一方で、反張学良の軍閥首領たちの動向を探り、 気脈を通ずる者とは連携も取って、この年春頃までには、作戦計画がほぼ完了していた。
作戦行動開始についての計画立案は、石原が当たり、奉天特務機関の花谷正少佐が謀略の部分を主として計画した。
後年、花谷自身が述べるところによれば、奉天付近の線路を爆破して、 戦闘開始のきっかけとするために、張学良の軍事顧問補佐官今田新太郎大尉を指揮官とし、 独立守備第二大隊第三中隊の中隊長川島大尉と中隊付河本末守中尉が実行を担当した。
九月十八日夜、部下数名を率いた河本中尉が、線路に爆薬を装置して点火した爆発音を合図に、 付近で演習しながら待機していた川島大尉指揮する中隊が攻撃を開始した。
と同時に、奉天市内で待機していた板垣が、独立守備隊に攻撃開始を命ずると共に、 第二十九聯隊の出動を命じた。
行動開始の日を九月十八日と定めた根拠については、諸説あって特定し難いが、参謀本部から派遣されてきた建川が、 陸軍中央部の自重の方針を正式に伝達する前を狙ったという説が有力である。 二十八日に予定していた行動開始を早めたという説もある。
建川を出迎えた板垣が奉天市内の料亭「菊水」に案内して酒で酔いつぶし、その間に、 事を運んだという俗説めいた伝聞もある。
宮崎機関と「日満産業五ヵ年計画」
引用石原は試行錯誤した上で、満州時代、交流深かった宮崎正義にまず狙いを定めた。
石原より四つ年下の宮崎は、苦学してソ連の大学に学んだ後、 エリートを結集して一大シンクタンクといわれた満鉄調査部へ入った英才であり、 満州事変の前から、石原の有力な協力者であった。 石原が満州を去った後、左遷され不遇をかこっているが、宮崎の強みは、ソ連の経済国策(NEP)を分析研究して 熟知していることである。
その宮崎を引っぱり出し、石原は日満経済建設の立案に取りかかった。 宮崎を中心に若い優秀な人材を集め、資金を参謀本部の機密費から出して、 「日満財政経済研究会」という石原の私的機関のシンクタンクを発足させ、意図を明確に示して立案を急がせた。
一年後の昭和十二年七月、『昭和十二年以降五年間歳入及歳出計画・付緊急実施国際大綱』となって、 第一次原案が完成した。
石原の思想とヘゲモニーによって立案されたこの計画案は、通称「日満産業五ヵ年計画」と呼ばれ、 昭和十二年度から五年間の軍事費も含めて、歳入と歳出が項目別に丹念に推算されているが、 単なる経済政策書ではない。
そこに推算された歳入歳出に基づいて、最後に付した『緊急国策大綱』の「行政機構の改編」では、 今日でいう「行政改革」の詳細で大胆な具体案を示して、「小さな政府」に改編すべきだと力説し、 国費の徹底的経済の具体案にまで及ぶ。 続く「国防産業の飛躍的増産及輸出計画」では、「満州に於ける軍需産業建設拡充計画」や「帝国軍需工業拡充計画」が 詳述されている。
その原案に若干の修正を行ない、陸軍省を通じて、『重要産業五ヵ年計画要綱』として内閣に提案され、 その後の国策の基本となった。
日満財政経済研究会も国策に大きな役割を果たしていくことになり、 同会が作成した報告書及び計画書は三千余点という膨大な数にのぼったと記録されている。
引用政党の間にくすぶっていた軍部に対する対立感情が爆発して、 濱田国松代議士寺内壽一陸相との腹切り問答をきっかけに、昭和十二年(一九三七年)一月二十一日、 廣田弘毅内閣は総辞職となり、後継首班として、宇垣一成(退役)大将に大命が下ったが、 陸軍は猛反対した。
その急先鋒となり、中心となったのは、石原莞爾であった。 宇垣支持を退け、断固反対を貫く。
宇垣は陸相時代、軍縮政策を断行し軍人たちの反感をかっていた。 それもあるが、石原としては、自らの軍事拡大プランが実現する方向に進もうとしている現在、 歯車を逆回転させてはならないのである。 猛然と働きかけ、結局、宇垣の組閣は流産してしまった。
天皇の大命が下ったにもかかわらず、組閣不能になったのは文字通り前代未聞であった。
石原らが強く推して、成立させたのは、林銑十郎内閣であった。
石原は十河信二を組閣参謀として送りこみ、内閣書記官長に着かせ、昂然とうそぶく。
林のおやじなら、猫にも虎にもなれる」
翌年三月、少将に進級した石原は、参謀本部の作戦部長に昇格する。
引用七月十日、中国中央軍が北上を開始したという南京方面からの未確認情報が入った。
石原は主張を一転させた。
五師団の派兵を決断した。 兵力約五千の支那駐屯軍(天津軍)だけでは、在留邦人の安全を守り切れないというのが、 彼の大義名分であったが、さすがの石原も混乱して弱気にもなっていたのだ。
未確認情報であり、石原の幻影に過ぎないという河邊大佐の反対を押し切って、 武藤の差し出す作戦課の派兵案に署名した。
石原の主張変更は得意とするところだが、相手に屈服して変更したのは初めてである。 最大の屈辱であった。 同時に、彼が心血を注ぎ続けて来た中国構想も満州に描いた夢も音を立てて崩れる瞬間でもあった。
翌十一日、閣議はその陸軍派兵案を決定し、政府声明として発表した。
ところが、それがまだ現地に伝達されない数時間後、何と現地の停戦協定が成立したのである。 河邊が言った通り、中国軍北上は幻影だったとしか言いようがない。
すぐに内地師団の動員中止の手続きをとったが、いったん政府の公式声明があったとなると、 矢は放たれてしまったも同然である。 中国側には日本の陰謀としか写らない。 日中両軍の衝突は激しさを増すばかりであった。
わずか数時間の差が、石原には耐えがたい悔恨となった。 天才的戦略家の面目は、一瞬にして地に落ちた。
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