「昭和史発掘(1)」
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書籍: 文庫(195ページ)
発行: 文藝春秋(1978/07/25)
目次: 陸軍機密費問題
石田検事の怪死
朴烈大逆事件
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引用田中義一は文久三年(一八六三)に長州萩に生れた。 萩といえば、明治維新元勲のメッカだ。 伊藤博文も、山県有朋も、井上馨も、その少年時代をこの町で送っている。
田中は明治十六年に陸軍士官学校に入学して以来、陸軍の出世街道を驀進し、 日露戦争には満州軍参謀として中佐で従軍、同じ長州出身の児玉源太郎総参謀長の許に仕えた。 爾来、陸軍省軍事課長、同軍務局長、参謀次長となって、原内閣のときには陸軍大臣となり、 シベリア出兵を敢行し、大正十年に陸軍大将になっている。 その後も山本権兵衛内閣で二度目の陸軍大臣をつとめた。
【中略】
田中は生来が単純な男で、しかも、あけすけな性格だった。 この点、山県とは対照的である。 山県は深沈重厚の策謀家だが、その性格の相違がかえって田中を愛する理由だったかもしれない。
引用小山は三瓶の宅を訪問したり、旅館に誘い出したりして、しきりと告訴状の執筆をすすめた。
「なに、大体のことを君が話してくれれば、こちらで告訴状の草案を作る。 どうか国家のために長州軍閥の腐敗を抉り出して軍部の佞輩を葬ってくれ」
とすすめ、熱情をもってこれを説いた。 小山の背後に町田経宇が控えていたことは言うまでもない。
軍部の大物であり、陸軍大将でもある田中を曾ての部下が告訴するのだから大変だ。 しかも、田中はいま政友会総裁としておさまっている。 この告訴状の提起によって三瓶が己の身辺に危険を感じたのは当然だった。 彼はなかなか小山の説得に応じなかったが、
「国家のためにぜひ頼む」
といわれ、
「君の身辺の護衛は、この小山が引受けた。 絶対に憲兵隊や政友会の回し者には一指もふれさせない。 与党の憲政会も、正義の軍人団体も全力をあげて君を応援している」
とまで説きつづけた。
こうして出来たのが、
「告発人三瓶俊治。被告発人田中義一。被告発人山梨半造。告発の事項。 ―右告発人が大正九年八月第一師団経理部より陸軍省官房主計に補せられ、 大正十一年九月同省付を免ぜられるまでの間に、陸軍大将男爵田中義一を首謀として陸軍内に左記の事実の行われたるを認め、 その内容を列記し、刑事訴訟法第二百六十九条によりここに告発に及ぶ次第に候」
に始まる告発状であった。
尼港事件
引用この事件は、黒竜江口のニコライエフスク(尼港)を占領した日本軍の一支隊が兵力手薄であったため、 大正九年二月二十八日にパルチザンに包囲されて降伏し、隊長、領事らが全滅したことをいうのである。 降伏した日本軍は、独力でこれを挽回するため、三月十一日に降伏協定を破って奇襲反撃に出たが、 かえって破れる結果となった。 残兵と居留民一二二名は捕虜となったが、その後日本援軍の来襲を知ったパルチザンは、 五月二十五日に市中を焼き払い、日本人捕虜を皆殺しにして撤退した。
この事件は、日本国民に多大な衝撃を与えた。 日露戦争で勝った経験が新しいところに、日本軍がロシヤ軍に惨敗し、 居留民まで残虐な殺し方をされたのだから、非常な敵愾心を煽った。 新聞には、捕虜となった日本人が「大正九年五月二十四日午後一二時ヲ忘レルナ」と 獄中の壁に書いた文字が写真に出たりした。
石田基
引用石田は当時検事局切ってのやり手で、朴烈事件や、この直後に起った松島遊郭移転問題にも関係し、 まさに鬼検事と呼ばれるにふさわしかった。 今日でいえば、東京地検の特捜部長みたいな立場にあたる。
陸軍機密費問題の真相
引用一体、この事件の実体はどうなのか。その謎を解く鍵は次の四つとなろう。
@三瓶は懺悔録は発表したが、告発状は取下げていない。
Aもし、告発状に書かれたような不正がなければ、田中大将山梨大将も三瓶を誣告罪で訴えなければならないところだが、 そのことは全然しない。
B田中大将は「三瓶というのはどんな男かよく知らない」というようなことを当時新聞記者に話していたし、 また「公債を盗んだ奴で、人格の劣った放蕩児である」と罵倒していたが、 三瓶が懺悔文を発表した翌日、新聞記者が訪ねて行くと、 田中は「あの男は卒業のとき恩賜の時計の光栄にも浴した男である」というようなことを言って、 前とは反対に称讃的な言葉をもらした。
C田中が三瓶をよく知らないというのは言訳にもならないことで、 田中は三瓶に「百事誠」という扁額を揮毫して写えている。 また遠藤主計にも書を与えている。そのほか、珍しいものが他からくると、遠藤や三瓶にくれてやっていた事実がある。
こういうことを綜合してみると、田中義一が政友会入りについて持参した三百万円は、 やはり陸軍機密費から出たと断じないわけにはいかない。 そして、その出所の秘密は、【中略】 シベリヤ出兵前後の大正七年と十一年の経常費にあろう。 つまり、結局のところ、田中陸相山梨次官と諮って機密費のうちからピンハネして横領したということになるのだ。
これについて、三瓶に寝返りを打たれた相馬由也が次のように述べているのは、 案外、実相に迫っているように思われる。
「問題の金を世間では機密費といっているが、実は機密費ではなく、 秘密の金とでもいうべきもので、その金額は銀行預金千二、三百万円、無記名公債五、六百万円と推定される。
問題の金が秘密の性質のものでないとなれば、 その金は堂々と陸軍大臣の官房の金庫に公蔵しておくはずなのに、 大臣官邸の一室に秘蔵して、田中山梨、菅野などという数人のほかは一切知らせず、 ときどき時の高級副官松木直亮大佐が金庫の内容を調べ、遠藤主計がかたわらにあって、 極めて無造作にメモを記入し、三瓶主計はソロバンをおく役目をおおせつかった事実などがあるというのは 誰しも深い疑念を挿まないわけにはいかない」
要するに、機密費は議会の協賛をえただけの金額を一時にとりまとめて受取るものではなく、 随時必要額だけを大蔵省から貰ってくるものであるから、これを長時日にわたって利殖をはかるなどということはできないわけだ。
したがって、問題の金は機密費ではなく、なにか別の特殊なものでなければならない。 それがシベリヤ出兵費の使い残りだとは、はっきりしているが、例のロシヤ軍の金塊や、 青島で阿片販売を許可することによって、中国人からもらった賄賂などの説になると、多少の疑いがある。
引用松島遊郭問題というのは簡単にいうと、 当時大阪の松島遊郭が市内の発展とともに中心地になってきたので、 そのような場所に遊郭があるのは風紀上おもしろくない。 これを他の場所に移転せしめるという議がおこり、その候補地として二、三の土地がえらばれた。 遊郭が移転すれば、その土地が三業地として発展するので地価が暴騰する。 遊郭の誘致をめぐって激烈な競争が演じられたが、ある土地会社が政党方面に運動を働きかけ、 与党憲政会の総務箕浦勝人と野党政友会の幹事長岩崎勲に決定の斡旋を頼み金銭を贈った。 これが収賄罪に問われたのである。 これには若槻首相の名前まで出て政友会の攻撃が集中されていた。
石田基
引用石田基は明治十六年仙台市の士族に生れ、 同四十二年東大法科を優等で卒業、司法官試補となり、 東京地方裁判所をふりだしに、予備判事、鹿児島地方裁判所判事、同検事、東京区裁判所検事、 東京地方裁判所検事などを経て大正十二年上席検事となり、十五年に現職に就いた。 この間、共産党の第一次検挙(大正十二年六月五日)の指揮、取調べも担当している。
石田検事は担当の各事件に辣腕を揮い、取調べも峻烈で、一切の妥協をゆるさなかった。 その取調べには往々の批判もあった。 ことに、ペテンにかけた取調べ方をするという声が被告側弁護士のほうからあがっていたという。
しかし、同検事はそんなことには一切耳を藉さないように、「鬼検事」の評にふさわしく厳しい態度で臨んだ。 田中総裁の機密費問題にしても、朴烈事件にしても、松島遊郭問題にしても、 単なる告訴問題や醜聞を超えて政争の具に供せられていただけに、 各方面からさまざまな圧力が彼にかかっていたともいわれていた。 脅迫状や脅迫電話が市ヶ谷二十騎町の自宅にも頻々と舞込んでいた。
だが、石田検事は黙々と取調べを進め、ことに機密費問題では単独に捜査していたらしいふしがある。 したがって、彼の突然の怪死は、取調べ進行中のこれらの事件を背景にして疑惑がもたれたのだ。
引用鈴木は慶応三年神奈川県に生れ、二十四年東大法科卒業と同時に司法省に入り、 爾来、ずっと司法畑を歩いてきた官僚である。 その在官中は政党関係にはあまり色がなかったが、清浦内閣が倒れて下野してからは急に田中義一に近づいている。
「鈴木喜三郎伝」によると、
「ここに疑問となっていることは、鈴木氏がいつごろから政友会に心をよせるようになったか、 またどの時分入党を決意するにいたったかという点である」といい、鈴木は元来政党がきらいで、 常に政党の悪口をいい、かつて原敬から政友会入りをすすめられたときも拒絶していたという。 それがどうして政友会に近づいたかといえば、田中大将の政友会入りを策した小泉策太郎、横田千之助鳩山一郎森恪などに加わって田中を支援したあたりから心境の変化を来したのだという。 これは久原房之助の見方ということになっている。
久原によれば「田中氏鈴木氏の決意に報うべく、田中内閣のとき内相の椅子にを迎えたのである。 これと共に鈴木氏の胸中に大きい変化がおこり、 従来政党ぎらいだったが政党によって雄志を伸ばそうとするにいたったのだ」とある。(前掲書二百十九ページ)
のち、鈴木喜三郎田中内閣の内相になってからは、 治安維持法改正その他の立法をおこなって、左翼運動弾圧に縦横の腕をふるったのは有名だ。 昔の侠客と名前が同じところから、世間では彼を「腕の喜三郎」とよんだ。
朴烈事件
引用この事件の内容は、簡単にいうと、朝鮮人朴烈が、その内妻金子文子と共謀して、 爆弾をもって摂政宮(現天皇)を暗殺しようとたくらんで爆弾の入手を準備中だったというほどのことである。 しかし、準備とみるには何一つ具体性のないことだった。 だが、両人には大審院で大正十五年三月二十五日死刑の判決言渡しがあった。
【中略】 両人は判決をうけると同時に獄に下ったが、それから十日後の四月五日、
「特典ヲ以テ死刑囚ヲ無期懲役ニ減刑セラル」との特赦をうけた。
引用朴烈は本名を朴準植といい、朝鮮慶尚北道に生れた。朴烈は通称である。
問 被告ノ年齢ハ?
答 ソンナコトハドウデモヨカロウデハナイカ。
問 被告ノ戸籍謄本ニヨレバ、被告ハ明治三十五年二月三日生レトアルガ、ドウカ。
答 多分、ソウデアロウ。生レタ日ヲ知ッテイル人ガアルカ。
問 職業ハ雑誌発行人カ。
答 オレハ職業トイウモノヲ認メテオラヌ。強イテイエバ、ソレハ不逞業トイウノデアロウ。
問 住所ハ?
答 君ノイワユル住居ガ現在居ルトコロヲ意味スルナラバ、市ヶ谷刑務所デアル(第一回予審訊問調書)。
当時数えで二十五歳であった。
生家は貧乏していたが、両班といって上流階級の家柄だった。 彼は公立普通学校を卒業してのち、京城高等普通学校師範科に入学したが、三年で退学した。
そのころロシヤ革命の影響などあって、第一次世界大戦後は民族自決の風潮がおこり、 朴烈も朝鮮独立運動や大正八年の万歳事件などをみて、民族主義の血を沸かした。 しかし、朝鮮では弾圧がきびしいので、東京で運動をやろうと考えて日本にきた。
朴烈ははじめ民族主義者であったが、次第に無政府主義者となり、次に虚無主義へと考えが変っていった。 無政府主義に共鳴したのは、大杉栄、岩佐作太郎のもとに出入りしているうちに影響をうけたのである。
朴烈事件判決
引用三月二十五日、両被告に対して判決の言い渡しがあったが、この日の朴烈の服装は、白綸子の朝鮮服、 金子文子は銘仙の袷にメリンスの羽織、髪は朝鮮風にしていた。 彼女はいささか昂奮の様子で、その髪はほつれていた。
牧野裁判長が、
右両名に対する刑法第七十三条の罪並びに爆発物取締罰則違反被告事件につき判決すること左のごとし。
 主文 被告朴準植及び金子文子を各死刑に処す」
と言い渡しを終えると、すぐに金子文子は、
「万歳」
と大声で叫んだ。朴烈は裁判長をまっ直ぐ見て、
「裁判長、ご苦労さま」
とどなった。
大逆罪は大審院特別法廷が第一審であり、かつ終審である。
【中略】
朴と金子文子に対する死刑の判決は、各新聞社が号外を発行してこれを報じた。 これに対する世論は賛否まちまちだったが、社会主義者はもとより、文化人などは事件の根拠が薄弱として死刑に反対した。
ところが、判決から十日後の四月五日には、 朴烈も金子も「特典ヲ以テ死刑囚ヲ無期懲役ニ減刑セラル」との特赦をうけた。 朴烈は千葉刑務所に入れられ、金子文子は宇都宮刑務所栃木女囚支所に収容された。
両人が減刑されたことが、右翼方面を刺戟し、立松判事が大正十四年五月二日に撮影した怪写真とともに、 立松判事の両被告に対する厚遇は司法権を冒涜するものであるとの文書が流布され、 頭山満などの弾劾文になったのである。
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