「昭和史発掘(4)」
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書籍: 文庫(318ページ)
発行: 文藝春秋(1978/08/25)
目次: 天理研究会事件
「桜会」の野望
五・一五事件
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浜口内閣と昭和恐慌
引用昭和四年、田中内閣のあとをうけて成立した浜口雄幸民政党内閣は、 金の輸出解禁を行うと同時にデフレ政策を実施してきた。 大蔵大臣井上準之助は財政の緊縮を唱えて、昭和五年度の予算には一億六千万円の緊縮と、 すでに計画していた八千五百万円の公債発行の全廃をおこなった。 しかし、金解禁と緊縮政策が国民の生活に与える影響はたちまちにして現われ、昭和五年の夏には農村の窮乏がはじまり、 陳情団が東京に押しよせてくる状態となった。 また、行政整理によって多数の官吏が失職し、民間の失業者も巷にあふれた。 不況によって倒産する企業がふえ、失業者は増大し、地方に帰村する失業者の群れは汽車賃がないために徒歩で帰るような 有様だった。新聞は東海道五十三次が時ならぬ賑わいを呈したと報じた。
この失業問題は同時に就職難時代を出現させ、 東京大学卒業生が保険の外交や小学校の代用教員にまでならねばならなかった。 不況による自殺、心中は毎日のように新聞の社会面に現われ、強盗や殺人もふえた。
政府は産業合理化の名のもとに独占企業に対して賃金引下げをすすめた。 たとえば、鐘ヶ淵紡績は昭和五年中に賃金の三〇パーセントを引下げた。
このような工業恐慌は、農村の恐慌ともからみあってもっと深刻になって行った。 農産物価格の下落は、アメリカの不況の打撃もあって繭の値段にまず現われた。 そのため全農民の四割を占める養蚕農家はひどい窮乏に陥った。
長野県の養蚕農業地帯では各農家が現金収入がないため、五銭、十銭と書いた紙を葬式の香奠にもってゆき、 あとで収入があったときに支払うという習慣が一般化した。(歴史学研究会編「太平洋戦争史」)
その年の秋は大豊作が予想されたため、米価が暴落し、いわゆる豊作飢饉が来した。 前年同期の二十七円台に対し、六年一月には十六円台に下落した。 その秋には逆に東北、北海道に未曾有の凶作が起って、これらの地方では馬鈴薯と屑米を混ぜて食べ、 かろうじて命をつなぐ悲惨な状態となった。
だが、一方、工業面では独占資本による生産制限が行われたため、生産品の値段は比較的高いままにすえおかれ、 それと下落した農産物価の差がふえた。 この面からも農民の窮乏はさらにひどくなった。 こうした工業面の規制は独占資本相互間の生産割当、価格協定、販売協定などといった、 いわゆる共同行為運動となって現れた。 浜口内閣の産業合理化政策は、これを強力に推し進めたため、日本の全産業を支配した三井、三菱、住友などの 財閥資本は逆に安泰となり、同時に中小財閥との対立がひどくなって行った。 このような事情は後年右翼テロによって財閥の代表者を仆す原因となった。
草刈少佐自決
引用ロンドン会議に専門委員として出ていた軍令部の参謀草刈少佐が、 ロンドン条約のお詫びのため国民の前に死をもって報ずる、との遺書をのこして自殺したのは彼が帰国直後であった。
「草刈少佐の死を忘れるな」との叫びは、陸海軍青年将校や民間の右翼団体の間に高まり、 浜口内閣、とくに幣原外相に対し、協調外交、軟弱外交との攻撃が激しく行われた。
引用ケマール・パシャは一八八〇年ギリシャ生まれのトルコ人。 青年期から職業軍人として教育を受けたが、 第一次世界大戦にはダーダネルス海峡地帯に上陸した英仏連合軍を撃退して大佐となった。 大戦の結果、トルコは連合軍によって屈辱条約を押しつけられ、さらにギリシャがイギリスのあと押しで小アジアに侵入すると、 彼は農民や資本家の応援を受けて権利擁護団を組織し、時のトルコ政府を否認し、 ソビエトのあとおしでギリシャ軍を破った。 ローザンヌ条約でトルコ共和国が成立すると大統領に選ばれたが、 そのときからアタチュルク(父なるトルコ人の意)の姓を議会から贈られた。
彼は大統領、国民議会議長、最高軍司令官、国民党党首として独裁的権力をふるった。
引用大川周明は、いうまでもなく右翼理論の第一人者。 彼は法学博士の肩書をもち、拓殖大学教授、東亜経済調査局理事長であった。 東大哲学科出身で、本来は印度哲学者である。 法学博士になったのも、印哲研究中に印度の植民史を研究して、その論文を提出したからだった。 以来、アジアの植民史を研究して、アジアの解放と復興とを主張した。
【中略】
一九二〇年、彼は上海に在住中の右翼理論家北一輝を日本によびもどし、 の「日本改造法案大綱」を流布したが、まもなくと訣別した。
大川が軍人方面に知己が多かったのは、彼が東大在学中にアルバイトで参謀本部のドイツ語翻訳を引受けていたからだった。 渡辺錠太郎宇垣一成荒木貞夫杉山元、建川美次、東条英機永田鉄山、岡村寧次らの首脳と因縁が深かった。
引用昭和六年春の議会は、ロンドン条約批准問題をめぐっての喧噪に明け暮れした。 野党の質問に窮した幣原(喜重郎)外相は、
この条約は、すでに天皇陛下が御批准になっているのをみても、その正当性が分るのでございます」
と答弁した。
この失言で議会は混乱した。 野党は幣原の言がいわゆる袞竜の袖にかくれて責任を回避するものとして追及した。 騒ぎは大きくなり、議会は停会となった。
徳川義親
引用徳川義親は越前福井藩の松平春嶽の五男で、 尾張徳川家に養子にいった人だが、理論派社会主義者の石川三四郎の友人で、 早くから国家改造意見をもっていたといわれる。
引用北一輝は本名を輝次郎といい、新潟県佐渡に生まれた。 土地の中学を中退してから上京し、独学で広く社会科学に関する研究に没頭したが、 二十四歳のころ、「国体論及び純正社会主義」という著書を出版して、 国体観に基づき当時の幸徳秋水一派の社会主義を批評した。 それが奇縁となって孫逸仙や黄興、張継などの中国革命家と相識って支那革命党に加入している。 二十九歳のころ、中国第一革命が勃発すると単身中国に渡って、上海、武昌、南京などの各地に革命達成のため画策奔走した。 そのため三十一歳のとき日本領事から三年間支那滞留禁止処分をうけて帰国した。
以後も中国に渡って革命に参加したが、大川周明と相識るようになってから、 「特権階級と財閥とが結託して私利私欲をほしいままにし、国政を紊り、国威を失墜し、 国民生活を窮乏に陥れている」と聞いて大川の考えに共鳴した。 帰国してから彼は「日本改造法案大綱」を書いている。 これは、のちに西田税を通じて改造運動のバイブルとして青年将校や民間右翼有志に広く読まれた。
引用西田税は大正四年に広島地方幼年学校に入学して陸軍騎兵少尉となったのだが、 北一輝と交わるようになり、の「日本改造法案大綱」をよんで、これに深く共鳴した。 大正十四年ごろ軍職を退き、革新運動に従事するため上京し、大川の行地社に入り、 国家革新運動に専念した。 西田は士官学校在校当時優秀な頭脳をもって校内に鳴り、信望を集めていたといわれる。 彼が隊付将校に深くむすんでいたのは、そうした前歴からである。
大川北一輝とが行地社の内紛によって絶縁すると、【中略】 西田大川と縁をきってのもとに走っている。
十月事件と大本教
引用十月十日ごろには、 橋本は藤田の紹介で大本教の出口王仁三郎と霊南坂の藤田邸で会っている。 そのころの出口は、大正十年の弾圧後軍部に接近し、とくに関東軍に接近し、 その線から蒙古入りして彼の地の紅卍教と提携したりなどしていた。
橋本が藤田邸の立派な応接間に入ってみると、六尺豊かな異相の王仁三郎が長髪をたくわえて悠然と腰かけていた。
出口は橋本を見ると、
「あなたが参謀本部の橋本さんですか。世の中の建直しをやるそうですね」
といい、そのあとで、
「あなたが起ち上がった、その日に大本教三千人を動員します。 その翌日には一万人、それから次へ次へと東京に十万人の信徒を集めてあなたに参加させます。 その点ご心配ないように」
といったという。これは橋本欣五郎が書いていることをそのまま取次ぐので、 真偽のほどは保証できない。
引用井上日召は本名井上昭といい、群馬県利根郡川場の開業医の三男に生まれた。 長兄は父親と同じように医師となったが、彼は前橋中学を卒業後、ある専門学校を二年で中退し、満州に渡った。 これが明治四十三年のことである。
井上昭は小学校時代から、ものの善悪の問題について、深く考える性質だった。 彼は長ずるとともに人生問題について深刻な煩悶をつづけるようになった。
は小学校時代の末ごろから、人はなぜ忠孝を守らなければならないのかと考え、 その解決がつかずに悩んだこともあった。 専門学校を中退したのも、当時の教育が彼の疑問に応えてくれなかったからである。
煩悶した井上昭は満州に渡り、ついで中国本土に移った。
そこでは商売をやったり、中国人といっしょに支那革命運動に参加したり、 陸軍情報機関ではたらいたり、いわゆる満州浪人や大陸浪人といわれるものの生活を体験した。 彼は、ここで「理屈を超えた祖国愛と人生に対する真剣な心構えを得た」といっている。
井上昭が日本に帰ったのは大正九年のことで、久しぶりに見た祖国の現実は、彼の眼にこう映った。
「社会主義者の増加、極左翼の暴虐、労働大衆の赤傾、指導階級の狂暴無自覚等々で、 見聞するに従って極端にこれを憎悪し、呪わしい感情が洪水の如く私の全心に蔽いかぶさっていた」
井上昭は、中国にいるとき知り合いになった本間憲一郎、木島完之、前田虎雄などと帰国後もつき合っていたが、 彼らが左翼に対抗して日本主義的な労働運動を考えているとき、井上は、 まず自分の煩悶を解決したうえ確固たる信念で事にあたらなければだめだと考えて、これを断った。 それから彼の修養時代が始まったのである。
彼は満州にいるとき曹洞宗布教師のもとで参禅したことがあるので、 故郷の父のもとに帰ると、しきりと坐禅をしたりして思索生活をつづけた。 あるときは、村の共同墓地の近くにある小屋にひとり籠って坐禅を組んだり、法華経の題目を唱えたりした。 こうして彼が自分の煩悶解決に到達したのが大正十三年の初夏の頃だった。
井上が得た信念とは、現在の国家の状態を改造しなければ日本も日本国民も救えないという結論であった。 そこで彼は、国家改造を成しとげるために、各方面をまわって現在の情勢と、その対策を知るようにつとめた。
その結果、政党政治家も、特権階級も、財閥も腐敗し、これに宗教団体や御用学者、 教育家の一群が迎合していると断じた。 彼は、また、まじめな学者や宗教家、その他、心ある識者は、 いまにして日本を改革しなければとうてい国家の発展はできないのみならず、危殆に陥ると心配していることも知った。
一般大衆は深刻な不景気に悩んでいるのに、為政者はこれを座視し、私利私欲にふけっている。 こんなことでは社会主義的風潮はますますはびこり、国体観念は失われ、 国民の一部は革命がくるのを期待しているかのようにも彼の眼には映った。
藤井斉
引用藤井斉は、海軍兵学校の同期生や下級生、とくに、 自己の出身が佐賀県であるため同県人の同志獲得にもつとめた。 また一方では、民間の改造運動者大川周明北一輝西田税らと連絡をもち、 それらの情報を得てはこれを部内に伝え、ますます革新機運を部内に高めることにつとめた。 「藤井は真の革命児ともいうべき人物であった」とは、東京地方裁判所斎藤三郎検事の報告文中にある一句である。
引用昭和七年二月は、犬養政友会内閣によって一月に解散が行われ、総選挙の最中だった。
その九日夜、東京第二区民政党公認候補の駒井重次(東京駅で狙撃された浜口首相の親戚)の政見発表演説会が 本郷駒込追分にある駒本小学校で行われた。 午後八時すぎ、この駒井候補の応援演説のために、 民政党の前大蔵大臣井上準之助が電車通りに面した裏門から自動車を乗りつけた。 駒井候補は車からおりた井上を誘導するように二、三歩先を歩いていた。
この二人を迎えるため裏門附近は人が集っていたが、その群衆の中から、 突然一人の若い男が現れて井上の背中にぴたりとついた。 集っている人も何のことか分らないまま見送っていると、歩いている駒井の耳に、突然、 パチンという癇癪玉が破裂するような音がした。 駒井がうしろをふりむくと、井上はステッキをもったまま小さくかがみこんでいる。 つづいて二発、パチン、パチンと音がした。
井上のうしろに若い男が突立っていたから、駒井は瞬間変事を覚って、その男に近づくなり衿髪をとって 大外刈で地上に投げとばした。駒井は柔道三段であった。
そこへ会場の人もかけつけて、若い男をステッキなどで殴った。 警官に引渡したときに見ると、井上を狙撃した犯人のピストルは手の中に入るような小さなものだった。
井上は自動車に乗せられ、すぐに帝大病院に向った。 自動車がゆれると、痛い痛いといっていた。病院に運ばれたときはすでに意識を失っていた。
手術室に運ばれたときは、手のほどこしようはなく、八時十五分に絶命した。
引用井上準之助は大分県出身。 明治二十九年東京帝大を出ると日本銀行に入り、横浜正金銀行頭取を経て日本銀行総裁に転じ、 第一次大戦後の金融対策にたずさわった。 関東大震災の善後処理にも蔵相として努めている。
大正八年、日本銀行総裁のときは金融恐慌に尽力したが、昭和四年、浜口内閣のもとに大蔵大臣として就任し、 緊縮政策を実施し、金解禁を断行した。 彼は次の第二次若槻内閣にも留任して、その政策をつづけた。
これらの政策は、おりからの世界恐慌の影響と日本資本主義の弱さから彼の思う通りの成果をあげえず、 国内は空前の不況となり、若槻内閣は、ために崩壊した。
しかし、井上準之助は民政党の筆頭総務となり、選挙対策委員長を兼ね、 当時はさながら副総裁の実力があった。
引用井上準之助暗殺されてからひと月にも満たない三月五日午前十一時ごろ、 日本橋三井銀行南側の三越寄り舗道に自動車を乗りつけた団琢磨は、 いつものように給仕などが出入りする左側通用口を入ろうとした。
そのとき、日向ぼっこでもしているような恰好の二十一、二くらいの若者が、突然、 傍からとびだして、ブローニング六連発をむけると同時に発射した。 はその場に倒れ、すぐに銀行の五階医務室に運ばれたが、かけつけた慈善病院の医師の治療も及ばず、 午後零時二十分ごろ絶命した。 医師がかけつけたときは十一時四十六分ごろで、そのときすでにの瞳孔にはまったく反応がなく、 脈もとまっていたから、これもほとんど即死である。七十五歳であった。 ピストルの弾丸は彼の胸部を射抜いていた。
イガグリ頭に黒の背広をきた犯人は、その場で同銀行請願巡査にとり押えられたが、 これが菱沼五郎であった。 菱沼は茨城県那珂郡前渡村出身で、日召の指令によって初めは伊東巳代治の暗殺担当者であった。
引用団琢磨は安政五年福岡県に生まれ、 アメリカのマサチューセッツ工科大学で鉱山学を修め、帰国後は当時官営だった三池鉱山局技師となった。 三池が三井に払下げられてからは専務理事となり、その後次第に三井全体の幹部にすすみ、 三井合名の理事長になったのは大正三年であった。
は大正時代から昭和初年にかけての三井財閥の最高指導者であり、 また日本工業倶楽部や日本経済連盟会(今日の経団連の前身)の創立者でもあり、 その初代理事長や会長であった。 実に当時の独占資本の代表的存在であった。 三菱が民政党とむすんだのに対し、三井は政友会と結託してきた。
引用犬養毅は岡山藩士の倅だが、上京して慶応義塾に入り、 郵便報知新聞記者として西南戦争に従軍した。 彼が巻脚絆で戦地を駈けずりまわって報じた「戦地直報」は、わが国最初の従軍記事として好評を博した。 慶応の関係から岩崎の支援をうけ、東海経済新報などを主宰したが、一時は官途についていたこともある。 有名な明治十四年の政変で大隈重信に殉じて下野した。
明治二十三年、第一回衆議院議員選挙には岡山県から当選し、進歩党を経て憲政会に入った。 その後国民党を創立し、爾来野党的立場を守って活躍した。 頭山満とともに孫文援助のため中国に渡ったこともある。
だが、寺内内閣のときには外交調査会に原敬とともに参加して、 はじめて節操に動揺を来し、帝国主義権力と次第に妥協するようになった。 第二次山本権兵衛内閣の逓信大臣となったが、例の護憲運動が起ると、自分の率いた革新倶楽部とともに護憲三派に加わり、 加藤内閣では逓信大臣となった。
大正十四年、革新倶楽部がもちこたえられずに政友会と合同したが、 一時は政界から引退した。 しかし、田中義一の死去後は森恪の懇請によって政友会総裁となり若槻内閣のあと、政友会内閣の首班となった犬養は清廉潔白な政治家と世間で見られ、木堂の名によってその書も知られている。
引用牧野伸顕は、大久保利通の二男として鹿児島県に生まれた。 明治四年には岩倉具視一行についてアメリカに留学し、十一年、外務省書記生となってロンドンに在勤した。 そのころ憲法調査のためイギリスにきた伊藤博文の知遇をうけたが、 もちろん、大久保利通の倅というところで伊藤が特別に目をかけたのであろう。 いうまでもなく、伊藤は大久保利通に薫陶され、大久保亡きあとはその衣鉢を継いだ第一人者だ。
帰国後、福井、茨城県知事などを経て、文部次官、オーストリア、イタリア公使などをしていたが、 明治三十九年、第一次西園寺内閣の文部大臣となった。
その後は枢密顧問官となり、また第二次西園寺内閣では農商務相となり、 山本権兵衛内閣の外相であった。 パリ講和会議には西園寺とともに全権となって現地に赴いている。 大正十年、宮内大臣となり、十四年に内大臣となった。
こうした履歴でも分る通り、牧野は宮中にも外務省にも欝然たる勢力を張り、 また政党と官僚の媒体者でもあった。 なお、吉田茂はその女婿である。
牧野内大臣官邸襲撃
引用牧野内府官邸では、古賀海軍中尉が車から降り、 手榴弾を紐ぐるみにぎって門を越し中に投げこんだ。 轟然と爆発したが、それまで門の右側に立って警戒していた巡査が驚いて古賀中尉のほうにかけよってきた。 古賀がピストルをさしむけると、巡査はおどろいて背中をむけ、門内にかけこんでゆく恰好をした。 その間一髪に古賀はピストルを発射した。巡査は重症を負うている。
池松武志は古賀につづいて手榴弾を門内に投げたが、これは不発だった。 その間、西川武敏は運転手の眼の前に拳銃をつきつけて車が走り去らないように脅迫していた。 これらの襲撃に要した時間は四、五分間であった。 それから一同は、警視庁の巡査隊と対決するためにそっちに向った。
引用三月十四日、 愛郷塾で川崎は同志の林正三から暗殺用のピストル一梃と実弾八発をうけとった。
五月十五日朝、彼は愛郷塾から上京して、その日の夕方六時すぎに代々木の西田税方についた。 計画では西田暗殺は午後六時半と決められていた。
川崎が西田家を訪れると、顔見知りの西田の妻が二階に上げた。そこは六畳の間だった。 西田は着流しで出てきて気軽に川崎と話をした。 このときはすでに海軍軍人組が首相官邸や牧野内府官邸を襲って一時間も経っている。 やがて時計は七時近くになった。
川崎は西田の隙をうかがって拳銃をとりだし、筒先をむけた。 西田はとっさに身体を避けながら、
「何をするか」
と叫んだ。川崎は弾丸を乱射する。西田の身体は見るうちに赤くなったが、 気丈な彼はその重傷にもめげず川崎に抵抗してきた。 川崎は西田の気魄におそれて階段を走りおりた。 西田は何歩か追って行って倒れた。
しかし、生命に別条なく、右側胸部、下腹部ほか三ヵ所に貫通と盲管銃創を負っただけですんだ。 だが、かなりの重体で、治療三ヵ月を要した。西田暗殺は失敗に帰した。
大川の対立
引用「行地社」のほうも北一輝大川の対立で分裂したことはたびたび述べたが、 その動機の一つに北一輝が撒布した牧野に関する怪文書事件が入っている。 怪文書は、牧野宮相をはじめ宮内省の高官が北海道の御料林払下げに関して多大な収賄をしたという内容だ。
この怪文書には、だけでなく、彼の右腕の西田税も加担している。 そして、牧野と交際をしている大川が金銭的に不自由していないのは、 あれは牧野の汚ない金が大川に流れているからだとの噂も立った。
牧野の汚職糾弾について大川周明は述べている。
「しかし、私は牧野宮相と数年交際し、ほかにいかなる欠点があるにせよ、 金銭上の潔白については秋毫も疑惑を挿むことを許さなかったので、断乎としてこれ(西田牧野弾劾)に反対しました」 (【中略】 大川尋問調書)
すなわち、このときから、大川は徹底して牧野を擁護していたのである。
しかし、金銭的なことでは大川にも北一輝に対する言分があった。 は口ではきれいなことを言いながら、生活費は三井から出ているではないか、というのである。
これは事実で、北一輝も訊問調書のなかで、「生活状態は二年ほど別に収入がありませんので、 三井の有賀長文氏(註・三井合名の理事)から、のち池田成彬(三井合名の理事長)に引継ぎまして、 盆暮におのおの一万円ずつ支那関係からして昨年末まで貰っておりましたので、 その金でやっております」と自供している。(昭和十一年三月、警視庁関口照里に対する陳述)
支那関係からしてというのは、多分、が上海時代に生じた三井との関係であろうが、 年に二万円の金は、が右翼方面の情勢を三井に伝える情報料として受取っていたと 反対派に攻撃されても仕方がないところであろう。 何となれば、三井といえば、彼らが糾弾する腐敗せる独占資本階級の頂点だからだ。 その三井から金を貰って生活していたというのだから、これはには最も痛いところである。
いずれにしても彼らはみな浪人だ。 定職をもたないから金銭的にはこうした因縁がどうしても出来やすい。
引用田中義一内閣の外務政務次官だったが、 張作霖爆死後、田中の関東軍奉天移駐抑止策に反対して田中とは訣別した。(「満洲某重大事件」参照) 以後、彼は陸軍部内の大陸拡張派と結んできた。
は、その後、野党時代の政友会幹事長となり、犬養内閣には「大」書記官長であった。 はまた田中内閣以来荒木とは親交関係があり、荒木犬養内閣の陸相にしたのはであった。 また小磯国昭ともはよかった。
「陸軍はもちろん、海軍、右翼方面、その他あらゆる方面にの触手は伸びていた。 かくのごとくにしての地位は一個の内閣書記官長を遥かに飛躍して、 むしろ副総理としての実質を備えていたのである」(山浦貫一「森恪」)
また、満州事変後日本が国際連盟を脱退したのもの推進で、陸軍の鈴木貞一、 外務省の白鳥敏夫とともに謀ったことだった。
しかし、その後、は、内閣改造問題その他で犬養と心が離れている。 彼は、犬養内閣を倒して、そのあとに平沼内閣の擁立運動を考えていた。 犬養の外交政策に慊らず、徹底的に軍部色の内閣の出現を望んでいた。
天行会事件
引用天行会は頭山秀三のつくったものだが、 五・一五で頭山秀三が身の危険を感じ所在を晦ましたことから、児玉らは財閥、政党の巨頭、重臣の邸宅を襲撃し、 爆弾を投じ、またはガソリンをそそいで放火して邸内に闖入、拳銃で目標人物を殺害、 同時に各所発電所の破壊によって帝都を暗黒化して擾乱に陥らせる計画をした。 つまり、五・一五事件の蹶起組の完全な後継ぎだ。 これも事前に発覚し、児玉は千葉県下で捕えられ、逃走中だった頭山も杉並区内で逮捕されたのである。
引用神兵隊事件とは、右翼の天野辰夫を総帥として、同志前田虎雄との協力で行動を起し、 以て「一死奉公の日本魂に殉ずる」ことを念願としたものだ。
彼らは斎藤内閣を以て現在の特権支配階級の最後の防砦であると規定し、 これを打倒し、一挙に国家統治の中枢機構を破壊し、帝都を騒乱化し、戒厳令を布こうとした。
ここまでは五・一五事件の被告や、そのあとの二つの計画と同じだが、ただ、ここで変っているのは、 そのクーデター後に「大詔渙発によって○○を首班に推戴し、以て明治維新を追い、昭和維新を断行して 皇国の永遠無窮の発展を目指す唯一の手段とした」。○○は秩父宮と考えてよかろう。
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