「昭和史発掘(5)」
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書籍: 文庫(270ページ)
発行: 文藝春秋(1978/09/25)
目次: スパイ“M”の謀略
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引用大正十二年九月一日に大震災が起き、その際、 社会主義者や朝鮮人が暴動を起すという流言飛語が流れ、朝鮮人の大虐殺が行われる一方、 社会主義者はほとんど予防検束をうけた。 大杉栄などが憲兵隊に引張られ甘粕大尉に絞殺されたことでも分るように、 亀戸署でも管内の要注意人物として監視していた河合義虎、平沢計七、鈴木直一など九名を逮捕した。 このとき、渡政は第一次共産党検挙で市ヶ谷監獄に拘禁されていたため難を逃れている。
河合たちは、停電で真暗な留置場で革命歌を高唱した(当局発表)。 亀戸署では彼らがほかの検束者を煽動して騒ぎを大きくするものと恐怖し、 近くに出動駐屯していた習志野の軍隊に応援を求めた。 将兵は彼らを警察敷地内の広場につれだし、銃剣で殺してしまった。 警察ではその事件の発覚をおそれ、遺族にはすでに釈放したとか、そんな者は知らないとかいって、 死体は荒川放水路土手に穴を掘って焼き、さらにいずれにか運び去った。「亀戸事件」といわれるものである。
渡政の死
引用九月中旬には、上海から台湾の基隆港に船で着いた渡辺政之輔が埠頭で警官に包囲され、 死亡している。 渡政の死については、彼が警官隊に追われ、重囲の中に自殺したともいわれ、また警官に射殺されたともいわれている。 渡政はピストルで訊問の警官を撃っているから、その場の雰囲気から察して、 追跡の警官に射殺されたという線が考えられやすい。自殺というのは当局の発表である。
特高の歴史
引用三・一五事件ごろは警視庁総監官房に特別高等課というのがあった。 その下に特別高等係、労働係、内鮮係、検閲係といったものが置かれていた。 五・一五事件が発生して以後、この機構の拡張が行われ、特別高等警察部に昇格した。 初代部長として山形県学務部長から安部源基が移ってきた。
その下の特高係は課に昇格し、その第一係は左翼方面、第二係は右翼方面を担当した。 (のち、昭和十一年に二つの係は独立して特高一係は特高一課となる) 初代特高課長は毛利基である。秘密警察としての毛利の手腕はほとんど天才的であったといわれる。
引用小林多喜二の履歴は、手塚英孝の「小林多喜二」が最も詳しい。 いま、これに従って、まず多喜二の生涯をざっと書いてみる。
小林多喜二は明治三十六年(一九〇三)に秋田県北秋田郡下川沿村川口で生れた。 ここは青森県境に近く、大館盆地の中心地大館市にも近い。 秋田から青森へ通じる羽州街道に沿った小部落であった。
多喜二は母が三十歳の年に生れた。父と、二人の兄姉と、継祖母との六人暮しだった。
父は明治二十六年ごろに工事のはじまった鉄道のトロッコ押しなどをしていたが、 このへんは貧農が多く、たびたびの冷害や凶作につぶされて北海道へ永住する農民が多かった。 やがて多喜二の一家も、先に小樽に渡ってパンの製造で当てた伯父を頼って郷土を引きあげ、小樽に移住した。 多喜二もパン工場で働きながら、この伯父の補助で小樽商業、小樽高商と進んだ、小樽高商に入学したのが大正十年であった。
小樽高商に入学したのを機会に彼は伯父の家を出て若竹町の自宅から通学した。 両親はパンの小売をつづけていたが、家族の生活は豊かではなかった。 姉は農産物検査所に勤め、すぐ下の妹は運送店で働き、弟はまだ小学校に通い、末の妹は幼かった。 もちろん、多喜二の学資は伯父の補助によった。
多喜二は二学年に進むと、高浜虚子の長男年尾と校友会誌の編集委員となった。 彼はその年から第二外国語にフランス語を択んだ。 しかし、一方、彼の家では小学校を卒業した弟が上の学校に入学する学資もなく、市内の洋品店に小僧奉公に住みこんだ。
多喜二は、兄が死んだので、小林家の相続者ということで伯父の特別な援助を受けて高商に入れたのだが、 ほかの姉弟の境遇はみじめであった。これが多喜二に絶えず苦痛を与えた。
このころ、彼は「小説倶楽部」や「新興文学」に小説の投稿をつづけた。 この「新興文学」は山田清三郎が編集実務者だった関係で「種蒔く人」とかなり深いつながりがあった。 彼はそこに投稿をつづけていたが、そのうち二つの短編が創作欄に載ってかなり注目された。
小樽高商には教師の大熊信行がいて、多喜二は彼と最も親しくなった。 多喜二が教壇の机の傍で大熊と話しこんでいることがたびたびだったとは、 同じ小樽高商で多喜二の後輩伊藤整の思い出である。
【中略】
多喜二は高商の一学年に在学のころから志賀直哉の作品を熱心に学びはじめていたが、 のちには直接志賀に宛てて手紙を書くようになり、自作を送って批評を求めた。 当時志賀直哉は山科に住んでいたが、多喜二は志賀に直接原稿を送ることはなく、 必ず校友会誌などに発表した作品を送って批評を求めた。 志賀からはときどき返信があったが、その批評はかなりきびしかったという。 多喜二はとくに志賀の初期の作品を学んだ。
小樽高商を大正十三年の春に卒業した多喜二は北海道拓殖銀行に勤務した。 本俸七十円で、小樽支店勤務に決った。 彼は小樽支店に勤めはじめた月に同人雑誌「クラルテ」を発行した。 この雑誌では、アンリ・バルビュスの「クラルテ」の文章を引用してその扉を飾ったが、同人は彼のほか五、六名だった。
【中略】
銀行にいる間も多喜二は休み時間に本を読み、仕事の合間に紙片に原稿を書いた。 彼がそんなことをしていることは次第に銀行内に知れ渡ったが、銀行員としてもすぐれていたし、 同僚との会合にもこころよく出ていたから、あまり異端視されることはなかった。 彼はそのころストリンドベルヒに次いで一貫してドストエフスキーの作品を読んでいた。
彼はそれまで約三十篇の習作的な短篇を書いていた。 初期の作品には学生生活や恋愛をテーマにした幼稚なものもあったが、 貧しい不幸な人への共感が次第に一種の正義感となり、それが社会的矛盾に向ける眼となった。 この間、彼は田口たきという酌婦と恋愛し、彼女をその苦境から救い出したりしているが、 この田口たきの境涯が彼の作風移行にかなりな影響をもたらしたと思われる。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。