「昭和史発掘(6)」 参考書籍
書籍: 文庫(315ページ)
この本を入手発行: 文藝春秋(1978/09/25) 目次: 京都大学の墓碑銘
天皇機関説
陸軍士官学校事件 |
引用七月十四日の東京朝日新聞の投書欄「鉄箒」に「先憂子」という名で
「学者の態度」と題した投書が載っている。
少し長いが次に出してみる。
「天下を論議する政客はいくらでも転がっているが、一身を国家に捧げる志士はない。
諸学説を講義する教授はざらにあるが、真理に殉ずる学徒は少ない。
常に動揺せる文部当局に比し、真理の忠僕、正義の使徒として終始一貫微動だもせず所信に生き、
大学のために玉砕されし京大法学部諸教授の態度に私は満腹の敬意を表し、
その立派な最期に近来になき感激を覚ゆる。
滝川氏の学説が真に国家に有害ならば、京大法学部の閉鎖は云うもさらなり、
これに和する全大学の全滅もまた厭うべきではない。
また法学部の主張が是なりとせば、文相の即時辞職も内閣の更迭も避くべきでない。
大学の自治と云い、研究の自由と云うも、滝川問題より派生したものである。
かくも重大な問題となったにもかかわらず、
本家本元の京都大学ですら問題の核心たる滝川氏の学説についての批判を聞かないのは吾人の深く遺憾とするところである。
私は『刑法読本』を一読し、これが何故にかほどの問題を起したかを怪しむ。
文部当局によって盛んに宣伝された滝川氏の内乱激成、姦通奨励の説のごときも、その実は吾人の常識に一致している。
この書の発行当時、牧野前大審院長が本紙の読書頁でこれを推奨した事実よりみても、
その危険思想でないことくらい見通しがつくと思う。
今日の社会の通弊とするところは、正邪善悪の判明せざるということよりも、
判明しながらこれによって去就を決せず、長きものには巻かれよという態度をとることである。
滝川氏の学説の危険性を認めず、文部省の処置の不当を百も承知しながら、
立って京大法学部を助けようとしない大学教授は救われざる輩である。
学者の真理に対する態度はあくまで厳粛でなければならない。
眼前を糊塗するは政治家の常であるが、学者のすべきことではない。
今となっては致仕方なしなどとは学者として云うべきことではない。
事件の根本に眼を向け、滝川氏の学説の正邪を明らかにして、あくまでも良心的に行動すべきである」
この「先憂子」と名乗った投書の主は、実は岩波書店主の岩波茂雄だった。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.86
引用美濃部は、明治六年に相生の松で有名な高砂で生れた。
父は漢方医だった。一高に入学したときは、一年生のときチフスを患い、一年間まるまる休学したが、
二年への編入試験に及第し、そのまま二学年に入った。
明治三十年、東京帝国大学法科大学を卒業したときは二番だった。
学校のことは一向に勉強せず、酒ばかり呑んでいたためだという。
この点、女郎屋から通った上杉とは、勉学の点では似たり寄ったりだ。
美濃部は上杉より六年先輩であった。
【中略】
明治三十二年、美濃部はヨーロッパに留学、大部分をドイツで暮したが、
ハイデルベルヒ大学のイエリネックの学説に傾倒した。
美濃部にイエリネックの「人権宣言論」の訳業があるほどだ。
上杉慎吉もイエリネックの家に下宿していたのに、帰国後、それとは反対説を唱えたことと対照的である。
明治三十五年に帰朝した美濃部は帝大法科教授に任命され、翌年、当時の文部大臣で、
数学の菊池大麓の長女と結婚した。仲人は一木喜徳郎であった。
一木は仲人は一切しない主義だったが、美濃部のときだけは例外で媒酌人を買ってでたという。
両人の関係が単に学説の継承を超えていたことが分る。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.127
引用一木喜徳郎は遠州掛川の豪農の生れだ。
兄は優秀な文部官僚で、のち文部大臣にもなった岡田良平だった。
ともに二宮尊徳の報徳宗信者の一家として知られている。
一木は東京帝大の政治理財科を優等で卒業したが、この理財の知識が彼を「進歩的」にしたといわれている。
卒業してすぐ内務省に入り、六年間内務官僚として実地の行政に活躍したことも、
あるいは若干影響があるかもしれない。
一木は、その間、行政法を研究するためにドイツに渡った。
明治二十七年、内務省をやめ、帝大法科教授となった。
三十三年、法学博士となって、新進の教授として知られた。吉野作造が入学する一年前であった。
帝大では憲法論の解釈として一木と穂積とが対立していたが、学生の人気は一木に集っていた。
のち、穂積の遵奉者となった上杉慎吉でさえ学生時代には、穂積八束を「曲学の徒」と罵って、一木に傾倒したほどだ。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.128
引用昭和五年、若槻礼次郎が全権となってロンドンで開かれた海軍軍縮会議は、
ついに英米側の主張に押切られて、日本は補助艦の比率でも大譲歩しなければならなかった。
(主力艦はその前のワシントン軍縮会議で対米六割に譲歩した)
海軍はこれを不満とし、軍令部の承認しない軍事関係の条約は無効だと主張した。
浜口内閣は美濃部に意見を求めた。
美濃部は憲法理論にもとづいて、海軍の軍縮に関する問題は政治問題であり、
軍令部の口を出すべき事柄ではないと答えた。
浜口内閣は、こうした美濃部の主張を参考にし、海軍を屈伏させた。
海軍は軍令部長加藤寛治を天皇に直接拝謁させ、条約の拒絶の意見を述べさせようとした。
これを侍従長鈴木貫太郎が阻止したため、軍令部長の上奏は行われなかった。
しかし、政府が兵力数を決めたのは天皇の統帥権に干与したものであるとして、海軍から大権干犯問題が起された。
美濃部はあくまでも法理論から、条約は内閣で決めるものだといい、
浜口首相はその理論通りに主張して、枢密院を屈伏させた。
統帥部は兵力の問題を決めるべきものでないと主張して海軍の恨みを買った。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.146
パリ不戦条約批准問題
引用昭和三年八月にパリで不戦条約が調印され、
この条約文には各国が慣例として、“In the names of peoples”の語をつけたが、
これを訳すと「人民の名において」となり、国体に不適当だとして、野党の民政党は時の田中内閣を攻撃した。
枢密院でも副議長・平沼騏一郎と伊東巳代治あたりが文句をつけ、ついに日本に限り、
右の「人民の名において」の字句は適用されないという宣言をつけて批准された
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.146
美濃部博士の陸軍パンフレット批判
昭和九年十月、陸軍省は「国防の本義の其の強化の提唱」というパンフレットを出した。
美濃部は、それまで機会あるごとに時事問題を論じ、軍部を抑えて議会に声援を送っていたが、彼は、
このパンフレットを見てただちに「中央公論」の誌上に筆を執った。
「陸軍省発表の国防論を読む」がそれだ。
美濃部は、その中でこう書いている。
「この小冊子を読んで第一に感じられるのは、
その全体を通じて好戦的、軍国主義的な思想の傾向が著しく現われていることである。
劈頭第一に『たたかいは創造の父、文化の母である』とあって、戦争讃美の文句で始まっている。
殊更にたたかいと書いて抽象的な説明をしているが、たたかいと云えば戦争であり、
戦争は創造とは逆にこれを破壊するものである。
のみならず、国家生活では国家の平和的生活を保障する機関は皆無であって、
この小冊子は国防が国家の生成発展の基本的実力の作用であると云っているが、学術や産業は全く度外視され、
いつに国防すなわち国家の戦争能力のみに国家の生成発展が依存するように論じられている。
これも軍国主義の思想の現れで、また国際的な経済戦を論じては、
イギリスやオランダがわが商品の輸入を制限しようとするのは明らかに道義に背馳していると書き、
もしあくまで彼らが不正競争を継続するときは、
皇国としては破邪顕正の手段として武力に訴えることあるもまたやむを得ないところであろうと云っているが如きは
あまりにも(削除)または(削除)と云われても余儀ないであろう。
そもそも、国際平和を維持するのはわが帝国の不動の方針であり、
聖天子の御批准を経た不戦条約は歴然としてその効力をもっているのである。
満州事変から生じた結果として帝国は国際聯盟を脱退するの余儀なきに至ったけれども、
国際聯盟脱退の詔書においては畏くも
『然リト雖モ国際平和ノ確立ハ朕常ニ冀求シテ已マス 之ヲ以テ平和各般ノ企図ハ向後亦協力シテ渝ルナシ』と
仰せられているので、陸軍省が聖詔の趣旨に背いて濫りに戦争を讃美し、戦争を鼓吹し、
他国の国防を以て『小乗劒』なりと罵り(削除)ずんばやむを得んというような主張を抱いているはずはない。
不幸にして陸軍省の名において発表されたこの小冊子において、
このような思想の現れとみるべき文字を見るのは甚だ遺憾である。
世界を敵としてどうして国家の存立を維持することが出来ようか。
それは結局国家の自滅を目指すものである。
起草者は、これによって国家主義を鼓吹するつもりであろうが、国際主義を否定する極端な国家主義は、
かえって国家自滅主義、敗北主義に陥るのほかはない」
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.147
引用斎藤内閣は、結局、「帝人事件」で潰れたのだが、斎藤は、
この倒閣の陰謀が平沼と知って、彼に反感をもち、積極的に平沼内閣成立の企図を叩きこわす決意になった。
斎藤は、その意図が平沼や軍部に察知されないように後継内閣の成立に慎重を期した。
後継内閣を決める重臣会議は西園寺の上京を得て開かれたが、その席上、
斎藤は端的に岡田啓介を推し、これに重臣が同意した。
西園寺がこの結果を天皇に奏上して、ここに岡田の組閣が決まったのである。
世間は、岡田が海軍の長老であるところから、当面の非常時局では、ロンドン条約以来海軍を押えるのは岡田のほかはあるまいと、
好感をもった。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.157
引用菊池武夫は、南北朝時代、南朝方の忠臣で有名な菊池武時の後裔。
その先祖の武時は、後醍醐天皇が隠岐から伯耆船上山に戻ったとき、逸早く九州から駆けつけている。
武時の子武敏は、尊氏が京都に敗れて九州に遁走してきたとき、これを博多の多々良ヶ浜に迎撃した。
その子武光は九州南軍の主将として懐良親王を助けているし、武光の子武政も北朝方の少弐の大軍と筑後川の河原で戦っている。
したがって、その後裔の武夫男爵が勤皇精神で美濃部攻撃に情熱をたぎらせた理由は分らないでもない。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.158
美濃部議員、貴族院で弁明演説
引用二月二十五日、美濃部達吉はいよいよ貴族院本会議で、
自説のいわゆる天皇機関説について弁明演説をこころみた。
菊池らから、「反逆者、謀叛者、学匪」と罵られては黙ってはいられない。
しかも周囲の形勢はようやく容易ならざるところに赴こうとしているのだ。
美濃部は、前の晩おそくまでかかって演説の草稿を作った。
東大で講義する草稿とは違い、入念に想を練った。
聴衆は学生と違い、憲法の法理論には素人の議員連である。
院内のみならず、これが新聞によって世間に報道されることを考え、一般国民の理解のため、
分りやすいように論旨を整理し、用語はできるだけ平易につとめた。
美濃部が弁明演説をするというので、二十五日の貴族院は議席も傍聴席も超満員だった。
子息の美濃部亮吉の書いたものによると、「坐る席がなく、
手摺によじ登らなければ父の顔を見ることもできない騒ぎであった」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」)
美濃部の弁明演説はその著書を読まない者にも分りやすく述べられている。
美濃部を反逆者、謀叛者、学匪とよんだ菊池武夫や、三室戸敬光、井上清純などは、
美濃部の五百頁に余る「憲法撮要」など実は一行も読んでなかったのである。
彼らの論旨は、すべて蓑田胸喜からの受売りであった。
美濃部のこの弁明は、ほとんど拍手しないのを原則としている貴族院にめずらしく拍手が湧いたほどの名演説であった。
それは誰にも分りやすく、しかも説得力に富んだものだった。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.168
引用蓑田は明治二十七年一月に熊本県八代郡に生れた。
不知火の海浜である。五高を経て東大文学部に入り、宗教学を専攻した。
卒業後は法学部に再入学し、政治学を専攻しようとしたが、中退して文学部大学院に残り、
大正十一年、慶応義塾大学予科に職を奉じた。
昭和七年三月退職まで約十年間、論理学を担当したという。
当時、慶応の学生だった奥野信太郎の話。
「蓑田は背はむしろ低いほうであり、かつ幾ぶん猫背であった。
そして肩が衣紋竹のように突っ張っていた。
その姿勢からくる一種異様な雰囲気は、さらに時として血走る眼によって一層深められる観があった。
顔の色は黒く、その声は甲高くはなかったが、いつも声高であった。
少し昂奮してくると、その高声は一層増した。
だから、教室において多数を相手にしゃべるときも、相対して語るときも、
その間に声の高度の差異が無かったともいえる。
かれにあるものはただ普段の高声と、昂奮の高声の二種類だけであった。
正直に云って、わたしはかれの話す調子にすこぶる気味の悪い印象を感じていた。
それはややもすると息がはずんで、聞いているほうが気ぜわしくなることと、自問自答にときどき、
“ええ”という文句を挿入しながらとめどもなくしゃべりつづけてゆくところに何かファナチックなものがあって、
そのうちこの人は心臓が破裂してしまいはしないかというような感じがしたからであった」
蓑田は同志の三井甲之と雑誌「原理日本」を主宰していたが、
教員室でもその雑誌の校正に余念がなかった。
一方では、彼は「ファウスト」の講義を連続的に行う会をもっていたという。
そして論理学については第一学期でほんの少しやるだけで、あとは全くそれから離れて、
ほとんどマルクス・レーニン主義の攻撃と、国体明徴に終始していたらしい。
「かれの攻撃の論法というものは、のちの美濃部博士問題でも分る通り、常に他人の言葉じりをとらえるという、
きわめて素朴な原始的幼稚な方法であったから、もしこの方法で行くならば、
福沢諭吉をはじめ慶応義塾関係者には、たとえば、尾崎咢堂翁の如く、かれの餌食になり得る者は相当あったはずである。
しかし、かれは一言半句もそれにふれることがなかった。
人びとによっては専らこれをかれの律義、善良に帰している。
わたしももちろんそうとは思うけれども、気の小さな律義、臆病な善良と、それぞれ形容詞をつけておきたい」
(奥野信太郎「学匪・蓑田胸喜の暗躍」特集文藝春秋・昭和三十一年十二月号)
いわゆる右翼理論家は日本精神主義で、社会科学に弱い。
その点、ドイツ語も読め、マルクス・レーニン主義批判を口にする蓑田は、
当時の進歩的学者をやっつけるチャンピオンになり上ったわけだ。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.184
国体明徴決議
引用三月二十日、貴族院では「政教刷新に関する建議案」を満場一致可決したが、
衆議院もこれにならって、二十二日、政友会、民政党、国民党三派の共同提出による「国体明徴に関する決議案」を
満場一致で可決した。
「国体の本義を明徴にし、人心の帰趨を明らかにするは刻下最大の要務たり。
政府は崇高無比なる国体と相容れざる言説に対し、直ちに断乎たる措置を取るべし」
決議案の提案理由の説明者に政友会総裁鈴木喜三郎が自ら当った。
「わが国体の本義は、すなわち、天皇ありて国家あり、国家ありて天皇あるのではありません。
しかも、これ一体不可分の関係におかせられてあります。・・・・・・しかるに、図らずも今議会において、
この明々白々たる国体に関する議論が行われつつあることは私の最も喜ばざるところである。
しかし、すでに政治上の問題となりたる以上は、ここにその帰趨をたださなければなりません。
しかして、政府は天皇機関説に対し、これを否定しながら躊躇逡巡、
これに対する措置をなさざるは国家のため誠に遺憾に堪えぬ次第であります。
政府は最も厳粛なる態度をもって直ちに適当の措置を取らねばなりません。
ここに本決議案を提出するゆえんであります」
天皇機関説はついに政治問題化した。
軍部がそのファッショ的権力を推しすすめるために、同調者をして機関説を攻撃させていることとは離れて、
政友会は単純にも岡田内閣打倒のみに機関説を攻撃したのである。
愚かなる政友会、ただ眼先の獲物を追うて断崖に足をすべらせ政党政治を自滅させるのだ。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.186
美濃部達吉、貴族院議員辞職
引用固い決意をもっていた美濃部も、九月に入ってついに公職を辞退する決意を固めた。
それはもっぱら松本烝治の説得によるもので、それまで最後まで頑張るべきだといっていた松本も、
司法省で友人の中島次官、大森洪太民事局長と会い美濃部の起訴問題について懇談した結果だった。
すなわち、松本は、詔勅批判の件で起訴せざるを得ないという司法省の強硬意見を聞き、かつ、
次官と局長から、美濃部が公職を辞退するなら起訴猶予とするから何とか辞職の方向にすすめてくれ、
とたのまれたためであった。
そこで松本は、美濃部が起訴されると公判が開かれる、そうなると機関説問題は彼に攻撃が集中し、また、
その公判段階から一木や金森に当然災いを及ぼすことになり、
さらに美濃部の身の上にどんなことが起るかもしれないと考えて説得したのだった。
「九月九日の夜のことだったとおぼえている。
松本(烝治)博士は父と懇談し、公職を辞退することをすすめられた。
父は案外あっさりと松本博士のすすめに従った。
全くあっけないようだった。
隣りに住んでいた私も呼ばれ、『亮吉、貴族院をやめることにしたよ』と笑いながら言った。
・・・・・・いろいろ考えた末、いくら反抗しても、こういう時勢ではどうにもならない。
しかし、父はあくまで、辞職したから起訴猶予になったという形は取りたくない、起訴猶予になってから、
世間を騒がして相すまなかったということで公職を辞退することにしたいと主張した。
そして、父のいい分が通った」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」)
美濃部は、公職を辞退するつもりであると述べたので、九月十九日、美濃部に起訴猶予の内定がなされた。
起訴猶予といっても有罪は有罪である。
美濃部の著書が出版法に抵触しているので、これを有罪としたのだ。
美濃部は、その決定が公表される二十一日、貴族院議員辞職を公に声明した。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.218
総選挙[19]
引用二月二十日(昭和十一年)には総選挙があった。
天皇機関説を最も攻撃していた政友会は惨敗した。
鈴木政友会総裁は選挙区の神奈川で落選した。
その反面、機関説に消極的だった民政党が進出し、無産政党も五名から二十一名に躍進した。
国民は実体は分らずとも軍部ファッショが戦争を誘発する危機を感じとっていたのであろう。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.223
荒木陸相の没落
引用荒木は皇道派の先頭に立っている人物であり、
生来の陽気な性格から国粋主義を吹聴していたので、青年将校たちの人気を集めるようになった。
荒木が陸相になったとき、青年将校たちの期待は非常なもので、すぐにも荒木が劃期的な革新を断行すると思っていた。
また、一方、政党や財界は、荒木なら部内の急進分子を抑えることができると期待した。
ここに荒木の人気の矛盾があった。
荒木の没落は、こうした矛盾のためである。
結局、彼は両方とも満足させることができなかったのである。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.235
真崎参謀次長更迭
引用閑院宮参謀総長は真崎次長をきらっていた。
あらゆる軍事機密の報告類は真崎次長のところで止まり、すべての重要事項は真崎が決定したあと、
形式的に参謀総長宮の決済を仰ぐ状態であった。
それでなくとも真崎が荒木とむすんで着々その閥を部内に固めてゆくのを見て閑院宮は憤慨していた。
元来が真崎ぎらいになっているのに、反真崎派からいろいろな状況が伝えられるので、
ますます機嫌を悪くした。真崎が書類をもって行くと、
「真崎、これはどういうわけか」「あれは少し妙ではないか」「参謀本部内の融和ができていないというではないか」
真崎はもちろん次長を辞める意志はなかったが、
閑院宮から「おまえも、もうこの辺でよかろう」といわれたので、やむなく引きさがったのである。
真崎も相手が皇族であり、総長とあっては一言の抵抗もできなかった。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.242
秦真次
引用秦は福岡県小倉の出身。
杉山元とは小学校の同級生である。
明治四十二年陸大卒で昭和二年には奉天特務機関長をやり、第九、第十四各師団司令部付を経て、
東京湾要塞司令官となり、憲兵司令官となったのが昭和七年である。
彼が退役一歩手前の東京湾要塞司令官から拾われたのも真崎のお声がかりで、
そのためひたすら真崎には忠勤を励んだ。
元来が真崎の好きそうなコチコチの敬神家で、古事記・日本書紀や祝詞に通じ、
退役になってからは神官になったくらいだ。
毎朝起きると必ず「君が代」を高唱するのを常とした。
秦は奉天特務機関長時代におぼえた趣味もあって、しきりと反真崎派の連中を憲兵に追いまわさせた。
その極端な憲兵政策は、のちに東条英機によって復活するのだが、
東条もまた関東軍憲兵司令官の経験によって同じやり方を用いている。
他人の動静を探知するのは誰にも面白いものらしい。
林陸相でさえ護衛名義でつけられた憲兵に追いまわされ、重要な電話は自宅からもかけられなかったという。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.255
ソ連、日ソ不可侵条約締結を提議
引用昭和八年、ソ連から日本に対して日ソ不可侵条約の締結を申しこんできたことがあるが、
荒木らは、ソ連は共産主義国だから日本の国体とは合わない、不可侵条約を結べば、日本は赤化する、
ソ連とはいずれ一戦を交える運命にあると主張したので見送りのままとなっていた。
陸軍の仮想敵国は伝統的にロシヤであった。
荒木はもう一度日露戦争を起すくらいの気構えだった。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.259
永田軍務局長と国策研究会
引用永田新軍務局長のもとに国策研究会が本格的に発足したが、
軍人の知恵だけでは具体策が出来るはずはなかった。
そこで、官僚の中堅層と結んで、それを外郭団体とし、そこで国策を立案させ、
その結論の線を軍の威力で陸相が閣議に出し、政府に実行させる方法を案出した。
もともと官僚の緻密な頭脳には政党の政務調査会でも太刀打ちできない。
永田らの要請に応えて参加した官僚は岸信介、唐沢俊樹、和田博雄、奥村喜和男、迫水久常、小金義照、相川勝六などの
各省の局、課長級であった。
このときの彼らの立案がのちの「国家総動員法」や「電力国営」などの政策になるのだが、世間は、
軍部に積極的に協調する彼らを評して「革新官僚」と名づけた。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.260
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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