「昭和史発掘(8)」
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書籍: 文庫(327ページ)
発行: 文藝春秋(1978/10/25)
目次: 二・二六事件 二
  相沢公判
  西田と青年将校運動
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栗原安秀
引用栗原安秀は、 佐賀県神埼郡境野村出身の陸軍大佐栗原勇の長男として明治四十一年十一月十七日に生れた。 しばらくして東京に移り、目黒区駒場の家に育ち、名教中学から陸軍士官学校に入った。 昭和四年陸士第四十一期生として卒業、同年十月少尉に任官と同時に歩兵第一連隊付となり、連隊旗手をつとめた。 同期生に同じ二・二六事件で処刑された中橋基明、対馬勝雄の二人がいる。
引用昭和八年十一月、埼玉県熊谷市に起ったこの「不穏事件」は、 検挙されたのがこの地方の民間人ばかりで、そのうち公判にまわされたのは、わずか七人だった。
当時拓殖大学の学生だった吉田豊隆は政党、財閥が腐敗堕落し、農村が日に日に疲弊し、 しかも失業者が巷に溢れ、外には一九三六年の国際危機が迫っていることを常から憂い、 北一輝の著書の影響などから昭和維新の実現を期し、同志の獲得につとめた結果、昭和八年四月ごろ、 熊谷市付近の青年から同志を得た。
たまたま、八年六月下旬、新聞記事で、十一月十四日、川越市で政友会関東大会が開催され、 同会総裁鈴木喜三郎以下党幹部が出席することを知ると、これを好機とし、十一月十日、熊谷市に集合して、 鈴木喜三郎政友会総裁の暗殺計画を謀議していたものである。 これが埼玉県警察部特高課の知るところとなって、前日の十一月十三日、一斉に検挙された。 以上がその公訴事実である。
これに栗原安秀が深く関係していた、というよりも栗原中尉が日大生水上源一を通じて吉田豊隆を知り、 この埼玉の青年同志を組織したのである。 しかし、予審終結決定書にも、公訴事実中にも栗原中尉ら現役将校の名はまったく出ていない。 事実は吉田、水上らが八年一月ごろ栗原と話し合うようになってから彼の計画に賛成し、 栗原少尉(当時)を中心に実行方法を練ったのだ。
実行計画によれば、栗原や近歩三の中橋基明らの青年将校が兵をひきいて出動する、 これに学生、農民が呼応して蹶起し、西園寺公牧野内府斎藤首相鈴木政友会総裁などの重臣を襲撃暗殺し、 また警視庁を襲うというものであった。 決行を九月二十二日の夜と決めたが、これもすべて栗原の発案である。
新聞発表を読んだ者は、鈴木総裁などを殺したところで仕方がないと思ったにちがいない。 果してこの当局発表にはトリックがあった。 つまり、前記のように現役軍人が首謀者となって、五・一五事件神兵隊事件のようなことを計画していたと発表すると 再び世間に大衝撃を与えるので、従犯的立場の民間側を切りはなしてこれを独立犯罪となし、 その反抗企図も「鈴木総裁暗殺計画」だけにしぼったものである。 軍部の圧力に屈した警察と裁判所の奸計だが、 その裏には当時軍中央部に実力を持っていた皇道派首脳の圧力があったと考えられる。
【中略】
このようにして、栗原中尉には何の処罰もなかった。 栗原だけでなく、いっしょに名前の出た近歩三の中橋基明中尉、歩一の香田清貞大尉、同丹生誠忠中尉、 同佐藤竜雄中尉、同中村雅郎少尉、同前田仲吉軍曹、同尾島健次郎軍曹も処罰されなかった。 ただ、中橋中尉の場合はちょっと違うが、それはあとで書くことにする。
栗原安秀
引用栗原中尉は青年将校の急進派中の急進だ。 彼は口癖のように実力行使を「おれはやる。必ずやる」といっていたので、 彼等の間には「ヤルヤル中尉」というアダナがあった。 栗原の「やる、やる」は言葉だけでなく、実際に単独でも行動に訴えかねなかった。 彼は同志の間ですら「危険人物」視された。
永田鉄山と三井
引用二・二六事件後、東京憲兵隊の取調べをうけた池田成彬の供述によると、
「私は昭和十年七月頃、永田の親戚の太田亥十二の紹介で料亭錦水に於て満州の話を聞いた」
とある。
池田永田に遇っているくらいだから、有賀も遇ったのであろう。 ただ、そこで永田から「満州の話」を聞いたというのは池田供述の粉飾で、 おそらく池田は陸軍部内の事情を永田から聞いたに違いない。 あるいは満州の話にかこつけてその点を引出したのであろう。
引用昭和四年、田中義一内閣時代の賞勲局総裁だった天岡直嘉が財界人から金をもらい 職権によって勲章を濫発したのが「売勲事件」である。
引用村中孝次は明治三十六年十月三日、北海道旭川市に生れ、 旭川中学から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校に入った。 大正十四年卒業の第三十七期生で、同期には香田清貞大尉がいる。 少尉に任官して旭川歩兵第二十六連隊付となる。 「所謂○○(十月)事件の手記」を書いた田中清もこの連隊に籍を置いていた。
昭和三年に中尉にすすみ、陸軍士官学校の区隊長に転じた。
区隊長時代の村中は、生徒に皇道精神、革新思想を説いた。 五・一五事件に参加した士官候補生は村中の影響を強くうけたものばかりである。 また、二・二六事件の中島莞爾、安田優、高橋太郎の三少尉もやはり彼の教え子だった。 村中はこのころから西田税のもとに出入りしている。
末松太平の「私の昭和史」には、藤井斉大尉(のち上海で戦死)、古賀清志、中村義雄両中尉、大庭春雄、 伊藤亀城少尉(五・一五事件の連累者)らの海軍や、菅波三郎中尉、井上日召、 渋川善助らとともに村中西田家の常連だったとある。
五・一五事件の参加候補生に思想的影響を与えたということで、 村中は旭川連隊に戻された。
昭和七年十二月、彼は陸軍大学校に入学した。 皇道派青年将校のほとんどが陸大に入っていないのに、彼だけは異例だった。 当時、革新思想をもつ青年将校たちは、天保銭組の軍上層部や幕僚たちの官僚的な出世主義に反撥していたから、 故意に陸大の入試を受けなかった(第七巻二五三頁以下参照)。 事実、二・二六事件関係者で陸大に入ったのは村中だけである。
村中が陸大に入学したいきさつでは大蔵栄一の談話がある。
村中は士官学校区隊長時代、上官から陸大受験をすすめられて断ることができず、 合格ラインのスレスレで落ちることを考えて答案を手加減して出した。 結果は最下位合格者の二人くらい下で、危うく及第してしまうところだった。
そのあとで五・一五事件のとばっちりで旭川に飛ばされた。 東京をはなれるとき、村中は同志に、今度は合格して東京に戻るよ、と約束した。 革新運動の中心は、やはり東京だからだ。予定通り村中は合格して上京した。 村中の頭脳のよさを語る挿話である。
九年三月に大尉に進む。この前後に田中清少佐と親交がある。 その年、例の士官学校事件で磯部浅一と共に検挙された。
村中が「理論家」というのは関係者がひとしく認めている。 彼は相沢公判対策で「相沢中佐の片影」を書き、直心道場から出ている「大眼目」には「相沢精神」の普及に筆をふるった。 理論は不得手で、行動主義の磯部にはこれが不満である。 そのため、磯部村中と別居するという、ちょっとした分裂が生じる。
村中にはおそらく文章に対する自信があったのだろう。 事実、彼が獄中で書いた「丹心録」「続丹心録」は漢語を駆使した一種の名文で、 他の連累者のものより図抜けている。 論理の展開にも晦渋がない。 こういうところを見込まれて西田に「文書合戦」の執筆部門を頼まれたのであろう。
三井合名
引用三井合名(資本金三億円)といえばコンツェルンの最高指導部である。 支配下のあらゆる産業に指令を出し、統制し、資本を投下し、利益をかきあつめる。 直系、傍系、投資関係のすべての企業会社の株を所有して絶対支配をつづける一方、 その利潤(株配当)の蓄積をしている。その直系と傍系は非公開株であった。 社長は総本家三井八郎右衛門で、以下、本家、連家と名のつく一族十一家が役員として坐っていた。 これが主人で、理事長というのは、いわば三井の一番番頭である。
引用池田成彬北一輝とはじめてあったのは、 有賀長文の紹介であった。 有賀は三井の温厚篤実な番頭の一人である。 その有賀にを紹介したのは中野正剛であった。
これまで池田から情報費として金をもらっていたことは関係書に出ている。 たとえば福本亀治の前掲書には、事件後、福本が池田をひそかに取調べた結果、
池田成彬から毎月数万円の生活費が北一輝に与えられていた。 其の交換条件として、から軍部並に右翼運動の情報が池田成彬に提供されて居った」
ことが判明したとある。
有賀長文
引用有賀は帝大を出て農商務省の官吏として局長あたりまでなったのを、 井上馨に引張られ明治三十五年三井合名に入り、それより三十五年間、一歩も合名の外に出ず、 商売には手もふれず、三井の番頭として終始した。 「その晩年はファッショの嵐の真唯中に三井を背にしながら身を挺して右翼や急進軍人などと会見したりして 諒解を求めていたのは筆者等もよく知っていたところ」(和田日出吉「三井コンツェルン物語」)
有賀はそのころ筆頭常務理事を辞し、池田成彬にバトンタッチしたが、 その右翼対策や急進軍人対策も池田に引継いだ。
引用池田成彬は米沢の上杉家の家老の長男として生れ、 三田の福沢塾に入ったのが十八歳、明治十二年だった。 福沢諭吉池田少年に対して「イエスかノーか必要なときにはっきり云い切れることが処世の根本義」だと 教えたそうである。(和田・前掲書)
団琢磨が倒れたあと、有賀の筆頭常務理事時代があるが短かった。 実際、のあとを受けて三井の独裁的存在となったのは池田である。 彼が外遊してヨーロッパ諸国の財閥機構を見てまわったのはさきにふれたが、 ファッショの嵐の中で三井の「大転向」をやったのは池田の実力である。 三井一族の引退、役員の定年制の実施、報恩会の設立による三千万円の寄付行為などみな池田の独裁力からである。 しかも、彼が三井一家のためを想う番頭であること有賀以上であった。 定年による引退前の彼の数年間は軍ファッショが三井一族に災害が及ばないように腐心し、 そのために精力を使い果したといわれる。
引用中野は、はじめ犬養毅の革新倶楽部に属していたが、 憲政会に移り、のち幹部の安達謙蔵とともに脱党、まもなくその安達とともに結成した国民同盟からもとび出して、 軍国主義色の強い少数党をつくったりこわしたりした。 彼は自ら「分離主義者」と称していたが、十三年に独伊に旅行してからヒトラーの礼讃者となった。 日本に戦争を推進した一人だが、東条の独裁的傾向がつよくなったころから彼とはなれ、 さらに独伊軍が北アフリカで連合軍に降伏すると、東条打倒、宇垣擁立の重臣工作をして東条の憎悪を買った。
それはともかく、昭和六年ごろの中野は熱心な「満州国即時承認」論者で、 関東軍の板垣征四郎石原莞爾を「崇拝」した(猪俣敬太郎「中野正剛の生涯」)。 その二年前の中野は、同じ関東軍が張作霖を爆死させた「満州某重大事件」田中義一第五十六議会で激しく追及し田中を窮地に立たせたのだから、たいそうな豹変ぶりである。
引用明治十六年、佐渡湊町に生れた北輝次郎は中学四年で退学し、 十九歳で無断上京したが眼病を患って帰郷(右眼失明)、二十三歳に再び上京して早大の聴講生となり、 上野図書館に通って勉強した。一時は弟のヤ吉の下宿にいた。
と中国革命(清朝末期)とは切っても切りはなせない。 その最初の暗示となったのは幸徳秋水、西川光二郎、堺利彦らが出している機関紙「直言」八月六日号(明治三十八年)であった。 それには、孫逸仙(孫文)がブラッセルの万国社会党を訪ねて「支那にも一の社会党存すること、 その党は挙げて万国社会党団体に加入せんと欲すること、及び次期の万国大会には代表者を出席せしむべき事等を申出で、 且つ支那帝国内に於て、既に五十四個の社会党新聞を存し、其運動は決して幼稚なるものに非ざること」を述べたという 簡単な報道が載っていた。
この記事はの興味をそそり、日露戦争直後の混沌とした世相の中に思想的に迷っていた彼に一種の昂奮を与えた。
早大聴講生としてのはきわめて勤勉で、浮田和民教授、有賀長雄教授、安部磯雄教授の講義には たいてい出席し、その著書に読み耽り、また井上哲次郎、一木喜徳郎美濃部達吉、金井延諸博士などの著書を 片端から買ってきては読んだ。 本代のために郷里からの仕送りではたりず焼芋で一食をすます生活がつづいた。 それらの著書は公法関係、経済関係、思想関係、憲法関係にわたっていたが、 とくに有賀博士の国家学、社会進化論、族制進化論、宗教進化論、日本古代法釈義などを耽読した。
のこの勉強ぶりは、彼が一大著述を世に問い、そのためにはまず諸大家を攻撃せんとする野心があったからで、 それが二千余枚の草稿で菊判約千ページの「国体及び純正社会主義」である。
「国体及び純正社会主義」
引用この著作を要約して紹介するのは困難である。 田中惣五郎も「北一輝」のなかで、この著書の「ぼう大な分量と、理解に苦しむこんとんたる思想と、 これを展開する独特の文章とを点検するためには、その要旨だけでは間に合わず、 いきおい多数の文字を羅列しないかぎり、のいわんとするところが諒解されまいと想われる」と述べて、 四十五ページを費やしている。
【中略】
が苦心して書き上げた「国体及び純正社会主義」は、の無名と、その内容の危険と、 その量とでどこの出版社も相手にしなかった。 は落ちぶれた実家からようやく千円の金(の弟二人の全学費)をもらって自費出版して五百部をつくった。
果してその反響はすぐにあった。 福田徳三、矢野竜渓、田川大吉郎ら当時一流の学者、ジャーナリストから「著者兼発行者」である佐渡のの家に 賞讃の手紙がよせられ、矢野などは「北輝次郎は仮りの名で幸徳秋水あたりの執筆ではないか」と疑ったくらいである。 河上肇は感激しての病床を訪れた。 弟ヤ吉は「一朝目ざむれば自己の有名なりしを知る」というバイロンの言葉でを形容した(田中・前掲書)。 時に、二十四歳。
しかし、危惧した通りこの著書はたちまち発売禁止となった。 そして自身は「社会主義者」として早稲田署の刑事につきまとわれることになる。
引用日清戦争と義和団事件(一九〇〇年)以後、 中国では列強帝国主義への屈伏と、官僚の腐敗と西太后の極端な反動政治とで各地に革命の機運が興っていた。 南部の広東方面では孫文のひきいる「興中会」、中南部の湖南地方では黄興のひきいる「華興会」、 中部の江蘇方面では章炳麟らのひきいる「光復会」などが主な革命党だったが、党員の多くは日本に亡命していた。
明治三十八年、孫文が欧米の旅から日本にきたのを機会にこれら革命団体が合同して成立したのが 中国革命同盟会で、孫文を総理とし、本部を東京におき、機関紙「民報」を発行して革命の宣伝にあたった。 会の綱領には孫文の「三民主義」(民族、民権、民生)を採用し、清朝の打倒、民国の建設を目標にした。 この同盟会の成立でシナ革命運動はにわかに活発となり、各地でたびたび挙兵が試みなれるようになった。
袁世凱、臨時大総統就任
引用北方軍閥の袁世凱は、南方政府が成立するのを待って和議を申込んできた。 李鴻章の幕僚として前から外国に信望があり、とくにイギリスは清朝没落後、によって自国の利益を図ろうとした。 イギリスの政策に追随する日本もこれに従ったが、はこうした列強の経済的援助を背景に、 有利な位置から南京政府との和議を提唱したのである。 そのかげにはイギリスの策動があった。 これに対し、南京の革命政権は財政的に困窮していた。 その上、革命を遂行するには内部の団結にも意志にも欠けていた。
結局、孫文と妥協することに決し、臨時大総統となった。 しかし、は約束通りには南京に来らず、政府をも北京に移してしまった。 こうして「共和制」は名前のみとなった。 孫文の「弱腰」は責められるべきだろう。 のち蒋介石の国民党軍の北伐にいたるまで軍閥政権がつづく。
宋教仁暗殺
引用宋教仁は共和政体(かたちの上だけでも)を利用して 議会の多数党で袁世凱を抑えようとし、国民党を組織した(理事長孫文)。 一九一三年(大正二年)二月の総選挙では国民党だけでも三百九十二人の議員が当選し、の与党を圧した。 の体当り的な活躍がみのったのである。
ところが、その総選挙後一ヵ月余の三月二十日、宋教仁袁世凱の放った刺客のために上海停車場で黄興と 話しているところを射殺された。犯人は逃走した。は三十二歳の若さであった。
袁世凱孫文より宋教仁をおそれていた。
引用久原房之助は山口県の資産家に生れた。 その親戚には大阪藤田組の藤田伝三郎がいた。 久原の妻の兄は日産の鮎川義介である。 三菱の木村久寿弥太も親戚筋の一人だという。めぐまれた環境である。
久原は若いとき、親戚の藤田組に入り、小坂銅山にやらされた。 よく働き、相当な出来で同僚を圧していた。 藤田組をやめ、当時下火だった日立銅山を買ったのが出世のはじまりで、 日露戦争につづく欧州戦争で、銅で儲ける大当りをした久原商事をつくったまではよかったが、 そこに欧州戦争後の恐慌が訪れ、たださえ杜撰な経理の彼の会社はあえなく崩壊した。 それが大正十二年の震災で決定的となった。
財界を「食いつめた」久原は、成金時代に得意になって貢いでいた同郷の田中義一を頼って政界入りした。 「財界からの夜逃げ同然」とは和田日出吉の表現である。
同郷でもあり、旧恩を忘れない田中久原を身ぐるみ引きうけ、 いきなり田中内閣の逓信大臣のイスにつけた。 久原は外務大臣を熱望していたが、さすがに党内幹部が反対したのである。
支柱の田中が死ぬと、久原の人気は下落した。 人気が落ちた理由の一つに、彼は数千万円の借財を震災手形にして政府の肩替りにしたことがあげられている。 つまり自分の借金を国民の血税に肩替りした上、一文も払わなかったのだ。
久原は政界入りと同時に日立鉱山と久原鉱業とを義兄の鮎川義介に譲った。 それが鮎川の日産財閥の中に日立製作所と日本鉱業となって残る。 久原の手には資本金一千万円の久原商店と同じく一千万円の久原地所部とがあるが、 この全財産二千万円も資産だが負債だかわからなかったという。
「彼はそれが負債であろが無かろうが問題ではない。 いか程の負債も一時にして資産にする力をもっている彼。株をやる彼。 政治と株を結託することによって金をつくり出す彼」(和田日出吉「二・二六以後」昭和十二年刊)
株をやる以外に久原の金儲けの道はない。 相場は世間が安定しているとウマ味がない。 物情騒然としたほうが変動を大きくさせ儲けの機会が多い。 久原はわずかな手兵で乱をつくってゆく。「乱世の人物」といわれる所以である。
かつて久原商事には一癖も二癖もある社員ばかりを集めて、 結局彼らが会社を食い倒したと同じように、政治家久原の周囲には奇態な子分ばかりが集った。 代議士としては津雲国利、西方利馬な七、八名がいる。 森恪に死なれて行きどころのなくなった岡本一巳という放浪代議士もくる。
久原は岡本を使い、反対派の鈴木総裁の片腕鳩山一郎が樺太工業から五万円もらった一件を議会で暴露させ、 鳩山を追い落した。
乱を好む久原が、政治に介入してきた軍部に近づくのは当然の行動だった。 彼は、「ファッショ排撃」の声をあげる政界とは逆に軍に結合して行った。 久原が得意になってぶっていた「皇道経済」とは神武天皇以来の精神を経済に生かすという神がかったもので、 いかにも軍部に気にいられそうな題目だった。
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